2章_11
雲谷の館が落ちてから、半日。
雨はその勢いを増し、一切の容赦なく三河の山々を打ち据えていた。
視界を遮るほどの豪雨の中、松明の火は風前の灯のように頼りなく揺れ、あるいはすでに水を吸って黒く立ち枯れている。
峠を行く戸田勢と牧野勢、その周囲に膨れ上がった群れの足元は底なしの泥濘と化し、一歩踏み出すごとに足首まで重い泥に飲み込まれた。
戸田方の一門大将である戸田佐内は、とうに馬を降りていた。
このような悪路では、馬に乗っていること自体が滑落の危険を伴う。
重い具足を泥にまみれさせながら、佐内は渋面を作って前方を睨み据えていた。
進んでいるのは、引佐筋へと抜ける峠道である。
だが、その進軍の様は、到底軍と呼べる代物ではなかった。
佐内の周囲を埋め尽くしているのは、戸田の兵だけではない。
どこから湧いて出たのかも分からぬ食い詰めた農民、目を血走らせた足軽崩れ、そして時折念仏を唱える一向の者たち。
彼らは皆、飢えに突き動かされるまま、泥に塗れて峠を登っていた。
隊列などというものは存在しない。おそらくこの夜闇と嵐がなくとも成立しなかっただろう。
ある者は奪い取った米俵を大事そうに背負い、ある者はひしゃげた鍋や血に汚れた布切れを腹に抱え込んでいる。
足を滑らせて倒れた者がいれば、助け起こすどころか、その背を踏み台にして我先にと前へ進もうとする。そこには、武士の軍律も、同郷の誼もなかった。
戸田の旗指物も、牧野の印も、もはや雨と泥にまみれて判別すらつかない。
巻き込んだ傘下の国人らも同様だ。隣にいる者が、昨日までの宿敵か、同じ陣に立つ者かすらも分からないありさまだった。
佐内は泥に足を取られながら、内心で吐き捨てる。
もはや軍ではない。ただ低い場所へと流れ込もうとする、制御不能の獣の一団ではないか。
怒号が飛び交い、雨音がそれを掻き消す。前へ、前へと押し進む欲だけが、この群れを突き動かしていた。
どうしてこんなことになったのか。
佐内は雨水を顔から拭いながら、事の始まりを思い返した。
最初は、あくまで正当な理由に基づく沙汰であった。まず、雲谷に向かった普請役が死んだと知らせが来た。
逃げ帰った者に聞けば、雲谷が錯乱し、戸田の者を斬ったという。
当初は、雲谷風情が逆らうわけがないと否定する者もいた。
とにかく雲谷に釈明を迫ったが、返る動きはない。
もし雲谷の一件が真実ならば反逆である。戸田としては当然の報復と処罰を行う義務があった。
遠江の伸長を警戒していたこともあり、戸田は急ぎ事態を収めようと軍勢を集め、雲谷へと兵を進めたのだ。
無論、今川の代官領が近くにあることは百も承知している。
ゆえに、事前に駿府や遠江の今川方に対しては、これは三河の内輪の沙汰であると、手出し無用を促す書状まで丁寧に送っていた。
ここまでは、筋が通っていた。
戸田の軍勢で雲谷を包囲し、適当に威圧して首をいくつか刎ね、それで終わりにするつもりだった。
遠江に攻め込むなどという大それた意図は、初めから微塵もなかった。
だが、計算を狂わせたのは米だった。
雲谷の蔵には米がある。それも、今川から直々に下賜された米と銭が山と積まれているらしい。
その噂が、どこからともなく漏れ伝わってしまったのだ。
飢饉に喘ぐ三河の地において、それは甘すぎる蜜だった。
噂を聞きつけた食い詰め者たちが、雲谷へと群がり始めた。
そこに戦場を渡り歩く足軽崩れや、一向宗の門徒までもが加わり、事態は急速に戸田の手を離れていった。
戸田の侍たちが勝手な真似は許さぬと刀を抜いて制止しようとしても、多勢に無勢である。
傘下の国人衆と牧野の兵を足しても、それでも食い詰め者たちの方が多い。
そして、当然の帰結のように、食い詰め者たちは暴走した。
館を囲み、当主を出せ、捕らえている者を返せ、と声を上げている最中、もう待ちきれぬと幾人かが外壁をよじ登ったのだ。
そうなるともう歯止めが利かない。
腹を空かせた暴徒の群れは、先を越されてたまるかと雲谷の門へ群がり、蔵をこじ開け、雲谷一党を手にかけた。
怒声と暴力ですべてを打ちこわし、己の腹を満たさんとしたのだ。
佐内は止めた。やめよ、落ち着けと何度も言った。
だがその下知は、群れの外側へは一言も届かなかった。
牧野の軍勢もまた、暴徒に巻き込まれないように自軍の陣を固めるだけで精一杯のありさまであった。
彼らの軍勢は、この時点で完全に暴徒へと変じていたのである。
蔵が打ち壊されるのを横目で見ながら、佐内は疲れた頭で考えた。
暴徒と化した三千の群れ。いや、雲谷へ押し寄せた時には三千と見ていたが、いまは三千とも四千ともつかぬ数に膨れている。
これをどう処理するか。
当然だが、この群れを戸田領へ引き返させるわけには絶対にいかない。
一度略奪の味を占めた者どもを自領に招き入れれば、戸田の村々が根こそぎ食い荒らされるのは火を見るより明らかだ。
では、いっそ牧野領へと押し流すか。
佐内は一瞬それも考えたが、即座に打ち消した。
牧野は、ただ無能に巻き込まれたわけではない。
彼らが今なおこの騒動に居続けるのは、戸田を憐れんでのことではないし、本気で三河の規律を正そうとしてのことでもない。
佐内と同じく、この群れが牧野へ来ることを恐れ、防がんとしてのことだ。
ゆえに佐内が暴徒に嫌気が差し、戸田勢だけを引き上げさせたなら、牧野は暴徒を戸田領へ向けかねない。
佐内にとって、今の牧野は味方でありながら、同時に最も油断ならぬ相手であった。
仮に力ずくや口先で軍勢を牧野へ向けようとすれば、即座に武力衝突に発展する危険すらある。
今川という大国の脅威を前にして、戸田と牧野が内輪揉めを起こせば、三河の内の沙汰どころでは済まなくなる。
戸田領へは戻せない。牧野領へも流せない。
暴徒たちをおとなしくさせることも、やはりできない。
ならば残された道は、一つしかなかった。
峠を越えさせ、今川の領地である遠江へと押し流すことだ。
遠江へこの群れを放てば、今川の怒りを買うのは避けられない。
それは極めて危うい賭けだと知っていた。
しかし、今ならばまだ言い逃れの余地がある。戸田が遠江に侵攻したのではない。
我々は三河内の沙汰を行っていただけだが、食い詰めどもが勝手に暴徒化し、遠江へと流れてしまったのだ。
これは不幸な事故である、と。
おそらく、今川の機嫌は大いに損ねるだろう。だが、今川の当主は病がちと聞く。
そのうえ遠江が燃えれば、駿府の動きも鈍るかもしれぬ。
そのうちに甲斐あたりが色気を出して駿河に攻め込めば、今回のことなどどうとでもなる。
佐内の唇の端が、雨の中で冷たく歪んだ。
酷薄で、どこまでも手前勝手な理屈であることは自覚している。
だが、戸田という家を守るためには、この道を行くしかなかった。
ゆえに佐内は、嵐の夜に、この悍ましい群れが峠道を進むのを黙認し、むしろ背後から急き立てた。
遠江の蔵は米であふれているぞ、銭が転がっているぞ、と必死に引佐筋へと向かわせた。
だが、その目論見は峠の半ばで唐突に頓挫した。
前方を歩いていた群れの歩みが、ぴたりと止まったのだ。
初めは、泥濘に足を取られたか、細い道で押し合いへし合いをしているのだろうと考えた。しかし、一向に前へ進む気配がない。
前方が止まっても、それに続く暴徒たちは止まらない。
苛立った怒号が波のように押し寄せてくる。
「なぜ止まる、進め」
「前を開けろ、早く遠江へ出せ」
「押すな、落ちるぞ」
統制の取れていない声が、狭い山道に響き渡る。
佐内は舌打ちをし、前方にいる戸田の侍へ状況を確かめさせた。
やがて、ずぶ濡れになった戸田の侍が泥を跳ね上げながら駆け戻ってきた。
「申し上げます、倒木にございます」
嵐の峠では珍しくない。
だが、続く報告で佐内は眉をしかめた。
「道を塞ぐように太い木が倒れ、さらに横倒しになった荷車と、死んだ馬が重なって道を完全に塞いでおります」
足場の悪い山道で荷車が横転し、馬が足を折って死ぬことも、十分にあり得る話だ。
それにしても運が悪すぎる。
佐内は内心でまたも吐き捨てながら、指示を出した。
「慌てるな。斧を持った者を前へ出せ」
佐内は続ける。
「倒木を切り割り、邪魔な荷車ごと崖下へ落とせ。死馬は肉を削いででも退けろ。
それから、後ろで喚いている下郎どもを静めろ。急がせても道は開かんとな」
承知しました、と戸田の侍が威勢のいい声とともに再び前方へと駆けていく。
これでよい、すぐ動く。
そう佐内は考えたが、予測に反し事態は一向に好転しなかった。
前衛は依然として動かず、斧の音すら聞こえてこない。ただ、苛立ちと混乱のどよめきだけが増幅していく。
佐内は泥を踏みしめ、自ら前方へと歩み出た。群れを無理矢理に掻き分け、先頭近くまで出る。
そして彼の視界に、その光景が飛び込んできた。
佐内は、思わず息を呑み呻いた。
「なんだ、これは」
確かに倒木が道を塞いでいる。だが、それは嵐によって偶然倒れたものではなかった。
複数の木が、道を塞ぐように絡み合っている。
その隙間を埋めるように荷車が横倒しにされ、太い縄で幾重にも縛り付けられていた。
さらにその手前には、息絶えた馬が重しのように置かれている。
それだけではない。
倒木や荷車の周辺には、見慣れぬ壺のようなものがいくつも転がっているのが見えた。
佐内の背筋に、冷たい雨とは異なる悪寒が走った。
目の前の木々や荷車は、手間をかけて道を塞ぐように置かれている。
これは事故ではない。
人の手で作られた塞ぎであった。
「いかん、今川に悟られた」
その事実に気づき、呟いた瞬間だった。
ごろごろ、という地鳴りのような音が、雨音を切り裂いて頭上から響いた。
佐内がはっとして見上げた直後、斜面の暗がりから、人間の頭ほどもある岩石が降ってきた。
「ぐあっ」
前列にいた食い詰めの一人が、頭を砕かれて泥の中へ伏す。
それが合図だったかのように、一つ、また一つと、少しの間を置いて岩が落下してくる。
落石は無差別に暴徒たちを打ち据え、悲鳴と骨の折れる鈍い音が峠に響き渡った。
自然の崩落ではない。
明らかに、上の斜面に潜んでいる何者かが、狙い澄まして岩を落としているのだ。
「今川の、遠江の罠だ。下がれ」
佐内は声を限りに絶叫した。
「後ろの者を止めろ。国人衆を前へ出せ。陣形を組ませろ」
だが、その命は誰にも届かなかった。
後方にいる大半の暴徒たちは、前で何が起きているのかを知らない。
吹きすさぶ風、豪雨、そして多すぎる暴徒の声が山中で反響し、前方の異変をかき消していた。
事実、彼らはただ前がつかえているとしか思っておらず、米と略奪品を求めてさらに強く前の者を押しのけようとする。
先ほどの雲谷と同じだ。
怒声を上げ、目の前の邪魔者を押しのければ、米にたどり着くと考えていたのだ。
ゆえに軍勢は下がることなどできない。かろうじて前列の者たちは、落石から逃れようと後退を試みた。
だが、背後から押し寄せる強烈な圧力に挟まれ、文字通り押し潰されていった。
「この、愚か者どもが」
佐内が吼えると同時、ぱきん、と乾いた音がした。
岩が、倒木の前に転がっていた壺を直撃した音だった。
割れた壺の中から、黒濁した油が流れ出す。
次の瞬間、斜面の上から赤く燻る藁束が投げ込まれた。
雨の中で炎は大きく上がらない。だが油と、荷車に仕込まれていた松脂と藁は、雨に叩かれても消えなかった。
じりじりと低く燃え、むせ返るような濃い煙を吐き出していく。
「火だ」
「逃げろ」
「どけ」
暴徒たちがまた喚いた。だが軍勢は動けない。
煙は雨に押されて低く這い、暴徒たちの視界と呼吸を容赦なく奪っていく。
さらに最悪なことが起きた。
後方で荷を運ばせていた馬たちが、火と煙の匂いに暴れだしたのだ。
馬はいななきを上げて荒れ狂った。ある一頭は火に怯えて手綱を引く者を蹴り飛ばし、また別の一頭は密集した人だかりの中を無軌道に暴走し始めた。人が弾き飛ばされ、列が滅茶苦茶に乱される。
「静まれ、静まらぬば斬る」
佐内はそう言って抜刀し、混乱を収めようとした。
だが、その時だった。
煙が渦巻く斜面の闇の中から、音もなく、ぬらりと長い穂先が突き出された。
「ひっ」
炎から逃れようと斜面へ寄りかかった男の喉笛を、その槍が正確に貫いた。
血飛沫が舞い、男が倒れる。槍はすぐに闇の中へ引き戻された。
そこには、戦の作法たる名乗りはない。
ただ人を殺し、すぐに闇へ消える槍だけがあった。
もうだめだ。戸田勢だけでも退かさねば。
佐内は絶望的な状況を悟った。
雲谷襲撃時点で三千と見ていた軍勢は、いまや三千とも四千ともつかぬ数に膨れている。
平野であればいざ知らず、この細く険しい峠道では、その数は何の役にも立たない。
前衛に出せる小頭はいない。暴徒が壁となって身動きが取れないからだ。後ろは状況も知らずにただただ押し寄せてくる。横へ逃げようとすれば、急斜面に足を滑らせて谷底へ滑落する。そして下がるための道は、やはり暴徒によって塞がれていた。
まさしく崩壊だった。
戦いとしての敗北ですらない。仕組まれた罠によって、膨れ上がった群れが自重で自壊していく。
佐内はその過程を、ただ呆然と見ていることしかできなかった。
「退けっ、退けええっ」
佐内は刀を振りかざし、喉が裂けるほどに叫んだ。
だが、やはりその声は豪雨と、火の爆ぜる音と、狂乱する馬の嘶きと、暴徒の絶叫に掻き消された。
誰の耳にも届かない。
しかし、光明もある。
暴徒の群れが、わずかに左右へ割れた。佐内の前に、細い退き道が見えたのだ。
佐内の剣幕に押されたのか、具足姿の武者を恐れたのかは分からない。
だが、この好機を逃すことはできない。
佐内は刀を握り直し、泥を蹴ってその隙間へ踏み出した。
その時だった。
頭上の闇の奥から、不気味な声が聞こえてきた。
それは、えいえいおうという武士の鯨波ではなかった。
もっと低く、泥臭く、命を削るような声。
「そーれ」
「やーこらせ」
山で働く人足たちが、途方もなく重い物を動かす時に発する、あの独特の掛け声であった。
佐内を悪寒が襲った。そして、雨粒が容赦なく打ち付ける顔を天へと向けた。
視界の先。炎の明かりがわずかに届く斜面の遥か上で、何かが動いた。
雨の闇に溶け込んでいた黒い塊が、ずしりと重い音を立てて、こちらへ向かって傾いていた。
それが途方もなく巨大な岩なのか、あるいは何本も束ねられた丸太の塊なのか、佐内には分からなかった。
分かるのは、ただ一つ。
それが、自分たちの頭上へ落ちてくるということだけだった。
「あ、」
佐内は口を大きく開けた。
下へ逃げろと、あるいは伏せろと、何らかの命を下そうとしたのだ。
だが、声になる前に、頭上の闇が落ちてきた。
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峠での騒動の後、嵐は急激に勢いを衰えさせた。
雨雲が抱え込んでいた雨粒を吐き出しきったかのように、夜が明けるころには、幾日ぶりかの朝日が雲海の向こうから顔を出していた。
その朝日を、龍王丸は遠江の陣中にて拝んだ。
昨夜、最初の合図の折には、三河の峠に立った。だが、峠の隘路で敵の先頭を崩し、三千の軍勢が自らの重みで詰まり始めたあたり、趨勢が決まったと判断した時点で、山方の案内により遠江側へ降りていたのである。
本音を言えば、最後まで見届け、少しでも今後が有利になるように指示を出し続けたかった。
だが、暴徒、敗残兵、戸田や牧野の残党が蜘蛛の子を散らすように山中へ逃げ込んでいる。
そんな中、三河領内に翌朝まで留まるのは危うすぎた。
また、今川の若君が国境を越えた先に居座り続ければ、それは自ら越境の証を積み増すだけである。
遠江側に急ごしらえで築かれた陣を、重い朝靄が包んでいた。
雨はほぼ止んだ。だが、何日も続いた豪雨により、陣の周りには泥の臭い、燻る煙の臭いが立ち込めている。そして、さらにはいまだに増え続ける濃い血と死の臭いがそこに混じっていた。
戦の趨勢は決まったが、まだ手は抜けない。
山中から零れ落ちるように暴徒衆が落ち延びてくるのだ。それらを急ごしらえの陣。浅く掘られただけの堀、急造の馬防柵、横倒しにされた荷車、並べられた盾などで食い止め続けている。
「御料様、新手が」
護衛の一人が、暴徒の残党を指さした。
朝靄の中から泥まみれ、血まみれの暴徒の残党が現れる。数は十に満たず、等しく痩せ、破けた服の合間から貧相な胴体が見えた。
「たすけ、」
虚ろな声を上げた直後、馬防柵の向こうから突き出された槍が、男の腹を抉った。男は膝から崩れ、泥水の溜まった堀へ転がり落ちる。逃げようと背を向けた者には弓の弦音が響き、冷たい矢が突き刺さった。
龍王丸の指示すら不要だった。
誰も戦の名乗りなど上げない。手柄の勝鬨も上がらない。
「朝比奈様、福島様のほうも途切れておられぬようです」
ちょうど、物見に行かせた騎馬兵が戻ってきた。下馬しようとするのを龍王丸は手で制した。
「むしろあちらの方が道が太い。疲れていなければ井伊らの方も見て参れ」
命を下すと、今朝交代したばかりの騎馬兵は、馬上で頭を下げると颯爽と駆け出した。
実際、龍王丸の陣だけが忙しいわけではない。
朝比奈や福島の兵、近隣の国人衆たちは、遠江の内へ散らさぬため、各々陣を張り目の前に落ちてくる者を淡々と処理していた。長く、嫌になるような作業だった。決して誉ある戦いではなく、歩くのがやっとの暴徒衆を刈るだけの必要な作業だ。
龍王丸の陣が刈り取った残党は、今でようやく百に届こうとしている。おそらく、朝比奈、福島の陣は軽く倍は刈り取っているだろう。
龍王丸は、本陣に据えられた床几に腰を下ろし、目の前の光景を静かに見つめていた。身にまとった小具足は、すっかり泥と煤に汚れている。
気が付けば、一人の侍が目の前に立っている。各所の見張りに向かわせた使者だった。侍は泥を厭わず、龍王丸の御前に膝をついた。
「村々は安泰か。燃えた家屋はないか」
暴徒衆は満足な食事もしておらず、雲谷でも腹を満たせなかった。加えて言うならば、手持ちの兵糧も足りない。
つまり、峠から一日二日の位置にある村落さえ守り切れば、後は飢えて死ぬのだ。
龍王丸は自分の計算に少し辟易した。
「はっ。火が上がった村、こじ開けられた蔵はございませぬ。引佐筋へ落ちた者は、いずれも小群れに散っており、後は土地の百姓らが刈るかと」
「落ち武者狩りか」
龍王丸がつぶやくと、使者が嬉しそうな顔をした。
「はっ。御料様の言葉通り、遠江の民は力強うございますな」
龍王丸は形だけ笑みを作った。
血の味を覚えさせたくないのは、何も暴徒衆だけではない。しかし、背に腹は代えられない。
龍王丸は、そこで初めて短く息を吐いた。
「おそらく難所は越えた。だが山から落ちてくる者がある。油断するな。交代で休息をとれ」
はい、とそろった声が陣中に響いた。
嵐の中、夜通しで動いていたにも関わらず、龍王丸の直轄は活力があった。
昨日の演説は余計だったかと、反省しながら龍王丸はまたため息をついた。
実際のところ、龍王丸には勝ったという感覚がない。
遠江へ大きな群れは入っていない。村に火も入っていない。その意味では、龍王丸が己の首を懸けて放った手は、目的を果たしたと言えた。だが、最悪を脱しただけで、遠江、ひいては今川が悪循環の輪から抜け出している気がしなかった。
龍王丸が気を揉んでいると、宮内が本陣へ戻ってきた。顔は泥で汚れていたが、この男も気力に満ちている。
宮内は龍王丸の姿を認めると、周囲の兵や人足たちにまで届く声で言った。
「いや、見事な御采配にございました」
宮内は深く平伏した。
「自軍の十倍、いやさ一万を超す三河の敵大軍を、峠の隘路にて打ち砕かれるとは。この遠江は、ほかならぬ若君の御武運によって救われ申した。神仏の加護ある御戦ぶりにございます」
大げさな称賛の声に、周囲の空気が一気に変わった。おお、とか、ああ、とかそんな声がそこかしこで上がり、皆が龍王丸に視線を注いだ。
昨晩から死に物狂いで働き、ただ泥と血にまみれていた遠江の兵、人足、山方、荷方たちはようやく実感を噛みしめたのだ。三河の大軍に対して、完勝し、遠江を守ったその実感を。
じわりじわりと病のように、どよめきと興奮が広がっていく。
「御料様が三河勢を打ち破られたのだな」
「十倍の敵を退けたのだ」
「馬鹿者、相手は一万を超えていたと天野様が仰ったろうが」
軍神、軍神。
誰が最初に口にしたのかは分からない。だが軍神という言葉は、安堵と興奮に火のついた者たちの間へ、たちまち広がっていった。
龍王丸は手で顔を覆う。その下で堪え切れず、苦虫を百匹はかみつぶした顔をした。
だが、その声を止めようとはしなかった。止めたところで、一度形を持ち始めた空気は、もはや簡単には消せない。
龍王丸は顎で示し、宮内を連れて喧騒から離れた本陣の裏手へ下がった。
陣の裏手には幾人かの護衛が立っている。彼らに距離をとらせてから、龍王丸は低く言った。
「先ほどのあれは何だ。何が十倍、何が一万を打ち破っただ。宮内、そなた重々承知だろう」
咎めるような主の言葉に、宮内は穏やかに返して見せる。
「はて、十倍は嘘ではないかと。御料様の直轄は三百に満たないのですから。それに今回の件、そのうち尾ひれがつくのです。十万、二十万だと勝手に盛られるより、こちらで一万と言っておいた方がよろしい」
「実態とまるで違うではないか」
龍王丸は深く、深く息を吐いてから言う。
「峠の罠で実際に討ったのは、敵の先頭にいたほんの少数。この遠江側で討った百近い者より少ない。大半の者は、嵐と峠に飲まれた」
宮内が指を折りながら付け加える。
「あとは後ろが前を押し潰したのと、同士討ちですかな。残った者は飢えと残党狩りで消え失せましょう」
「分かっておるではないか。それをああも持ち上げて」
「ふさわしい扱いをしたまでのこと」
宮内は一歩も引かなかった。笑みを浮かべている。
よく見る笑みだが、その裏にあるものが、龍王丸が知っているものでない気がした。
「三河より来た大群が、遠江へ入る前に若君の采配によって砕け散った。結果として、遠江は燃えなかった。ならば、若君がこの地を救ったという話になるのです。いえ、そうならなければ、我らは困りまする」
龍王丸は目を細めた。次いで峠を見た。
「お察しの通り、戸田佐内が死にました」
宮内は何でもないように言う。
「ご存じないでしょうが、戸田当主の庶弟でございます」
峠の軍勢の中に、ひと際立派な武者がいた。龍王丸は、火計の炎に照らされた輝く兜を覚えていた。転がした大岩に潰されたことも、当然忘れていない。
それゆえ、やはりと、内心でつぶやいた。
戸田が軍勢を差し向けたという事実、龍王丸はそれ自体なかったことにしたかった。だが、こうなると戸田の家中はそれを許さないだろう。
あの峠で巻き込まれて死んだ東三河の国人衆は、戸田の敗戦を責める。その矛先を逸らすには、どこかに敗戦の責任を押し付けなければいけない。
「牧野勢が裏切って死んだ。そうできんか」
「佐内は死に際、あるいは彼の郎党が、罠にかかった瞬間に、今川の罠だ、と叫んだとのこと。このことは三河方に逃げることができた者が方々に伝えましょう」
「冗談だ。本気にするな」
龍王丸が暗い声で返すと、また宮内が付け足した。
「あと、牧野の身内、当主の叔父も死んでおりますので、牧野勢の裏切りは難しゅうございますな」
宮内は冷たい事実を端的に突きつけた。
「三河の者から見れば、戸田も牧野も、今川の若君に討たれたという形になります」
すでに分かり切ったことを宮内は言葉にした。
続きは龍王丸が口にした。
「ゆえに三河は今川龍王丸の首を求めよう。駿府が安々出すとは思わんが、処罰は必要であろうな」
龍王丸はまた息を吐いた。
もし駿府が首を出せと言えば、龍王丸は首を差し出す。それは別によかった。
出来のいいらしい弟たちを簡単に跡目譲ることもできる。
だが、ここまでことを荒立てて安々退場することに気まずさを覚えた。
「御身がこの先も生きながらえんとするのであれば、遠江の者たちの声が要りまする。御料様こそが遠江の軍神。守護者。これを除かんとすれば、遠江が多いに揺れる。そう示せば駿府の皆様も誰にかしずくべきかわかりましょう」
遠江衆をまとめ、今すぐに今川の当主になる気はあるか。
宮内はそう言っていた。
龍王丸はしばらく黙り、やがて短く答えた。
「その気はない。駿河に戻る」
遠江の軍神として担ぎ上げられるつもりも、病床の父を押しのけるつもりもなかった。
己にはふさわしくない、と龍王丸は心の底からそう思った。
だが、宮内はその考えを見透かしたように言った。
「ここまでのことをしでかして、いまさら潔さなど見せてどうしますか。遠江の平穏を守ることこそが御料様の責務なのではありませぬか。
御料様の命で死んでいった者の供養ではありませぬか。」
龍王丸は静かに振り返り、朝靄の向こうにある峠を見た。
遠江は燃えなかった。だが、発端となった雲谷は救えなかった。
峠では昨夜、敵も味方も死んだ。
戸田佐内も、牧野の叔父も、ただ腹を空かせていただけの者たちも死んだ。
宮内の言は正しい。
これらは己が選んだ。峠に広がる血泥は自分が敷き詰めたのだ。
胸の奥に、泥のような苦味が広がった。だが、龍王丸はそこに長く沈むことを許さなかった。
遠江を燃やさぬためだった。
駿河を揺らさぬためだった。
今川に従う者たちを、無用に死なせぬためだった。
そう言い聞かせるように冷たい空気を肺の奥まで吸い込み、龍王丸は顔を上げた。
「宮内」
龍王丸は懐から一通の書状を取り出した。
「隠し蔵に残っている銭や荷は、好きなものを好きなだけ持っていけ。遠江の木綿業も、やれるのであれば差配してみよ」
差し出したのは感状である。日付は、戦が始まる昨日のものである。龍王丸の印が押され、宮内の働きがあれこれと書き連ねられている。
龍王丸の贔屓目は除いても、宮内は代官地復興の立役者であり、天竜川普請の大黒柱でもある男だ。今川家は難しいかもしれないが、名さえ改めれば朝比奈や福島は雇い入れるだろう。
それを見た宮内の目が、わずかに見開かれた。宮内は人の好い笑みを消し、不貞腐れたような顔を見せた。龍王丸が出会った当初の宮内だった。
「某の言葉、響きませなんだか」
「いや、効いた。だが心を動かそうとするならば昨日だった」
「なんとも、それは期を逃しましたな」
そう言って宮内は恭しく感状を受け取り、薄く笑った。
「御料様と呼ぶのも、もう終わりですかな」
「そうだな。お互いずいぶん働いた。そなたも疲れただろう」
「いえいえ、そんなことはございませぬ」
宮内は大切そうに感状を懐へしまい込むと、少し遠くを見るような目をした。
「主家を失い、自暴自棄になって、いっそ山賊にでも身をやつそうかと思っていたところへ、御料様に声をかけていただきました。今まで失った人生を取り返すほど、じつに楽しい日々にございました」
情を含んだ言葉だったが、宮内の声は湿っていなかった。
龍王丸は、なんだそれは、と苦笑した。
「そなたは、もっと自分のために生きた方がいい。その方が楽しいぞ」
「ほう。あの御料様が、そのようなことをおっしゃりますか」
宮内が面白そうに目を細める。
「言うとも。私は自分を通したからな。それゆえに、その御料とやらの気に入らぬ呼び方も、今日で終わりだ」
静かな風が吹き抜けた。涼やかな西風だった。




