2章_10
雲谷から逃れてきた男は苦悶の表情を浮かべ、援軍を乞い、そのまま平伏していた。
宮内は上座に座ったまま、男を見下ろしている。龍王丸はその脇、少し下がった位置に座していた。
小次郎は膝の上で固く指を握り、朝比奈備中守は雨に濡れた蓑を脱ぐことすら忘れたかのように立ち尽くしている。
誰も、すぐには答えなかった。
やがて龍王丸は、まず備中守、次に宮内、そして最後に小次郎へと順に視線を送った。
互いの意図が同じところにあることを看取すると、深く一つ頷く。
助けなど出せない。
それが、雲谷の男に対する結論であった。
雲谷は三河である。戸田からは、これは三河の内輪の沙汰であると、柔らかな言葉で釘を刺す書状が届いている。
加えて、駿府からは明確な救援の命令も許可もない。
ここで助けると口にすれば、それは駿府に無断で三河との戦端を開くことを意味してしまう。
そもそも、相手は三千という大軍である。
直ちに福島にも話を回し、福島・朝比奈両家を主軸に遠江衆をまとめ、守りを固める必要があった。
当然、三河の小城に出兵などしている暇はない。
宮内が、ゆっくりと息を吐き出した。先ほどと変わらぬ、柔らかな声だった。
「まずは落ち着かれよ」
宮内の手が、男の震える肩に触れる。
それからそっと男の上体を起こさせ、目を合わせた。
「ずいぶんとご苦労なさった。ですがその有様では、話も続きますまい。まずは火に当たり、湯でも飲まれよ」
「そ、そのような暇は」
男の泥にまみれた手が宮内を掴む。
宮内はその手を掴み、そっと自分から離させた。
「無論、承知してござる。ですが雲谷の儀、こちらでも詮議せねばならぬ。一大事であるからこそ筋を通さねば」
「それでは間に合いませぬ」
男が悲鳴にも似た声を上げた。
充血した目は焦点が合っていない。
ただ、声だけが前のめりに出ていた。
龍王丸は再度、備中守と視線を交わした。
備中守が渋い顔で頷く。
聞きたいことはもう聞けた。
ここは宮内に任せ、早く防衛の準備に移りたかった。
龍王丸は急ぎ動かせる兵糧の算段を頭に描きながら、状況を整理する。
相手は三千。日数をかけて遠江衆に触れ回れば、数だけならば同等の兵を集められるだろう。
だが、それは明日、明後日の話だ。今この場からすぐに動かせる兵は、千にも満たない。
ならば勝つのではなく、止めるしかない。三千が峠を越え、遠江へ落ちる口で必ず手間取る。
そこへ急ぎ陣を築き、道を塞ぎ、朝比奈と福島の兵が整うまで食い止める。
戸田、牧野の先手大将の性格次第であるが、まず大きく負けはしないはずだ。
とにかく今は、遠江の兵千人を食わせる準備をすべきだ。
と、龍王丸の思考がこの場から離れそうになった時、
「食い詰めどもが、坊主どもが、もう門へ取りついておりまする。あ奴らは戸田の下知など聞きませぬ。交渉の最中に、止める者を突き飛ばし、蔵を開けろ、米を出せと、もう、一日も持ちませぬ」
雲谷の男の言葉に、龍王丸の思考が止まった。
おもむろに立ち上がり、男の直ぐそばまで歩み寄る。
小次郎と備中守が目を見開いていた。
「雲谷の者、こちらを向け」
龍王丸が言うと、男が弾かれたように振り向いた。
理解できぬといった顔で、龍王丸を見上げている。
「若君」
小次郎が低く制した。
話が違うと咎めるような態度だった。
「あとでよい」
龍王丸はその制止を短く拒絶する。
男と目を合わせ、名を名乗った。
「今川龍王丸だ」
男の喉が鳴った。泥に汚れた手が、板の上で震え始める。
目の前にいる童が誰であるか、ようやく分かったようだった。
「雲谷の米は、いかほどある」
「若君」
また小次郎が制した。
今度は、わずかに声が強かった。
「あとでよい。己が渡した分と、もとより雲谷が持っていた分、合わせてだ。米は、いかほどある」
男は戸惑ったように口を開けた。
助けを乞いに来たのに、なぜ米の勘定を問われるのか、すぐには理解できない顔だった。
だが、瞬きもしない龍王丸に気圧されたのか、思い出しながら答える。
「ひゃ、百石には届きませぬ」
「確かか」
「は、はい。御料様より賜りました分、雲谷の里の分を掻き集めても、百石には」
龍王丸は頷かなかった。
ただ、目の奥が少しだけ冷え渡った。
「坊主どもの宗旨は」
備中守が口を開いた。
「若君、そこまでお聞きになれば」
「あとでよい。宗旨は」
男は一瞬、備中守を見た。
だが、すぐに龍王丸へ視線を戻した。
童の問いの速さに、場そのものが押されていた。
「一向の者と、聞きました」
その名が出た瞬間、龍王丸には、雨音が少し遠のいたように感じられた。
龍王丸はそこで黙った。小次郎も、備中守も、宮内も黙っている。
龍王丸はさほどこの時代の歴史に詳しくはない。
だが、後に現れる尾張の英傑と十年戦い抜いた相手が、ほかでもないその宗門であることは覚えていた。
頭の中で今までの前提が崩れ去り、別の仮説と予測が生まれていく。
生まれた予測は、もはや一刻の猶予もないものであった。
龍王丸はさらに問うた。
「大勢で動くなら、どの道を通る」
男が固まった。
「大勢、でございますか」
「ひとりふたりの抜け道ではない。米を担ぎ、足の遅い者を連れ、荷を持って動くなら、遠江へ出ようとするならどこへ出る」
「遠江へ、米をもって、でございますか」
男の声には、初めてはっきりとした引っかかりがあった。
遠江の今川軍が援軍をするのであれば、あまり関係のない問いである。
雲谷に入る道ではなく、雲谷から出てくる道を尋ねる理由が分からないのだろう。
「答えよ」
「若君」
小次郎が見ていられぬと止めに入った。
備中守と合わせ、都合三回目の制止だった。
だが、龍王丸はその制止を気に留めない。そんな時間はなかった。
「あとでよい。大勢で動く道だ」
龍王丸が男の目を覗き込みながら、ゆっくりと尋ねた。
男は喉を上下させると、ようやく口を開いた。
「く、雲谷の西口より、古い荷道へ出るほかございませぬ。山道はございますが、人ならばともかく、大勢は通れませぬ。荷を担げばなおさら」
「その荷道は、どこへ落ちる」
「峠を越えれば、遠江の引佐筋へ」
引佐筋は、山と山の間を抜けて遠江へ落ちる道である。
峠の内では人も荷も細くならざるを得ないが、そこを抜ければ道は分かれる。
遠江の村々へつながる道だ。
山中では一つに固まるしかなかった群れも、そこへ出れば、いくつにも散る。
龍王丸はしばらく黙り、聞いた話を順に整理した。
そして、やはりと一人内心でつぶやく。
三千人の食い詰めたちは百石の米では足らぬ。
内部で食い合いが起こる。
戸田、牧野はそれを許したくはないだろうが、相手は自身の直轄兵より多い飢えた兵だ。
一向の者が混じる、いや、雲谷の略奪成功を機に一向に感化された者らがさらに合流していくだろう。
戸田、牧野は身の危険すら感じるはずだ。
では、どうするか。
どのようにして雑軍の腹を満たしてやるのか。
結論、三千の軍は雲谷では止まらない。
峠を越えた瞬間、遠江に拡散する。
「だれぞある」
龍王丸が呼ぶと、戸口の脇に控えていた男が、慌てて膝をついた。
「この者を奥へ。火に当て、湯を飲ませよ」
はっ、と男が畏まり、雲谷から来た者の肩を掴んだ。
「外へは出すな。誰にも会わせるな」
男は一瞬だけ顔を上げたが、龍王丸の目を見て、すぐに伏せた。
代官地に長く仕えたこの男は、決して龍王丸の意図を問おうとはしない。
静かに、迅速にその命令を果たそうとしてくれる。
その信と畏れが、今の龍王丸にはありがたかった。
掴まれ、別室へと連れ去られようとした雲谷の男が、膝でにじり寄ろうとした。
場に飲まれていたが、事の次第がおかしいとようやく気が付いたようだった。
「御料様、雲谷は」
「聞いた」
龍王丸は、それだけを言った。
助けるとも、助けぬとも言わなかった。
男はなお何か言おうとしたが、小者二人に支えられ、奥へ連れていかれた。
濡れた足跡が、板間にいくつも残る。泥水はゆっくりと広がり、雨音だけが戻ってきた。
龍王丸は、その足跡を見ていなかった。
その目はもう、雲谷ではなく、雲谷の先にある峠を見ていた。
●
雲谷の男が奥へ消えても、泥水の跡だけは板間に残っていた。
龍王丸はそれを見ていなかった。
目はすでに、雲谷の先にある峠を向いている。
「宮内」
名を呼ばれた時には、宮内はもう腰を浮かせていた。
「聞いたら動け」
「承知」
「一つ。山方を呼べ。道を知る者、木を倒せる者、石を動かせる者を選べ。名主の顔色を見るな。山で使える者から引き出せ」
宮内は返事をしなかった。
振り返りもせず指を立てると、二人の男が弾かれたように戸口へ走った。
「二つ。荷方と馬借を集めろ。荷車、荷馬、空俵、縄。持つ者はすべてここへ寄せる。借りるのではない。買う」
宮内の手が、次の者を呼んだ。
呼ばれた男は膝をつく暇もなく、雨の中へ飛び出していく。
「三つ。警固を数えろ。弓、槍、盾、蓑、松明。使えるものを分けろ。戦える者と、荷を押す者を分ける。
弱い者を前に出すな。足の速い者は使いに回せ」
小次郎の眉がわずかに動くのが見えた。
龍王丸の口から出ているのが、防備の支度だけとは思えなかったのだろう。
「四つ。倉を開けろ。油、松脂、藁、杭、鎌、斧、鋸、莚。役に立つものは、名を問わず出せ。足りぬ分は、ここで止めている荷から買う」
宮内の顔が、そこでわずかに動いた。
だが、問わなかった。
「五つ。商人を逃がすな。荷を隠す者があれば、倍で買え。なお渋るなら三倍を積め。銭を惜しむな。
ただし、口は閉じさせろ。何のために買うかは言うな」
戸口の外で、人の足音が増え始めた。雨を踏む音、誰かを呼ぶ声、荷を動かす荒い息が混じっていく。
先に命じたことが形となっていく音だった。
「六つ。銭箱を出せ。帳面は後でよい。いま必要なのは、名目ではなく物だ。物がなければ、人が死ぬ」
戸口の外の喧騒が広がる。
燃え上がるように、徐々に大きくなっていく。
「七つ。雲谷の使者を外へ出すな。商人にも余計なことを聞かせるな。触れ回る言葉は一つでよい。
遠江防備のため、荷と人を召す。それだけだ」
戸口の外では言い合いもあったが、何かを打ち付ける音が響いた後静まった。
「八つ。福島兵庫助へ人を走らせろ。遠江側の道、渡し、村の口を塞がせる。備中守の兵にも、すぐ動けるよう伝える。
旗は後でよい。まず人を置け」
そこまで聞いて、宮内が短く問うた。
「いつまでに」
「一刻」
宮内の目が、ほんのわずかだけ細くなった。
「一刻以内に揃わぬものは捨てる。動けるものだけで動く」
「承知」
宮内は深く頷いた。
その一言を残し、もう龍王丸を見なかった。
外へ向き直った時には、宮内の声は別のものになっていた。
商人を呼ぶ声、倉番を叱る声、山方を急がせる声が、雨と泥の中へ次々に飛んでいく。
詰所は、ようやく戦の匂いを帯び始めた。
「お待ちくだされ」
差し迫った空気を、小次郎の声が遮った。
戸口の外では戦の最中のような騒ぎである。
人々が走り回り、物をひっくり返す音であふれている。
だからこそ、小次郎の目に、今止めなければという意図が窺えた。
「防備の支度は分かります。されど、何をなさるのか、まずはご説明を願います」
「今から言う」
龍王丸は小次郎を見た。
「宮内が戻るまでに、そなたらには頷いてもらう」
小次郎は押し黙った。
願っているのでも、相談しているのでもない龍王丸の口ぶりに異質なものがあったからだ。
龍王丸は眉間を揉みこみ、思考を今、この場所に集中させた。
だが、それでも内心の焦りは消えない。
「端的に言う。雲谷が落ちれば、あれらはなだれ込む。飢えた者と一向の者を抱え込みながら、さらに膨れる」
「若君」
備中守が低く止めた。
「初めから願います。三年前の若君が、顔を出しておりまする」
龍王丸は口を閉じた。やはりまだ焦りがあったと反省する。
雲谷の男から聞いた事柄は、すでに龍王丸の中で一つの筋につながっていた。
雲谷の米は足りず、食い詰めた者たちには多くの一向の者が混じり、大勢の通る道は引佐筋へ落ちる。
そこから導かれる帰結は一つだったが、それはまだ龍王丸の内にあるだけだった。
龍王丸は息を吸い、ゆっくり吐いた。
雨音が近くなった。肺に湿った風が入り込むのを感じた。
それから、ゆっくりと始めた。
「まず、雲谷の米は百石に届かぬ。三千の腹を満たすには足りぬ」
小次郎が問うた。
「戸田と牧野が、兵糧を備えているのではございませぬか」
当然の問いであった。三千を動かすならば、米なしに動かすはずがない。
多少の現地調達はあるだろうが、準備はあってしかるべきだ。
「無論、備えてはいただろう」
龍王丸は頷いた。
「だが、備えた数と、今膨れている数が同じとは限らぬ。戸田と牧野の兵だけではない。食い詰め、荒法師、一向の者。
そもそも呼ばれてもいない者まで陣に加わり、今は下知も耳に入らず雲谷の門に取りついている」
備中守が眉を寄せた。
「戸田、牧野が、それを読めませなんだか」
敵を侮った声ではなかった。
むしろ、相手もまた国人を束ねる者である以上、その程度を誤るとは思えぬという響きがあった。
「初めは読めていたのかもしれぬ。だが、短期で片づけようと兵を集めた中、雲谷のことを文に載せたのだろう。
そして、伝聞のなかで有り余る米と銭を隠し持っていた。そのあたりだけがおそらく広がっている」
「兵の数と拙速を求めるは正道ではありますが」
備中守が唸った。
「三河の飢えもあり、三河中から食い詰めが寄った。結果、戸田、牧野の軍勢が、戸田、牧野の思惑より速く膨れた、と見ている。」
あくまで龍王丸の予測である。
だが、戸田が日和見の国人衆を集めるのならば、飴を匂わせなければならない。
実際は百石程度の米であろうと、雲谷が食い切れぬ米を持っていた、許せぬ、とでも言う。
そうして初めて、迅速に兵を集めることができたのかもしれない。
「されど、兵糧が足りれば止まりましょう」
小次郎が言った。
龍王丸は首を横に振った。
「そもそも足りぬ。そして、いまさら足りても同じだ」
「同じ、とは」
「一度、蔵へ手をかけた。米を奪えば食えると知った」
龍王丸の目は、板間に残る泥の跡へ落ちた。
「あ奴らは味を占める」
小次郎の指が、膝の上で強く握られた。
「されど、それは読みでございましょう」
「賭けるか、小次郎」
龍王丸は静かに問い返した。
「遠江衆の命で」
小次郎は黙った。
龍王丸はこれが卑怯な問いであることは承知していた。
未来の一向宗という要素を切り離し、現状だけを見れば、自分のそれが杞憂と一笑されることも理解していた。
龍王丸は内心の焦りを隠しながら、小次郎の目を覗き込んだ。
小次郎はひるんでこそいたが、目線を逸らすようなことはしない。
そこに備中守が、二人の間に息を入れるように言った。
「よろしい。止まらぬと見て構える分には、理がございます。どのみち守りは要りましょう」
備中守は戸口の外へ目をやった。宮内の命を受けた者たちが、雨の中を走っている。
「遠江衆が遠江で守る分には、由比殿も文句はありますまい」
小次郎は、少し間を置いて頷いた。
「駿府方の誰も、文句など出せませぬ。朝比奈殿、福島殿が号を発し、遠江防衛とする。
戸田にも牧野にも、すでに軍勢を問う使いは送っております。申し開きはいかようにも立ちましょう」
龍王丸は黙って二人を見た。
遠江側で受ける。道を塞ぎ、渡しを押さえ、村々を退かせる。
朝比奈と福島が名を出せば、防衛の筋は立つ。確かに駿府にも、三河にも、言い分は残る。
それは正しかった。
だが、
「それでは遅い」
龍王丸が言った。
小次郎は、すぐにはその意味を取れないようだった。
「遅いとは。あ奴らが雲谷の館を落とすにも時は要りましょう。峠を越えるにも半日はかかります。遠江で迎え撃つには十分にございます」
「違う」
龍王丸は首を横に振った。
「遠江に入れた時点で遅いのだ。あ奴らが引佐筋へ落ちれば道は分かれる。飢えた腹を抱え、血に酔ったまま遠江の方々に散るぞ」
小次郎の顔が、わずかにこわばった。
「それを平野で受けるのです。朝比奈殿と福島殿が道を塞げば」
「一歩でも下がれば終わる」
龍王丸の声は低かった。
「数で勝る飢えた死兵、平野で受けてどうする。戦術の入る隙間はない。奴らは押しとおる。そして雲谷と同じことを遠江でやる」
備中守は黙って聞いていた。
侮るなと激発してもおかしくはない言葉にも、あり得ぬと言い切らぬ慎重さがこの男にはあった。
「遠江にもまだ、他所から流れて来た飢えた者がいる。こ奴らもおそらく狼藉に加わる。そうなれば、騒動はさらに大事になる」
「いったい、何をお考えで」
小次郎が問うた。
「三河の峠で止める」
龍王丸は答えた。
板間に、雨音だけが残った。
備中守の眉が寄る。
小次郎は息を呑み、それからはっきりと言った。
「なりませぬ」
龍王丸は黙って小次郎を見ていた。
「それは、これまで散々に避けてきたことでございましょう。
三河に大義名分を渡すことなどできぬと、若君ご自身がおっしゃったではありませぬか」
龍王丸が何事か口を挟むより前に、小次郎は畳みかけるように言う。
「戸田の文では、形の上では奴らは遠江を攻めぬと言っております。
こちらから先に踏み入れば、東三河へ、三河へ、先に今川が手を伸ばしたことになりましょう」
「承知の上だ」
「分かっておられませぬ」
小次郎の声は震えていなかった。
「なるほど、若君の読みは正しいやもしれませぬ。三河勢がいかに動こうと、遠江を燃やさぬ動きでしょう。
されど、御身が守ろうとされた筋はどうなさる。大義はどうなさるおつもりか」
「今となっては、筋目や大義など」
「首が落ちますぞ」
小次郎が遮った。
龍王丸は、それも構わぬと言いかけた。
だが、小次郎はそれをも遮り、先に続けた。
「若君の首だけではございませぬ。ここにいる者の首が落ちるのです」
龍王丸は言葉に詰まった。
速度を上げて回る歯車が、急にかみ合わなくなる、そんな感覚に襲われた。
自分の首ならばよい、そもそも泥をかぶるための存在。そう思っていた。
だが、小次郎の口から出た言葉で思考が停止した。
やはり遠江で待ち構えるか。野戦築城でもして、後は朝比奈、福島ら戦上手に任せる。
領民らは避難のため後方に下がらせる。
そうだ、それでもよいではないか。そんな思いが湧いてきた。
だが、やはりそれは最善手ではない、と自分自身が否定した。
ゆえに、龍王丸は顎をわずかに上げた。
「縛れ」
側に控えていた護衛が、すぐに動いた。
「何をなさる」
小次郎の声が上がった。
縄が腕に回り、膝が板間へ押さえられる。
小次郎はなお何かを言おうとしたが、護衛の手は緩まない。
龍王丸は、縛られた小次郎を見下ろした。
「由比小次郎。見分の役にありながら、三千の軍を前に逃げず、備中守とともに遠江を守る。見事な心がけである」
小次郎は目を見開いた。
龍王丸はそれ以上、何も言わなかった。
小次郎は何かを叫びながら、奥へ連れていかれる。
声は雨音と外の足音に紛れ、すぐに遠くなった。
備中守は、しばらく小次郎が消えた奥を見ていた。
「某も縛られますか」
備中守が言った。
「そなたを捕らえられる兵などおらぬわ」
龍王丸は答えた。
「備中守は当初の通り、福島兵庫助とともに、峠から遠江へ出る道を守ってくださればよい。
龍王丸は何も告げず、血気にはやって勝手に先駆けた。そうしてくだされ」
「御身は」
「峠へ」
備中守はすぐには返さなかった。
龍王丸が口にした峠は、何処かなど、問うまでもなかったからだ。
「小次郎殿は如何にします」
「備中守とともに、龍王丸の三河行きなど知らず、ただ遠江を守っていた。それでよろしい」
「目付の御役目を果たしておられぬようですが、駿府で叱られませぬか」
「あれの役目は遠江の見分だ。他でもない駿府が文にそう記している」
龍王丸は言った。
「目付など、小次郎が勝手に言っておるだけだ」
備中守は黙った。
小次郎がこの地へ来た名目は、あくまで見分である。
自分を見張る目付という役は、駿府の者たちが裏に含ませた意味に過ぎない。
小次郎は若君を止めた。若君は聞かず、小次郎を縛った。
その後、小次郎は朝比奈備中守とともに遠江側に残った。少なくとも表の筋は、そう作れる。
備中守は、濡れた蓑の端から水が落ちるのを見つめているようだった。
板間に落ちた水は、小次郎の膝が押さえられていた跡へゆっくり広がっていく。
やがて、備中守は龍王丸を見た。
「若君。遠江でのこと、世話になり申した」
深く頭を下げることはなかった。ただ、声だけが低くなった。
「朝比奈は、遠江の守りを果たしまする」
「頼む」
龍王丸は短く答えた。
備中守は一礼すると、濡れた蓑を肩にかけ直し、戸口へ向かう。
出ていく背は大きく、雨の向こうへ消えるまで、誰もその背に声をかけなかった。
龍王丸はその背中を見送った後、一人別間へ入った。
そこには、小具足が置かれている。
駿府から送られてきたものだ。遠江へ出るにあたり、念のためとして運ばせてはいた。
だが、龍王丸自身、これを身につける日は来ぬと思っていた。
「さて、着られるものかな」
紐を取る指が、思ったよりも鈍かった。
鉄は冷たく、肩へ乗せると、身体の芯まで重さが沈む。
普段の衣とは違う。
小具足は、身を守るためのものではある。だが同時に、戦へ出る者であると人に見せるためのものでもあった。
龍王丸は袖を通し、紐を締めた。
少しきつく結びすぎたのか、息が浅くなる。結び直す時間はなかった。
外へ出ると、詰所の前はすでに騒然としていた。
山方を呼びに走る者がいる。荷方を怒鳴って集める者がいる。
倉番が油壺を数え、別の者が縄を束ねている。
荷留めされていた商人たちは、何が起きたのか分からぬまま、己の荷に値をつけさせられていた。
銭箱が開かれる音がし、泥の上に荷車の轍が新しく刻まれていく。
その中へ、龍王丸が出た。
人の動きが、一瞬だけ鈍る。
童の若君が、具足をまとって雨の中に立っている。
似合っていると言うには幼く、幼いと言うには目が冷えていた。
濡れた黒髪と白い顔に、鉄の光だけが重なっている。
その姿に、山方も、荷方も、警固も、役人も、ほんのわずか手を止めたのが分かった。
「動きながら聞け」
龍王丸の声が通った。
止まりかけた手が戻った。縄が担がれ、油壺が運ばれ、荷馬が引き出される。
だが、人々の耳は龍王丸へ向いていた。
「遠江に危難が迫っておる」
龍王丸は雨の中で言った。
「戸田、牧野の軍勢と、それにまじる飢えた者どもが、遠江の富に手を伸ばしておる」
人足の顔が上がった。
馬借の男が、荷縄を握ったまま龍王丸を見る。誰も、口を挟まなかった。
「この三年、遠江が栄えたのは、今川の、龍王丸の手柄にあらず」
龍王丸は続けた。
「必定、遠江は、遠江の者が己の手で戻した国である。血泥に塗れた田、戦火で断ち切られた道々、万事、遠江の者の手にて整えられた。
この龍王丸は、その上に乗ったにすぎぬ」
宮内が、少し離れたところで龍王丸を見ている。止めはしなかった。
「その遠江を、いま他国の不届き者どもが手を伸ばしておる。そなたらの田を焼き、道を踏み荒らし、蔵を奪わんとしている。
この嵐ゆえ駿府の沙汰を待つ暇もない。だが、いま動かねば、遠江の富は遠江の者の手からこぼれる」
龍王丸は一歩、泥の中へ出た。
「ゆえに、頼む」
そこで、龍王丸は深く頭を下げる。
「遠江の力を、今一度、己に貸していただきたい」
雨音が、しばらく大きく聞こえた。
具足をまとった若君が、泥の中で頭を下げている。山方も、荷方も、馬借も、人足も、それを見ている。
誰もすぐには声を出さなかった。
最初に動いたのは、油壺を抱えた男だった。男は低く唸るような声を出し、荷を抱え直した。
それに続いて、別の者が声を上げた。
声はすぐに広がった。歓声というには荒く、怒号というには熱を帯びすぎている。
雨の中にいた者たちの腹から押し出された声であった。荷馬がいななき、山方が走り、役人が銭を数える手を速める。
誰かが、道を空けろ、と怒鳴り、また別の誰かが、縄をこちらへ、と叫んだ。
「ありがたし」
そう言って龍王丸が下がると、止まっていた場が、いっせいに動き出した。
その場を退くとき、龍王丸は宮内とも目が合った。
宮内は何も言わない。ただ、濡れた顔の端をわずかに上げていた。
その顔は、笑っているようにも、呆れているようにも見えた。
龍王丸はもう振り返らなかった。
雨の向こうで、遠江の者たちが動いていた。
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雨は弱まらず、嵐となった。
詰所の前には、一刻で掻き集められた者と物だけがあった。
間に合わぬ者は待たず、足りぬ荷は容赦なく捨て置かれた。
荷馬、荷車、油壺、縄、斧、鋸、空俵。
すべてが急ぎ束ねられ、泥濘の中へと押し出されていく。
旗はない。太鼓もない。鬨の声すら上がらない。
今川の正規軍として動くわけにはいかなかった。
表向きはただの荷運びの列を装う必要がある。
だが、雨を突いて進む彼らの足取りは、ただの運搬のそれではない。
泥を踏みしめる者たちは皆、自分たちが何を守るために死地へ向かうのかを肌で理解していた。
龍王丸は、一度も振り返らなかった。
残してきた遠江の灯も、縛り上げた小次郎の顔も、すべては背後の雨の向こうへ置き去りにする。
もはや言い訳も、後戻りもできない。
雲谷の凶報から、わずか数刻。
軋む車輪の音と、泥を蹴る足音だけを響かせながら、異形の列は暗い峠へと飲み込まれていった。
一歩踏み越えれば、そこは三河であった。




