2章_9
代官屋敷の一室で龍王丸は一人の男と向かい合っていた。
堺の武野新五郎。
皮屋の者だという。皮屋とはいえ、扱うものは皮ばかりではない。
武具に添える布、荷を包む布、船に積む反物、売れると見れば何にでも目を向けるのが堺の商人であるらしい。
まだ顔に若さがある。だが、若いだけの男ではなかった。
代官地から卸す品々を見る目が、ただ品を値踏みする目ではない。荷の向こうにいる人間まで見ようとする目であった。
「いや、来るたびに活気が増しておりますな」
木綿を濡らすな。荷をきっちり詰め直せ。
蔵役のそんな声が、座敷の外からも聞こえていた。
「どうやら一雨きそうでな。急いでおるようだ」
小者が戸を閉めた。音は遮られたが、雨の降る前の匂いは変わらず漂っている。
備中守の懸念の日から、徐々に空は低く、湿り気を含んだ風が吹き出していた。
遠江に古くから住むものも、これは大雨になると口をそろえて言った。
それゆえ、少しでも手の空いた人間は荷下ろしの準備に手を貸していた。
廊下の向こうでも、代官地の領民らが遠江木綿の束に筵をかけ直し、荷札の紐を確かめていた。
米俵と違い、木綿は濡れればすぐに値が落ちる。
そう知っている者たちは、空が曇っただけでも手早いのだ。
「いえいえ、むしろ嵐の前に来られたということで縁起が良い」
新五郎は、して、と前置きをしてから本題に入った。
話の筋はやはり木綿だった。
龍王丸は座敷に置かれた一反の木綿へ目を落とした。
代官地で作る織り目が揃い、手触りにも張りがある。
村々で女たちが織り、御料の蔵で改め、商人の手に渡る。
まだ名物と呼べるほどではないが、少なくとも粗布として安く買い叩かれるような品ではなくなっていた。
三河の流れ者から綿花栽培を学ぶところから始まり、龍王丸のちょっとしたずる、そして御曹司の看板で加速させた産業である。
数百年後の工芸品には見劣りするが、それでも同時代のものより数段出来が良い。
これらを可能な限り寸法を合わせ、数をそろえて出荷するというのは遠江木綿の強みであった。
「にしてもそちらさんはお初ですな。新しく出仕されたのですかな」
「いや、駿府方からの目付だ」
小次郎は龍王丸の斜め後ろに控えている。
駿府方の目付として、商談の場にも同席し、龍王丸の発言に目を光らせていた。
「御料様はちと、やんちゃが過ぎるとのことで駿府の御屋形様が心配なさっておられるようで」
「宮内殿」
小次郎が横目で宮内を睨んだ。
宮内はいつものように、少し離れて座り、顎に指を添えている。
笑っているようで、笑っていない。いや、半分は笑っているのだろう。
「許せよ新五郎。無作法者の家中と忘れてくれ」
新五郎が困った顔をした。
「して、話は木綿のことであったな。なんでも足りぬということだったが」
新五郎は、木綿の端を指先で押さえ、丁寧に頭を下げた。
「足りぬなどと畏れ多いことは申せませぬ。ただこの遠江木綿、来年はもう少し多くお預けいただければ、よりよい知らせをお届けいたしまする。
堺でも、目の利く者は欲しがっており、今では名指しで遠江木綿を欲しがるものも多い次第で」
小次郎が帳面に何か書き込んだ。そのうえで訝しい顔をしている。
新五郎がそれを目で追った。そして、何か察して口を開いた。
「なにせ、何より品が揃うのようございますな。まとまって出る。荷札も控えも乱れぬ。これは商う側には、まことありがたいことでございます」
その言葉を聞いて、小次郎の筆が再度走り出した。
龍王丸は新五郎のこういうところを評価し、そして警戒していた。
「以前よりも売れているのか。それとも愛想か」
「滅相もない。きちんと売れております。蔵の物はすべてなくなるほどで」
新五郎は即座に答えた。
その声に、わずかな熱があった。
「いまは一反一貫二百文でお預かりしておりますが、正直に申せば、一貫五百文でも手は上がりましょう。
売り切って見せますので、なにとぞ増産を」
その金額を聞いて小次郎が目を白黒させた。
東海道の要所を押させる今川ならば珍しくない金額であるが、目の前で動くとなると話が違った。
「気を遣ってもらって申し訳ない。だが、増やす予定はない。いや増やせぬのが実情だ」
龍王丸が言うと、新五郎は目を細めた。
別段隠すことでも難しいことでもなかった。
「木綿に向いた土地がそう多くない。水の具合も、土も、人の手も要る。どこでも植えればよいというものではなかろう」
「ええ、ええ存じ上げております。しかしながら代官地はまだ空きがあるようですが」
「無理に広げれば、米を作る田畑を潰すことになる。米を減らして木綿を増やし、足りぬ米は銭で買えばよい。
そう言う者もおるだろうが、駿府がよい顔をするとは思えぬ」
新五郎は、そこで少しだけ表情を和らげた。銭の損得ではなく、家の顔色の話が出たからだろう。
若君御料といえど、国の中にある。蔵が豊かになればそれで済む、という話ではなかった。
「それに、米は蔵にあれば人を落ち着かせる。木綿は銭にはなるが、いざという時、腹には入らぬ」
これは新五郎には気に入らぬ理屈か、龍王丸は付け加えた。
当の新五郎は笑みを浮かべ頭を下げる。
「いえいえ、ごもっともにございます。失礼をいたしました」
新五郎は素直に頷いたが、目はまだ木綿から離れていない。
惜しいのだろう。商人にとって売れる品は、目の前にある水のようなものだ。
汲めるだけ汲みたいと思うのは当然であった。
「とはいえ、空いた土地が勿体ないのも事実。少し別のものを試す。まだ調べの段階だが、油などに目をつけている」
「油、でございますか」
新五郎の声が、わずかに変わった。
それは驚きというより、思わぬ品の名が出た時の商人の反応であった。
形にもなっていないことのため、龍王丸は手を振って否定した。
「まだ試しだ。大きくやる話ではない。ただ、そう意外でもなかろう」
新五郎は、今度は隠さずに感心したような顔をした。
「まさか、私はてっきり、遠江にも駿河にも、さらに木綿を広げられるものと思っておりました。
御料の名で出る木綿ならば、堺で扱うにも都合がようございますゆえ」
「そなた、値を下げたいだけであろう」
龍王丸が言うと、新五郎は一瞬だけ目を丸くし、それから声を立てずに笑った。
「これは、見抜かれましたな」
「堺の商人は怖い。あの手この手で武家を操る」
宮内が、そこでくつくつと笑った。
「御料様、堺の商人にいささか物騒ですぞ」
「事実だ。そして褒めている」
「ならば、なお酷にございますな」
新五郎も頭を下げながら笑った。小次郎だけは、帳面へ目を落としたまま、笑うべきかどうか迷っているようであった。
座敷の空気が少しだけやわらぐ。
外では相変わらず荷を動かす音がしていたが、戸を閉めたせいで、それも遠く聞こえた。
「して、若君様」
新五郎は、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、東三河のことも一つ、耳に入れておきとうございます」
「東三河な」
近頃よく耳にする土地である。
雲谷の一件以降、草のものを向かわせたり、行商人らから話を聞いてみた。
だがはっきりした動きがない。
「戸田、牧野が人手や米を集めているとは聞いた。いいところ砦だろう」
費やされた資源から察するに小規模な見張り砦である。侵略の意図は見えない。
今川が攻める動きを見せなければ、大きな問題には発展しないようにも思えた。
「ご明察にて。どうやら遠江が力をつけていることで相当気を揉んでいるようで。なにせ今年の三河は豊作とは言えませんでしたから」
「東三河だけでなく、三河がか」
新五郎が曖昧に頷いた。
「色々と不穏で商いに差しさわりがあると商人筋では話しております。特に国境はどうなるやらわかりませぬ」
小次郎が顔を上げた。
宮内も、顎に添えていた指を止める。
「商人たちは国境の雲谷という名について何か言っていたか」
龍王丸が問うと、新五郎は首を横に振った。
「そこまでは。ただ、小さき家ほど困りましょうな。銭と人ばかり取られ、道を押さえる砦を築かされる。
築いた砦で人と荷の行き来を妨げる。あれでは先が細りましょう」
商人らしい見方であった。
城や柵の利は分かる。長期的に見て商業に損であることも理解した。
しかし、そのうえで、
「戸田も牧野も馬鹿ではない」
龍王丸は言った。
「向こうから見れば、こちらの荷と銭の方が、砦より先に境を越えている。国人衆の心が動くのを止めたいなら、境に手を打つしかない」
新五郎は黙った。
小次郎も黙っている。
宮内だけが、表情を消しきれぬ顔で龍王丸を見て口を開いた
「御料様は、御自分が先に手を出したように仰る」
「その向きも間違いではない」
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武野新五郎が代官屋敷を去ったあとも、座敷にはしばらく木綿の匂いが残っていた。
戸の向こうでは、まだ荷を動かす音がしている。先ほどよりも声が荒い。だが、言葉数自体は少なくなっていた。
雨が近いとき、人は自然と無駄口を減らす。湿った風が口を重くするのだ。
宮内が、戸口の方へ目をやった。
「銭の匂いを嗅ぎつけることに関しては、まったく大したものですな」
新五郎のことだ。
堺の豪商に名を連ねる革屋であるが、新五郎自身は腰が軽い。若さもあるのだろうが、儲けの種を見つければどこへでも足を運ぶ。
だが、堺の商人らしい柔らかい物言いをして、決して腹を読ませない。
どこまで本気で、どこから値を動かすための言葉なのか判じきれぬ笑みを常に浮かべている。
「それぐらいでよい。そうでなければ今の堺で生きていけぬ」
龍王丸の答えに、宮内もそれ以上はすぐに言葉を重ねなかった。
顎に添えた指を離し、少しだけ目を細める。
「御料様は雲谷を気にしておいででしたが、やはり火が付きますか」
「今日の雨で消えればよい、そう思っている」
暗に、火が付く、だが消えてほしいと、龍王丸は言った。
自分で言って、望みの薄い言葉だとも思った。
火は、水をかければ消えるものばかりではない。湿った薪はくすぶり、煙だけを長く残すことがある。
「たとえ今日、消えたとしても事の根は深うございます。
おそらく後に引きまするぞ。雲谷らは、今後も銭なり米なりを借りに来るのでしょうから」
宮内の声には、軽口の調子がほとんど残っていなかった。
事実、これは雲谷一つの話ではない。境目の小さな家は、どこも似たようなものだ。
戸田や牧野の顔色をうかがいつつも、遠江の財に目を向け、今年を越すために頭を下げる。
いったん銭を借りれば、上手くいったとして次も借りる。
借りた側は食うためだと言うだろうし、貸した側は情けだと言えるだろう。
だが、外から見れば、借りた側が首輪をはめられたようにしか見えない。
小次郎が、帳面を閉じた。
「いっそ、貸さぬと突っぱねるというのは」
駿府からの目付らしい言葉であった。
それも正しいと龍王丸は思う。疑われるような荷を境目へ流すくらいなら、最初から断つ。
その方が駿府への申し開きは立つ。小次郎の立場からすれば、むしろ当然の考えとすら見えた。
「それもよい」
龍王丸は否定しなかった。
「だが、駿府の腹次第だな」
小次郎の目が、わずかに動いた。
「駿府、でございますか」
「国境の小家が食えずに荒れれば、遠江の道も荒れる。遠江の道が荒れれば、やがてこちらの国人が騒ぐ。駿府がそれでよいとするならば、従うほかあるまい」
それらを龍王丸の独断で決めるわけにはいかない。
決断できるのは今川の当主である修理大夫氏親である。だが、父氏親は病の床にある。
荒れた遠江の地に対し、以前のように再平定の号を発することはできない。
東三河をどうするか、遠江をどうするか、どのように動くにせよ気力と体力、そして速度が必要になるのだ。
小次郎は口を閉ざした。
事の是非をこの場で問えるほど単純ではない、それが分かったのだろう。
その沈黙の上へ、雨の音が落ちてきた。
はじめは軒先を小さく叩く音だった。それが少しずつ増え、庭の土を黒く変えていく。
外で小者が何かを叫び、別の者が応じた。木綿の束を蔵へ押し込む音が、遠く鈍く響いた。
その雨音の中に、蹄の音が混じった。
宮内が先に顔を上げる。
小次郎も、戸口へ目を向けた。やがて廊下の向こうで慌ただしい足音がし、小者が膝をついて名を告げた。
三河筋を歩かせていた行商の男が、急ぎの報せを持って戻ったという。
「通せ」
入ってきた男は、旅商いの姿をしていた。
雨具から水が滴り、裾には泥が跳ねている。背には小さな荷を負い、腰には商い道具のように見せた袋を下げていた。
顔は、ただの行商人のそれであったが、目だけは違う。いやにすわった腹がそのまま表に出ており、落ちくぼんだ目に剣呑さが見て取れた。
男に付き添ってきた小者が、戸口に控えたまま中をうかがっている。
龍王丸はその小者に目をやった。
「下がれ」
小者は一礼して戸を閉めた。
行商の男はそこで初めて、小次郎を見た。この者の前で話してよいのか、と問う目であった。
「駿府方の目付だ。聞かせておきたい」
龍王丸が言うと、男は短く頭を下げた。
後で探られるより、今ここで同じ話を聞かせておく方がよい。小次郎にもそれは分かったらしく、何も言わずに姿勢を正した。
男は、まず見聞きしたことだけを並べた。
東三河の境目、雲谷で戸田方の家臣が斬られた。そんな話が国境に走ったそうだ。
なぜ斬られたのかは、今はまだはっきりしない。刃傷の場にいた者の話は途切れ途切れでしかなく、また雲谷の内から確かな言葉は出ていない。
ただ、戸田方はすでに理由を問う使者を立て、釈明を求めているという。
ところが雲谷は、それに明らかな返答をしていない。返せぬのか、返さぬのか、それも分からない。
その煮え切らない態度に、戸田方では徐々に人を集めだしている動きがみられているとのことだった。
男の見立てでは、その集められた人が砦普請の人足なのか、雲谷へ向ける兵なのか、見分けはまだつかない。
だが、国境が微かに殺気立ち始めているとも付け加えた。
宮内が口を開いた。
「遠江の話は出たか」
「まだ、そこまで大きくはございませぬ」
男は慎重に答えた。
「ただ、遠江との国境に近きところでございます。疑う者はおります。雲谷がなぜ黙るのか、誰か後ろにおるのではないか、と」
小次郎の眉がわずかに寄った。
宮内は、さらに問う。
「雲谷は腹を決めていたのだろうか。前々から戸田と決別するつもりであったか。それであれだけの米や銭を持っていった」
「そこまでは、わかりかねます。ただ、雲谷の苦しさはあの辺りでは知られております。
食うや食わずやとまでは申しませぬが、豊かとはほど遠い。
こつこつ兵糧を集めていたようにも、城を固めていたようにも見えませなんだ」
雲谷が持って行った銭も米も決して少なくはない。
しかし、東三河の実力者である戸田と事を構えるに足るかといわれれば、首をかしげてしまう量だ。
龍王丸は、しばらく黙った。
雨音が強くなる。
戸田方の家臣が斬られた。雲谷は答えない。兵糧を蓄えていた様子もなく、城を固めた気配もない。
持って行った財も準備を埋められない。
これらはあらかじめ腹を決めていた者の動きではない。
ならば、
「暴発だな」
龍王丸は言った。
「雲谷左近本人の人物評ともずれる。おそらく、周囲が耐えかねたか」
雲谷左近は、戸田にも牧野にも逆らい、今川へ旗を振って走るような男ではない。
少なくとも、龍王丸が聞いていた人物評はそうであった。
小心で慎重だが、その場をやり過ごすことばかりを考えている。
だからこそ危うかった。
そういう男の周囲に、若く、忍耐の足りない者がいれば、存外簡単に火は付く。
小次郎が声を低くした。
「これをどうするおつもりで。まだ、今川とのつながりは見えておりませぬが」
「今は、な」
龍王丸は答えた。
「人死にが出たのだ。事の大きさ故、雲谷は隠しきれまい。戸田も、雲谷が口を閉ざしていればいるほど探る。やがて気づく」
雲谷の蔵に、代官地から流れたものがどれだけ残っているか、今の龍王丸には分からない。
雲谷もそれらを燃やすことはないだろう。ならば、いずれ戸田は遠江にたどり着く。
いや、たとえ燃やしたとしても、刃傷沙汰の前後で雲谷が何かを運んだということから察することもできる。
道に残った轍、人足に渡した銭など、たどれる道はいくらでもあるのだ。
宮内が、わざと軽い声を作った。
「では、戦いますかな。戸田が国境沿いの国人につらく当たった。雲谷らは今川に臣従した。今川はこれを助ける。義は立ちましょう」
「そのような勝手は」
小次郎が思わず声を出した。
宮内は笑わなかった。ただ龍王丸を見ている。
過去の歴史を顧みれば、体裁を整えた上で軍を出せる。さあ、どうする御曹司、とでも問うている目であった。
「やめよ」
龍王丸は短く遮った。
宮内が頭を下げる。小次郎も口を噤んだ。
現状で出兵はあり得ない。
今川がここで兵を出せば、戸田はそれ見たことかと国境を固めるだろう。
おそらく戸田は、東三河の国人衆を反今川でまとめる。
境目の小家を米と銭で抱き、刃傷沙汰を口実に兵を入れる、まさしく今川の手であると公言する。
一度そのような見方がされれば、今川の言い分など届かない。
遠江と三河の国境の緊張は大いに高まり、遠江の統治も揺れるだろう。
龍王丸は雨の向こうを見るように、しばらく目を伏せた。
「小次郎」
「はっ」
「駿府に使いを出せ。状況を伝えた上、遠江衆には落ち着くように声がけいただきたいと。
だが、戸田方の動き次第では、朝比奈、福島らに国境で睨んでもらうべきではないか、と龍王丸が不安がっている。そう伝えよ」
駿府に命令の要請などできない。
朝比奈、福島らとの関係も悪くはないが、彼らはあくまで父氏親の家臣である。
それゆえ彼らの軍勢も当てにできない。
龍王丸にできるのは、状況の報告と、それを踏まえた上で希望を添えることだけだ。
「承知いたしました」
小次郎の返事は早かった。
目付として駿府へ報告する。それは小次郎の役目であり、同時に龍王丸が勝手に動いていないと示す筋でもある。
宮内が問う。
「仮に朝比奈殿らが動いてもらったとしても、今度はそれで戸田が暴発しませんか」
「その目が出るのは否定しない」
龍王丸は言った。
「だが、どうなっても遠江に火が回らぬようにしたい。国境で睨むのは、そのためだ」
一番望ましい展開は、遠江が軍勢を招集せず、戸田も落ち着くことだ。
それが叶わないのであれば、次善は戸田の軍勢をこちらの軍勢で牽制すること。
牽制がうまくいかず、戸田が流れ込んできたなら、そのまま軍で押しとどめられる。
最悪なのは、戸田の自制心を期待し、無防備をさらした挙句、遠江を荒らされること。
龍王丸は、損の少ない道を選んだ。
「あとは、三河へ人をやる」
「雲谷への使者ですかな」
宮内の問いに、龍王丸は首を振った。
「使者は出せん。こちらからつながりを認めるようなものだ」
宮内は、当然のことのように頷いた。
行商の男も黙っている。
「戸田周りの動きを見ていてくれ。雲谷へ入る必要はない。
戸田が誰を呼ぶか、どの道を押さえるか、それを拾え。牧野が巻き込まれるかもしれん」
「承りました」
行商の男が深く頭を下げる。
小次郎が低く言った。
「牧野と戸田は蜜月ではありませぬが、これを機に東三河が一丸となると」
「東三河だけで済めばよいな」
龍王丸は、それ以上を口にはしなかった。
今年の三河は豊かではない。冷夏が実りを減らし、国境の小家を追い詰めている。
兵が動けば、米の噂も銭の噂も動く。だが、それはまだ形を持たぬ懸念でしかなかった。
どこまで波及するか。雲谷で収まるか。龍王丸は、見えぬ先行きに小さく息を吐いた。
話し終え、行商の男が下がると、雨音がいっそう強くなった。
軒から落ちる水が庭の土を叩き、泥が跳ねる。遠くで、誰かが蔵の戸を閉める音がした。
龍王丸は、畳の上に置かれたままの木綿へ目を落とした。
白い布の端が、湿った風にわずかに揺れている。
今日の雨で消えればよい。
そう言った言葉が、自分の耳にだけ残っていた。
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雲谷の報が届いてから、十日が過ぎた。
雨は降り止むどころか、勢いを増し、嵐の様相であった。
あれから龍王丸は小次郎に頼み、駿府へ使いを出した。
一度ではない。念のために二の使いも出した。それも一方向ではなく、海からも文を回そうとした。
だが、その試みはうまくいかず、荒天により船は沖へ出る前に戻った。
無論、駿府への道すべてが塞がれたわけではない。山へ回る道もあれば、他国を経由する手もある。
だが、小さな川は増え、山道は崩れ、馬の替えも滞った。どの道もいつもより遅く、どの便も確かではなかった。
龍王丸の懸念は、使いが届くか否かだけではなかった。
使いが届いても、命が下されぬこと、下された命が妥当でないことも十分考えられた。
氏親が病の床にあることで、駿府の腰が引けていることはあり得る。
雲谷などという小家の沙汰に対し、駿河から軍を起こせるとは龍王丸は毛頭考えていない。
だが、もしやとすれば、朝比奈や福島を国境へ出すことすらままならないかもしれない。
むろん、氏親が病床であるからこそ、逆に強気で軍勢を繰り出す可能性も否定できない。
戸田や牧野に引くな、擦り潰せ、東三河に今川の旗を立てろという命が来ることもあり得る。
駿府から長く、遠く離れた龍王丸には、彼らの腹が分からなかった。
ただ一つ分かるのは、駿府の考えとは別に、三河は待ってくれぬということであった。
事実、戸田が軍勢を率いて、雲谷の館を囲んだ。龍王丸に雲谷の知らせが来てから五日ほど経ってのことだった。
それからさらに幾日か経ち、まだ館に手をかけてはいないが、物と人の出入りを封じている。
龍王丸の見立てでは、大量の血が流れるまであまり時はない。
ゆえに龍王丸は、東三河へ抜ける街道筋の手前に設けた荷留めの詰所にいた。
詰所といっても、堅固な城ではない。
代官所の小者が荷札を改め、馬借を留め、物見を出入りさせるための仮の番所である。
雨除けのために粗末な庇が伸ばされ、その下に様々な品を納めた小荷駄が押し込められていた。
庭は泥に沈み、馬は鼻を鳴らし、濡れた筵の匂いが風に混じっている。
その詰所にいる者たちは、今川の御曹司がここにいるとは思いもしないだろう。
彼らは軒の下で嵐をよけながら、誰に聞かせるでもない愚痴をこぼしていた。
三河の買い手が待っている。
木綿が湿る。荷が遅れれば銭が飛ぶ。
米は待たせるものではない。
そうした言葉が、雨音の間を縫って座敷代わりの板間まで届いていた。
ともに詰所に来ていた宮内が、外へ目をやる。
「雨で掻き消えぬほどに騒がしゅうございますな」
「言うな。それほど影響が大きいのだろう」
龍王丸は、泥に沈んだ荷駄を見ながら答えた。
代官地の商いの売りは、物の動きの速さにある。領民や商人たちもそれを前提としている。
荷が止められるということは、帳面で上がる以上に人々に影を落とす。
「いきなり雲谷の館を囲み、国境で荷止めとは戸田もずいぶんなことをする。文句を言うても罰は当たりませぬぞ」
「さて、急に軍勢を並べ、道を塞いだことに対する説明は求めた。だが、それ以上はまだ言えんな」
龍王丸からの要求に、戸田からの返答はなかった。
こちらが送った使者の書は受け取ったが、それに対して何も返ってこない。
それで念のため、国境近くにまで出張ったが、得られるものはなかった。
いや、正確に言えば、戸田の動きを肌で感じられた分、正解だったかもしれない。
龍王丸が雨を見つめていると、小次郎が低い声で言った。
「若君がここにおられると知れたら、ことですよ」
「自分は遠江の責任者というわけではない。さして問題にはなるまい」
朝比奈か、福島が一応は遠江衆の顔役になる。
何かあれば、まず駿府は彼らを頼るだろう。
「ですが、もし戸田勢がこちらへ差し向けられれば」
「その心配は薄い。朝比奈や福島が気を利かせてくれた」
龍王丸は、駿府を通して、朝比奈らに軍勢を動かしてくれるようにと希望を伝えた。
だが、それでは遅きに失する可能性が高い。
それゆえに、個人的友誼の範疇で、国境が騒がしいこと、三河勢が膨らむ恐れがあることを知らせた。
そして、そのうえで遠江側の村と道に火を回さぬよう物見を厚くしてほしいこと。
城の人数と兵糧を改めておいてほしいことを伝えたのだ。
決して、旗を立てて国境へ出よ、龍王丸の下知に従い、三河へ踏み込めとも言っていない。
それでも小次郎は、少し嫌な顔をした。
龍王丸のそれが詭弁であると知っていたからだ。今川の嫡男の願いは、言葉通りのお願いではない。
限りなく命令に近い何かである。そのことは龍王丸も重々承知していた。
だが、この雨の中で遠江を無防備にしておく方が、よほど申し開きが立たない。
「ただ、戸田の動きが少し早い。来てよかったかもしれぬ」
「早い、でございますか」
「大雨と嵐で足が鈍ると思った。だが、むしろ勢いがある」
小次郎は黙った。
雨の中、人を動かすのは難しい。軍勢ならばなおのことだ。
降り注ぐ雨は体温を下げる。その体温を上げるためには火がいる。
火を起こすには雨の中、薪を濡らさぬように、泥に足を取られながら運ばねばならない。
基本的に雨は進軍の敵である。
にもかかわらず、戸田の動きには一切陰りがなかった。
その時、詰所の外で声が上がった。
代官所から三河筋へ出していた者が戻ったという。
通された男は全身を雨に濡らし、裾に泥を跳ね上げていた。
板間に膝をつき、息を整えている男に龍王丸は言った。
「申せ」
男が畏まりながら、口を開いた。
「戸田方軍勢、日に日に増えております。具足をつけた者が多くなり、雲谷へ向かう道はほとんど押さえられ始めております」
「やはり、ですな」
宮内が唸った。ここまでは想定通りであり、偽兵の線は消えた。
龍王丸は重ねて問うた。
「館に対する呼びかけは変わらず行われているか」
龍王丸の問いに、男が少し悩んだ。
「今はまだ、釈明を求める、と。門扉を開き、当主が出て説明せよと触れております」
「それだけか」
「いえ、答えねば館を攻める、とも。門を破るための大木らしきものも見えました」
宮内が、わずかに目を細める。
「まことに剣呑ですな」
小次郎が首を横に振った。
「まさか、ここまで一気に動くとは。今川を気にして、穏当に済ますと思っておりました」
小次郎の声には、素直な驚きがあった。
龍王丸は、濡れた男の肩から落ちる雫を見ていた。
「気にしてはおるのだろう。それゆえに一両日中に片づけようとしているのかもしれん」
戸田にとって一番簡単な方法だ。
戸田はもはや雲谷を東三河に置いておくことはできない。
当初は穏当に説明を求めるつもりであったが、雲谷が返事を返さない。仕方なく軍勢を率いて脅してみるも無駄。
ならば、館に踏み込み、今川の介入前に雲谷一党を処す。
そう考えたとしても、不思議ではなかった。
だが、それでも早い。
「戸田勢はいかほどになった」
龍王丸が問うと、男は一度、唾を呑んだ。
「二千は越えましょう。三千と申す者もおります」
小次郎が息を呑んだ。
「雲谷一つにか」
「戸田、牧野、近隣の小家も加わっている由にございます。ただ、詳しくはまだ」
「なるほどな」
龍王丸は低く言った。
「強気になったわけが分かった。雲谷の不始末を、戸田一手の私闘ではなく、東三河の沙汰にしたいのだろう。戸田の声に、東三河の国人が応じた形にしたいのかもしれん」
それなら牧野へ檄文まがいの書を回すことにも筋が通る。
雲谷を叩くのではない。境目の秩序を正すのだ。戸田だけの怒りではない。東三河の諸家が応じた沙汰である。
悪くない手だと龍王丸は素直に思った。
そのように形を整えれば、今川が口を出す余地は狭くなる。
さらになし崩し的に牧野との格付けも行え、戸田は東三河の頭目にどさくさで成り上がるやもしれない。
小次郎の顔から血の気が少し引いた。
今川の横に新たな勢力が生まれる未来を予見したのだろう。
「急ぎ代官屋敷に戻り、駿府や朝比奈様らの軍を待つべきでは」
「間に合うまい。戸田らが動く方が早い」
言葉を返したところで、再び外が騒がしくなった。
今度は代官所の者ではなかった。
雨の中、少数の供を連れた偉丈夫が姿を見せた。
昔日、雲谷の話を持ってきた、朝比奈備中守であった。
備中守は濡れた蓑を外で預け、板間へ上がると、龍王丸を見てかすかに眉を上げた。
「やはり、ここにおられたか」
「備中守、いかがした」
「若君、戸田から厄介なものが参りました」
これも予想はできた。
「手出しするな、あたりか」
龍王丸が言うと備中守は、わずかに苦い顔で書状を差し出した。
「ご明察にございます」
書状は、雨に濡れぬよう油紙に包まれていた。
龍王丸は書状を開き、文面に目を走らせた。
戸田からの文面は柔らかく、丁寧だった。
このたび境目を騒がせて申し訳ない。
しかし、これは戸田家中、並びに東三河の不始末故、遠江へ迷惑はかけぬよう内々でおさめるように努めること。
駿河・遠江二か国の太守である今川修理大夫様のご家中ならば、そのあたりはよくお分かりくださるであろうこと。
どうか御心遣いは無用に願いたいこと。
今川は動くな、という意味に龍王丸は受け取った。
「福島兵庫殿のところにも、同じ趣旨の書が行っております。おそらく若君の代官所にも、今頃は届いているでしょう」
「用意周到だな」
龍王丸が言うと、備中守は頷いた。
「厄介なことに、外に出ても問題ない文でございます。だからこそ、先んじて参りました」
宮内が書状へ目を落とした。
「これで遠江が動けば、三河への野心を示したと見るでしょうな」
「正しいな、戸田は」
龍王丸はそう言った。
戸田はただ怒りに任せているわけではない。軍勢を動かしながら、こちらの足を縛る言葉も打ってきた。
東三河で信用ならない小国人衆をまとめているだけのことはあった。
小次郎が、備中守へ向き直った。
「備中守様、駿府からの知らせはありましたか。常であれば返りの文が届いてもおかしくございません」
「なしのつぶてだ。だが、駿府近くまで文が入ったらしいとまでは聞いている。しかし、返事はない。届いてなお、決められぬのかもしれぬな」
龍王丸は少し黙った。だが、驚きはしなかった。
懸念の範疇ではあったからだ。
徐々に氏親に権限を集めた今川は、動けば強いが、氏親が止まると判断すら止まりうる。
無論、駿府がまだ小勢力同士の小競り合いと認識していることも考えられる。
だが、現場では違う。
戸田の人数は二千、三千へ膨れ、牧野も引き込まれつつある。
龍王丸は表情を変えなかった。だが、背筋に冷たいものを感じた。
「駿府に急ぎ使者を出す」
龍王丸は言った。
「事の重大さ、戸田勢の膨れ上がり、牧野の合流。ここまで言えば伝わるだろう」
「しかし、三の使いを出しても、返事が戻る頃には」
小次郎が口を挟む。
龍王丸は、短く答えた。
「それでも出す。筋は通す」
間に合わないだろうとは思っていた。
それでも、出さねばならない。龍王丸が勝手に動いたのではないと示すためだけではない。
自分の頼みで動いた者たちが後で責めを負わぬようにするためであった。
遠江の火を防ごうとした者が、勝手に火を起こした者として裁かれる。それだけは避けねばならない。
そこで、外からまた別の声がした。
今度の声は、先ほどまでのものとは違っていた。
商人の不満でも、物見の報告でもない。
小者が戸を開け、顔をこわばらせたまま膝をつく。
「雲谷より、人が、使者殿が」
板間の空気が止まった。
小次郎が龍王丸を見る。
備中守は、手元の書状へ一瞬だけ目を落とした。
宮内は笑みを消した。
「宮内」
龍王丸が下座に移りながら言うと、宮内が静かに頭を下げた。
宮内は上座に座り、居住まいを直してから言葉を発した。
「入られよ」
転がるように入ってきた男は、使者というにはあまりに崩れていた。
泥にまみれ、裾は裂け、髪は額に貼りついている。雨だけではない。倒れ、這い、走ってきた者の姿であった。
書状らしきものは持っていない。持っていたとしても、ここまでの雨と泥で役に立たなくなっていただろう。
男は板間へ上がり、あちこちを見まわし、それから上座の宮内へ向かって平伏した。
「天野様、どうかお助けください。御料様に、今川様にお目通りを」
宮内は、ちらりと龍王丸を見た。
龍王丸は小さく頷いた。
宮内が一歩前へ出て、男の手を取った。
「おお、どうなされた。ご安心なされよ。ささ、宮内めに何があったかお話しくだされ」
宮内の声は、薄気味悪いほど柔らかだった。
小細工といわれればそれまでであるが、宮内が聞いたことにすれば、龍王丸はまだ正式には聞いていないことにできる。
握りつぶすことも、流すことも、かろうじて選べる。今はそういう細い逃げ道すら残しておきたかった。
転がり込んできた男は、龍王丸の内心を察するわけもなく、額を板につけたまま震えていた。
それから跳ねるように顔を上げて、言葉を発した。
「戸田、牧野勢が、館に攻めかかりました」
雨音が強くなる。
誰も口を挟まなかった。
「殿は、御料様、今川様のご慈悲にすがるほかないと。どうか、どうかお助けくだされ」
その声は、雨で掻き消えなかった。




