2章_8後
若い侍の命により、小さな蔵の扉に手がかけられる。
小者が押すと戸板が軋んだ。
湿った木の匂いと、米糠の匂いが外へ流れ出る。
中にいた者たちが、一斉に動きを止めた。
古い俵を抱えていた者。縄を結び直していた者。米粒を掃き集めていた者。皆、手を止めたまま、戸口の方を見ていた。
左近は、その顔色を見て舌打ちしたくなった。
露骨に怯えすぎている。
だが、叱ることもできなかった。
叱れば、かえって隠し事があると知らせるようなものだった。
「先ほど申し上げました通り、戸田様へ差し出す米を整えておりました」
左近はすぐ近くの古い俵を指さした。
蔵の奥の暗がりに意識が向けられぬように、何気なく戸田の者たちの目を逸らそうとした。
「見ての通り古い俵が多く、縄も緩んでおります。こんなものに米を入れては運ぶ途中で大半が零れ落ちましょう。
そうなれば戸田様へ失礼となりますゆえ」
年嵩の侍は、ふむと唸りながら、一歩横に踏み出した。
あ、と左近は思ったが、年嵩の侍はもうじろじろと蔵の中を見回し始めた。
年嵩の侍の視線が、蔵の中をぐるりと一巡する。
「なるほど言うておる通りか」
年嵩の侍のいささか不満そうな言葉に、左近はわずかに安堵した。
戸口近くには、古い俵が並んでいる。
そのいくつかは口を結び直され、戸田へ出す分として整えられていた。
すでに仕上がった俵の一部は、蔵の脇の荷置きへ移してある。
だから蔵の中に見える米は、左近が恐れていたよりも少なく見えた。
また乱雑な環境も左近に味方した。
床には米糠が散り、縄屑も、藁も落ちている。
忙しく作業をした汚らしい床が、戸田の侍らの無意識に踏み込むことを躊躇わせていた。
若い侍が眉を寄せる。
「たしかに思ったほど、ではありますな」
嫌味のつもりなのか、ただの感想なのか分からなかった。
だが左近には、ありがたい言葉にも聞こえた。
「今年は東三河一帯で出来が悪うございます。しかしながら、いえこういった時こそ戸田様へ出す分だけは何としても整えようと」
また喋り過ぎたかと左近は思った。
焦ると口が回りすぎるのが悪い癖でもある。
しかし、戸田の侍は今度は気に留めなかったようだった。
「ふむ」
年嵩の侍は、古い俵の一つに手を置き、軽く押した。
俵は凹みもせず、ただ中の米が音を立てる。
「なるほど悪い年にしては、よう整えておる」
「恐れ入ります」
「されど、これ以外に余りはほぼないか」
左近は頭を下げたまま、息を殺した。
通る。
このままなら、通るかもしれない。
年嵩の侍は帳面役へ目を向けた。
「約定の米は、出る。だが城普請の分まで急かすには、少々酷かもしれぬな」
帳面役が、筆を止めた。
若い侍は不満そうに口を曲げた。
「良いのですか」
「ほかの国衆から取るほかあるまい。雲谷が遅れもせず十全に出したといえば、此度は粛々と出そう。
以前足らなんだ分も上乗せすれば、普請の手付にはなる」
そんなものか、と若い侍が渋々引っ込んだ。
左近は、胸の奥で小さく息を吐いた。
「お見苦しきところをご覧に入れました。米の段取りにつきましては、座敷にて改めて」
早く外へ出したかった。
一刻も早く、この蔵から戸田の目を離したかった。
左近は小者へ目配せした。
戸口を閉める支度をせよ、という意味である。
図体だけは大きな男であるため、奥に立たせ視界を遮らせていた小者である。
だが、その小者が焦った。
慌てて動き出したため、大きな足が筵を被せていた箱にぶつかった。
筵はずれなかった。
だが、箱の中に重ねていた銭箱が鈍い音を立てた。
ごとり。
その音に蔵の中にいた者たちの顔が、一斉に強張った。
若い侍の目が、音のした方へ向いた。
「今のは」
左近は答えるのが一瞬遅れた。
その一瞬が、いけなかった。
若い侍は、左近の返事を待たずに奥へ二歩入った。
米糠、縄屑、藁も気にせず踏んでいく。
戸田の家中の者が、主の許しもなく雲谷の蔵へ踏み込んだのである。本来ならば咎めるべきだった。
だが、左近は咎められなかった。
「これはまた重そうな箱でござるな」
若い侍が筵の端を足で軽く押した。
するとそこから銭箱の角が、はっきりと顔を出した。
左近は喉を鳴らした。
「商人への払いにございます」
「出入りの行商にしてはずいぶん多く見える。この境目の蔵では、なかなか見ぬ額だ」
「無論山方へ渡す手付も含んでおります。今年は何をするにも銭が要りますゆえ」
年嵩の侍へは目を向けられなかった。
見ずとも、左近に訝しむ視線を投げかけていることが分かっていたのだ。
「銭が要るから銭があるか。なるほど雲谷の田は米ではなく、銭が取れるやもしれんな」
若い侍の声に、笑いが混じった。
左近は顔を伏せた。
怒ってはならない。
ここで怒れば、すべてが顔に出る。
「まさかそのような。借りた銭にございます。雲谷にこれほどの銭を生むものなどありませぬ」
「借りた銭か、何を差し出して借りたのやら。米の余力がない者に貸すものなどおるのか」
「余力の米を差し出して、借り受けたのでございます。諸々必要な銭のために」
「異な話よ、余力の米はないと先ほど雲谷殿の口から聞いたばかりだ」
若い侍は、そこで年嵩の侍を見た。
年嵩の侍は淡々と言った。
「当家のものがいろいろ申して申し訳ない。されど、聊か雲谷殿の言葉をそのまま受け入れるは厳しゅうございますな」
「戸田殿」
左近は思わず声を低くした。
年嵩の侍が、手をわずかに上げた。
若い侍は口を閉じたが、目は笑っている。
年嵩の侍は銭箱を見たあと、蔵の奥へ目を移した。
「雲谷殿、奥も見せてもらいたい」
左近の背が固まった。
「奥は、雑多な物を押し込めております。戸田様の御使いにお見せするようなものでは」
「雑多な物とは、何でござる。また銭でござろうか」
「まさかそのような。あくまで奥には商人預かりの荷や、山方へ渡すものだけでございます」
「ならば、見ても問題あるまいよ」
言い募ろうとした左近を年嵩の侍が制した。
そして静かな声で言い聞かせるように話し出す。
「我らは、ただ東三河の安寧のため、砦の普請が必要となったがゆえ、何をどれだけ出せるか。
それを見に来ただけにござる。そのように意固地になる必要はなかろう。」
では、なぜまず雲谷から見ようとするのか。
そんな言葉を発する前に、年嵩の侍が分かっているという風に続けた。
「無論、雲谷だけを苛むつもりは毛頭ござらん。しかし、普請に必要なものは変わらんのです。
あるところから取らねば、本当にないところからも取らねばいけなくなる」
わかってくださるか、などと言って年嵩の侍がしめた。
言葉だけなら、筋は通っていた。
だが左近には分かっていた。
これはもう、余力を見る話ではない。
何を隠しているかを見る話に変わっている。
「奥は、まだ片づいておりませぬ」
「構わぬとも」
年嵩の侍が言った。
若い侍が先に進もうとした。
孫八郎が、半歩だけ動いた。
左近は振り向かずに言った。
「動くな」
孫八郎の足が、じり、と音を立てて止まる。
左近は、自分で奥へ歩いた。
せめて自分が先に立たねばならなかった。
戸田方に勝手に筵をめくられるよりは、まだましである。
左近は息を殺しながら、そっと蔵の奥へと歩を進める。
蔵の奥は、確かに手前より暗かった。
だが、目が慣れてくると、隠したい物は、嫌というほど暗がりの中で目についた。
まず遠江の木綿が目に入る。
畳んではある。ある程度は奥へ寄せてある。それに量が多い。
わざわざ手に取らずとも、雲谷で普段見る粗布とは違い、丁寧に織られていることが分かった。
薄暗い質素な蔵の中で、そこだけ白く浮いて見えるほどだ。
そのことに、やはり若い侍が、すぐに気づいた。
「よい木綿でござるな」
左近は答えなかった。
「雲谷で織ったものではあるまい」
「商人より預かったものにございます」
「預かってなんとする。商人もこれだけの品を安々と人の蔵には置くまいよ。
いや、雲谷殿が商人たちより信用得ているというのであれば、おかしくはないことよ」
嫌味だった。
だが、言い返せなかった。
年嵩の侍は、木綿にはすぐ触れなかった。
ただ、目で量を数えるように見、それから穏やかに口を開いた。
「これだけあれば、普請の者へ渡すにも使えよう」
「これは返す先のある荷にございます」
「預かりものゆえ、返す先があるか」
年嵩の侍と目が合った。
蔵に入ってからは初めてのことだった。
「とするならば、どこへ返す」
左近は答えようとした。
無論出まかせだ。
顔見知りの商人、付き合いのある国人、いっそ貴人の名前でも上げようかとすら思った。
だが、言葉が出てこない。
焦ると口数が多くなり、襤褸が出る自分の癖が怖かった。
「それは、商人筋にございます」
それゆえに、かろうじて、そう言った。
若い侍が鼻で笑った。
年嵩の侍は咎めもせず、重ねて問う。
「雲谷出入りの商人か、してどこの何屋に返す」
左近の頭にいくつも名前が浮かんだ。
西木屋、これはだめだ。戸田と関係が深い。
扇屋、これもいけない。たまたま知った近江商人の名など上げてどうする。
なんと答えるべきか、押し黙っていると若い侍が嘲るように言った。
「なるほど商人筋とは便利な言葉よ」
その時、帳面役の足元で音がした。
かさりと何かを踏み潰す音だった。
戸田の侍らが目を向ける。
左近も見た。
それは小さな荷札の切れ端だった。
おそらく、御料の俵から外したものだ。
奥へ片づける時に、誰かが落としたのだろう。雑に丸められており字のすべては読めない。
だが、紙片の端に書かれた、龍王丸、の大きな字だけは今なお明確に読み取れた。
左近の口が動いた。
「それは」
上擦った、悲鳴のような声だった。
左近は、どうにか笑おうとした。
だが頬が動かなかった。
「古い札にございます。何のものかも分かりませぬ」
「まだ拾ってもおらぬ。しかし、何か名前が見える」
年嵩の侍が静かに言って、帳面役に目配せした。
帳面役が、荷札の切れ端を拾う。
指で米糠を払い、目を細めた。
若い侍が身を乗り出した。
「何とある」
帳面役はすぐには答えなかった。
目が悪いのか顔の前で紙片を行き来させる。
その間の沈黙が、左近の胸を締めつけた。
年嵩の侍だけは、戸田の侍らのやり取りの間、、荷札ではなくその奥を見ていた。
そのことに左近は一歩遅れて気が付く。そして年嵩の侍の視線の先を追った。
木綿のさらに向こう、雑に積まれた俵の列である。
古い俵の中に、いくつかだけ縄の具合が違うものが混じっている。
未だ手を付けていない御料の俵であった。
必死に奥へ寄せ、陰に隠したはずだった。
だが、隠しきれていない。
年嵩の侍が、ゆっくりと口を開いた。
「雲谷殿」
静かな声だった。
「あの俵は、どこより来た」
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年嵩の侍の声は、蔵の中ではよく通った。
だが、左近は答えられなかった。
口の中が乾いていた。舌が上顎に張りつき、喉の奥だけが小さく鳴った。
遠江の商人より、そう答えたかった。
ただ、そう答えればまた突かれて襤褸が出てしまう気がした。
それにあの俵は御料の御用で使われるものだ。
商人が三河国人に渡すという筋は奇妙に思われた。
業を煮やした若い侍が、帳面役ではなく直接俵の方に進み出る。
俵にまだついていた荷札を乱暴にはぎ取った。
「おやめを」
左近はかすれた声で制止したが、誰も止まらない。
若い侍は薄暗い蔵の中で目を細め、そこに残った墨の跡を読んだ。
「間違いない、龍王丸、とあるな」
蔵の中の空気が、はっきりと変わった。
小者たちは息を止めた。
孫八郎の肩が、わずかに上がる。
左近は、それを見ないようにした。
甥がどのような表情か見れば、雲谷の行き先が定まってしまう予感さえした。
「た、足りなかったのでございます」
誰に問われるより先に、左近の口が動いていた。
言い出してから、止められなかった。
「今年は、米が足りませなんだ。戸田様へ差し出す分も、村に残す分も、山方へ回す分も、どれも足りぬ。
ゆえに、若君御料に、いえ、御料に出入りする商人より、いくらか借り受けたまでにございます」
言ってしまった。
若君御料と。
年嵩の侍の眉が跳ね上がったので、慌てて商人と足した。
だが、もはや何の意味もなかった。
「雲谷、そなた」
年嵩の侍が目を細めた。
この古武士は、物わかりのよさそうな顔をもうしていなかった。
「今川などへ付くことはございませぬ。戸田様に背くなど毛頭ありませぬ。ただ、今年を越すため、商人を介して借りただけにございます」
年嵩の侍は何も言わなかった。
ただ左近を見ている。
若い侍だけが、薄く笑った。
「借りた、借りたというが、御料に出入りする商人とは、ずいぶん太っ腹なものよな」
左近は顔を伏せた。
「米を貸す。銭を貸す。木綿まで預ける。しかも、雲谷のような三河の小身にだ」
若い侍は、荷札をひらひらと振った。
「御料の商人とは、そこまで慈悲深いものか。米が足りぬと言えば米を出し、銭が要ると言えば銭を出し、木綿まで都合してくれる。
雲谷殿は、よほどよい顔をしておられる」
若侍がそこでふと気が付いたようだった。
揶揄するような笑みは引っ込み、一転して真剣な面持ちになった。
「いや、そなたもしや、借りたのではなく御料から奪ったか」
左近はぎょっとして顔を上げた。
まずい流れになっていた。
奪ったといえば銭や米ではなく、命の話になる。
遠江のもの、それも今川御曹司の領地のものに手を伸ばしたのだ。
今川に責められる口実は作りたくない戸田である。
左近の首ぐらいは簡単に差し出すかもしれない。
「奪ってなどおりませぬ。借り申した、借り申したのでございます。あ、証も」
その言葉を発してから、左近はまたも自分の失言を理解する。
「証とな」
年嵩の侍の唸るような声が響いた。
左近の喉が詰まった。
ここで止まればよかった。だが、焦った口はまた勝手に動いた。
「しょ、商人の借り受けの証にて」
年嵩の侍と若い侍が顔を見合わせた。
帳面役は、筆を持つ手を止めたまま、左近を見ている。
「よい。では、見せてもらおう」
年嵩の侍が言った。
「今ここにはございませぬ」
左近は咄嗟に時間を稼ごうとした。
子供のような言い訳に、自分でも嫌気がさした。
「事の次第では大事になる。商人の借り受け証とやらを、すぐさま見たい。どこだ」
「座敷に控えが」
左近の口からまたも出まかせが飛んだ。
座敷にはない。
蔵の奥にある。木綿の後ろに押し込めた小箱の中である。
借り受けの一筆の写しは、そこにしまわせた。
すぐに見つからぬよう奥へ押し込めたはずだった。
しかし、嘘を言いながらも、左近の目は勝手に動いていた。
木綿の後ろ側の煤けた小箱に、ほんの一瞬だけ視線をやってしまった。
年嵩の侍は、それを見逃さなかった。
「ふむ」
それだけを言い、帳面役へ目をやる。
大きな仕草ではない。顎をわずかに動かしただけだった。
だが帳面役は、それだけで十分だったらしい。
帳面を脇に抱え、ゆっくりと蔵の奥へ進もうとした。
左近は一歩前に出た。
「そこは、雲谷の内々の物にございます」
「もうよい雲谷殿。そなたの言葉ではなく、物を見る」
年嵩の侍が言った。
「これ以上の問答は無用のようだ。米や材の話ではもはやない。
分かろう。借り受け証とやらを見ない限り、我ら戸田としても安心できんのだ」
雲谷を預かる側として、今川が戦を仕掛ける口実を作っていないか確かめる。
理屈は通っていた。
通っているからこそ、左近は了承できなかった。
この状況で今川との盟約を匂わせるものなど出せるわけがない。
そして、小箱の中の借り受け証こそが、今川との関係を示すものだったからだ。
帳面役がさらに一歩進む。一塊になった木綿をどけようと手を伸ばした。
「触るな」
声を発したのは、左近ではなかった。
孫八郎である。
蔵の中の者たちが、いっせいにそちらを見た。
孫八郎は半歩前に出ていた。手はまだ刀にかかっていない。
だが肩は張り、顎は上がり、目だけが若く燃えていた。
「孫八郎」
左近は低く呼んだ。
「下がれ」
「伯父上、もう勘弁なりませんぞ」
「下がれと言うておる」
孫八郎は下がらなかった。
若い侍が、荷札を握ったまま、孫八郎へ顔を向ける。
「何だ、小僧」
「戸田の侍ども、汚い手で雲谷の蔵に触れるな」
「たわけ。雲谷の貧相な蔵にあってはならぬものがある。それゆえ見分するのだ」
「戸田風情が、雲谷を見下すな」
孫八郎の声が硬くなった。
若い侍の頬が、ぴくりと動いた。
年嵩の侍の顔から表情が消えた。ただ、左近を見ている。
何が言いたいかは重々承知であった。
年嵩の男は、甥への罰と詫びを求めている。
左近は歯を食いしばった。
「孫八郎。退け」
「退けませぬ」
「退け」
「もう、退いて済むところではございませぬ」
その言葉に、左近の腹の底が冷えた。
孫八郎がもう別のところを見ていると分かったのだ。
左近が必死に言い訳し頭を下げ、戸田の容赦を願っている間に、孫八郎の心は決まっていた。
荷札を見られた。御料の俵を見られた。木綿も銭も見られた。
借り受けの証まで見られれば、戸田へ戻る道などない。
若い者らしい、逃げ道のない結論だった。
「退かぬなら、退かせるぞ」
若い侍が言った。
孫八郎は答えなかった。
帳面役は足を止めている。
小者たちは壁際で固まっている。
左近は、やめろ、と喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
止めてどうする。甥を罰して元通りか。
いや、それも違う。蔵の中の空気は決して元に戻らない。
「聞こえぬか」
若い侍の手が伸びた。
刀へ伸びたのではない。まずは孫八郎の腕を掴み、脇へ退けようとしただけである。
乱暴ではあったが、斬る動きではなかった。
同じ三河の国人、それも戸田に従う者へ向ける無意識の手心が、そこにはわずかにあった。
だが、張り詰めきっていた孫八郎には、そう見えなかった。
その手は、自分を押さえる手ではなかった。
蔵の奥を暴き、雲谷の逃げ場を奪い、ついには己の命まで掴みに来る手に見えた。
孫八郎の肩が、わずかに跳ね、その手が柄へかかった。
腰が沈み込み、鞘走りの音が響く。
白刃が躍った。
降りぬかれた刃に赤いものが伝っている。
若い侍がうめきながらも、転がり距離をとった。
孫八郎が追うが、若い侍の方が早かった。
即座に刀を抜き、切っ先を向けた。
若い侍は致命傷ではなかった。
胴を袈裟に切り上げられ、衣服に血を染み込ませているが、動きに支障はないようだった。
おそらく、片手で放たれた抜き打ちでは、臓腑には刃が達していなかったのだ。
「斬ったな」
若い侍が低い声で言った。
切り合いに際して、先ほどまでの慇懃で嫌味な態度など影も形もなかった。
荒々しい若武者がそこにあった。
「小僧、斬ったな」
いかん、と左近は思った。
しかし、自分に若武者を止められるないと思い、年嵩の侍の方を見やった。
どうにか止めてくれないか、そんな思いがあった。
だが、その期待は無残に打ち砕かれた。
年嵩の男は突如始まった切り合いに思考を停止していた。
足が半歩下がり、腰が引け、口を開閉させるだけだ。
先ほどまで蔵の中を静かに支配していた古武士の顔から、色が抜けていた。
ああ、なんだこういう男だったのか。と左近は小さな失望と共感を覚えた。
年嵩の男は人の蔵を見分し、弱みを詰め、言葉で逃げ場を塞ぐことはできる。
だが、想定外のこと、危難が訪れると何もできない。
自分と大して変わらない小さな男であった。
そして、こうなると左近は動けなくなった。
いまだ、戸田に味方するか、今までの方針を変えるべきかの決断が付いていない。
にもかかわらず、ここからの一挙手一投足で行く先は決まる。
左近の懊悩と胃痛はここに極まりつつあった。
しかし、事態は左近の懊悩を考慮などしない。
動いた者がいた。
それは孫八郎でも、若い侍でもなかった。
皆の意識から外れ、そろそろと下がっていた帳面役である。
孫八郎と若い侍のにらみ合いが続く中、その数息の止まり目を、帳面役が見つけた。
帳面役は、誰も自分を見る余裕がないと思ったのだろう。
抱えた帳面を胸に押しつけ、戸口の方へ走り出した。
先に気づいたのは孫八郎だった。
「伯父上っ」
左近は、はっとして孫八郎を見た。
「逃げますぞっ」
帳面役の足が止まる。
若い侍の目も一瞬だけそちらへ動いた。
左近の胸の内で、何かが切れた。
「止めろっ。誰でもよいっ」
叫んでいた。
殺せ、切れと言わなかったのは左近の迷いからだった。
逃がすとことが悪化するのは予見できた。
では、かといって戸田の者の命を奪うことも決断できない。
ただ、口が勝手に動いた。
その左近の命を聞き、壁際にいた小者の一人が弾かれたように動き出した。
蔵の隅に立てかけてあった短い槍を掴む。
帳面役が顔を引きつらせ、腰の小刀へ手をかけた。
「寄るな」
帳面役の腰はやはりひけていた。
今まで切り合いは勿論、下手をすれば刀を抜いたことすらないように思えた。
両の手で拝むように持たれた小刀。その切っ先が震えていた。
「寄るなっ」
突き付けられた槍に恐怖が高まった帳面役が、奇声を上げ、滅茶苦茶に小刀を振り回した。
突然の錯乱に小者が半歩下がった。
帳面役が駆け出した。転がるような勢いで、小者の脇を抜けた。
「止めろ、何でもいいっ。外に出すなっ」
左近はもう一度言った。
槍を構えた小者はまたも命令に従った。
槍を突き出したのだ。
狙いは定まっていない。足も震えていた。
また蔵は狭く、帳面役は無防備な背中をさらけ出していた。
槍先が、帳面役の背に入った。
帳面役の目が大きく開いた。
帳面が腕から滑り落ち、紙が米糠の上に散る。
男は何かを言おうとした。
だが声にはならず、口から濁った息だけが漏れた。
そのまま戸口の方へよろめき、戸板に肩をぶつけて崩れ落ちる。
帳面役の遺体を見て、蔵の外で、短い悲鳴が上がった。
「おのれ、雲谷。図ったな」
左近の意識が帳面役に向かった時、孫八郎と若い侍の対峙も終わっていた。
孫八郎と若い侍が同時に動いた。
少なくとも、どちらが先に踏み込んだのか、左近には分からなかった。
刃がぶつかる音がした。
つばぜり合い。抜けたのは孫八郎だった。
若い侍の体は崩れている。その隙へ、孫八郎の刀が入った。
肩口から首筋へ、赤い筋が走った。
若い侍も声を出さなかった。
ただ目を見開き、膝から崩れ落ちていった。
誰も動かなかった。
帳面役は戸口で動かない。
若い侍は俵のそばに崩れている。
小者は槍を持ったまま、何をしたのか分からぬ顔で固まっていた。
孫八郎は肩で息をしている。刀の切っ先が震えていた。
そして、年嵩の侍だけが残っていた。
年嵩の侍は、半歩下がったところで壁に背をぶつけていた。
腰の刀には手がかかっていない。
抜けば死ぬと分かっているのか、抜くという考えに届いていないのか。
いや、きっとこの男も自分と同じだ。
与えられた責務を果たそうとしたが、それがとんでもない方向に転がり動けなくなったのだ。
「伯父上」
孫八郎が言った。
声は荒れていた。
だが、もう泣き声ではなかった。
「斬るべきです」
年嵩の男が震える。
左近は孫八郎を見た。
「残してどうなされる。こやつが戻れば、雲谷は終わりですぞ」
年嵩の侍が、左近が何事か口走る前に言葉を発した。
弱く、震えた声だった。
「待て、雲谷殿」
先ほどまでの静かな調子ではなかった。
「ま、まだ間に合う」
年嵩の男はゆっくりと壁に手を駆けながら、立ち上がろうとしていた。
上擦った声で喋りながら、話す内容を考えているようだった。
「若い者同士の刃傷沙汰だ。戸田本家も、騒ぎを大きくはすまいよ。
そなたの甥が血迷ったが、こちらの若い者も刀を抜いた。双方悪いところがあった。
それに雲谷を責め立てた帳役も、騒ぎの中でそう、騒ぎの中で死んだ」
年嵩の侍の中では、雲谷を執拗に責めたのは帳面の男になっているようだった。
左近が口を挟む間もなく、年嵩の侍は唇を震わせながらも言葉を重ねた。
「拙者が口を利く。戸田本家へも、雲谷が即座に背いたとは言わせぬ。
御料の荷のことも、借り受けのことも、まだ筋を立てる余地はある。いや、拙者が筋を立てよう」
左近は聞いていた。そして考えていた。
確かにこの男を生かして返し、戸田に容赦を願えば筋が立つかもしれない。
無論、この男が約束を守ればの話だ。当然そんなことはないだろう。
では斬るしかないのか。しかし、斬ってどうするのだろう。
気に入らぬ者、頭を抑えるものを切って雲谷を大きくする。
少なくとも武士らしい生き方ではある。だがそんなことができたら日和見などしない。
どちらの道も妥当のように見えた。しかしどれも行き詰まりが見えた。
その時、外で馬が大きく嘶いた。
続いて、蹄の音がした。
一つではない。地を蹴る音が、館の外へ向かって遠ざかっていく。
左近は、すぐには意味が分からなかった。
小者の一人が、戸口の外へ顔を出し、青ざめて戻ってきた。
「殿」
その声で、左近はすべてを悟りかけた。
「戸田の供が、馬で」
小者の唇が震えている。
「逃げました」
蔵の中が、静まり返った。
そうだ、すっかり左近の頭から抜け落ちていた。
戸田の侍らは蔵の近くに供を寄せていた。
受け取った米や材を速やかに運ぶための処置だったのだろう。
しかし、蔵から転がってきた帳面の男を見て、異変を察知したのだ。
年嵩の侍が青い顔で震えた。
孫八郎が歯を食いしばる。
槍を持つ小者が、ようやく自分の手元を見て震え始めた。
左近は、蔵の中にある二つの死体を見た。
そしてそれから蔵の奥にある、御料から受け取った品々を見た。
それらは今年を越すために借りたものだった。
ただ、それだけのはずだった。
左近は、胸の奥で呟いた。
ああ、もうどうにもならぬ。




