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2章_8前

朝比奈備中守の言葉に龍王丸は思い当たる節がなかった。

後ろめたいことはあった。大河内のこと、またそれに付随する旗の件だ。

だがそれと朝比奈の急な来訪が結びつかない。

知らせが朝比奈の居城に飛び、それから朝比奈が駆け込んでくるにしても、昼頃のはずだった。


「大河内の件で話したいこともあったが、別件か」


龍王丸が言うと、備中守の目に咎めるような色が浮かんだ。

備中守は息を深く吐いた。


「どうやらそちらも聞かねばなりませんようです。しかしながら、済んだことのようですな」


備中守は、龍王丸の手に巻かれた白布を見た。

何か言いかけたが、飲み込んだ。またか、などという呆れ顔だった。

おそらく夜道で転んだなどという言葉は取り合わないだろう。


備中守は少し宮内、玄蕃、護衛らを睨みながら一歩よった。

それから小さくささやいた。


「御料より、東三河境目へ荷が出ております」


龍王丸の目が東に向いた。

それで察したのか宮内の顎へ添えられていた指も、わずかに動きを止める。

事情を知らぬ小次郎も、空気の変化を読み取り眉を寄せた。

玄蕃だけが、不安げに三人の顔を見比べていた。


「どこへ」


「雲谷でございます」


「雲谷」


龍王丸はその名を口の中で転がした。


三河と遠江の境目にある小勢力である。

東三河の有力者である戸田に顔を向け、牧野にも礼を欠かさない。

だがかと言って今川にも完全には背かない。

山と道と小さな館を持つだけの家だが、生き残れるように常に気を張っている。

境目ではそういう小さな家ほど厄介だった。

どちらかへ深く付く力はなく、どちらからも完全に離れる度胸もない。


「流れたものはなんだ。木綿だけではあるまい」


「木綿が多いようですが、ちと今回は多岐にわたりますな」


備中守が目録を差し出した。

木綿。荷布。材木手付や船手の銭。そして米数十石。


「返済はいつも通り材木、人足、荷役か」


備中守が頷く。


「加えて普請にも人を出し、それらをもって返済に充てるとのことです。こちらが雲谷の一筆にて」


龍王丸は後ろで遠慮がち、それでいて訝しげな小次郎に視線を送った。

小次郎は身なりを整え、一歩前に出た。


「駿府方の意見も聞きたい」


「良いのですか」


駿府方に微妙な代官地のつながりを伝えてもよいか、ということだ。

堅物の色があった朝比奈備中守もここ数年で柔らかくなった。

龍王丸の立場にそれとなく気を遣うことも多い。


「構わん、後で説明するのも手間だ」


小次郎の信用を失っている自覚はあった。ならば現物を見せたほうが早い。

備中守の持ってきた控えを見た、小次郎の顔がにわかに険しくなる。


指で紙面をなぞり、一つの項目で止まった。


「これだけの米、外に出すのですか。もはや兵粮では」


「名目は違う」


龍王丸はすぐに答えた。


代官地から外へ米や荷布が出ること自体は、珍しいことではなかった。


遠江を収めるには、蔵に米を積むだけでは足りない。

山方を動かし、船手をつなぎ、商人に紙を見せ、時に国人の窮乏へ米を貸す必要がある。

そうして人と荷の流れを切らさぬことが、龍王丸の御料では、いつしか一つの役目になっていた。


駿府も、それをまったく知らぬわけではない。


ただし、知っているということと、分かっているということは違った。

おそらく駿府が知っているのは、若君御料が遠江を荒らさぬため、米や荷を融通しているという大枠だけである。

どの国人へ、どれほどの量が、どの紙とともに渡っているのか。

そこまでは、留守居や蔵役の控えが上がってこなければ分からない。


「筋の上では、ただちに咎とは申せませぬ。ですが、やはり量が引っ掛かります」


小次郎の言葉どおり、駿府方も明確な線引きをまったく持たぬわけではない。


小口の貸米や荷の取り次ぎならば、留守居と蔵役の判断のみで行っても支障はない。

ただ、国境に近い国人へまとまった荷を出す時は、いらぬ疑いをかけられぬように一筆を取る。

さらにそれが、兵粮に見える量の米、あるいは大きな銭であれば、今川重臣へ控えを送る。

武具、矢、軍勢扶持に直結するものは、原則として出さない。


雲谷への荷も、その形だけは踏んでいた。


今までは少なくとも。


「米だけでも数十石はさすがに多いか。定めどおり控えはとっているか」


「控えはこちらへ届いております。手続きに瑕疵はございませぬ」


朝比奈はそう言ってから、わずかに口元を引き結んだ。


「ただ、聞いた話、相当雲谷は焦っていたと」


龍王丸は黙った。


正直、少量の米や銭だけならまだよい。

窮乏した境目の小勢力へ飯米を貸した。材木で返させる。人足で返させる。

それならば言い訳は立つ。

駿府にも、遠江の安定のためと申し開きできる。

おそらく雲谷も周囲にうまく言い訳はできるだろう。


だがあまり多い米や銭束が雲谷に流れ込んだ。

それらは代官地のものとわかる俵や銭箱に入っている。


もし雲谷がうまくさばけなければ、周囲の国人衆に現物を掴まれると問題が起こる。

東三河の境目に今川が手を伸ばし、陣営に組み入れようとしている形に見えるのだ。


「雲谷は、今どこに与していた。変わらず戸田か」


「は、昨年と変わらず戸田の影響下にございます。されど牧野にも通じておるようです」


「今川へはどうだ。味方するなど明確に言ったか」


備中守が苦笑いをした。


「決してそのようなことは言いますまい。ですが油断させようという腹も見られません」


いかにも境目の小家らしい、と龍王丸は思った。


誰にも背かない。

誰にも深く付かない。

そのくせ、困ればどこからでも米を借りる。


それが生きる術であることは分かる。

だが、術は使う者の手に余ることがある。


龍王丸は、夜明け前の薄い空を見た。

大河内を収めたばかりの頭には、まだ泥が残っている。手の傷も疼く。

だが、今のやり取りで眠気は消えた。


「雲谷には、もう荷が入っているか」


「はい、船と馬も借りていきました。明朝には蔵に収まるでしょう」


「戸田か牧野はこの動きをつかむか」


「そこまで雲谷が杜撰とは思いませぬが、如何せん目立ちます。いずれ餓えた百姓らの口から伝わるのは防げますまい」


朝比奈はそこで言葉を切った。

小次郎が写しを睨みながら言う。


「ご存じと思いますが、戸田らは殺気立っております。この状況で露見すればよからぬことになりましょう」


戸田、牧野の警戒。

これも龍王丸は自分の責任が大きいと考えている。

代官地が繁栄する中で、三河から餓えた民が流れてこみ、東三河の内情が望まずとも手元に集まりだしていた。

商人たちや人足たちは戸田、牧野の支配圏内を熟知しており、龍王丸がその気になれば進軍の計画をその日のうちに完成できた。

当然、戸田、牧野らもこのことを承知である。


「戸田と牧野が節穴であることを祈るか」


龍王丸は言った。

宮内が横目で龍王丸を見た。


「若君」


「冗談だ」


冗談ではなかった。見られずに済むなら、それに越したことはない。

しかし見せずに済ませるには、すでに動きすぎていた。


「備中守」


「は」


「控えを持ってきた者は」


「留守居方の者にございます。今は陣の内に留めております」


「休ませよ。責めるな。手続きに抜けはない」


備中守が頭を下げた。

宮内を呼ぶ。柔和な顔でまた顎を撫でている。


「宮内、雲谷へ人をやる。荷の名目、返し方、蔵に残っている物を改めさせろ。戸田に見られる前に、少なくとも紙だけは整理させたい」


「さて、間に合いましょうか」


宮内がちらりと玄蕃を見た。帳簿に穴がある状況で、どこまでできるかということだ。

当然、玄蕃は気が付いていない。


龍王丸は答えなかった。


間に合えばよい。だが、間に合わぬことの方が多い。

雲谷の領地は山谷や泥地に囲まれ、その地を知っているものでも馬を駆けるのが難しい。

おそらくだが、大河内の一件同様、手遅れになる予感がした。


「雲谷左近という男には中々会えないでいる。備中守は左近をどう見た」


ふと龍王丸が問うと、朝比奈は少し考えてから答えた。


「意図的に若君を避けるあたりいかにも小国人ではあります。されど悪人とは言い切れませぬ」


「ならば厄介だな」


宮内が苦笑した。


「悪人なら、斬れば済みますからな」


龍王丸は笑えなかった。

悪人ではない者ほど、時に始末が悪い。

己のしていることを大事とは思わず、ただ今年を越すために少し借りる。

少し隠す。少し先延ばしにする。その少しが、境目では火種になる。




------



朝の光が、ようやく陣の端を白くし始めていた。

だが、その光が届くより少し前、東三河の雲谷館では、雲谷左近が蔵の中で長く黙っていた。


蔵は空ではない。米俵がある。銭箱がある。遠江から来た木綿もある。

ざっと目だけで数えても、今年を越すだけの物はあるように見えた。


だが、左近にはそれが自分のものに見えなかった。


頭の中で一族に必要な最低限の分、払いとして差し出す分を差し引くと蔵の物が半分程度になる。

そしてそこから戸田に差し出す分を差し引けば、蔵の中にはほとんど何も残らない。

いや、雲谷の百姓から集めた米があった。

事前に分けていた俵に触れてみると、左近は思わず吐き気がした。

雲谷の百姓から集めた米は、見た目よりもずっと軽かった。俵を持ち上げれば、藁ばかりが鳴った。

これでは商人に待ってもらっている支払いすら足が出るだろう。


そして左近は息を吐きながら、目に入れないようにしていたそれに触れた。


それは若君御料から来た木綿と銭である。


木綿は新しく、目が詰まり、雲谷で見る粗布とは張りが違った。

また銭箱は、いくつも重ねられ、そこだけ床板を沈ませているように見えた。

それらは、そこだけ空気が違って見えた。


確かに左近は、これらを運んでいる最中、度々胸の内を撫で下ろした。

これで百姓を逃がさずに済む。これで山方へ顔が立つ。これで人足も、材木も、冬の口までどうにかなる。


しかし今となっては、背の裏が冷えた。


薄暗い蔵にあっても、木綿と銭はあまりに目立つのだ。

目端の利く人間ならば、一目で気付くほどに。


「殿」


蔵口に控えていた小者が、遠慮がちに声をかけた。


「戸田様へ出す米は、古い俵へ移しております」


「いくつ済んだ」


「まだ半分ほどにございます」


戸田に渡す分だけでも、米は三十俵ほど必要だった。

ただ御料の俵の口を解き、古い俵へ米を移せば済む話ではない。

古い俵を整え、縄を替え、口を結び直すところから始めなければならないのだ。

周囲に秘するため一部の人間しか使えないので、作業の速度は上がらない。


「急げ」


左近は言った。


「御料の俵は一つも表へ出すな。空いた俵も束ねて奥へ入れろ。木綿は畳んで蔵の奥へ寄せろ。銭箱には布をかけておけ」


「いっそ俵は焼きますか」


「焼くな」


左近は即座に言った。

いや、焼けと言ったつもりだった。

しかし、質の良い俵を見て言葉が変わっていた。

あれも売れば銭になる。御料方も、俵まで焼かれては面白く思うまい。


「とにかくまず米だけだ。戸田へ出す分だけ、古い俵へ移せ。木綿と銭には触るな」


「それはよいですが、木綿も銭もこのままですか」


木綿も銭も蔵にあるが、隠しきれてはいない。

狭い蔵の中では隠すのは難しかった。


「見えぬところへ寄せろ。いや、筵でもかぶせろ」


そもそも雲谷の蔵は寂しい。

御料の物しか入っていない状況で、御料の物を隠せる物がないのだ。


「しかし、戸田様が蔵を改めると言えば、筵などかえって目立ちませぬか。仮に筵の下を尋ねられれば、なんと申します」


左近は答えられなかった。

それを言われれば終わりだった。


米はごまかせる。銭も、まだ商人から借りたと言えるかもしれない。

だが遠江木綿と御料の俵。それに借り受けた際に残した一筆の写し。

これらが同じ蔵から出れば、雲谷が今川とつながっているように見える。


実際には、つながったつもりなどなかった。


戸田に背く気はなかった。

牧野を捨てる気もない。

今川へ付くつもりもない。


ただ、今年だけ越したかった。


百姓が税は払えないと逃げる。山方は銭がもらえぬと動かぬ。

戸田は城を建てると普請を急かす。そのうえ牧野にも礼を欠かせぬ。


だから左近は米を借りた。銭を借りた。木綿を借りた。

当然返し方も書いた。

材木で返す。人足で返す。荷役で返す。

今川を、あの御料を怒らせぬように筋は通したつもりだった。


だが、蔵の中に積まれた物は、左近の事情など知ったことかと目立ち続けている。


「伯父上」


蔵の外から、若い声がした。


左近は振り向いた。

甥の孫八郎が、片膝をつくでもなく、戸口に立っていた。

まだ二十にもならないが、肩だけは強く、目つきだけは武者らしい。

だが、泥を飲むということを知らぬ男だ。


「また蔵でございますか」


「見れば分かろう。これも領主の仕事なのだ」


「それはよろしゅうございますが、結局、米は足りるのでございますか」


嫌なことを言う甥であった。


「足りるようにした」


「御料の米を借りて、ようやくですが」


左近は孫八郎を見た。


孫八郎は口を噤んだが、目は伏せなかった。

近頃の若い者たちは、御料のことを見て育っている。

かつて今川憎しで固まっていた天野、大河内らの土地を差配し、田畑を戻し、商人たちの心を掴んだあの御料をだ。

ゆえに三年の間に遠江でも指折りの富を築いた者と比べ、戸田に頭を下げる左近を弱いと思っている。


「借りて何が悪い。返し方を含め向こうも承知だ」


「しかし、これでは雲谷は徐々にやせ細りましょう。戸田に振り回され、銭と米ばかり出ていく」


「何が言いたい」


いや、問わずともわかっていた。

孫八郎は向こう気の強そうな顔で言ってのける。


「いっそ、借りた先へ顔を向けるべきではございませぬか。これだけのものを貸すのですから、向こうもそれを期待しているはずです」


「黙れ」


声を荒げたつもりはなかったが、蔵の中で低く響いた。

孫八郎の頬がわずかに強張る。


「銭や米の貸し借りと、今川へ付く付かないは関係がない。御料は戸田を捨てろとも、牧野へ弓を引けとも言わん。此度の一件は米と銭を借り、材と人で返す。それだけだ」


「それだけ、と戸田は見ますまい」


左近は答えられなかった。


孫八郎の言葉は若い。だが、間違いではない。

戸田がこの蔵を見れば、米や銭を借りただけとは思わないだろう。

ちょっと借りる程度の量ではないのだ。必ずや今川の手先になったと疑われる。


だからこそ、


「見せねばよい」


左近は自分に言い聞かせるように言った。


「米は古い俵へ移して、戸田には求められた分を出す。御料の俵は奥へ隠す。木綿と銭は戸田の目に触れさせぬ。そうすれば咎めは受けぬ」


「今川への借りは大きいですが、返せますか。武功で返すというのも」


「若君御料には、来年きちんと返す。返し方は人と材。武功などというあやふやなものではない」


孫八郎は唇を歪めた。


「左様でございますか」


「そうだ、何も問題はなかろう」


「ええ、伯父上だけが、少しずつ皆に背いていることに目をつぶれば」


左近の手が動きかけた。

この甥を打擲し、現実を見ろと言って黙らせたかった。

しかし手は動かさなかった。

孫八郎は黙るだろうが、蔵の奥の木綿と銭は消えない。

そのうちにやってくる戸田の使いも消えてくれないのだ。


その時、表で馬の声がした。


ああ、と左近は項垂れた。

小者が走り込んでくる。息が乱れていた。顔色も悪い。


「殿」


「何事だ」


予想がつくことだが、聞かねばならなかった。


「戸田様より、御使いにございます」


左近は、一度だけ蔵の奥を見た。


若君御料の俵はまだまだ残っていた。

木綿の束も、銭箱もそのままだ。

どれも片づけるには多く、焼くには惜しく、隠すには目立ちすぎた。


孫八郎も同じものを見ていた。


「蔵を閉めろ」


左近は言った。


「戸田の使いには、まず座敷へ通せ。茶を出せ。すぐには蔵へ近づけるな」


小者が頭を下げて走る。


左近は袖を払った。手のひらに、知らぬうちに米糠が付いていた。

拭っても、白い粉は指の皺に残った。


「孫八郎」


「は」


「余計なことは言うな」


孫八郎は返事をしなかった。


その沈黙が、左近には戸田の使いよりも重く思えた。


----


戸田の使いは、侍二人と帳面役一人。

いや、館の外に人足と小者らしき影が幾つか見えた。


左近は座敷へ出る前に、もう一度だけ手を拭った。

蔵でついた米糠が、指の皺に白く残っている。

袖でこすっても落ちきらないそれが、どうにも腹立たしかった。


座敷には、すでに三人が通されていた。

上座に近い方へ座っているのは、四十を過ぎた侍である。

日に焼けた顔をし、口元には薄い笑みがあった。

だが目は動かない。笑っているのではなく、笑みの形を置いているだけだった。


その脇には、若い侍がいる。こちらは遠慮がない。

座敷に入った時から、柱、畳、廊下の奥、庭の向こうまで、いちいち目で探っている。

帳面役の男は、膝の上に帳面を置き、筆を持ったまま控えていた。


「雲谷殿」


年嵩の侍が言った。


「朝早くより、失礼つかまつる」


「何を仰せられる。戸田様よりの御使いとあらば、いつにても」


左近は頭を下げた。

そのまま、できるだけ平らな声で続ける。


「戸田様へ差し出す米は、ただいま整えております。古い俵が多く、少々手間取ってはおりますが、御定めの分を欠くことはございませぬ」


何か言われる前に、先んじて言った。

年嵩の侍が一瞬真顔になったのを見て、少し早かったかと左近は気に病んだ。


戸田方が来た理由は、それだと左近は考えていた。

先触れがあったのだ。

境目の備えに関わり、雲谷をはじめ近隣の戸田寄りの国人衆にも米を出させるという話である。

だからこそ、蔵では御料の米を古い俵へ移していた。

見た目だけでも、雲谷の米として整えねばならなかった。


年嵩の侍は、わずかに頷き、笑みを見せた。

左近はその笑みに嫌なものを感じた。


「おお、さすが雲谷殿。まことにありがたい。これならば別件も話しやすい」


左近は顔を上げた。


「別件、でございますか」


「そう肩に力を入れずともよいではないか。おかしな話というわけではない」


左近は唾を飲んだ。指の米糠がやけに気になった。


そこに茶が出された。

戸田方の三人は、礼こそ言うが誰も口をつけなかった。


「知っての通り、近頃、境が騒がしい」


年嵩の侍は淡々と言った。


「遠江も落ち着かず、三河の内も穏やかではない。戸田殿は、雲谷筋に目を置くべしとのお考えである」


やはりそれか、と左近は一呼吸おいてから相槌を打った。


「それは、まことに心強きことで」


「であろう。ゆえに、境の小高き所に城を置きたい」


左近は、すぐには返事ができなかった。


「城、でございますか、されど」


城とは、何だ。

遠駿二国の太守、今川の大軍を押し返せるものか。

それを築くのに、どれほどの人と物が要ると思っているのか。

左近の口から問いが飛び出しそうになるが、年嵩の侍が手で制した。


「まあまあ、城と申しても、大仰なものではない。まずは砦。

柵を置き、詰めの者が雨風をしのげる程度のものを置く。それで済めば安いものだ」


若い侍が口を挟んだ。


「もっとも、名目は境の城でござる。承知と思うが、粗末でよいという意味ではない」


左近はその若い侍を見た。

言い返すべきではない。そう分かっていたので、頭を下げる。


「無論、承知しておりまする」


年嵩の侍は、そこで帳面役へ目をやった。

帳面役が筆を取る。


「ついては、雲谷より人足を出してもらう」


「人足、といいますといかほどに」


帳面役が指を帳の項に這わせながら言う。


「まず二十。木を伐る者、土を運ぶ者、縄を扱える者。加えて、山に近い雲谷なら、杭木など諸々に使う材も用意できよう」


人と材。


左近は、蔵の奥に置いた一筆の写しを思い出した。

若君御料へ返すと書いたものと、同じである。

材木で返す、人足で返すと約束した。

だが戸田も、同じものを求めてきた。二つの先にそれらを出す力は雲谷にはない。

左近は足元がぐらつく気がした。しかし、寸でのところで踏ん張った。


「承知いたしました。ただ、今年は村々も弱っておりますれば、人数と材を整えるには少し時を」


「時はない」


食い下がろうとした左近に、若い侍がぴしゃりと言った。


「境の備えは急を要する」


左近は口を閉じた。

帳面役の筆が、紙の上を細く鳴る。


「急ぎ人足二十。杭木、横木、縄、筵。普請中の食い扶持を雲谷より出すこと」


「食い扶持も、でございますか」


左近は思わず身を乗り出し、声を出した。

若い侍が不快そうに顔をしかめる。


年嵩の侍は、ようやく茶碗へ手を伸ばした。

だが、まだ口はつけない。ただ茶の面を見ている。場を若い侍に任す腹のようだった。


「そもそもこれは戸田の城というより、雲谷を守るためのものでござる。ならば人足も雲谷のために働く者であろう」


「それは、道理にございます」


「であれば、その人足を食わすのは雲谷では」


左近は押し黙った。

理屈は通っていた。

通っているからこそ、断れなかった。


当初、戸田と約束した米は出せる。出せるようにした。

御料から借りた米を古い俵へ移し、どうにか戸田へ差し出す形を整えている。

だが、それはぎりぎりの形であった。

そこへさらに、城普請の人足、材、さらに追加の食い扶持まで求められれば、雲谷には何も残らない。


いや、残るものはある。


木綿と銭である。


一瞬、左近はあれらを差し出して容赦を願うことも考えた。

すぐにその考えは自分自身で否定する。


戸田に見せれば疑われる。

ゆえに左近は答えを濁すしかなかった。


「雲谷にできる限り、整えましょう」


「できる限りとは、曖昧よな」


若い侍が言った。

年嵩の侍はここでも止めなかった。

止めぬまま、静かに左近を見ていた。


「御定めの米は整えておるのでござろう」


若い侍が続けた。


「立派なものだ。他の家はよくて八分程度。それも何度も待ってようやく出てくる」


左近には若い侍の言いたいことはわかった。

やはり、最初のあれが不味かったのだ。

出し渋り、何度も頭を下げてから差し出すべきだった。


「以前は相当お待ちいただきましたので、今回の御定めの分は、欠かさず、約束の時までにと心がけたのでございます」


「心がけでどうにかなるのか。随分余力がある」


若い侍は、口だけで笑った。


「出せぬ者は何をやっても出せぬよ」


左近は、脇に置いた手を握り込んだ。

怒ってはならない。怒れば負ける。

怒れば、蔵の奥にあるものまで顔に出る。


「その程度でよかろう」


年嵩の侍がようやく止めた。


「少なくとも約定の米は出るのであろう」


「無論、戸田様へ失礼のなきよう、ただいま米を整えております」


「朝から、館の者が蔵の方へ走っておるのは、そのためか」


年嵩の侍が何気なく言った。

左近の背が冷えた。


「左様にございます」


「ずいぶん忙しげであったな」


「古い俵が多くございます。縄も緩み、運ぶ途中で米がこぼれては、戸田様へ失礼となりますゆえ」


「なるほど」


年嵩の侍が頷く。

だが若い侍の方が、廊下の方へ目を向け、再び口を開いた。


「悪い出来と聞いていたが、俵の見目まで気にされるとは殊勝なことにござる」


その声に褒める響きはなかった。


座敷の空気が重くなる。

帳面役の筆だけが、かすかに動いた。


その時、廊下の奥で板が鳴った。


小さな音である。

だが左近には、米俵を抱えた者が、慌てて足を止めた音だと分かった。

蔵の方で作業をしていた者が、戸田方の声を聞きつけて動きを誤ったのだろう。


年嵩の侍の目が、そちらへ動いた。


「まだ整えておる最中か」


「は」


「ならば、ちょうどよい」


年嵩の侍が、そこで初めて茶に口をつけた。

一口だけ飲み、静かに茶碗を置く。


「蔵を見せてもらおう」


左近は、言葉を失った。


座敷の隅に控えていた孫八郎が、わずかに身じろぎする。

左近は目だけで制した。

動くな。

黙っていろ。

そう念じるしかなかった。


「蔵、でございますか」


「さすがに我らも気にしてはおる。人足を出せ、材を出せ、食い扶持を出せと言うたが、こちらも雲谷の蔵を知らずには済ませられぬ。あまりに無体であれば、雲谷との間に罅が入ろう」


年嵩の侍の意図は左近には見えている。

蔵に物がまだあれば、それをもって左近を責めるつもりだ。


「蔵は、まだ整っておりませぬ。戸田様のご家中には見苦しゅうございます」


「何を申す。整っていないから見たいのだ」


若い侍が言った。


「整った後なら、いくらでも見せ方はありましょうからな」


左近の口の中が乾いた。


「これは、蔵改めでございましょうか。聊か雲谷としては」


年嵩の侍が手を振って笑った。


「そんな大げさな言い方をなさることはなかろう」


「左様」


若い侍が続ける。


「疑っておるわけではござらぬ。ただ、境目では、見ておかねばならぬものが多いゆえ」


疑っているとは言わなかった。

だが、疑っていない者は、そういう言い方をしない。


左近は指の米糠がまたも気になった。

米糠が気持ち悪いのか。戸田の言いようが腹立たしいのか。蔵の中身を思っているのか。

自分でも分からなくなっていた。


「承知いたしました」


ようやく、それだけを言った。

年嵩の侍らは満足そうだった。


立ち上がる時、膝がわずかに重かった。

左近がゆっくり立つと、それに合わせるように年嵩の侍らも立ち上がった。

廊下へ出ると、蔵の方から米糠の匂いが流れてきた。

左近は吐き気がした。


左近は歩きながら、蔵の中を思い浮かべた。

古い俵へ移し終えていない米。奥へ寄せた御料の俵。

畳みきれない遠江の木綿。布をかけただけの銭箱。

そして箱の中の一筆の写し。

どれか一つなら、まだ言い逃れはできるかもしれない。

だが、すべてが揃えば終わりだった。


「伯父上」


後ろから孫八郎が小さく呼んだ。


「何も言うな」


左近は振り返らずに言った。


蔵までの道は、いつもより長く感じられた。

館の中庭を抜け、土塀沿いに進むだけである。

座敷から蔵までは、子供でも迷わぬほど近い。

だが、それでも一歩踏み出すごとに一日が過ぎるほどにすら思えた。


戸田の侍らは、急がなかった。

急がぬことが、かえって左近を追い詰めた。

庭石の脇で一度足を止め、荷車の轍を見た。蔵前の土を見た。縄屑を見た。落ちている藁を見た。

すべて見てから、また歩き出す。


「大嵐でも来たかのような跡よな」


誰に言うでもなく、若い侍は言った。


左近は答えなかった。


蔵の前には、小者が二人立っていた。顔色が悪い。

中の作業が終わっていないのは、見ただけで分かった。

そして、その理由もわかった。

館に入らなかった戸田方の供回りらが、蔵の外で馬の手綱を取っていたのだ。

常に見張られているようで、気が気でなかったのだろう。


「開けられよ」


左近が言う前に、若い侍が命じた。



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