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2章_6

御料様が、若君が、こちらへ。


下男の声は、土間の梁にぶつかって散った。

しばらく誰も動かなかった。動けなかったという方が近い。

雨の匂いを含んだ夜気が、開いた戸口から細く入り、灯明の火先だけを揺らした。

幾人かが、その場に誇示するように置かれた米俵と、莚の下の矢束を見た。


一つ一つでは言い訳もできたが、それらが一揃えになり場にあることで、隠しきれない物々しさを生んでいる。


又七郎が最初に息を吐いた。

歯の間から漏れたその音は、笑いにも、怒りにも聞こえた。


「誰が通した、いや誰が知らせた」


下男は答えられない。ただ額を畳に擦りつけるばかりである。

又七郎の手が腰の刀に伸びる。刀の鯉口に親指をかけた。

それを見た若侍らも後に続かんとした。


「よせ、事の次第では何とでもなるやもしれん」


だが、左馬助が落ち着いた声で制止する。

心細そうにしていた若侍の何人かはそれで止まった。

しかし、若侍の多くは徐々にその緊張を高まらせ、息を荒くしていった。

それ以上は左馬助も何も言わなかった。居住まいを正しその時を静かに待っている。


一方の玄蕃は息ができなかった。

己の腹の底に冷たいものが溜まっていく。来てしまった。来てしまわれた。その思いだけが頭の内を回った。

訴状を出した。帳に残した。西蔵を離れた。大河内の寺へ来た。その一つ一つが、いま目の前でつながった。


そして玄蕃は縋るように左馬助を見た。

その老武士の目に少々の驚きは見て取れた。だが、又七郎たちのような浮ついた驚きではない。

濁った水の底を覗くような目だった。すぐに椿姫へ視線を向け、それから又七郎を見た。


椿姫は、まだ下男の言葉を飲み込めずにいたようだった。

若君に会うと言ったのは彼女自身ではある。だが、呼び寄せた覚えはない。

会いに行くつもりだった相手が、自らこの寺へ来る。

そのことが、まだ姫の内で形を結ばないようだった。


山門の方で、低い声がした。

寺の者が押しとどめようとしたのだろう。

すぐに別の声が重なった。強くはないが、退く気のない声だった。

やがて、足音が近づいた。


戸口にまず現れたのは、天野宮内であった。

人のよさそうな顔に、いつもの笑みを浮かべている。だが顎に添えた指は止まっていない。

後ろには護衛が二人。どちらも笠を取り、黙って左右へ寄った。

最後に、龍王丸が入ってきた。


夜道を来たためか、裾には泥が跳ねていた。

小柄な体に、寺の薄暗さがまとわりつく。だが、土間に踏み入れた時、誰もそれを幼いと笑わなかった。

龍王丸は場を一瞥し、寺の僧へ軽く頭を下げた。


「急な来訪で夜分に騒がせた」


それだけだった。

詫びにも、命にも、脅しにも聞こえない。

声変わり前の透き通る声だ。

玄蕃が常日頃聞いている静かな声音だった。


又七郎が膝を立てた。


「御料様ともあろう方が、一切の知らせもなく人の寺へ押しかけるとは、なるほど駿府を追い出された無作法者とは聞いていた通りでござるな」


「無作法は詫びよう。が、そなたらに礼節を説かれる筋合いはなかろう」


龍王丸は又七郎を見なかった。

土間の米俵、莚の下の矢束、それから粗い板の上の地図を見た。


山賊のねぐらのごときありさまである。

そう言われたように思ったのだろう、又七郎の顔が赤くなった。


「何をじろじろと」


その言葉は途中で遮られた。

龍王丸が言葉を発したのである。


「玄蕃」


呼ばれたのは玄蕃だった。思わず肩が跳ねる。

頭を上げようとして、上げられない。

膝の上の手が震えた。


「よい、そこにいよ」


それだけだった。


玄蕃は、思わず畳に額をつけた。咎められると思っていた。

なぜここにいる、誰に命じられた、何を運んだ、誰と通じた。そう問い詰められると思っていた。

しかし、そこにいよ、と存在することを許された。そのような意図ではなかったかもしれない。

だが、その言葉は玄蕃の震えを止めた。


「若君」


椿姫が声を出した。

土間にいる男たちが、揃ってそちらへ目を向ける。姫は立ちあがり、龍王丸に視線を送っている。

姫よりも龍王丸の方が、わずかに背が高かった。


大河内の者に囲まれた生活では、皆が彼女にかしずいた。

見上げる者、頭を垂れる者ばかりである。

その姫が、今は若君をわずかに見上げている。


そのことに姫は不快さを覚えているようだった。


玄蕃は少し胃の痛みを覚えた。


「私が、大河内の椿です」


龍王丸は頭を下げなかった。軽く、礼だけを取る。


「今川龍王丸と申す」


椿姫の目に、また不満が走った。

常であれば、大河内の者であれば、ここから姫への賛辞が続いた。

だが、龍王丸は最低限の礼だけで、用件を待っている。

そこには恐れも敬いもない。


「若君に、お伝えしたいことがありました」


「聞こう」


切り捨てるような短い言葉に、姫が露骨にむっとした。

しかし、気を取り直し続けた。


「大河内を、粗末に扱わないでいただきたいのです」


又七郎の顔に力が戻った。

若侍たちも、姫の言葉に背を伸ばす。

先ほどまで龍王丸の来訪に飲まれていた空気が、わずかに大河内へ戻りかけた。

玄蕃は苦く思った。しかし、先ほどまでの苦痛は感じない。


「引馬も馬込も、大河内の者が長く守ってきた土地です。若君はまだお若い。

知らぬことも多いでしょう。けれど、大河内を軽んじれば、馬込は荒れます。三河にも、大河内を見捨てぬ方々がおります」


左馬助の眉がわずかに動いた。

止めるべきか迷ったのだろう。だが姫はすでに言い切っていた。

又七郎が口元を固く結び、次の言葉を待っている。


龍王丸は椿姫を見たまま、しばらく黙った。


「粗略に扱ったつもりはないが、惣領姫殿の言葉だ承ろう」


姫の顔に、少しだけ明るさが差した。


「では」


「今後も粗略には扱わぬ」


龍王丸はそれ以上は言わなかった。具体的なことは何も約束していない。

だが椿姫は、その回答を自分に都合よく受け取ったようだった。

小さく息を吐き、ほんのわずか胸を張る。


「やはり、若君にも分かっていただけるのですね」


玄蕃は姫の言葉に、治まったはずの頭痛がした。

分かっていただける、ではない。御料様はまだ何も譲っていない。

そう言いたかったが、声にならない。

左馬助も同じことを思ったのか、苦い顔をした。


龍王丸は玄蕃へ視線を戻した。

玄蕃が意識せずとも背筋が伸びる。

ほんの少しでも良く思われたい、記憶に留まりたい、そんな思いが溢れてくる。


「玄蕃」


はっ、と平伏した。


「明日も早い」


玄蕃はその言葉の意味するところが分からなかった。

しかし、龍王丸は淡々と続けた。


「西蔵へ戻れ。帳を出せ。朝には昨日までの米をもう一度合わせる。この寺の物、払った米、それぞれ数や額が合うか見比べる」


「御料様」


「大仕事だが、急ぎ執り行え。蔵と寺の物との間で差額が出れば、そなたの俸給から月々引く」


玄蕃の喉が鳴った。確かに大仕事である。

西蔵から持ち出した米や、それで買ったものはほぼ寺にある。

しかし、又七郎や若侍らが使い込んだ分もあるだろう。

それらを調べつくし、数が合うように帳に落とすのは根気がいる。


だが、それでも玄蕃は腹の中の臆病の虫が消えていくのを感じた。

明日も西蔵で、龍王丸の下で働けることに心底安堵したのだ。


「次はない」


玄蕃は体を折った。

畳に額が当たる音がした。情けないほどの音だったが、かまっていられない。

涙が出そうになるのを、歯を食いしばってこらえた。


「御料様、玄蕃は大河内の者にございます」


又七郎の声が、低く差し込んだ。


「承知の上だが」


「ならば、なぜそのように」


「今もなお、龍王丸の臣である。不届き者であるが、目を離した龍王丸にも咎があろう」


問答は微妙に食い違っていた。

又七郎は勝手に命令するなと伝えようとしたが、龍王丸は刑罰の内情について答えた。

又七郎の頬が引きつった。

龍王丸の又七郎を見る目は澄んでいる。

深い怒りも、軽蔑もなかった。


「夜分遅くに出た役人を拾いに来た。今はそれだけだ」


「今はそれだけ、とは」


又七郎が立ち上がりかけた。手は柄にかかっている。

龍王丸のすまし顔を、とにかく歪ませたい、そのような意図が見えていた。


左馬助が低く名を呼ぶ。


「又七郎」


その声で、又七郎はかろうじて膝を戻した。

だが顔の熱は引いていない。目は血走り、唇は噛んだままだ。

龍王丸は土間の者たちへ目を移した。


「まだ米は動かすな」


誰も返事をしない。


「矢もだ。莚の下にあるものも、納屋の奥のものも、今夜は動かすな」


何人かの若侍が息を呑んだ。

やはり隠せていない。そういった顔だった。

又七郎だけが、なおも口を結んでいる。


「集まった者の名も残せ。寺の者、馬込の者、旧屋敷へ出入りした者。明朝、そうさな、左馬助が出せ」


左馬助が目を伏せた。

それは命令を受けた姿でもあり、引き受けた姿でもあった。


「明朝、左馬助が来れば駿府へは上げぬ」


土間の空気がわずかに緩んだ。

若侍の一人が、ほっとしたように肩を落としかける。

だが龍王丸の次の言葉で止まった。


「されど、遠江に火をつけんと企んだこと許しがたきことゆえ、一同を詮議にかける」


緩みかけた空気が、畳の目に沈むように戻った。

椿姫だけが、少し遅れてその意味を測った。眉をひそめる。

大河内を粗略にしないという話ではなかったのか。そう顔に出ていた。


「若君は、大河内を疑っておられるのですか」


龍王丸が怪訝な顔をする。

玄蕃は姫の口を押さえたかった。


「大河内を粗略に扱わずと申した口で、まるで罪人かのように扱うとはどういうことですか」


「詮議もまだなのに罪人扱いなどせぬ」


椿姫はその一言を飲み込めなかったようだった。

だが、そのやり取りを窺っていた、又七郎の目に怒り以外のものが宿った。

空気に飲まれ、怒りに飲まれて自分を見失っていたが、状況を把握しだしたのだ。


「さすがは御曹司、明日の詮議などとずいぶん呑気でございますな。それを言い渡すのであれば、我らを牢に押し込んでからでは」


「又七郎、もうやめよ」


左馬助の制止だが、今度は止まらなかった。

刀の柄尻に手を置きながら、悠然と龍王丸に近寄ってくる。

護衛の二人がそれを妨げようとしたが、龍王丸自身が手をかざした。


「聡明ですな。この人数です。歯向かわせぬ方がよい」


「そうだな、人数差が大きいのであれば、思いとどまるのがよい」


又七郎が訝しんだ。

その時だった。

山門の外で、また声が上がる。

今度は先ほどとは違う。大勢が一度にざわめく声だった。足音が石畳を乱し、誰かが低く怒鳴る。

ほどなくして外から若い男が転がり込んできた。

見張りに立たされていた大河内の人間である。


「旗が」


その男は息を切らしていた。


「街道の方に、旗が見えまする」


「何の旗だ」


又七郎が荒く問うた。


「朝比奈。いや、福島の旗も」


土間が揺れた。

実際に床が動いたわけではない。だが玄蕃にはそう感じられた。

若侍たちの顔から血の気が引く。年寄衆の何人かが互いに目を合わせた。

朝比奈。福島。どちらの名も大河内の者には恐れの記憶とともに刻まれている。


「馬鹿な」


又七郎の声は、先ほどより少し高かった。


「前触れもなく、このような夜更けに軍勢などあり得ん」


「松明が見えると。人数は分かりませぬ。ただ、旗が」


「見間違いだ」


又七郎は吐き捨てた。

だが若侍たちは、もう又七郎だけを見ていなかった。

一人が立ち上がり、戸板を外し、外を睨んだ。


旗、旗、旗。

かがり火に照らされた無数の旗が揺れ動いている。


本当だった。

そうつぶやいた若侍らが戸口を見、納屋を見、左馬助を見た。

今までそこにあった矢束が、勝ちの備えではなく、咎の証に見え始めている。


龍王丸は何も言わなかった。

ただ、左馬助をちらりと見た。


左馬助はその視線を受けた。ほんの一瞬だけ、深く目を閉じた。


「もはや、これまでだ」


左馬助の声は、低かった。

だが土間の端まで届いた。


「なにを、さては臆したか」


「そもそもそなたが姫の話を捻じ曲げなければ、軍勢の話もするつもりだったのだ。

夜闇に紛れ大人数が動いていると、もしや、遠江の今川の将兵が動いているのでは、とな」


誰かが集合の刻限をずらしたからか、気付けたわ、と左馬助は鼻を鳴らした。


「左馬助殿」


又七郎が睨む。

顔は赤を通り越して黒くなっている。


「だからもうよかろうと散々いったろうに」


宿老の見捨てるような言葉に若侍らは顔を引きつらせた。


「ただ、踏み込んで来ぬということは話し合いの余地はあるようにも見える。でよろしいか御料様」


若侍らが左馬助の言葉に目を見開く。それから龍王丸と外の旗の間で視線を行き来させた。

唐突に地獄に糸が落ちてきたのだ。


「そう見てもらっても構わん」


胸をなでおろしかけた若侍ら、それを又七郎の怒号が揺らした。


「馬鹿者どもがっ。偽兵だっ。本当に朝比奈らが来るならば、小僧一人で死地に向かわせるものか」


またわずかに若侍の空気が又七郎に寄った。


「龍王丸が少数で踏み入ったのは計略の拙さゆえではない」


又七郎が低く唸るような声で言う。


「では、何ゆえに、今川の御曹司が軍勢から離れ、敵陣に参られる」


龍王丸が笑った。

年と見た目に似合わない、太々しい笑いだった。


「さて、今川の御曹司ゆえ押し込まれた、と言えばよいか」


土間の者たちが、意味を測りかねて黙った。

龍王丸は淡々と続けた。


「聞いての通り、駿府では持て余されておる。しかし長男でもある。弟らが育った今、邪魔とみるものもおろう。

それゆえか、此度の一件、大河内を抱えた責を取れ。今川の血をひくものとして堂々と説き伏せるべきだ、と押し切られてな」


いや、と呟き龍王丸が目を細める。


「大河内に切られることを望んでおるやもしれん。さすれば、大義名分を得て、寺を焼き、不要なものを一夜で取り除ける」



椿姫の顔から色が引いた。

玄蕃も息を呑む。龍王丸の声は弱音に聞こえない。

だが言っていることだけを取れば、自らが危うい場所へ捨てられたと言っているに等しい。


「そうなればたとえ今宵を逃れたとしても、大河内に助力する者はいようか」


今川御曹司を手にかける。

そうなれば遠江では大河内は生きていけない。


若侍たちの目が泳いだ。

龍王丸は、その一人一人を見たわけではない。けれど、言葉は確実に届いていた。


「あまり時はかけられぬ。早く沙汰を受け入れよ」


「殺さなくとも虜とすることはできる。軍勢の前で縛り上げれば」


又七郎が言った。龍王丸はその言葉に首を振る。


「もろとも矢を射かけてしまいだな。駿府にはやはり大河内が手をかけたと伝わろう」


又七郎の口が一文字に結ばれた。

そこに龍王丸が畳みかける。


「この身を取れば旗頭になる。姫と並べれば遠江が揺れる。そう考えたか」


又七郎の肩が跳ねた。

椿姫が訝し気に又七郎を見た。


「それの行く先は犬死だぞ」


龍王丸は、少しだけ目を細めた。


「今少し生きれば、天竜川が治まるところを見られよう」


その言葉で、若侍の一人が刀から手を離した。

小さな音だった。

だが又七郎には聞こえたらしい。顔をそちらへ向ける。若侍は目を伏せた。


「偽兵だ」


又七郎が叫んだ。


「旗など、どうとでもなる。松明を並べ、小者に名を叫ばせれば済む。小僧の脅しに過ぎぬ」


誰も応じない。

又七郎は周囲を見回した。


「臆したか。ここまで来て、退くのか。大河内の名が惜しくないのか」


若侍たちは動かない。

惜しくないはずがなかった。だからこそ動けなかった。

大河内の名を上げる死と、大河内を潰す死は違う。

龍王丸が置いたその違いが、彼らの足を畳に縫いつけていた。


「又七郎」


左馬助の声が落ちた。


「抜くな」


又七郎はゆっくりと振り向いた。

一刻ほど前の賢しく、余裕のある笑みは影も形もない。

目だけ爛々と輝きを増し、息を荒くしている。


「左馬助殿まで臆されましたか」


「最後だ抜くな」


「ならば、どけ」


又七郎の手が刀へかかった。そして一息で抜かれた。

あっ、と玄蕃の声が漏れた。

又七郎は身をひるがえし、龍王丸に向かって踏み込んだ。


その手が龍王丸を捉えようと伸ばされ、そして、途中で地に落ちた。


又七郎を妨げたのは左馬助だった。

老いた身とは思えぬ踏み込みで刀を抜き、又七郎の腕を切り落としていた。

そして周囲が止める間もなく、返す刃が、続けざまに胴を抜いた。


周囲が時を止める。

又七郎から流れる血が、土間に広がった。


又七郎は信じられないという顔で左馬助を見た。口が動く。声は出ない。

やがて徐々に目から力が抜けていった。

若侍たちは動けなかった。誰も助け起こさない。誰も左馬助に斬りかからない。

抜けば次は自分だと分かった者もいるだろう。

だがそれ以上に、又七郎が今、越えてはならぬところを越えたのだと、皆が見てしまった。


椿姫だけが、まだ分からない顔をしていた。

又七郎が倒れている。血が出ている。左馬助が刀を持っている。

若君は立っている。その一つ一つが、姫の内でつながらない。


「左馬助」


龍王丸の声で、左馬助はようやく息をした。

刀を下げたまま、深く頭を垂れる。


「又七郎こそ、詮議が要った」


龍王丸の護衛が刀を抜いていた。

又七郎があと一歩でも踏み入れば、その腕は落ち、取り押さえられていただろう。


「申し訳ございませぬ」


是非もなし、と龍王丸が息を吐いた。


「大河内の手で片を付けた、そう思おう」


左馬助の肩が沈んだ。

龍王丸は又七郎の血を見た。長くは見ない。

すぐに土間全体へ視線を戻す。


「各々、もうよいな」


それだけだった。

誰も返せなかった。若侍の一人が、震える手で顔を覆った。

別の者が、音もなく膝をつく。年寄衆は顔を伏せたままだった。


左馬助が低く言った。


「姫様をこの場からお移ししたく」


「許す」


椿姫が身を震わせた。

姫だけは一人その場に取り残されていた。

目まぐるしく動く状況についていけず、左馬助と龍王丸の言葉が何を意味するのかも分かっていないようだった。


ただ青白い顔で徐々に熱を失っていく又七郎を見つめていた。

血の香りが鼻腔をついて、ようやく、ひ、と小さな悲鳴を漏らした。


「姫様、こちらへ」


左馬助が椿姫へ近づいた。

声はできるだけ穏やかだった。

だが刀を抜いた直後の男の穏やかさなど、姫には届かなかった。


椿姫は退いた。円を描くように大きく動き、左馬助から遠ざかろうとする。

上座から大回りで、土間の入口、龍王丸の方までくる。

しかし、龍王丸を見るとそこで止まった。


「誰も来るな、来ないで」


左馬助が止まる。


「姫様、ここはなりませぬ」


「嫌です」


声が細くなっていた。

先ほどまで大河内の筋目を説いていた声ではない。

年相応の少女の声だった。


「姫様」


「触るなっ」


左馬助の顔が歪んだ。

明確な拒絶であったが、それでも一歩ずつ進む。

玄蕃には左馬助の意図が分かっていた。

又七郎に連なる若侍たちは座り始めているが、完全に鎮まったわけではない。

誰かが姫を担げば、また場は割れる。ならば姫を離すしかなかった。


「お許しくだされ」


左馬助が手を伸ばした。


その瞬間、椿姫の手が懐へ入った。

細い柄が引き出される。守り刀だった。

灯明を受けて、刃が白く光った。

護衛が動いた。若侍の何人かも顔を上げた。


だが、刃は左馬助に向けられることはなかった。

刃はくるりと反転し、椿姫自身へ向いた。


「姫様」


左馬助の声が割れた。


椿姫は目を見開いていた。

涙はなかった。恐怖が、涙より先に体を動かしたのだろう。

深い考えがあってのことではない、それゆえに迷いがなかった。


姫が目をつぶる。白刃がきらめいた。


「もうよいと言っておろうが」


白刃を止めていたのは龍王丸の手だった。

小さな手が、刃を握っている。

血が滴り、姫の顔を濡らした。その温かさで姫が止まる。


「御免」


そう言って、二人の手に握られた刃を抜き取ったのは宮内である。

そっと、静かな手つきだった。


呆然とした椿姫に左馬助が駆け寄ろうとする、だが龍王丸が目だけで止めた。

左馬助がその場で膝をついた。

膝が畳を打つ音は、又七郎が倒れた音より小さかった。

だが、玄蕃にはこちらの方が重く聞こえた。


「誰でもよいが、早う姫を奥へ戻せ」


左馬助に同心していた、年寄衆の一人が立ち上がる。

龍王丸を気にしながら、姫に寄った。

姫はわずかに身を震わせたが、それ以上は何も言わなかった。


「御料様、血が」


玄蕃は思わず言った。

姫よりも左馬助よりも龍王丸の袖を染める血から目が離せなかった。


護衛が必死に当て布で傷口を押さえているが、流血は収まらない。

しかし、当の龍王丸は自分の傷を見てもいない。

ただ、常日頃と何も変わらない眼差しで左馬助を見ていた。


「今度は目を離すな。そして明朝顔を出せ」


左馬助は頭を下げた。

深く、畳につくほどに下げた。


「はい」


そして、掻き消えるような声で返事をした。

それを認めると、ようやく自分の傷のことに気を払った。


「深いか」


龍王丸は興味なさげに手当をしている護衛に尋ねる。

護衛は言いづらそうに答えた。


「命に別状はございませぬが、跡が残るやもしれません」


「浅傷ということか」


龍王丸は、人の傷でも見るかのように、己の手を見た後、外に視線をやった。

焚かれたかがり火から火の粉が二つ三つ舞い上がり、夜気の中で消えた。


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