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2章_5

その日の沙汰は、流れるようにして捌かれた。


残っていた訴状は面倒ではあったが、拗れるものではなかった。

過去の例に照らし、少しの不満と納得を関係者に分け与える。それで政所は回る。

小次郎は時折口を挟んだ。

だが龍王丸が沙汰の経緯と先例を短く述べると、神妙な顔で頷き、帳面を埋めていった。


西蔵の件を、小次郎は掘り返さなかった。


忘れろと言っても忘れまい。

おそらく帳には書く。

龍王丸には、その確信があった。


龍王丸は役人たちに最後の沙汰を言い渡すと、帳付に明朝の段取りを命じ、広間を払わせた。

小次郎は、結局最後まで部屋の隅にいた。手元の帳面はそれなりに黒くなっている。


あれをまとめ、駿府へ差し出せるものにするのは酷だろう。

他人事のように龍王丸は思った。


「明日は午前に書庫を見せる。午後は船場だ」


「は」


「宿へ戻れ。明朝使いをよこす」


小次郎は何か言いたげにした。だが、結局は何も言わなかった。

小次郎、つまり見分役への申し開きとして十分かと言われれば、及第とは言い難い。

西蔵の一件だけではない。細川の証文の一件、木綿の経緯、天竜川の普請、近隣の国人衆への援助。

どれも龍王丸の口からは説明できていない。

そのことをどう呑み込んでいるかは知らない。ただ、小次郎が踏み込むことを遠慮している節は見受けられた。

だが今は、それでよかった。


小次郎が下がり、役人たちの足音も遠ざかる。

広間には冷えた白湯の椀と、墨の匂いだけが残った。


龍王丸は、袖の内へ手を入れた。

馬込筋。扶助米。施粥米。人足飯。西蔵の俵数違い。大河内玄蕃。

訴状は、まだそこにある。


おそらくだが、さほど時間はないだろう。

天竜川の一件や、堺の一件以降、代官地への注目が徐々に集まっている。

このことを面白くないものがいつ動き出しても違和感を覚えない。


だが、目立って動くのも不味い、と龍王丸は小次郎が座っていた場所を見た。

火は目立たぬうちに消さねばならない。



夜になってから、龍王丸は西蔵へ向かった。

供は天野宮内と護衛二人だけである。

灯は低く持たせ、番の者の目も避けない。大通りをゆっくりと歩いた。

あくまで時折行う蔵改めの一環という風を装った。事実、大市の前後で龍王丸が蔵を見回ることは珍しくない。

そのため、見張りのものや、自宅に帰る役人たちとすれ違うが、訝しむものはいなかった。


西蔵は言葉通り、代官屋敷の西手にある。

表の本蔵より小ぶりだが、その分出し入れの確認は本蔵より緩く、手早くものが必要な場合に重宝した。

市で急ぎ銭がいる。米をその日のうちに届けねばならない。少量の援助を何度も送る。

そういった場合に、龍王丸らが頼るのは西蔵だった。


暮六つ、ちょうど日が落ちた頃合いである。

西蔵の白壁はかがり火を反射し淡く輝いている。また蔵前には先ほどまで出入りしていたであろう、縄と米俵の匂いが沈んでいた。


「大河内玄蕃はいるか」


龍王丸がそう言うと、蔵番の下役が平伏した。

その肩はかすかに揺れている。


「いまは、席を外しております」


「少し尋ねたいことがある。どこへ行った」


「それが馬込の寺の小僧が来まして。少し出てくるとだけ伝えてそれっきりです」


宮内がぴくりと眉を動かした。


「こんな刻限に小僧が呼びに来たか、ちと匂いますな。用向きは述べたか」


宮内が顎を撫でながら問うた。

下役は恐々とした様子で口を開く。


「なんでも施粥米の受け取りの判が違うとか、明日には米を炊くので急ぎ判が欲しいとかで。それで、玄蕃殿が急ぎ見に出られました」


龍王丸は眉間を揉んだ。

蔵の下役が震えだすが、かまわず聞いた。


「それはいつだ」


「酉の刻の少し前にございます」


一時間か二時間ほど前である。

馬を駆ければ、寺についていてもおかしくない。


龍王丸は、蔵の戸を見た。戸は固く閉じており、封の縄も崩れていない。

鍵の扱いも普段通りだ。急いで米を運び出した跡はなかった。

また下役の顔に、龍王丸への畏れがありありと浮かんでいた。だが玄蕃をかばう色はなかった。

ただ自分の足元へ火が回ることを恐れているだけの顔である。


「逃げた、ということでしょうか」


宮内が小声で言った。


「逃げるような男ではあるまい。それに、逃げる振る舞いでもない」


大河内玄蕃を表現すると二つで足りる。生真面目、小心である。

己の野望を果たさん、先祖の宿願を成さん、そんな言葉は似合わない。

割の良い代官地の役にしがみつきたい、できれば器量の良い妻が欲しい。

大河内玄蕃の胸中を、龍王丸が察するにその程度であろう。


さて、そのような男が多額の米を懐に入れるだろうか。

そして、それを自ら知らせ、その後姿を消すだろうか。

どちらも大河内玄蕃には遠い。


龍王丸は蔵の内へ入った。

玄蕃の帳は、いつもの棚に残っていた。

湿気を避けるため、竹の台へ載せてある。やはり几帳面な男だった。

米俵の積み方より、帳の置き方でその日の心持ちが分かるほどである。

ただ、今夜の帳は少しだけ定位置からずれていた。


龍王丸はそれを手に取り、灯の近くで開いた。

扶助米、施粥米、寺預け、街道普請の人足飯。今日気になった名目は整然と並んでいる。

一つずつを見ればおかしくはない。


「馬込筋、まことに多うございますな」


「堺が来たあたりから露骨に増えている」


宮内の言葉通り、他の方面より明らかに多い。おそらく倍近くだ。

そして、それらは堺との取引が増え、市が広がった時から傾向が見える。

行政の処理能力が処理しきれないと見て、動き出したのかもしれない。


「しかし、馬鹿正直に過ぎますな」


龍王丸は頷いた。

玄蕃は、その多さを消していない。ごまかしてもいない。むしろ細かく残している。

そこに玄蕃らしさがあった。肝は細い。それゆえに、数字を濁すことはできないのだ。


龍王丸は帳を閉じ、元の場所に寸分たがわず戻す。

明日も玄蕃がそれを取り出せるように。


「玄蕃が戻っても、呼びつけるな」


こちらを窺っていた蔵の下役が弾かれたように顔を上げた。


「知らせるだけでよい。責めるな。問い詰めるな。西蔵の者にも騒がせるな」


「は、はい」


龍王丸はそのまま西蔵を離れた。

それから今まで押し黙っていた護衛の内一人に申し付けた。


「馬込筋へ出る道に目を置け。寺へ入る者、旧屋敷へ向かう者も見ろ。ただし声はかけるな」


申し付けられた護衛は、深く頭を下げた。

宮内は何も言わなかった。

問いたいことは山ほどあるだろうが、人のよさそうな顔でずっと顎を撫でている。


この男の癖だと龍王丸は知っていた。

状況が悪くなると、笑みを深め、そうやって緊張を和らげる。

いささか申し訳なさを覚えながらも、歩みは緩めない。


「帳所へ行く。確認がいる」


たどり着いた帳所には、まだ灯が残っていた。

昼の訴えを整理していた帳付が、龍王丸の姿を見ると慌てて立ち上がる。

龍王丸は手で制し、いくつかの帳を出させた。


帳簿をめくり、堺との関係が始まったころから順にたどっていく。

書かれた数字に今となっては違和感しか覚えない。

それでも米、銭、そして外から出入りする矢束について重点的にさらっていく。


そう矢束だ。


米で人を集められる。伝家の武具もあるだろう。

しかし、集めた人間に矢がなければ荒事は起こせようがない。

もし、大河内が何か火を起こそうとしているのであれば、矢の出入りがある。


「そこまで杜撰でもないか」


「は、さすがに矢束が流れれば皆止めまする」


宮内は相槌を打ちながら、寄ってくる帳付を追い払う。

しかし、想定通り、代官地の帳に、馬込筋に流れる矢束はなかった。

当然である。御料の帳に矢の字があれば、もっと早く引っかかっている。

米や塩とは違う。矢は、言い訳の幅が狭いのだ。


だがそれならそれでよい、と龍王丸は別の帳面を開いた。

それは領地の帳の中で、特に武具などを扱った店の写しだ。

少々の減税などを認める代わり、これらは代官所に届けることを命じている。


龍王丸は善七の売り帳を開いた。

善七は肴町の端で弓矢や山刀、革紐を扱う男である。

商いは大きくない。帳の字も、大店の米商人のものほど整ってはいない。

だが、日付と数は残っていた。


それだけでは一見して何も違和感はない。

だが、馬込方面への不可思議な米の動きを重ねると見えてくるものがあった。


まず一つ、馬込筋へ扶助米が出た二日後、矢束が売れていた。

受け取りの名はない。代わりに、見覚えのある符丁が記されていた。


また別の日だが、施粥米が寺へ入った翌日、同じ符丁で矢束が出ている。これも数は多くない。


そして、街道普請の人足飯が出た日、鏃と革紐が売れている。

今度は符丁が少し潰れていたが、墨の癖は同じだった。


「支払いはすべて米で行っている」


龍王丸は指を止める。

他の矢束などを扱う商人の帳も調べたが、どれも墨の癖、符丁は一致した。米の支払いもだ。

宮内も顔色を変えた。

こちらを窺っていた帳付も事態を察したのか、息を呑んでいる。

やがて、重い静寂に耐えきれず、恐る恐る口を開いた。


「御料様、これは」


「忘れよ」


龍王丸は帳から目を離さずに言った。


「今見たものも、そこから考えたことも、まだどこにも書くな、言うな。良いな」


「は」


「だがついでだ、動いてもらおう。そなたは善七の店へ人をやれ。店を起こすな。裏と荷置きだけ見ろ。

誰かが出入りしても声をかけぬことだ」


帳付は深く頭を下げた。

龍王丸は、もう一度だけ善七の売り帳を見た。

昨日の夕、大市の中でひと際大きな矢の買いが入っていた。


「大河内を焦らせたのは由比様でしょうか」


「おそらくな」


口では濁しつつも、龍王丸には確信があった。


小次郎が来たのは、昨日だった。

駿府からの見分役、これは今川本家の目である。そう受け取る者がいてもおかしくない。


代官地の改めが日ごとに細かくなり、米も寺預けも人足飯も、名と数を厳密に持ちはじめている。

誤魔化しが利かなくなってきたその矢先に、駿府の者が来たのだ。

焦る理由としては十分だった。


龍王丸は袖の内の訴状に触れた。

玄蕃は、何を望んだのか。

知らせたかったのか。隠したかったのか。逃げたかったのか。間に合わせたかったのか。


いや、と龍王丸は玄蕃の胸中と葛藤に思い当たった。


おそらく大河内の者に言われるまま、命じられるまま、米を矢束に変えたのだろう。

そして、そのあと一人になって怖くなった。

とんでもないことをしてしまったと、震えが止まらなくなったのだ。


だが、大河内と決別もできず、龍王丸へ駆け込むこともできなかった。

全てを捨て、目を背け、逐電することも、生来の生真面目さが許さなかった。


懊悩と焦りの中、俵の数が合わぬと訴状を出した時、玄蕃は自分でも何をしているのか分からなかったはずだ。


「行かねばならんか」


龍王丸が思案から戻ると、宮内と戻ってきた護衛たちが平伏していた。

己の言葉を今か今かと待ち望んでいる。


「宮内」


「は」


「馬を用意しろ」


「大河内でございますな」


「ほかにあるまい」


宮内が笑みを浮かべる。

今日一番の柔和な笑み。顎も火が出ると心配になるほど擦っている。


「由比様、駿府方には如何いたします」


「言い訳は明日考える」


宮内は短く頭を下げた。

外へ出ると、夜気が湿っていた。天竜川の方から水の匂いが来る。

昼間は市の喧騒に紛れていた音が、夜になると近く聞こえた。


龍王丸は最後に一度だけ西蔵の方を見た。


---



馬込筋の寺には、灯が残っていた。


大河内玄蕃は、山門の影に立っていた。

ここに来るまで何度も足が止まった。

案内役が目を逸らした隙は何度も見つけた。だが結局ずるずるとこの場にいる。


「玄蕃殿、はよう入られよ。各々方待ちかねておりますぞ」


年若い一族のものが鋭い視線で射抜いてくる。

玄蕃よりも頭一つ分は大きく、首も、腕回りもずっと太い。


断れば腰の刀で切り付けてくるやもしれん。

そう思うと玄蕃の足は勝手に門をくぐった。


ああ、やってしまった。


くぐってしまうと今度は別の後悔がずんと腹を重くした。

いっそ今からでも逃げてしまうか、という思いがよぎる。

だができるわけがない。


西蔵にいれば、あの御料様の目がある。

馬込筋の寺へ行けば、大河内の目がある。


どちらも怖い。どちらにも背を向けられない。


玄蕃は身を縮ませながら境内へと歩を進めた。


境内には、草鞋が多かった。

明らかに寺の者の分ではなかった。

泥のつき方がまちまちで、遠くから来た者も混じっている。


それらを見て、また増えていると玄蕃はぞっとした。


また土間には米俵が置かれていた。施粥と言い張るにはこちらも多い。

奥には旧屋敷修理の道具が積んである。

鍬、縄、竹、古材とそこまでは寺にあっても咎められないものだ。

だが、納屋の隅に、莚をかぶせた細長い束があった。

矢である。猟だと言うには多すぎる数だった。


玄蕃は、それらを見ないふりをしようとして失敗した。

見覚えがありすぎた。

どれも己が手を貸したがゆえにここにあるものだったからだ。


「来たか、玄蕃」


声をかけたのは、大河内左馬助だった。

その頭には白いものが目立つ初老の男である。

だが、かつては家中で名を持った武功の者でもあった。

今は寺の世話役のような顔をしているが、背筋の張りは崩れていない。


玄蕃は頭を下げた。


「西蔵は良いのか」


問いは穏やかだった。玄蕃は腹の奥がじくじくと痛むのを感じた。

他でもない左馬助だけが、玄蕃の御料出仕を責めなかった。

だが、この人の存在こそが大河内を切れぬ理由でもあった。

玄蕃は、頭を下げたまま唇を湿らせる。


「よいとは、申せませぬ。大市で忙しのうございますし、駿府方の件もございます」


左馬助の眉がわずかに動いた。

駿府、と言葉を繰り返した。


「そこら中に積まれた用意の件、やはりそれか。合点がいったわ」


「ま、まこと申し訳なく」


やはり左馬助には秘されていたのか。

玄蕃は内心で大河内の若侍らを罵った。

左馬助らは見張られている、接触するのは危険だと言って遠ざけたのは彼らだった。


「だが、なぜ今来た。駿府方の目がある今、抜け出てくればそれこそであろう」


それはまあ、と玄蕃は袖の内から、小さく折られた紙片を出した。

丸に紅が引かれている。寺の小僧が西蔵へ持ってきたものだった。

側にいた下役には何の意味も分からなかったろうが、玄蕃には分かった。


紅、こう、つまり、来い、ということだ。

御料様はこの下手な符丁に笑いもしないだろう、玄蕃はそんなことを思った。

その紙片を見て、左馬助の眉間にしわが寄った。


「左馬助殿はもう又七郎らと話されましたか」


「いや、これからだ。われら老人共はゆっくり来いとのことらしい」


二人そろい、寺の本堂に近づいた。


「遅い、なにをしている」


そこに土間の陰から声がした。

大河内又七郎という本家に近い男である。年は若いが、この又七郎も玄蕃より頭一つ大きい。

生来粗暴な男であり、幼いころ、玄蕃に小石を投げつけ、大けがをさせたことがある。

玄蕃は、そのことをまだ覚えている。


「西蔵で震えていたか」


又七郎の声に、周囲の若い者たちが低く笑った。

玄蕃は何も言わなかった。

左馬助が咳払いを一つした。それだけで笑いは消える。

又七郎たちは面白くないとでもいうように鼻を鳴らした。


「もうよい。玄蕃、早う座れ」


玄蕃は一番の下座に腰を据えた。

そして、それを見計らい又七郎が土間の奥に置かれた粗い板を指した。

炭で道筋が引かれている。

子供の手習いのような線であったが、玄蕃には何が書かれているかわかった。


御料近辺の地図だ。

大河内の者にとって重要な場所、そしてその位置関係がかろうじてわかる程度のものだった。


玄蕃は、その拙い地図を見た瞬間、また胃が縮んだ。


「さて各々方もう十分であろう、策は練った。ここから一直線に攻め立てる、さすれば遠江は揺れよう」


上座の方に座る若い一族はおおむね満足そうな顔をしている。

まさか、今日このままことを起こすのか。

玄蕃の顔に震えが出かかった。


「待て。いきなり呼びつけてきて、なんだそれは」


左馬助の声に、大河内の年寄衆が頷く。

彼らの多くは御料の方々、またほかの遠江国人、今川重臣などにそれぞれ仕えている。

そこを急に呼びだてされ、さあ準備は済んでいるでは納得もいかないだろう。

玄蕃は申し訳なさで目を伏せた。


「申し訳ござらんな。されど我々は日頃から存念を申し上げて参りました。御料めに対する大河内への扱い変わらぬようであれば挙兵もやむなしと」


そこは事実であった。

又七郎は左馬助をはじめとした年寄衆に事あるごとにそれは伝えていた。

しかし、左馬助らの回答はいつも同じである。


「存念は承知しているだが時ではない。今夜立つなど、話にもならん」


やはり今夜も同じであった。

部屋に満ちていた若侍らの熱気に水がかかる。

特に又七郎は心底嫌そうな顔をしている。

左馬助は、またか、と言いそうな苦い顔で続ける。


「天野から返りがない。井伊からもない。三河の縁者も、口では大河内を粗末にせぬと言いながら、まだ誰も身を動かしておらぬ。

馬込だけで声を上げれば、翌日には今川に囲まれる」


「以前であればそれもありえたかもしれませんな」


又七郎が言った。


「今川の動きは遅い。聞けば当主が病に臥せっておるとか、さてどれほどの兵が出ましょうか」


左馬助はその答えに動じることはなかった。

深く、深く息を吐いた。

又七郎の眉間にしわが寄る。


「馬鹿者。朝比奈をはじめ、手慣れた重臣らはそのままだ。むしろ良き見せしめになると、袋叩きにされよう。

それをわかっておるから、天野も井伊もそなたの呼びかけに答えんのだ」


ともかくと、左馬助は腕組みをし若侍たちを睨みつけながら言う。


「今は待つ。その時が来るまで待たねばなるまい」


「と言いますが、今動くのがよいと見るものも多いのです」


又七郎は板の上を指で叩いた。黒く汚れた爪が、小次郎の宿の印に触れる。


「駿府より参った由比なる者。相当の算術達者らしく、われらの準備にたどり着くやもしれません」


左馬助がちらりと下座の玄蕃を見た。

呆れ、同情、そこに込められた意図は読み切れなかったが、玄蕃はただ目を伏せた。


「無理に急かした挙句、足跡を残したのは又七郎そなただろう。それを言うに事欠いて攻め時などとは片腹痛いわ」


「急かしてなどおりませぬ。ただ左馬助殿の贔屓の玄蕃めが疑われるようなことせねば、目付など来なかったと」


玄蕃は身を震わせた。

米俵の数の不一致、これを上に挙げたことはまだ又七郎にも左馬助にも言っていない。

そもそも、このことから一日で御料様が気づくとも思っていない。期待してもいない。

ただ、書かないと気持ちが悪くて仕方がなかったのだ。

御料様には冴えない小男を雇い入れるだけでなく、なにくれと影で庇ってくれた恩がある。

いまさら何をと我ながら思うが、又七郎が大量の矢束を買えと命じたとき、思わず訴状をしたためていた。


「戯言だ。あの目付が来たのは堺の一件であろう。おとなしくしてれば去る」


「それに、もう大量の矢を買ってしまいました。目付はきっと気が付きましょうし、我らは無念のうちに捕らえられましょう。

ならばいっそ動き、大河内の名を上げ、御料めに不満を持つものを束ねる方がよいと思われますが」


貴様、と左馬助の歯が食いしばられた。


無理だと、玄蕃は思った。


又七郎は最初から動くつもりだったのだ。

目付が遠江口に姿を見せたその時から、もうだめだ、今川が来ると若侍たちを煽った。

そして、目付が来ると今度は玄蕃に姫の命と嘯き、大量の矢束を買わせた。

今はその大量の矢束をもって、もう準備は済んでいると左馬助らを動かそうとしている。


「左馬助殿、案ずるなかれ策はございます。のう玄蕃」


なに、と左馬助が血走った目でこちらを見た。

先ほどの温和なものとは全く違う目だった。


「この玄蕃、聞くところによると御料めの信も厚い。そして大市の後は御料様は決まって、こ奴のおる西蔵にも少数の供連れで足を運ぶそうです。

もうお判りでしょう」


「虜とするつもりか。そのあとが続くまいよ」


「さて、どうでしょうか。あれで遠江衆の心を掴んでいるとも聞きます。父親、駿河との仲も拗れているとも聞きます。

少し脅しあれを旗頭にし、遠江衆を駿河にぶつける。さほど難しくはないと思いますが」


なあ、玄蕃と又七郎が尋ねた。

左馬助、ほかの若侍、いや部屋にいるすべての大河内一門が玄蕃に視線を注いだ。


あ、と言葉にならない喘ぎ声がこぼれた。

皆、殺気立っている。決起賛成派、反対派どちらが抜いてもおかしくない。

ここは穏当な言葉で茶を濁すしかない。

玄蕃はそう思ったが、口をついたのは別の言葉だった。


「無理だ」


又七郎の策士面が歪んだ。

口元をひくつかせながら、


「玄蕃、大河内の宿願ぞ。きちんと言わねば勘違いする者もおろう」


又七郎の意図は伝わっている。

しかし、一度溢れた言葉は留められない。


「無理でございます。御料様を捕らえるなど、できようがありません」



龍王丸の近辺は厳重である。

天野宮内をはじめ気の利いた者らが、細心の注意を払い危険な人間は一切排除している。

大市の人込みでも、草の者らが紛れ、軽々に龍王丸に近づくものを許さない。

人目を憚るときは少数の護衛のみを連れるが、その者たちとて駿河、遠江から選りすぐられた剛の者である。

斬り合いごっこで満足している今の大河内の若侍達では、どれほどのことができるだろうか。


だが、それ以上にだ。


「玄蕃めには、御料様が虜となる姿も、脅しなどに屈する姿も思い浮かびませぬ」


当然のことだ。

たった三年で荒れ果てた大河内旧領を復興し、遠江に一定の規律をもたらした人物である。

又七郎ごときの浅知恵では微動だにしないだろう。


恐る恐る玄蕃は又七郎の方を窺った。

予期していた怒声はなかった。

又七郎はただまん丸に目を見開いていた。

そして、その後事態を把握し、屈辱を感じるままに唇を強くかんだ。


「なるほど、な」


又七郎が立ち上がった。その手は腰の刀に伸びている。


「貴様、御料めに通じておるな。銅臭好み同士で気でも合ったか」


「又七郎、なにをする」


「止めてくださるな、左馬助殿。このような鼠がおると大河内の邪魔になり申す」


やってしまった、玄蕃は身をさらに縮こませる。

決起賛成派が玄蕃のもとに集う。反対派は左馬助のもとだ。

取り残された玄蕃はただその場でじっとしているしかない。

ただ、これから始まるであろう、言い合い、切り合いに際しても臆病の虫を抱えながらうずくまるしかないのだ。


その時、奥の戸が開いた。


「何を騒いでいるのです。奥まで聞こえて参りました」


その声に、土間の空気が変わった。


又七郎の手が刀の柄から離れる。若侍たちは一斉に膝をついた。

左馬助も、渋い顔のまま頭を下げる。玄蕃もまた、額を畳に近づけた。


年若い女、少女が緩やかな足取りで部屋に進み入る。

白い小袖に、薄い打掛。顔立ちは整っていたが、目に浮かぶものは幼い。

紛うことなき、大河内一門の惣領姫である椿姫がそこにいた。


姫は、ゆるりと土間へ目を向けた。

御料近辺の地図、矢束、米俵、そして物々しい男たち。

それらを見てなお、顔色を変えない。

大河内の男たちは、その様を見て感じ入った声を上げる。


だが、玄蕃は同心できなかった。

あれはただ無関心なだけだと、そう思えた。

玄蕃の知る上に立つ者は、異変を見ればまず目を細めた。

思案し、調べ、己の手で触れ、結論を出し。

そのうえで、他のものには心配するなと言ってのけるのだ。



「又七郎」


「は」


「そなた、刀に手をかけておりましたね」


又七郎は一瞬だけ言葉に詰まった。


「この者が、あまりに臆したことを申しますゆえ」


そういって孤立していた玄蕃を顎で指した。


「この者とは、玄蕃のことですか」


「は。大河内の名を持ちながら、御料の小僧に心を寄せております」


玄蕃は背を丸めた。

心を寄せたのではない。向こうが己の心を拾ったのだ。

そう言おうとしたがやめた、きっと欠片もわかってくれないだろう。


姫は玄蕃を見た。


「玄蕃、そなたも、大河内の者でしょう」


優しく、甘い声だった。

玄蕃は無言で深く頭を下げた。


「ならば、なぜ今川の顔色ばかり見るのです」


土間に、低い息が落ちた。

若侍たちの目が玄蕃に集まる。

又七郎の口元がわずかに緩んだ。


左馬助が口を開いた。


「姫様、玄蕃は今川の顔色を見ているのではございませぬ。若君御料や御料の為人を知っているゆえ、軽々に動けぬと申しておるのです」


「軽々に」


姫は、その言葉を少しだけ繰り返した。

だが、鸚鵡返しではなく、気に入らぬものを舌の上で確かめるような声音だった。


「私には、皆が怖れているように見えます」


左馬助の顔が曇った。


「恐れも、時には身を守ります。されど守ってばかりでは、何も戻りません」


姫は言った。


その一言で、又七郎たちの顔に火が戻った。

左馬助はそれを見て、深く眉を寄せる。


「姫様」


「聞いております。引馬も馬込も、もとは今川のものではなかったのでしょう。大河内は、ただの土豪ではないとも聞いております」


玄蕃は、畳に目を落とした。

言葉だけなら、間違いではない。大河内は吉良に連なり、遠江に深く根を張る一門だ。

だがその名をもってしても、遠江の守護大名であり、足利一門でもある今川を退かせるほどの重みはない。


「若君は、まだ幼いのでしょう」


姫は続けた。


「私が会えば、分かるのではありませんか。大河内を粗末にすれば、馬込が荒れると。三河にも、大河内を見捨てぬ方々がいると」


左馬助が顔を上げた。


「なりませぬ」


「なぜです」


「若君は、姫様が思うような方ではございませぬ」


「会ったことがあるのですか」


左馬助は黙った。

左馬助が御料様にお会いしたのは一度だけだ、と玄蕃は記憶している。

自分の出仕の際、親に代わって頭を下げてもらったのだ。

その折、左馬助は今よりさらに幼い御料様と少し話し、何か思うところがあったらしい。

今川の弱みを握る、御料様の懐に潜り込む、そのようなことを口に出さなくなった。


そのとき何を話したか、何を思ったか尋ねたこともあるが、決して左馬助は口を開こうとしない。

たとえ姫の下問であってもそれは変わらないようだった。


押し黙った老武士の姿を見て、姫の目に、わずかな勝ち気が浮かんだ。

してやったり、という感情がありありと見えた。


「答えられぬとあらば、やはり私が会ってみねばなりません」


又七郎が膝を進めた。頬が上気している。


「姫様が御自らお会いくださるなら、これほど強いことはありませぬ。若君も無体はできますまい」


玄蕃は苦々しい思いを噛みしめる。

おそらく又七郎の頭の中では、虜とした今川の若君と大河内の姫の婚姻が描かれているのだろう。

世間知らずの若夫婦の信任のもと、遠江を差配する。そこまで論理が飛躍しているかもしれない。


「又七郎」


左馬助の声が低くなる。

だが又七郎は止まらなかった。


「左馬助殿もお聞きになったでしょう。若君と会いたいと仰せです。ならば我らはそれにお応えせねば」


「馬鹿者が、そなたの魂胆が透けて見えるのだ。不忠以外の何物でもないわ」


左馬助の声が土間を打った。

姫は眉をひそめた。


「左馬助、不忠も何もありません。ただ、若君に会うと言っているのです。又七郎はそれを重く扱っただけです」


「姫様、それが危ういのです。皆そのようにとらぬのです」


「私が会うことが、なぜ危ういのです」


左馬助は信じられないとばかりに姫を見た。

玄蕃は姫より一つか二つ下の御料様を思った。


「又七郎は、姫様の言葉を若君を虜にする口実に使う腹にて」


この状況で姫が今川の若君に会いたいといった。

又七郎はそれをもって、若君の身の確保を行うべしと大河内の者たちに命じるだろう。

又七郎が笑みを深くする。


「虜などと。姫様がお会いになるのです。ならば、こちらへお迎えするだけにございます」


「言葉遊びをしている場合か、虜でなくなんとする」


椿姫が眉をひそめた。


「左馬助。私は若君を縛れなどとは申しておりません。ただ、大河内を粗末にしてはならぬと申すだけです」


又七郎が顔を伏せた。

その口元が、わずかに緩む。

玄蕃はそれを見て、腹の底が冷えた。


左馬助も見たのだろう。

膝の上で手が固く握られる。


「姫様」


左馬助が言いかけた、その時だった。


山門の外で足音が乱れた。

どよめき、怒声、怯えた声が、夜気に混じって押し寄せる。


「何事だ、騒々しい」


水を差されたと又七郎が吠えた。

答えはなかったが、寺の下男が転がるように駆け込んできた。


完全に血の気が引き、真っ白な顔をしている。

肩で息をし、やっとの思いで言葉を絞り出した。


「御料様が、若君が、こちらへ」



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