2章_4
「由比小次郎か」
龍王丸は、荷置き場の裏に平伏する男を見ていた。
由比小次郎を最後に見たのは三年前。最後の手習いの場だったはずだ。
与一郎とともに広間の入り口でこちらを見て、右往左往していたのを思い出す。
今も、背の強張り方は変わっていない。
だがずいぶん逞しくなっていた。
あの若侍としか思えなかった男が、切れ者顔で駿河を出て、今は遠江にいる。
時が流れたのだと、龍王丸は思った。だが、それ以上の感慨は湧かなかった。
懐かしむには、三年前は早すぎる。
「由比小次郎にございます。御料見分のため、駿府より参上いたしました」
小次郎の声は丁寧だった。だが、底に緊張がある。
今川の血への畏敬がそうさせるのか、それとも今日見た市と銭蔵がそうさせるのか。
龍王丸にはどちらでもよかった。
「話は聞いている。明後日時間をとる。今日は宿へ入れ」
小次郎が、わずかに顔を上げかけた。
三年ぶりの再会に、それだけかと思ったのかもしれない。
駿府の動向、天野の旧領を見て何を調べたか、そのようなことを探りあうつもりだったのかもしれない。
好きにせよ、見せるべきものは見せた。龍王丸の腹はそこにしかなかった。
駿府方は愚かではない。
龍王丸に刃を向けることがあっても、そこには今川を守る理屈があるはずだった。
ならば、小次郎の胸中を今ここで探る必要はない。
「今日か明日では、かないませぬか」
成長した。そんな感慨深さで小次郎を見た。
かつての小次郎であれば、ここで言いすがることはなかった。
なにか一つでも駿府に持って帰ろうという使命感と、肝の太さを感じさせる。
「今日は今からしばし出る。明日は大市の沙汰がある。ゆえそれまで街でも見ておくといい」
そもそも若君御料などといわれているが、龍王丸にとってはただの代官地である。
今川の家臣が査察に来れば、好きに見てくれとしか言えないのだ。
「今からというと、大市の視察でしょうか」
「それは他のものに任せた。難事が起こらん限り顔を出す予定はない。今日は、いや、口に出すより見たほうが早かろう」
龍王丸は、市の外へ目を向ける。
大市の喧騒はまだ続いている、いや徐々に大きくなってきている。
しかし、そこに困惑の声と別の音が混じる。
水音。
あけられた水門を通って、天竜川の一部が用水として流れ込んできている。
川そのものを変えたわけではない。堤の脇に設けた取水口から、水の一部をこちらへ入れただけである。
それでも、昨日まで乾いた土を見せていた溝を濁った水が走れば、領民も市の来訪者も声を上げる。
「て、天竜川を治められたので」
怪訝な顔で小次郎を見やる。
そんなこと三年でできるわけがない。
あの川を人の手で押さえ込むなど、今の龍王丸には無理だ。
大堤を築き、流れを従え、村々に安心を与えるなど、夢物語に近い。
ゆえに龍王丸はその足掛かりを作った。
いつか今川が、そこまでの力を持ち、天竜川に挑めるように。
あるいは今川でなくとも、今川を打倒した何者かが、この難行を成し遂げられるように。
そのためにあくまでできる範囲で、大きな博奕は行わず、小さなところから始めた。
今日はたまたまその成果が出た日だった。
この後は天竜川の普請で影響が出るであろう諸国人を集めて、損の出るところを見積もる。
ずいぶんと長い夜になりそうだった。
「御料様、由比様が天竜川のことを測りかねておられます」
天野宮内が平伏したまま言う。
見れば顔をひきつらせたままの小次郎がいる。
確かに天竜川の普請については、駿河の耳には入れないといけないことだ。
前々から報告には挙げていたが、反応が悪い。直接小次郎に言うのがよいだろう。
「天竜川の治水などと大仰なものではない。水の逃げ道を増やし、流される村を減らせるかもしれん。その程度のものだ」
「といいますと、やはり水を細らせるので」
流れる水に支流を作り、本流をおとなしくさせる。
治水の方法としては珍しくないが、それは選択肢になかった。
「村々へ無理を通せるほどの力は、まだない」
支流により使える水が増える村は喜ぶ、下流の村は怒る。
それらをまとめ、天竜川の富を増やすにはもっと大規模な普請、堤がいる。
つまり、主に足りないのは銭と人。現状では目途すら立たない状況だ。
しかし、ここまで手を付けたのだから一段落するところまでは進めるべきとも龍王丸は思う。
さて、どうやってそれらを工面するか。
龍王丸が思案に入り込もうとしたとき、宮内が続けた。
「卑近な例になりますが、水の逃げ道を増やしますと低い場所の田に水が入らなくなります。
一部の村は田畑に水を引けた、暴れ水から助かったと喜びましょうが。それ以外は逃げた水が、己の村に流れ込むのではと悩みまする」
その問題への対応は難しくない。
「黙っておけ。皆一様に龍王丸めの思い付きで困っている。それでよい」
宮内は顔を上げた。
「長く見れば田の枚数は増えようが、しばらくは水の増減で気もそぞろになろう。これは時が経てば慣れる。
村々の間で諍いが起これば、長く拗れる。こちらの方が手間がかかる」
「短く見て減った収量は如何します」
問うたのは小次郎だ。
「各村々の収量は握れている。増えるとは見ているが、減れば補おう」
「増えた分は取られないので」
「隠された分を見つけるすべがない。取れんな」
大規模な検地が必要になる。少なくとも遠江全体に実行できる力がなければ意味がない。
龍王丸の代官地では、田畑の持ち主、収穫量をまとめている。
だが、他の領主との境や任地外の無主の地は触れていない。
つまり、ここ一年、二年で一息付けた百姓たちが増やした灰色の領域の田畑は把握しきれないのだ。
村ぐるみで隠されたならば、見つけることは相当な手間である。
小次郎が唖然としていた。
まあよいと、ほかにも伝えておくべきことに話を移した。
「あと訴えが出るのであれば、船よな」
は、と宮内が頷いた。
宮内は天野の出であり、材木の管理のために雇い入れた。
目端が利き、何事も腰を据えて取り組むので、気が付けば家宰に近い役目を与えている。
当然、代官地の命綱である物流も把握している。
「川はもうすでに変化があろう。船主たちはなにか言っていたか」
「船を出す場が一つずれたと。荷の運びに遅れは出ませぬと思いますが、しばらく荷揚げでもたつくかもしれません」
その程度であればよいが、と龍王丸は少し気を揉んだ。
些細なずれは大きな問題を引き起こすことが往々にしてある。
川の流れの変化、荷揚げの遅れ。一つ一つは小さな遅れが、玉突きのように大きな遅延へとつながるかもしれない。
大きな遅延は商人にとっては大きな損だ。荷の保管料が嵩み、確保していた人手も無駄になる。
「揉めるなら、明日政所に来るだろう。そこで予定通り話を聞く」
龍王丸はそう言って、小次郎に視線を戻した。
平伏したまま居心地の悪そうな顔をしている。
「由比、駿府方の話もうかがいたいが、今日明日は時間がない」
小次郎の背が、わずかに動いた。
「明日はその政所なるところに詰められるので」
「朝から夕までだ。夜は書庫にでもいるだろう」
政所という名に小次郎は何も引っ掛かりを覚えていないようだった。
龍王丸はあまりその名が好きではない。若君御料という名前も好ましくない。
本質から遠いのだ。
単なる代官地の代官屋敷なのだから、名称を改めるべきだ。
若君御料という名前も、旧大河内代官地や天竜川近辺代官地、ぐらいでよいではないか。
しかし、いつの間にか根付いた名前に龍王丸はまあ良い、と諦めるほかなかった。
小次郎は、龍王丸の回答を聞いて、何やら考え込んでいるようだった。
しばしの逡巡の後、意を決めたように口を開いた。
「その沙汰、小次郎めも見分させていただけぬでしょうか」
「許す」
龍王丸が言うと、またも小次郎は唖然とした。
小次郎は駿府から送られた見分役である。
代官地に寄せられる不平不満を見たいといわれれば、龍王丸が否という理由はない。
「明朝参れ」
そういうと、小次郎は頭を下げる。その態勢のまま微動だにしない。
小次郎の供、宮内も同様だった。
龍王丸はかつての駿府館でそうだったように、彼らをおいて歩き出した。
今日もまだやるべきことはある。
自分風情でも行えることがあるのだ。
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翌朝の政所には、朝餉の匂いがまだ薄く残っていた。
龍王丸は朝日が昇り切らぬ頃から、政所、代官屋敷の謁見の間に座り、本日の訴えに目を通していた。
やはり、主だったことは川のことだ。
田の水が早く引いたというもの。水の逃げ道が変わったと恐れるもの。
渡し場では船を出す位置を変えたために、荷車が道を間違えたというもの。
市では、昨日止まった荷の扱いをめぐって、商人が番屋に詰め寄ったというものまである。
それ以外にも細々としたものがいくつも並んでいた。
それらは前もって国人衆や、代官屋敷に詰める人間と話し合い、合意を得ていた想定内のことではある。
実際、今回の訴状の多くは、まだ銭で押さえられる。
あるいは、直接顔を突き合わせ、一つ一つ因果を追えばとける誤解なのだ。
幸いなことに木綿、物流、材木、紙は十分に利益を出しつつある。
自由に動かせる銭は年に三千貫にわずかに届かないが、それらで得た蓄財もあるのだ。
川の問題は十分に対応できると見込んでいた。
しばらく後、代官地の役人たちが入室してきた。各々龍王丸に頭を下げて、自分の持ち場に座る。
その中に小次郎もいた。
小次郎は、部屋の中央に鎮座する龍王丸に目をむいたが、恐る恐ると部屋の端に座った。
そういえば、駿府ではあえて何事も遅れていた気がした。
周囲の人間が手習いや、謁見やらの準備が終わり、それから龍王丸が部屋に現れる。
そのような順序を守らされていた。
しかし、残念ながらここは代官地であり、龍王丸は見放された元嫡男でしかない。
今川の格を下げるといわれれば頭を下げるほかない。だが、頭を下げても川が戻らぬ以上は、今は実務を優先したかった。
そうこうしている間に謁見の時間になった。
最初に呼ばれたのは、渡しの一件である。
役人に連れてこられた商人は明らかに顔色が悪かった。
眠れなかったのだろう、目の下が黒い。
一方で隣に立つ渡し守は、日に焼けた顔をしかめ、商人を見ようとしない。
二人の間に、言い争いの熱はもうなかった。
あるのは、互いが自分だけ損を押し付けられるのではないかと身構える冷たさである。
「ことの成り行きはすでに記されている、相違ないか」
役人が調書を読み上げた。
まとめるとこういうことだった。
渡し守が誤った荷を船に積んで出発した。それを取り戻しに商人が追いかけた。
運の悪いことにその船、本来商人の荷が向かう湊には向かわなかった。
結果、信用を失いかけ、余分な運び賃まで背負った。
ただこの商人ももめ事を作った。荷を運んだ渡し守に銭を払えと訴えたのだ。
龍王丸は、御料仕立ての木綿二十反、と書かれた文字を見た。
大層な名前が付いたものだ。
買い手も今川領内ではなく、近江のものだった。
龍王丸は控えを閉じた。
「柊屋。災難だったな。随分張り込んだ買いだ」
商人の肩から、ほんの少し力が抜けた。
「だが、渡し守への訴えは認められぬ。赤で塗られた船は湊には行かぬ。
そなたは重々承知のはずだ。またそなた以外のものは、この船がどこへ向かうか分かっておった」
商人が固まる。暗に見落としたのはお前だという、龍王丸の言葉に息をのんだ。
渡し守は鼻を鳴らす。
「また渡し守の船を蹴飛ばしたな。いかんぞ」
商人は反論しかけたが、言葉にならなかった。
今度は龍王丸は渡し守へ目を向けた。
「で、そなたは商人を渡し守仲間で囲んで川に放り込んだか。挙句、木綿二十反も川にな」
渡し守の得意げな顔が固まる。
「一つ、柊屋の商いで生じた損は渡し守の責にあらず。その訴えを取り下げる。
二つ、されど渡し守が柊屋の木綿を川に捨てたる件、これは許さず」
「で、ですが御料様。さすがに木綿二十反の弁済など」
役人が渡し守を怒鳴りつける。その声で渡し守は縮み上がった。
天竜川の渡し守は最近羽振りがよいが、それでも上物の木綿は手が出せない。
そんなことは龍王丸は承知の上だった。
「川に落ちた反物はこちらで拾う。私がもらおう」
正確にはこれから拾う。
運が良ければ下流で一反、二反は見つかるかもしれない。
「お待ちを、反物を献上品とする是非はともかく、それでは近江方への顔がたちませぬ」
今度は役人が商人の襟首をつかみ上げた。
初老の商人の眦に涙がたまる。
「近江方に向かう船だがまだ出ておらなんだ。ゆえ、急ぎ替えの反物をこちらで用意し、荷として載せた。
不快かと思うが許せよ」
商人が固まった。渡し守もだ。
「そなたが買い付けた店を昨夜夜分にあけてもらってな、同じものを用意できた。不足はなかろう」
時間があれば翌日の訴状を見る癖のおかげで、一手間に合った。
ヒヤリとしたが、今日の早朝に船に乗せることができたのだ。
今頃、木綿は海上であろうか、そんなことを龍王丸は考えた。
そして、口を開けている二人に次の議題。此度の罰について申し付けた。
「柊屋、渡し守への迷惑料として正規の荷運び賃の二倍を支払うこと。次の大市への出店停止。渡し守、免状十日停止。
されど双方とも天竜川の普請に人手を出せば、各々の停止を取り消す。異論ありしや」
二人とも恐々と平伏した。
狐に化かされたような顔をした二人が退出し、しばし間が空いた。
「その、少し甘い沙汰だったのでは」
小次郎だった。手には帳面と筆がある。
周囲の役人らが動きを止める。それらを目で制しながら、龍王丸は答えた。
「川の水が減った。それで船の位置が異なったことも影響がないとはいえん。
これを見越し、前々から船ごとに行き先で、塗り分けるようにしていたが」
それでも見落とす人間が出た。
大本が龍王丸の施政であるとするならば、責を一方に背負わせるのは不平等でもある。
「ほかの人間は正しく船の行き先を見ておられたようですが」
「色の見えぬものもおろうよ」
小次郎が馬鹿にされたと思ったのか、目を少し険しくした。
だが、事実なのだから仕方がない。もっと配慮が必要だった。
旗も試したが字の読めぬ者も多い。旗と目印の組み合わせも試したが効果が薄い。
もっとわかりやすく次は飾りでもつけさせるか、と龍王丸は思案した。
瞼を閉じ、天竜川の船に思いを寄せていると、また次の人間が連れてこられる。
木綿仕立て場の取りまとめ役だった。四十を越えた女だが、背筋の伸びた者だ。
指先は荒れ、爪の間に藍が残っていた。
近頃よく代官屋敷に顔を出す女である。
彼女が持ってくる要件は卸せる木綿についてや、人手の融通、田畑の手入れなど多岐にわたる。
いわば彼女は現場の責任者に近いものだった。
「御料様、ご機嫌麗しゅうございます」
御料様、これも龍王丸には気に入らない呼び方である。
当初は代官地に携わる人間を指しているのかと思っていたが、気が付けば龍王丸一人を指す言葉になっている。
「イネ。そなたの訴状には目を通した」
取りまとめ役の女、イネが期待を滲ませながら平伏した。
彼女の訴えは昨夜、寝る前に確認したもののひとつである。
難色を示すものではなかった。
木綿の売れ行きがよい。御料袋も荷布も足りない。ならば、もっと綿を作り、もっと木綿を卸したい。
そのために、今ある田畑の一部を綿畑に変えたい。
食い扶持となる田畑については、まだ代官地の手が入っていない芝山を開き、そこへ移す。
代官屋敷に求めるのは、開墾と綿作が軌道に乗るまでの銭と人の援助である。軌道に乗り次第、色を付けて返す、とある。
小次郎が、視界の外で小さく唸った。
悪くないと思ったのかもしれない。少しの銭と人を入れれば、木綿は増える。増えた木綿は売れる。
かかった銭も戻る。一見、損のない話に見えた。
「訴えは認めぬ。村の田畑をつぶすこと許さず、芝山開くこと許さず」
イネが頭を上げた。気の強そうな目が、わずかに吊り上がる。
「御料様のお顔は潰しませぬ。木綿は必ず納めまする。銭も、人も、借りた分は返します」
「いまさら顔など潰しても構わん。されど田畑と芝山はつぶすなと言っている」
イネの唇が引き結ばれた。
「田に向かぬ地を綿へ回すは許す。そなたの村内、見捨てられた田畑で試すなら止めぬ。
だが、今ある田と芝山を潰すな。三度は言わぬ」
イネはなお何か言いたげだったが、龍王丸はそれ以上を許さなかった。
「下がれ」
そう命じるとイネはしぶしぶといった様子で頭を下げ、足音を重くして退室した。
未練がましい足音が遠ざかったのを確認してから、龍王丸は一人の役人に言う。
「この訴えを取り持った者がいる。名前は知らせる必要はないが、袖の下は今回だけにせよ伝えよ」
役人が頷き、イネに続いて部屋を出た。
「新田開発、木綿増産。聞こえは良いがな、もはや余地がない」
小次郎が尋ねる前に口を開いた。
小次郎は帳面に何事か書き込みながら、首をかしげていた。
「手を付けていない芝山を勝手に開いてくれるのですから、良いことなのではないでしょうか」
「確かに米は生まぬ土地であるが、近隣の者らが冬の薪をとる。田畑の肥やしとなる草木もとる」
言わなかったが、兎や野鳥、鹿もある。
女子供、老人の手で拾える、飢えを満たせるものが芝山には残されている。
「若君の領地に無断で踏み入ってのことですが、気に留める必要など」
龍王丸も、慈悲深い顔をしたいわけではない。
代官の芝山に忍び込まねばならない者たちを追い込めば、逃散を招く。
逃散が出れば田畑は荒れる。そうなれば少々の木綿の増産も意味がない。
それに、と龍王丸は天竜川にまたも思いを馳せた。
山々の木々の伐採は、水害を招きうる。
天竜川の普請に手を入れ始めたばかりのいま、どうしても慎重にならざるを得なかった。
だが、それを小次郎に長々と言う必要はなかった。
伐採と水害の因果など説明しても詮がない。
芝山の無断利用については、小次郎に理がある。
結局、龍王丸には曖昧に目を細めるしかない。
「そうだな」
龍王丸は、そう言いながらイネの訴状を横へ置いた。
役人の一人が訴状を却下の束に入れ、持ち去っていく。
小次郎は龍王丸を見て、喉を上下させたがそれ以上何も言わなかった。
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訴えへの対応は淡々と進んだ。
山方へ送る飯米が届かないと人足が勝手に帰ったこともあった。
荷札の書き違いでのもめごともあった。
寺へ渡す塩の量をめぐって倉番と寺の使いが揉めたりもした。
破れた木綿袋の弁償を、商人と倉番が互いに押しつける訴えもあった。
どれも放っておけば揉める。だが、御料を止めるほどのものではない。
だが龍王丸は一つずつ聞き、一つずつ沙汰した。
山方には追加の人足を送り、人足が届ける予定のものは別口から出す。
荷札は迷惑をこうむったものに説明に行かせ、可能範囲で損を補う。
塩については倉番が正しいので、寺にその旨を送る。
木綿の弁償については倉番が過ちを犯していたため、龍王丸が詫び金を払い、倉番には繰り返さぬよう注意する。
どの沙汰も、その場は収まったように見える。
しかし、どの沙汰も後を引く。
今後も繰り返せば山方は手際の悪さに龍王丸への信用を無くすであろう。
荷札については改善と簡略化を急がねば利用するものが減るだろう。
寺は今回の一件で龍王丸に隔意を持つだろう。
木綿の詫びについては、倉番、商人ともに納得しないだろう。
誰かの損が消えるわけではない。怒りが消えるわけでもない。
そして、このような訴状は、明日にもまた同様のものが出てくる。
龍王丸は白湯で喉を潤しながら、処理された訴状の山を見た。
それでも、誰かが怒りを飲み込まないと進まないのだ。
今川の若君は吝嗇といわれるだろう。
銭蔵にあれだけ貯めこみながら、困っている人間には出し渋るといわれるだろう。
だが、それでよかった。
皆が満足する沙汰など、龍王丸にはできない。
できるのは、今日の不満を御料が動かなくなるほど大きくしないことだけである。
正午に近づくころ、広間に入ってくる者の数が少しずつ減っていった。
残っているのは、小さな訴えである。蔵前の場所取り、荷車の順、寺へ運ぶ薪、破れた縄の弁償。
どれも面倒ではあるが、役人だけでも捌ける。
昼からは船を見に行けるか、いや、小次郎に時間を取るか。
そんな風に考えながら龍王丸は、膝の前に置かれた次の訴状へ手を伸ばした。
そこに、馬込筋の扶助米の件があった。
またそれと合わせて、蔵の俵数が合わない、とある。
「いかがいたしました」
その日、初めて停止した龍王丸を怪訝に思ったのか、役人が手元を覗き込んだ。
「いや」
何でもないと返そうとしたが、やはり気になる点があった。
馬込方面に援助として米を送ることは度々行われていることである。
また名目もおかしくない。
天竜川の氾濫で被害にあった低い土地の村への扶助。
壊れた堤や水路へ普請に出た者に対する米。
ほかにも施粥のため寺へ渡した米。街道普請に出た人足飯などだ。
そのうえで一点飲み込めないのが、これらの援助が何度も同じ方向に、頻繁に行われていることだった。
馬込筋は開発や修繕の余地があるが、他と比べて最近は特別手がかかるというわけではない。
龍王丸は訴状から目を上げた。
「これは誰が持ってきた」
帳付の一人が頭を下げた。
「西蔵の者にございます。今日の出米に間に合わぬため、本蔵から回したいとのことにございます。
ただその際、西蔵の米俵が合わぬこともご承知いただきたいと」
「しばし待て」
本蔵に余裕はある。求められている十倍でも難しくはない。
「西蔵の者の名はなんといったか」
龍王丸は知っていた。
だが、聞いた。
「大河内玄蕃殿ですが」
大河内。かつてこの代官地近辺を支配していた一族の名である。
だが、これも別段気になる点ではなかった。
天野宮内をはじめ氏親の再平定で潰えた家の人間も、代官地内では珍しくない。
字が読め、土地を知り、任せた仕事をこなせるのであれば出自は気にしなかった。
出自を嘲る者など摩擦があれば、龍王丸が間に入り、力を出せる場所に置けばよかった。
大河内玄蕃もそのようにして蔵番に収まった人間である。
几帳面だが肝の小さい男である。
人と人との折衝などは向いていないが、細やかな仕事をさせれば輝いた。
龍王丸は訴状へ目を戻した。
馬込方面へ向かった米。
合わない俵数。
それらを訴状に上げた大河内。
助けがほしいか、と龍王丸は胸中でつぶやいた。
「西蔵の俵数を改めますか、それとも大河内殿をお呼びしますか」
「よい。龍王丸の気のせいであった。望み通り本蔵から出してやれ」
そう言うと、静まっていた室内がまた動き出した。
帳付は深く頭を下げ、蔵へと歩きだす。
龍王丸は、訴状を懐にしまった。
それを見て小次郎が怪訝な顔をし、何事か帳面に書き込もうとした。
「これはよい。忘れよ」
小次郎が停止した。
咎められたと思ったのか、悲痛な顔で見返してくる。
龍王丸は意識して柔和な顔を作り、言葉をつなげた。
「些事である。一々書けばまた帳面が埋まろう」
納得してはいない顔だったが、それでも小次郎の筆は止まった。
まずはよし、と龍王丸は次の訴状へと手を伸ばした。




