8章_12
「そうか」
五郎は観音寺城を睨む本陣で、ぽつりと言った。幔幕の隙間から繖山の斜面が見え、その中腹に城の櫓がいくつも重なっている。
床几に腰を下ろしたまま、微塵も動かない。
その様な中、自分へ視線が集まっているのを知って、少しだけ言葉を足した。
「主君、武家の棟梁がこのような仕儀になるとは言葉もない。ご無事であられることを願うばかりだ」
草の者を側に置いた、取りまとめ役の家臣が付け加えた。
「公家の邸宅も主だったところは火がかけられておりまする。正親町三条家や、中御門家も同じく」
五郎は背を丸め息を吐いた。
心底、ほっとした、そう見えるように。
「血族だけを案じている場合ではないが、運が良かったか。いや、御祖母様の御霊が両家をお守りしたのかもしれぬ」
五郎は心にもないことを言った。仮に北川殿の魂がここにあれば、頭を小突かれていただろう。
そう思ったあたりで、腹の底が少し冷えた。
五郎は痛ましくてたまらぬという顔を作り、眉間を抑えた。
抑えた指の下で、籠手の皮が軋む。
それから居並ぶ諸将を見た。どの将も突然の知らせに何と言ってよいか分からぬという顔で、首をすくめるばかりである。
床几をずらす音が幾つか鳴り、すぐに止んだ。若い将が一人、口を開きかけて、隣の者に袖を引かれている。
「公方様はどちらに向かわれたのか」
五郎がそう言うと、京から知らせを持ってきた草の者が口を結んだ。
旅装のまま平伏していた男で、膝の脇に笠を伏せて置いている。足袋は破れ、脛には乾いた泥がこびりついていた。
しばらく考え、それからようやく顔を上げた。
「幕臣方や一部の公家らが漏らすには、勧修寺、葉室などがそれらしいと。武家奏者番であり、どうやら前日あたりで忙しくしていたとも」
「それらの屋敷も燃えたのだったな」
草の者は苦々しく顔を伏せた。この男は五郎が京で何をしたのか知らない。
秘密を知る者は少ないほどよく、職掌に関わらぬことは知らせない。
答えがないことを知りつつ、五郎はさらに尋ねた。
「少しでも望みを持ちたい。他に公方様が訪れそうな家について溢してはいなかったか」
草の者は身じろぎをした。それから目を力強くつぶり、頭の中をひっかきまわして答えを見つけようとしているようだった。
伏せた笠の縁を、指が何度も撫でている。
「確かではございませぬが、三条西家。大納言様の邸に、お忍びらしい武家の姿があったと。ただ、その邸も」
「そうか」
五郎はそう言って、顔を覆った。籠手の皮に顔をうずめ、その匂いを肺に入れる。
雨粒や泥を吸ったそれには、土の匂いがしみ込んでいた。匂いに触れながら、五郎は息を吐いた。
幔幕が風で鳴り、それが止むまで誰も口をきかない。籠手から顔を離すと、目の奥が一度大きく痛んだ。
「いかがされましょう」
問うたのは朝比奈備中守である。柔剛自在の男はたじろぎながらも、主君の言葉を求めた。
五郎と同じく泥にまみれた装束であるが、よれたところは見られない。
だが、膝についた手の甲に、古い刀傷が一筋走っている。
「行かねばなるまい。三好殿と何らかの決着をつけねば、天下を乱した阿波方が次の公方という運びもあり得る」
備中守をはじめ、諸将が唾をのんだ。床几の上で膝を組み替える者が二、三人あった。
そこへ涼やかな声が入る。
「天下の大事、なるほど、でございますが。目の前の城はいかがいたしましょう。囲んでいれば落ちまするが、囲んでいなければ落ちませぬ」
見れば、一人汚れていない僧形、承菊がいた。
「落ちねば六角は息を吹き返す、ということもあるまい」
阿波方に寝返った六角に対しては明確に、この討伐の許しを公方から得ている。
今川の大軍を目の前にして、現状では勢力を盛り返すなど、いかに六角弾正少弼とて難しいだろう。
「ですが、再度落とすとなれば面倒があるかと」
五郎は顎を揉み、城を見た。観音寺城は堅城である。だが、最早死に体でもあった。
内応の約束はちらほらと返っており、無理攻めでも十分に落とせる。
ただ、それも時がない。
「弾正少弼殿とご嫡男は、一度叡山に落とせ。公方様の慈悲と申し、城を明け渡すように求めよ」
居並ぶ諸将が腰を浮かせた。
だが、承菊だけは淡々と首を横に振る。
「城主の命を保証するとあれば、開城は叶いましょうが、よろしいのですかな」
観音寺城で六角家中が争っている点は、六角の血の扱いである。
公方に弓引いて負けた以上、多少の損を受け入れることはできる。
だが、近江守護の六角家当主、それもかつては名将の誉れが高い男を差し出せるかとなると、話が違う。
どうにか出家などで茶を濁す、それが叶わなくとも嫡男だけでも許しをもらい、捲土重来を期す。そのような考えが重臣連中にあるらしい。
だが、下の家臣らや六角と縁遠い国人などは、そのようなことに関心が薄い。
すぐにでも今川と結び、領地の焼かれる憂いを減らしたい。
このような見解の相違が、なかなか話を纏めない。
五郎は薄く笑いながら、膝についた埃を払った。それを見て承菊が一歩踏み出した。
「叡山に一度送れば、返せとは通りませぬ。向こうも六角の元当主という大駒、軽々手放しは致しますまい」
承菊は穏やかな口調であるが、何度も数珠を鳴らす。
近江の統治を任すのではなかったのか、と五郎に訴えていた。
数珠を繰る手は、言い終えてもまだ止まらない。
五郎は悲しむ顔を作り、承菊を手招きした。
一歩、一歩と進む承菊が間近に来ると、その肩をつかんで身を寄せさせた。鳴っていた数珠が、胸のあたりで止まる。
「六角は阿波方とつながっている。ゆえに今川を観音寺城に寄せ付け、筑前守に洛中を焼かせ、公方とそれに味方する公家を弑した」
囁かれた承菊は身を離し、目を見開いた。だが、それを許さず、再度捕まえる。
掴んだ肩の骨が、思っていたより細かった。
「これを匿うとなれば、叡山も天下のためにならず。返せと申し出て、断らせよ。それが理由になる」
それだけ言うと、承菊を押した。
承菊はしばらく無表情のままで、何度も頷き、その後に深く笑みを浮かべた。
「承知いたしました。されどその仕儀、拙僧が取扱うはいささか重く」
「龍王丸が表に立つ。叡山についての沙汰もすべて」
今川の次期当主が、当主の許しを得てやれば問題がない。
そう言うと、承菊は微笑みながら頭を撫でた。
「それは、またなんとも。延暦寺の荒法師を相手にするとあらば、大層な手習いになりましょう」
きっと叡山は燃える。火をつけるのは、あの大切に育てられた息子になるだろう。
承菊は袖の中へ手を戻し、次の言葉を待っている。
「年の頃は考えよ。ある程度問題ないと思えば、やらせよ。出来ぬのであれば、そこは治部が行う」
承菊は恭しく頭を下げた。五郎はそれを見たあと、すくと立ち上がった。
五郎は諸将の目を見て、声を張った。
畳みかけた床几が背後で倒れ、従者が慌ててそれを起こしている。
「京だ。行くぞ」
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再び山科を越え、五郎は京へ入った。連れている兵はさほど多くはなく、一万を数える程度である。
かつて四万の兵を率いたことを思えば、少々心もとない。ただ、六角への抑えと、当主の叡山行きが済むまでの見届けという大仕事が残っている。それを思えば、これ以上は出しにくい状況でもある。
無論、今川領から代わりの兵を呼び寄せれば、兵は増やせたが、今はひたすらに時が惜しかった。
急ぐ理由として、不鮮明な有様が続いているというのもあった。だが、三好勢が京から引いたというのが大きかった。
火が着いたあとしばらく三好勢は京に残る動きを見せていた。しかし、今川が一万を超える軍勢で山科を越えたと知ると、再び堺へ取って返している。
この撤退は、奇襲のために多くの兵を連れてきていないという理由もあるのだろう。だが、それ以上に京で戦うことを嫌ってのことと見ていた。
「燃えたな」
五郎は焼け落ちた京を見て呟いた。手綱を握る指へ、鞍から馬の熱が上がってくる。
今川勢は整然と大通りを進む。それだけで、焼け落ちた廃墟から抜け出た民らが頭を下げた。
下げたまま、こちらが行き過ぎるまで顔を上げぬ者が多い。焼け残った柱に掴まって、立っているのがやっとの年寄りもいた。
それらの民衆から少し顔を上げ、前方を見れば、公家の屋敷が立ち並んでいる。そちらは、いまだに細い煙が何条も昇っているのが見えた。
「古典を絶やしたか」
五郎はまた呟き、顔を振った。
いや、下向している貴族がいる。彼らも乱世の中で家伝を残そうとはしているだろう。
そのあたりで、多少は燃え尽きたものも補えるかもしれない。
馬の脚が、崩れた土塀の破片を踏んで鳴った。
近くに寄ってきている気配を感じ、今度はきちんと言葉を発した。
「御所と宮中はどうなった」
「無事です。いえ、無事でございました」
馬を寄せた天野宮内が、同じほうを見て口を開いた。含みのある言い方である。
手拭いは頭に載せず、今日は襟へ押し込んでいた。日に灼けた首筋へ、煤が斜めに付いている。
「野盗でも入ったか」
「御所の方はそうらしいと話が上がっております。されど、宮中は匂わせるだけにございます」
「大きな声では言えぬことであろう」
五郎は宮中の方角を見る。そちらもやはり煙がまだ見える。雨でも降れば多少は変わるのかもしれないが、いまだ晴天が続いていた。
少しだけ匂いを嗅げば、木々の焼けるそれと、肉の焦げるそれが、鼻腔を擽った。
「禁裏修理に大枚を叩いた御屋形様にとっては、中々に難しいところでございますな」
宮内が揶揄うように言った。
「やって無駄だったとは言えまい。あれのお陰で大葬が行えた」
その後の工作を思えば、無駄ではなかった。
「即位式のためにまたやれとせっつかれましょう」
「そう言える人間がどれだけ残っているかであるが」
五郎はまた公家の屋敷のほうを見る。火をつけるように言った家屋は、そう多くない。
公家の屋敷の構えから見て、何軒も燃え移りはすまいと思っていた。だが、一度火が着けばあとは治安の悪さもあり、選ばなかった屋敷にも火が着いているようであった。
おそらくは一部の三好勢が、本当に暴れたというのもあるだろう。
「どちらにせよ、真実は決まっている」
五郎はまた小さく呟いた。
事実は揺るがない。だが、真実は変わる。いくらでも変えられる。
五郎は目を細めながら、大通りを進んだ。
途中、やせこけた女が一抱えの炭の如きものを抱き、こちらをぼうっと見ている姿があった。
通り過ぎてから、その炭が赤子だと気がついた。
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そのような姿をいくつも見ながら、五郎はまず御所、というより御所の跡地へたどり着いた。
近づくと、生き残ったであろう幕臣らが駆け寄ってくる。烏帽子を失くした者、袖の焼けた者が混じり、どの顔も煤けていた。
「問答よりも、まずは天下の大事を尋ねたい。公方様は御無事か」
五郎は短く問うたが、幕臣らは顔を見合わせ、口をもごつかせた。
その幕臣らをかき分けて、伊勢伊勢守が姿を見せた。
頭に怪我をし、布を当てていたが、他に目立った負傷はない。
幕府の政所執事として、堂々とこちらへ歩を進める。後ろの幕臣らは、その背に隠れるようにして足を止めた。
ただ、その足取りは過日のそれと比べ、わずかに足を引きずるような素振りがあった。
「その件、お話ししたく。されど、他聞を憚ることにございます」
五郎は目を周囲に走らせ、それから頷いた。
そして数名の供だけを連れ、御所の池へと誘われるままに進んだ。
ある程度進んだあたりで伊勢守、五郎双方の供が離れ、二人だけが燃え残った池の前に佇む。
石組みの一部が黒く焦げ、そこだけ苔が消えていた。
水面には、何処からか落ちた松の葉がちらほらと浮かび、鯉がそれを突いていた。
「公方様、行方知れずにございます」
伊勢守はこちらを見ずに、それだけ言う。
拳が握られ、震えた。握った拳の甲に、擦り傷が乾いている。
「公方様は当日何処に居られた」
五郎は重々承知のことを聞いた。
「三条西家にて、即位式の前打ち合わせをしておりました。大館伊予守、三条西大納言、勧修寺頭弁らがともに居られたと」
そこまで分かっていて、公方の行方が知れずということが指すことは明白である。
死んだ。だが、肝心の死体の判別がつかない。
五郎が送った草の者らによると、三条西家から逃れた高位の者は二名。
邸の主である三条西大納言、そして勧修寺頭弁だけである。
それらは京を離れ、寺へ逃れた。幾人かの公家らとともに、騒動が落ち着くのを待っているらしい。
そして、そこに公方と伊予守の姿はないことも上がっている。
五郎は記憶を頭の端に追いやりながら、水面へ目を戻した。
「公方様は御存命である。そう広く訴えねばなりますまい」
五郎がそう言うと、伊勢守はにわかに屈んだ。屈んで鯉に顔を近づけた。頭へ当てた布の端が、水面すれすれまで垂れている。
「それ以外にありませぬか。顔をだせ、宮中に説明に参れと申されればいずれ、露呈しますぞ」
なくはない。いや、確実にそうなるだろう。
「そう申さなければ、公方様の身を狙ったであろう、三好、阿波方に将軍位をなどという声も上がりましょう」
伊勢守が首を回し、こちらを見た。眉を寄せ、渋い面持ちである。
五郎は目の端でそれを見つつ、同じように屈んだ。
自分のところには一匹も鯉は寄り付かなかった。水の面には、焼け落ちた庇の影が長く伸びている。
「公家らが京を燃やした奴らに靡く、そう申されるか」
「何もかも失ったものは誰の手でも取る。京を燃やされた公家らも、阿波方が手を差し伸べれば、取らぬとは言えますまい」
五郎の所感であるが、許す理由、矢を射かける損が揃えば、敵意は薄れる。
甲斐や上野でやったため、そのように運ぶための手順も頭にあった。
三好筑前守にできないとは言えない。
「伊勢守殿が幕府の御為に、それを後押しするというならば邪魔は致しませぬ。堺公方殿も足利の御血筋。形だけなれど幕府は保てましょう」
「形だけと、はっきり申される」
伊勢守が口を歪めた。歪めたまま、頭へ当てた布の位置を直している。
「ただ、少なくとも今川は従えませぬ。このようなことを成される方に頭を下げるなど、到底できようもござらぬ」
五郎はするりと白々しいことを言えた。
伊勢守はそれを聞いて、歪めた口で小さく笑った。息を漏らしながら肩をゆすり、それから目じりをぬぐった。
「若い、若い。伊勢家の血を引くのであれば、権威と力のある方には頭を下げねば。泥を厭わず飲み、粛々と己の職分を全うする。そうして初めて幕臣は家が保たれるという物でござる」
「亡くなった祖母と同じことを申される」
五郎はまた心にもないことを言った。
伊勢守は膝を伸ばして立ち上がると、腰のあたりを叩いた。叩く音が、池の面へ低く落ちた。
「阿波方を立てて幕府を保つ。それもよろしい。まず、阿波方が作った堺の仕組みが、京にそのまま来るようなものでござる。ゆえ、幕政を執り行う力はありましょうな」
「では、伊勢守殿もそちらに」
五郎は離れていく鯉を見ながら言う。
伊勢守も同じように、鯉が緩やかに泳ぐのを見た。それから首を横に振った。
「ここまでやられた公家らが靡くのは時間がかかりまする。それに、今川が敵になるのであれば、その治世が落ち着くこともありますまい。寧ろ幕府の存続を危うくしましょう」
五郎も膝に手を付けて立ち上がった。長く馬に乗っていたためか、体が軋みを上げた。
足の裏が痺れ、二歩ばかり踏み直す。
「では、兎にも角にも今は公方様は御存命で通される他ありますまい」
「無論、堺に将軍を立てられぬ以上、詐術で乗り切るほかなし」
伊勢守は息を吐いた。
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五郎は連れて来た兵らや、一部の国人らとともに、京を慰撫するために駆けずり回った。
山と積んだ米を粥にし、民らに施しつつ、周辺の寺などを一時の避難所として借り受ける。
また兵数を背景に巡回などを行い、とにかく幕府が健在であることを示した。
どこまで効果があったかは分からない。幕府の健在で京が安堵したなどとも思わない。
だが、今川が配る粥の列は日ごとに伸びた。手を合わせる者があり、五郎を初め今川の高位の武家が姿を見せると平伏する者もいた。
五郎は今となっては、差し出された手を微笑みながら握りしめることさえできた。
そうこうしているうちに、五郎の耳へ阿波方の情勢についても詳細が集まりだした。
堺から戻る船に乗せた者、商いの荷に紛れて出入りする者、いずれも同じことを言ってくる。
それらをもって、五郎は幕臣らを集め今後のことを話すことを決めた。
「堺を中心に、兵が集まっておられる」
五郎は自身の借り陣とした本能寺に、伊勢守や幕臣たちを呼んだ。
そして、第一声でまず切り出した。伊勢守らは信じられぬという顔で、目を剥き喉を鳴らした。
本能寺の板間は昼でも仄暗く、灯が二つ立ててある。幕臣らはその灯を挟み、二列に並んで座っていた。
「ここまでやった相手に兵が集まりましょうか。偽兵ではござらんか」
幕臣の一人、何某かが膝を進めた。若い男である。
その顔に見覚えがあり、記憶をたどると、何時ぞや熱田に伊予守と共に訪れた男であった。
「堺の商人らがはっきりと申した。船に同乗したこちらの手の者も、膨れ上がる兵を確認している」
「公方様の死を吹聴したか」
伊勢守が唸るように言った。腕を組み、唇を噛んでいる。
組んだ腕の袖口が、焦げて縮れたままである。
「丹波、播磨あたりから流れてきているらしく。もともと公方様が許さぬとした、赤松や波多野兄弟の周辺が合流していると見てよいかと」
「最初から最後まで波多野兄弟か。つくづく香西殿は祟られるな」
伊勢守が腕を解き、重く息を吐いた。
「とはいえ、向こうも敗戦や様子見も多く、そう数は多くござらん。一万には足らないと見てよいかと」
その目的は明確ではない。
筑前守の首を取り、許しを請おうとしているのか。それとも本当に戦う気なのか、そこはまだ分からない。
だが、こちらが弓を引く理由は整いつつある。
「治部殿、今の京には必要な兵が多いですぞ。公家らも兵を引きはがすとなれば、文句の一つも言いましょう」
「そのあたりは朝倉の孫九郎殿が、再び兵を率いて戻られるとのことですので、今川の兵が公家の守りに取られる心配はありませぬ。平地でぶつかっても兵数差で押し負けることはないかと」
朝倉孫九郎は、先の火に巻かれることはなかった。
公方からの指示で別の公家の邸宅を訪れており、運よくそちらには火が回らなかったのである。
混乱の中、急ぎ越前へ戻ったが、誰であろう宗滴に叱り飛ばされたらしい。
このような時に尻尾を巻いて逃げるなと、増しの兵を押し付けられ、京へ戻ることになった。
無論、この背景には、今川と朝倉の間で明瞭な形の不戦の約定が結ばれたことがある。
これによって、宗滴が大多数の兵を美濃の境へ張り付ける必要がなくなったのだ。
それならば宗滴のほうに来てほしかったというのが、幕臣らの意見である。
五郎の見るところ、まだ警戒を解かず今川を見張るあたり、あの老将らしい。
五郎は膝の上で指を組み、灯の芯が跳ねるのを聞いた。
「一万と一万か。どう転ぶか分かりませぬぞ」
伊勢守の言葉に、五郎は苦笑した。
「今少し足しましょう。今川方は追加で五千ほどは足せまする」
とはいえ、本当に阿波方の一万が戦うとなれば、圧勝とはいかないだろう。
仮にあと一月ほど後ならば、六角父子の引き渡しも終わり、さらに一万は足せた。
そうなれば今川方二万五千、阿波方一万である。
「阿波方は其の戦力で、こちらに向かってくると。細川六郎様などは和睦に心が寄っていたと聞いておりましたが」
若い幕臣が唾をのみながら言った。
五郎は極力穏やかに声を抑えた。灯のひとつが、そのとき風もないのに揺れる。
「今をもって音沙汰がない。どさくさで押し込まれたか、腹を切ったか」
場が改まった。幕臣の列から、袴を擦る音が一つ二つ鳴る。
おそらくだが、六郎は腹を切る男ではない。筑前守も、今のところ主君は切らないだろう。
伊勢守が頷いた。
「とにかく、阿波方は兵をしっかりと集め、こちらに向かおうとしている。そういうことであろうか」
「その認識で相違ありませぬ」
そういうことにする。
「目的は、」
「さて京の支配か、公方様の御身柄か、もっと畏きところかは分かりかねます」
五郎は一拍を置いた。
それから仄暗い室内の幕臣らを見渡し、声を張った。端に座った者が、灯のほうへ身を乗り出している。
「あれは再び前に出た。今度は退がりますまい」
義維に大義名分をと考えて、京に奇襲をかけた。だが、その思惑は裏返った。
故に今、筑前守を今楠公として称える京童はいない。
「勝てましょうか。相手の軍略は確かですぞ」
伊勢守が目を細めた。細めたまま、組んだ腕を解かない。
「万事、お任せを」
五郎はそう言って頭を下げた。




