8章_11
その日、足利義晴は京の三条西家へ赴いていた。あくまで表向きは私的な訪問であり、供連れもそう多くはない。
幕府の取次役である大館伊予守ほか数名と、義晴のみで邸の門をくぐった。
門から見える三条西家の邸宅は、はっきり言って義晴にはひどく粗末に見えた。尾張那古野に建てられていた、真新しい武家屋敷のほうが幾分壮観であり、また構えもしっかりとしている。
あれらは工夫を凝らした庭などは設けられていなかったが、少なくとも罅の入った塀もなければ、瓦の欠けた屋根もない。まず人を出迎えるのに恥ずかしい思いはしないだろう。
「公方様、あまり見ては失礼かと」
「目に付くだろう。これは」
窘めた伊予守に言い返すと、伊予守からの返答はない。
伊予守も何を言っても嫌味になると考えたのか、邸のあちこちへ目を飛ばすのをやめ、視線を落としている。
門から玄関までの敷石は一枚だけ新しく、そこだけ色が違っていた。義晴はその一枚を踏んでから足を止め、もう一度塀のほうを見た。
まあ、確かに下手に出てきている公家を小馬鹿にする必要もないか。
義晴はそう考え、案内に従って邸の一室へ進んだ。廊下は踏むたびに鳴り、供の者の足音がいちいち後ろで重なった。
歩きながら、義晴は袖の下で腹のあたりへ手をやった。
ここ数日、食が細い。朝の粥を半分残してきたのを、いまになって惜しいと思った。ただ酒だけがするすると入っていくため、空腹は覚えていない。
「公方殿。これはようこそお越しくださりました」
「お忙しい中恐縮にござりますが、元気な顔を見られほっとしております」
部屋に入ると声が二つ飛んだ。
最初の声は館の主である三条西大納言公条。それに続いたのが勧修寺頭弁尹豊である。
どちらも朝廷においては知られた人間である。
二人とも膝を進めて手をつき、頭の下げ方まで揃っていた。大納言は顎に肉がつき、頭弁のほうは頬がこけている。
「いや、大事ない。武家の棟梁として参ったまで」
義晴は上座の近くの、開けられた円座へ腰を付けた。
畳も何もない板間に置かれたそれは、薄く、ひどく冷えていて尻が痛んだ。
腰を据え直してみても、板の固さがそのまま尾骨へ当たってくる。
義晴は尻を浮かせ、円座の端を指で引いて敷き直した。それでも変わらなかった。
義晴は顔を顰めながら、伊予守へ目を飛ばし、顎をしゃくった。これ以上自分の口から何か言う必要もない。
今後、将軍が親政を行うということを示せれば、それでよかった。
伊予守は小さく頷き、膝をわずかに前へ出した。
「大納言様、頭弁様、まず度々お世話になっておりますこと、重ねてお礼を申し上げます」
伊予守が早速、切り出した。
義晴にとっては、公家の何に世話になっているかは分からないが、伊予守にとってはそうらしい。
大納言が恭しく扇で口元を隠した。骨の透けるほど古い扇である。開くたびに、骨の軋む音が小さく混じった。
「何のことはございませぬ。公方殿あっての京。それに即位式の件、やはり公武揃って寿ぐが筋というものゆえ、相応しき形を待っただけのこと」
「大納言様の仰せの通り、堺公方殿には一時の勢いはあれど、やはり恐ろしく。二の足を踏んだだけのことにございます」
頭弁が言い終えると、大納言の顔を窺った。大納言は目を細めるだけであった。
さすがに、このあたりで義晴も合点がいった。
どうやら、先に伊予守が礼を言ったのは、朝廷の阿波方への出し渋りの件らしい。
というのも今川は朝廷に通じて、工作を行っていると聞いていた。
それはそう、難しいものではなく、戦の最中に阿波方の位階を上げられない、しばし待てと押しとどめるだけであったらしい。
であれば、不審はわずかながら苛立ちに変わった。
今川は義晴の家臣である。その今川がその工作に銭を出したのであれば、礼を言う筋合いはない。
むしろ、公家が義晴に頭を下げるのが筋ではないのだろうか。
義晴がむずがるように足を組み直すと、円座がずれて下の板が覗いた。伊予守が懇願するように目をやった。
つまらないが、ここは任せると約束していた。
義晴は何も言わずに目を閉じた。閉じてしまえば、公家の声も伊予守の声も、似たような調子に聞こえた。
「そう仰せられても、やはり武家の序列が正しく保たれたこと、皆様のご助力無くしてはあり得ませなんだ。幕臣として頭が上がりませぬ」
伊予守はそう言って深く頭を下げた。
板へ額がつくほどの下げ方である。衣擦れの音が、そこだけ長く続いた。
「今日は私事でございましょう。そのようになさってはまるで公の行事のようにございます。のう頭弁」
「まこと、畏れ多いことで。伊予守殿、それに頭を下げられたままでは話が進みませぬぞ」
「は、申し訳ございませぬ」
伊予守は額に汗を浮かべながら姿勢を正した。袖口で額を押さえ、押さえた袖をそのまま膝の下へ隠す。
義晴は瞼を閉じたまま、その衣擦れだけを聞いていた。
「して、伊予守殿。あくまで内々の話なのだが、即位式の件これはどのような運びになろうか」
大納言が扇で顔を隠しながら言う。隠した奥から、声だけがよく通ってきた。
「武家の棟梁として、公方様が朝廷をお守りする次第にございます」
「おお、それは心強い」
大納言の言葉に頭弁も頷く。それから大納言は僅かに身を前へ出した。
膝が円座を擦り、板の上で小さく鳴る。義晴は薄く目を開けた。大納言の膝が、先ほどより半寸ばかり近い。
「それでであるが、帝の即位式を守る武家であるが、いったいどなたか」
「と、申しますると」
伊予守が体を固めた。板へついた指が、わずかに開いた。
「いやの、阿波方も公方殿も、京に火が入らぬ様に気を使ってくれているのは承知している。だが阿波も今となっては大したことはすまい。されど、天下の大事である即位式。万が一にもなきようにしたい」
「無論、幕府の威信にかけて」
「いやいや、そこは信頼しておる。公方殿はお強い。ただ、どうにも女達が騒ぐのよ。あまり剽悍なものが出入りするとあれば、気が休まらぬと」
公家の女房らの不満など幕臣には何も言えない。
伊予守は言葉に詰まり、顔を苦々しく歪めるだけである。
「それは、なんとも」
「おお、伊予守殿を困らせるつもりはない。幕府を疑う者などもおるまい。しかし、女達をみだりに騒がせるのもよろしくない。ならば、いっそどこの家が守るかはっきり申して静めたい。まあ、そういう思いで尋ねたまでのこと」
伊予守は少しだけ義晴の足先を見た。どうしたものかと一瞬だが、助けを求めた。
だが、義晴が答えぬと見ると、伊予守はそのうちに息を吐き、また背筋を伸ばした。
「畏れながら朝倉家の兵百ほど、それと大和、山城の国人らでお守りを考えております」
伊予守はそう言ったあと、幾つか大和、山城の国人の何某かの名前を上げた。
それを聞いて大納言と頭弁の目が細まった。名を並べているあいだ、大納言の扇は動かなかった。
義晴も聞いたことのない名ばかりである。いや、全てが終わってから挨拶に来た気もする。どちらにせよ、小物ではあるが。
「なにかご懸念はございますでしょうか」
名を挙げ終えた伊予守が肩に力を入れた。
「いや、懸念などはない。朝倉殿の武勇は知っておる。ただ、朝倉と並ぶ此度の武功の家がなかったゆえ」
今川。
言葉にはならなかったが、その名を察して義晴に二つの心が湧いた。
一つは大きな優越感である。
誰もが羨むであろう武功の家、富強の家は義晴、足利の一門である。
それに命じる権限は、誰であろう義晴にのみ存在する。そう思えば、義晴の口角は自然と持ち上がり、豊かな頬が笑みを形作った。
だが、もう一つの湧いた感情は言葉にできない。
腹の奥底にしこりのようなものが生まれ、熱を持ち、胃のあたりでちりちりと臓腑を焼いた。
そのことにかすかな吐き気すら感じる。
円座の冷たさが、今度は尻から背へ這い上がってきた。義晴は喉の奥で唾を飲み下す。飲み下したものが、しこりのあたりで止まった気がした。
伊予守は体を固くしたまま、薄く笑う。
「どの家かは見当もつきませぬが、激しく戦われた家については一旦戻しておりまする。長く付き合う上で無体はできませぬゆえ」
「左様か。今楠公を打ち破った家については宮中でも評判であったが、武家のことゆえ致し方ない」
大納言はそう言って頭を下げた。
伊予守はその一言を聞いて、黙り込んだ。
膝の上の拳が、握られては開かれた。そのようにして暫く黙ったが、その後に意を決したように口を開いた。
「道永様ではございませぬが、武家のことは公方が指図する。これが一番よろしいかと」
大納言は扇の内側で笑い声をあげた。
頭弁も同じである。義晴はこれらの会話の筋はつかめなかったが、過去の道永の話を思い出した。
道永曰く、公家は今川を酷く使いたがっている。豊かな銭蔵や兵を使い、困窮を脱したい。
其処を見るに、これも同じ話なのだろう。
「まあ、そこはいまさら申すことはございませぬ」
大納言はそれから思い出したように扇をたたんだ。
たたむ音が、板間で妙に高く聞こえた。厚ぼったい唇が姿を現した。
「ただ、知っておられるかな。縁戚の正親町三条のことであるが」
大納言はそこで話を区切り、頭弁へ目線を飛ばした。頭弁は頷き、視線を返した。
「何で、ございましょう」
伊予守が問うと、待っていたとばかりに大納言が笑みを深めた。
頭弁は袖を直し、黙って大納言を見ている。
「いや、なに、正親町三条家であるが、中御門家と連れ立って駿河に一時下向しておる。なんでも侍従殿の祖母の件だとかで」
義晴が美濃にいた時、治部太夫の祖母の北川殿という女人が亡くなっている。これは当然知っている。
上洛の戦の前ということもあり大げさにはせず、駿河にある一部の家など、人数を限って葬儀を執り行ったという話である。
北川殿という人物は娘を正親町三条家に嫁がせるなど、公家にも縁が深い人物である。
だが、そのような葬儀であったため、公家の参列者はほとんどいなかったとも聞く。
そこまで知っていても、正親町三条と中御門の下向については、義晴には初耳のことである。
生唾を飲む伊予守を前に、大納言は言葉をつなげた。
「なんでも、侍従殿が直々に両家の屋敷を訪ね、主だった者を墓参にと連れて行ったらしい。これは御存じだったかな」
「は、いえ」
答えはなかったが、大納言はそれを見て満足げに頷いた。
頭弁も笑みを隠さず追従した。伊予守はそれきり何も言わない。汗の引いた額が、青く見えた。
「大納言様、これは内向きのこと。武家の政ではございませぬ。伊予守殿が知るわけはないことではございませぬか」
「ああ、すまぬ。てっきりこのような私的なことは承知の上で目溢しされたのかと思っておった。まあ、先々代からの縁、上洛で気を使った祖母の葬儀の件など、公方殿に了承を取る話でもない」
大納言は再度扇を開き、口を隠した。隠されていない目は弧を描いている。
「ただ、幕府の取次役を困らせるのは良くない。今後はそうせぬように侍従殿には言い含めておこう。まだ若い故、素直に聞こう」
大納言は治部を何度も侍従と呼んだ。これも道永から聞き及んでいた事であった。
公家、特に二条前関白は治部をそう呼んで、公家の者として扱おうとする。
義晴の目がちかちかとした。久しく覚えていなかったことである。
近江の古寺にいた時、十三渡しで負けたという話を聞き、逃げた時、どうにもできぬ屈辱を覚えると義晴はこうなる。
腹のしこりが、そこで一度大きく脈を打った。
それでその腹立ちのまま、義晴は膝を立てた。それへ手を置き、立ち上がろうと力を込めた。
円座が足の下で折れ曲がった。だが、かくんと力が抜けた。
視界が反転し、体が板間へ投げ出される。
「公方様。如何された」
伊予守がそのことに気が付き、駆け寄ってきた。板を蹴る音が、頭のすぐ横で響いた。
大事ない。だが、治部を侍従などと呼ばせるな。
そう言おうとした。だが口が動かない。
視界の半分が暗くなり、手足の先が冷えていく。
限られた視界の中で、先ほどまで得意満面であった二人の公家が、青い顔をしていた。
大納言の手からは扇が落ち、板間に開いたまま転がっている。
なんとも良い気味であった。
だが、いい加減このままの体勢というのもよろしくない。
伊予守に起こせと言おうとしたとき、にわかに騒がしくなった。
「なにごとぞ、騒々しい。いや、それより医者を。公方殿が御倒れになられた」
それで我を取り戻した大納言が襖を開けた。
襖は勢い余って鴨居を打ち、わずかに跳ね返った。
「な、」
だが、言葉が出てこない。幸い、義晴は外を覗ける位置に倒れていた。
ゆえに開けられた襖から外が見えた。
赤。煙。
そして、大分聞きなれた喚声が飛び交っている。
「火が、火が着いておりますぞ」
頭弁が騒いだ。
「どこの者がやった」
伊予守が下唇を噛んで立ち上がった。
そして、そのまま外へ行こうとしたが、倒れ伏す義晴を見て思いとどまった。すぐそばで呆然としていた幕臣を呼びつけ、命を出す。
「すぐに御所に人を呼べ、公方様が動けぬ。いや、兵もつれてこい。朝倉孫九郎殿がおられたはずだ」
幕臣は青い顔であったが、伊予守に肩を揺さぶられ、こくこくと頷いた。
それからすくと立ち上がり、三条西の邸を軋ませながら走り去った。その足音が遠のくまで、誰も口を開かなかった。
「伊予守殿、これは何処の者が」
大納言が部屋を右往左往しながら問うた。
「わかりませぬ」
「わかりませぬでは済みませぬぞ。京、洛中を守るが武家の、」
「わかりませぬが、おそらく筑前守殿かと」
今楠公。
そう言ったのは誰か義晴からは分からなかった。
耳の奥では自分の血の音が鳴っている。だがかろうじて聞こえる耳に、その言葉が届いた。
「今川は呼べぬのか」
頭弁が縋るように言った。
「全て近江にございます。到底間に合いませぬ」
「馬鹿者、なぜ帰した」
頭弁が怒鳴った。だが怒鳴った後に、ばつが悪そうに目を逸らした。
頬のあたりが、そこだけ赤くなっている。伊予守はそこで居住まいを正し、一度平伏した。
「御怒りについては重々承知にございます。されど今はここを離れるべきと愚考いたしまする。一度危難を逃れれば、今川治部が取って返し、約定を破らんとした阿波方を平らげましょう」
如何か、そう言って伊予守が顔を上げ睨むと、二人の公家はしぶしぶと頷いた。
伊予守はそこでようやく息を吐いた。
それから倒れたままの義晴の襟元へ手を伸ばし、乱れたところを直した。
「では、とにかくここを離れましょう。幸いでございますが、公家の邸を端から狙うほど、筑前守殿も無謀ではありますまい」
そう聞くと、大納言も幾らか落ち着きを取り戻した。
部屋を行き来するのはやめ、足を止めて落ちていた扇を拾い上げ、口を隠した。
「まあ、そうであろう。公方殿が今日ここに来ることなど、向こうは知っておるまい。前例通り夜半にどこぞの寺に籠ればよい」
京はここ数十年で幾度も戦火に見舞われた。
公家屋敷が直接標的になることは少なかったが、それでも足軽たちが乱取りに来ること自体は珍しくはない。
武家同士のことと高を括るよりも、念のため京を離れるほうが安全と言える。
頭弁も同意見らしく、恭しく頷いた。そうなると大納言は調子を取り戻したようで、また目で弧を描いた。
「しかし、こうなると邸の修繕にも費えが掛かりましょうな」
「それは是非出させていただきたく」
「一部だけ直してもみすぼらしい。関白様をお招きすることも考えれば、あまり杜撰なことはできまい」
「無論の事にございます」
伊予守がそう言うと大納言は一層笑みを浮かべた。
だが、
「お逃げください、邸に火がつけられ申した」
突如、三条西の家人らがそう言って滑り込んできた。
その瞬間、幾重もの火のついた松明が邸宅の庭へ転がった。その後、遅れて小さな油壺らしきものが、幾つも塀を越えて投げ入れられた。
油壺は地面に当たると中身をぶちまけ、転がった松明と共に火を広げた。庭へ落ちた松明の一つは、そのまま縁の下へ入り込んだ。
「馬鹿な、大納言様の邸だぞ。筑前守殿とて、」
伊予守が吼えた。
吼えながら、義晴の体の前へ膝を割り込ませている。
「どこの屋敷も火が着いておりまする。当家だけではございませぬ」
寝転がった義晴の目に赤色が大きく広がった。
微かに眼だけを動かし、外を見れば、確かにどこの屋敷も赤く染まっていた。
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洛中を見下ろして、筑前守は口角を上げた。
東山の裾に据えた床几からは、京の屋根がひくく連なって見える。
その屋根のあいだを、三好と赤松の兵が京の兵を蹴散らしながら、どんどんと奥へ攻め入っていた。
喚声は途切れず、辻が一つ落ちるたびに、人の塊が次の辻へ流れていく。
筑前守は膝へ立てた采配の柄を握り直し、その流れを目で追った。具足の胴が痩せた体の上で浮き、身じろぎするたびに肩へ落ちてくる。
堺を出てからこちら、飯はろくに通っていない。それでも今日は、指の先まで冷えてはいなかった。
「まずは良い」
筑前守は静かに頷いた。
「いうほどのことはございませんな。さすがは今楠公でありましょうか」
側にいた赤松次郎が口を開いた。若いというより、幼い男である。年の頃でいえば元服は終えているのだが、どうにも屈託のない瞳がその幼さを目立たせた。
またその素振りもやはりどこか幼い。上気した頬を、兜の合間から覗かせながら、床几に腰も据えず、立ったり屈んだりを繰り返している。
「赤松殿のお力あってのこと。先の十三渡の戦においても、武功第一は御身でありましょう」
次郎は困ったように頭を掻いた。掻いた拍子に兜が前へ傾ぎ、それを直すのにまた手間取っている。
その有様を見て、筑前守は胸中が泥に汚れるような気がした。
いくら浦上に恨みがあったとはいえ、余りにも容易く操れてしまう。そしてそれゆえにこのような危うい賭け事に付き合わせてしまった。
いや、と筑前守は顔を振って考えを切り替えた。
赤松は明確に義晴の恨みを買っている。十三渡しの裏切り、細川道永を討った要因である。
今、御所にいる幕臣は決して赤松次郎を許さぬだろう。そして、それは筑前守、三好とて同様である。
これを一気に覆そうと思えば、やはり玉をとる必要がある。
将軍義晴を手中におさめ、堺公方、義維にしっかりとした立場をもらえるよう交渉する。
そうでなければ、三好も赤松も二度と日の目が見られぬ。そう思われた。
筑前守は采配を持ち替え、空いた手で首の後ろを押さえた。首から肩にかけてが、朝から重い。
「朝倉も今川もどれほどのこともございません。さらに武功を上げましょうぞ」
次郎が胸を張った。草摺が鳴り、その音を自分の耳で聞いて満足したらしい。
「それは心強い。なれど今は御所のみで十分」
筑前守は目礼と共に言葉をすぼめた。
次郎はわずかに唇を尖らせ、尖らせたまま床几の脚を爪先で小突いている。
次郎は先の山科の戦いに加わっていない。今川の軍勢も、宗滴の軍略も目にしたことがないのだ。
それゆえに両家と戦い、武名を上げられると思い込んでいる。
また今の今川は近江にかかりきりで、京からは完全に退いている。
宗滴は養子に少数の兵を預け、本人と精鋭は越前へ下がった。そうでなければ、筑前守は前へ出なかった。
今日はまさしく千載一遇であった。
「筑前守様、辻を抑えました。御所に攻めかかれますぞ」
「いそげ」
山科より共に生き延びた三好の物頭である。
膝をついての報告などなく、血のこびりついた顔を手の甲で拭いながらのそれであった。
筑前守が短く応じると、物頭は凄絶な笑みと共に前へ走り出していった。
その背へ采配を上げて見せると、物頭は振り返らぬまま腕だけを上げて応えた。
「辻と退路を押さえたら、御所に踏み入れ。火はつけるな」
「気を使いなさる。取り逃すのではござらんか」
筑前守の命に次郎が口をはさんだ。筑前守は息を吐きながら、言葉を選んだ。
「公方様のお命を大事にしてのことではござらん。むしろ捕えても、我らの求めに頷かねば、いずれ手にかけねばなりますまい。ただ洛中に火が付くとなれば、義維様の今後に差しさわりがござる」
弑逆は可能な限り避けたいが、百歩譲って、公方の首を落とすのは良い。
弑逆したとしても相手に瑕疵があれば、時をかければ汚名は消せる。
公家らが、あれは致し方なかったと見なせばそうなるのだ。だが、洛中に火となると不味い。
義晴を亡き者とし、将軍を空位にしても、義維に次の将軍位をとは決してならぬ。
あくまで足利内部の内訌、義晴が阿波方を先に切りつけた故に始まった騒乱の結果。そのような形へおさめねばならない。
「そんなものでござるか」
「臆病者でござる。お笑いください」
筑前守がそう言って目に力を入れると、次郎はそっぽを向いた。
向いたまま、腰の刀の柄頭を指で弾いている。やはり、どうにも抑えの効かない子である。
こういう時にこそ民部大輔がいてほしかった。
床几を畳ませ、筑前守は馬へ乗った。鐙へ足をかけたとき、膝がわずかに笑った。
次郎も従者の手を借りて馬上の人となる。
御所を望む場所まで軍をすすめ、それを睨んでいると、ほどなく御所で喚声が上がった。
わあ、わあ、と三好方の兵が壮大な御所へ押し入り、そしてほどなく幾人かの物頭が戻って来た。
皆、兜がずれ、血に濡れていたが、表情に喜色はない。重苦しく、視線を下へ落としている。
一人は籠手の隙間から血を垂らしたままで、それを拭おうともしなかった。
「見つからぬか」
筑前守が言うと、一人の物頭が片膝をついた。
「申し訳ございませぬ。公方の寝所、居室、全て漁りましたがとんと見つかりませぬ。今は蔵など隠れることのできる場所を洗っております」
「進士殿はどこにいる」
筑前守がその名を口に出すと、三好勢の合間を縫って一人の幕臣が進み出た。
後ろ手を縛られ、髪は乱れ、土埃に汚れている。縄尻を持った足軽が、肩を押して膝をつかせた。
「公方様はどちらに」
進士はよろめきながら、周囲を見やった。
それから三好勢のみが側にいると確かめると、ようやく口を開いた。
「どこの家かはわかりませぬが、公家屋敷に足を運んでおられます。大館伊予守殿を伴っているあたり、即位式の前打ち合わせであるかと」
進士はすらすらと答えた。誰も見ていなければ縄を打つ必要すらなかっただろう。
「即位式か」
呟いて、筑前守の顔が歪んだ。
采配の柄が、手の中で汗を吸っている。
「何か問題があるのでしょうか」
次郎が小首をかしげた。錣が肩へ触れて小さく鳴った。
名門赤松の当主も、実権を奪われて長く経つとこのようなことも分からぬらしい。
筑前守はいら立つよりも先に、憐れみを覚えた。そして、このような子を良いようにした自分に辟易した。
「さすがに摂関家のお屋敷で、内々の前打ち合わせなどはせぬでしょうが、それでも高位の公家のお屋敷におられる。これに対して、踏み入ることも、公方を差し出せと迫ることもいささか」
次郎が鼻を鳴らした。
「何を申されるか。ここで公方を取らねば先がない。そう申された筑前守殿でしょう。公家らが明日どちらを向くかなど気にしていかがされる」
む、と筑前守は黙った。
物知らずではあるのだが、それはそれとして、芯を食った言葉であった。
仮に公方が生きていたとすれば、今川が取って返し、今度こそ阿波方は叩きのめされる。
義維の立ち位置をよくするなどは、すべてそのあとの話である。筑前守は采配の先で鞍の前輪を軽く打ち、息を吐いた。
いまさら迷ってどうするか。
気を入れなおし、腹に力を入れた。
「さすがは次郎殿、申されるとおりである」
「では」
「公家屋敷に向かおう、火はかけられぬが、兵らに声を上げさせ追い払う。その後にしばらく待てば、夜半にまぎれ逃げ出してこられる」
今度は次郎が黙った。眉根を寄せ、明らかに手ぬるいと顔に書いてある。唇の端を噛み、馬の首をこちらへ向け直した。
筑前守は内心で苦笑しつつ、言葉を繋いだ。
「無論、どの家かわかれば、踏み込むことも躊躇わぬ。兵の姿を見れば京童や公家らも口が軽くなろう」
そういうと、心得たりと次郎が頷いた。頷くなり馬の腹を蹴り、半馬身ばかり前へ出ている。
そのようにして一路、公家の屋敷の立ち並ぶほうへ軍を向けた。
筑前守は馬上から物頭らの顔を見、わかっているな、と睨みつけた。
まかり間違っても火はつけぬこと、血を流すのは公方と幕臣のみであること。
散々に言いつけたそれらを反芻するように、物頭らは頷き、そして歩を進めた。そして、各々率いる足軽らに合流し、歓声を上げさせた。
筑前守は馬を止め、采配を膝へ横たえて、その声が屋根の向こうへ広がっていくのを聞いた。
効果は明白であった。あっという間に公家の屋敷が騒がしくなる。
どたどたと人の走り回る音、門を開けてこちらを窺う視線が並んだ。半分だけ開いた門から白い顔が二つ三つ覗いては、すぐに引っ込んだ。
「公方様はいずこか。申し上げたいことがある。三好勢が攻め入った。お迎えに参りました」
そのような声を方々の屋敷へかけて回る。筑前守は今、三好の旗を上げていない。
うまくやれば、すぐにでも顔を出すだろう。手綱を短く持ち、筑前守は門の一つ一つを見ていった。
そう思った最中、ぱりん、という何かの割れる音がした。
小さな音である。だが、いやに耳へ残った。
なんだ、と思いそちらを向くと、一つの屋敷が燃えている。
塀の上を越えて、白い煙が横へ流れ出していた。
「何をしているっ」
筑前守は目を見開いて、物頭を叱りつけた。
物頭は火の上がった屋敷の一番近くにいた。物頭は必死に首を横へ振った。
「我らでは、我らではござらん」
「馬鹿者、火がついておるのだぞ。そのようなわけが」
筑前守は知らず知らずのうちに刀へ手がかかっていた。
怒りに頭が痛くなる。
怒りで我を忘れかかるなど、初めてのことだった。
このように追い詰められると、いつも民部大輔が背を叩いた。今日はそれがない。
「とにかく、火を消せ。われらに便乗した野盗の類とせよ」
物頭は青い顔で頷き、火の上がった屋敷へ顔を向けた。
駆け出しながら、足軽を五人ばかり手で呼び集めている。
しかし、そこでまた音がする。
ぱりん、ぱりん、ぱりん。そんな音が連続し、あちこちで響いた。
まさか、と思い振り返ると、火があった。朽ちかけてこそいるが、広大な公家の屋敷に次々と火がかかっている。
馬が首を振って後ろへ下がろうとするのを、筑前守は膝で締めて止めた。
「だれだ」
不思議と口が動いていた。それは自分の配下の物頭や足軽らを責めるものではなかった。
今更、それを疑うほど筑前守は蒙昧ではない。
明らかに陥れられている。
「筑前守様、下手人でござる」
数人の兵が一人の男を引きずって来た。
男は小奇麗な町人の恰好をしており、目を離せば京の民に紛れてしまいそうなほど特徴がない。
筑前守の前へ引き据えられると、男は不敵に笑った。眼はこちらを睨んでおりながら、口角だけを上げている。
引きずってきた兵らが、その笑いを見て顔を見合わせた。
「どこのものだ」
筑前守が問うが、男は答えない。筑前守は采配を側付きへ預け、馬を下りて男の前へ立った。
「六郎様か、神五郎か」
火に照らされながら問う。だが、返りはない。
「今川か」
その名を出すと、ほんの一瞬、微かに男の眼が動いた。
勝ち誇るような、そんな気配があった。そして、一瞬で男は立ち上がると、筑前守へ縛られたままで跳びかかった。
筑前守の兵らは男の体を押さえていたが、それを跳ね除け、猿の如く宙へ身を躍らせる。
まさにあっという間であった。
だが、筑前守の側回りは早かった。ずっと刀を納めていない腕利きたちは、その男を止める間もなく切りつけた。
男は目を見開き、そして地に伏した。
「殺すな」
筑前守が言うのと、側付きの者らが血に塗れた刀を片手に男へ寄るのとが同時であった。
側付きらは男の脈をとると、首を横へ振った。
「そこまで深くは切っておりませぬ。ですが、こと切れているのを見るに、おそらく、毒を含んでいたようにございます」
筑前守は押し黙った。血を吸った男の襟が、赤い明かりの中で黒く光っている。
そこでまた、ぱりん、ぱりんと音がした。
音の先がどうなったかなど、最早見るまでもないことである。
「また、誘われたのか」




