8章_10
京の御所に五郎は戻ってきた。
堺に筑前守が引っ込んだのを確かめたあと、ゆっくりと軍を返したため、あれから五日ばかり経っていた。
その五日の間にも山城にいる今川軍の陣容は様変わりしている。まず、すでにおおよその兵は近江へ戻し、手元には一万ほどの軍しか残っていない。質の良い兵を集中して残したが、それでも往時の威容と比べると大軍の圧力は減っている。
ただ、それでもまだ阿波方や日和見の国人らを圧するには十分な兵である。
これらの軍全てを京には入れていない。八千ほどを京の外へ置き、洛中には二千ほどの兵を、目立たぬように入れた。
この二千はほとんど馬廻り、親衛といってもよい兵らである。旗も立てさせず、辻ごとの番を置かせるなど、少々難しい動かし方をしてもぶれずに淡々と五郎の身の回りを守っている。
あくまで守っているのは京でも、公家でも、公方でもなかった。
五郎はそのようにして夜半に洛中へ入り、その足で御所へ上がった。
馬を降りたのは門の外である。門番は松明を寄せて顔を確かめ、それから慌てて頭を下げた。
謁見の場の上座には公方、義晴がいた。そしてその近くに、伊勢伊勢守や大館伊予守といった幕臣らが詰めている。
夜半だというのに、灯は幾つも立てられていた。
まるで五郎を詮議するかのような目で、幕臣らはこちらを窺っていた。目だけを動かし、顔はどれも神妙に作ってあった。
ただ、どの顔にも恐れと躊躇が窺えた。
五郎は平伏しながら床へ目を落とし、息を吐いた。
こうも疑っていますという目では、何も本心など分からぬだろう、と飽き飽きした。
おそらく祖父や父も似たような経験をしたため、駿河に籠ったのかもしれない、と取り留めもなく考えた。
板は冷えており、ついた掌から冷たさが上がっていた。
京に入る前に正装に着替えたが、袴の裾には街道の土が残っていた。馬に乗り通した腿が、こう畳んでいると芯から重い。ただ、戦の最中という感覚は消えておらず、未だに眠気は体になかった。
「面を上げよ」
五郎は顔を上げ、公方の足元を見た。肥え太ってはいたが、指先は震えていない。
珍しく、酒は入っていないようだった。
顔を見なくても、その程度のことは分かるようになった。
上げた顔は幕臣らの並びの高さで止めておいた。そこから先へ目を上げれば、この場ではかえって角が立つ。冷えた掌を、袴の膝へ移して温めた。
「治部太夫」
とりあえず作ったような重い声であった。
「は」
五郎は付き合うように応じた。
「ようやった」
義晴はまずは褒めた。台本を読んでいるような白々しさがあった。上座では、膝の脇に扇が置かれたままである。
控えの近習は盆も持たず、ただ後ろで畏まっていた。
「して、阿波方はどうなった」
「畏れながら三好筑前守殿は反転をせず、約定通り堺に入りました。洛中を無傷で引き渡すと文を交わしたうえですので、こちらも大人しくしている者らには矢を向けられず」
此度の戦は所詮足利の跡目争い、細川の跡目争いである。洛中に火が着けば、将軍の権威が傷つく。終わらせ方も多少は綺麗に見せる必要があった。約定破りの上、その背を射かけたなどあっては義晴に対して公家らが疑いの目を向ける。
それを匂わせると、何処からも不満は上がらなかった。
「筑前守も臆病よな」
義晴は筑前守を笑った。
「頭が冷えれば、正当なる将軍に歯向かう気概は湧いてこない。武家としては真っ当かと存じます」
持ち上げると義晴は大声で笑った。笑い声が板を伝い、列の端まで届く。
そこを、伊予守が膝を進めて小さく窘めた。言葉には出さず、態度だけでそれを示す。
義晴は興を下げられたとばかりに鼻を鳴らした。笑いの残った口元を掌でひと撫でしてから、また白々しく続ける。
「此度の上洛、今川治部、そなたが武功第一であろう」
またも台本を読み上げるような言葉だった。
「昔日の不義理の許しこそが褒美にございます。それは軍を発する前に公方様に頂いておりまする故、治部を引き付け帳に記すことはあってはなりませぬ」
五郎がそう言うと一際、謁見の間が静まった。
「であろう」
義晴はそれに気が付かずに頷いた。
それ見たことかと、幕臣に言い聞かせるような響きがあった。
列の何人かが、揃って板へ指をつく。褒められているのはこちらのはずだが、褒めた当人のほうが得意そうであった。
だが、今度は伊勢守が咳ばらいを挟んだ。義晴は荒々しく息を吐き、置いた扇へ手を伸ばした。
「そこもとの殊勝さはようわかっておる。だが与えねば後が続かぬ。して、何が欲しい」
五郎はあえて一拍置いた。
膝に置いた手を、袖の内で組み直す。幕臣の列が揃ってこちらへ首を傾けたのが、伏せた視界の端で分かった。
ここで何も申しませぬと言えば、伊勢守はまた咳ばらいをするのだろう。
「何度も断るのも無礼故、あえて申さば、二つ」
「許す、申せ」
五郎は目礼を挟んでから口を開いた。
「まずは近江を。申し訳ございませぬが、六角殿にあそこに居られれば、いざという時、奉公ができませぬ」
「ふむ、近江」
義晴は勿体ぶった。扇の先で、膝の縁を二度ほど叩いている。
叩く音だけが、しばらく場に落ちた。ここで渋って見せるのが作法だと思っているのだろう。
「以前の上洛の折も、六角殿のご助力があれば十三渡の戦に間に合ったやもと考えておりまする。是非に」
これはまず通ると見ていた。近江の六角は観音寺に籠り、今川の兵が周りを押さえている。
近江、六角は公方の帰京を妨げんと阿波方と結んだ以上、肩入れをする理由は弱い。また今川に対してこれを与える理がある。
それになにより、近江守護は事実上の追認である故、幕府の懐は痛まない。幕臣らもこれは予測していると五郎は見ていたため、直ぐに許しが出るとも思っていた。
だが、義晴は即答しなかった。笑みを浮かべ、弄ぶように体を縮める。縮めたまま、伊勢守のほうへ一度目をやっていた。
「まあ、よい。考えておこう。して、もう一つは」
「堺に代官を、と考えておりまする」
幕臣らが顔を見合わせた。膝を鳴らした者があり、扇を取り落としかけた者もある。
堺という言葉が出た途端に、場の音が変わった。義晴も意外そうに身を乗り出す。
「それでよいのか」
「畏れながら堺は阿波と畿内を繋ぐ街にございまする。ここを固く守れば、公方様の御治世は安泰にございます」
五郎はそう言って頭を上げた。そこからどれほど待てど、返りがない。
膝の下で、畳んだ足の先が痺れはじめる。灯の芯が一つ、小さく音を立てて跳ねた。床の木目を目でなぞっていると、唸るような声が聞こえた。
「治部、それでよいのか」
義晴は同じことを尋ねた。
声が先ほどより低く、台本から外れている。伊予守が、袖を直す振りをして膝を引いた。
「他の物がよろしいでしょうか」
やはり堺は露骨だったかもしれない。金の出る壺を寄越せと言うのは、金欠の幕府にはつらい。
それに堺は細川京兆家の勢力圏内と言っても良い、細川京兆を継ぐ細川六郎との兼ね合いも考えれば、今川にやるとも言えないだろう。
五郎は膝の上で指を伸ばし、袖の下へ戻した。腿の重さは、まだ引いていない。
「いや、管領代をという話も出ていてな」
義晴が漏らすと、視界の端で伊勢守の目が鋭くなった。
漏らしたほうは、それに気づいていないらしい。言ってしまった、という顔もしていない。
「恐れ多いことにございます。治部如き若輩に与えるは、幕府の格が疑われるという物にございましょう。そのような話が出たというだけで、誉れにございます」
「よいのか」
義晴は三度尋ねた。身を乗り出した姿勢のまま、戻そうとしない。
念を押すというより、答えを確かめている口ぶりであった。列の端まで、その声が届いている。
「公方様の上洛をお助けできた。御所にて構える公方様をわが目で拝見できた、これに勝る喜びはございませぬ」
五郎は問答を打ち切るように頭を下げた。下げたまま、次の声を待つ。三度も問われれば、こちらの答えはもう変わらぬと分かるだろう。
幕臣らは背後で互いに顔を見合わせているようであり、静まった一室に裾の翻る音が重なった。
義晴は息を吐いた。吐いてから、扇を膝の脇へ置き直す。置いた手が、そのまましばらく扇の上に残った。長い息であった。
「そなたがそれで良いのであれば、認めよう」
「近江守護、堺代官の件ありがたく。今後も忠節を尽くしまする」
義晴が、む、と唸った。唸ったきり、次が出てこない。横では伊勢守が頭を押さえている。もしかしたら、近江守護や堺代官の代わりに、何か言い付けるつもりだったのかもしれない。
伊予守だけが、袖を直してこちらを見ずにいた。
「大儀である」
だが、結局義晴はそれで締めくくった。
扇を開きかけ、開ききらずに膝へ戻している。伊勢守の手が、押さえていた額から離れた。
「して、治部殿、これからのことどうなさる」
合間を縫ってそう尋ねたのは伊勢守である。
固い顔をさらに固くして尋ねた。膝を前へ出し、板へ手をついたままである。
公方の許しを待たずに口を開いたことに、当人も気づいていよう。それでも引かぬあたりが、この男の固さである。
ただ、なにを、とは問わずとも知れたことであった。結局のところ、先ほどの管領代と問う内容は変わっていない。
「畏れながら、近江に腰を入れたく」
「なんだ、もう帰るのか」
義晴が腹を揺らした。揺らしたところで、この場の誰も笑わない。
「阿波方の兵は二千かそこら、これを追いこむために数万の兵を留めるは洛中の方々を騒がしかねぬ、と愚考しております」
「戦はもう片が付いた、そう見られるか」
伊勢守が目を向けた。眉の下の皺が、一本増えたように見える。
膝の向きが、いつのまにか公方ではなくこちらを向いていた。
「細川六郎殿とも文のやり取りが来ていると聞き及んでおります。堺におわす方も、もはや戦う気がないとも」
謁見前に伊予守を通じてそのあたりは握っていた。阿波方も完全に和睦に舵を切っていると見ても良いらしい。
「なにかあれば戻っていただけると」
「そう申したいのですが」
五郎は思わせぶりに言い澱んだ。
「なにか存念はあるのか」
と義晴がここで首を突っ込んだ。扇を止め、膝を崩したままこちらを見ている。
「言いづらいことにございますが、どうにも治部が幕府に専横を企んでいるという噂が洛中に流れておりまする」
一層、謁見の間が静まった。裾を鳴らす音も、膝を動かす音も消えている。
灯の芯がまた跳ねた。伊勢守が何か言い出す前に、五郎が続けた。
「そのような噂が流れた今、今川が軍を置き続けるは公方様のご威光に陰りをもたらすやもしれませぬ」
義晴の目が伊勢守に流れた。伊勢守は微動だにしないが、枯れ木のような指先が震えた。
伊予守はその横で、袖の中へ両手を入れていた。
「今少し軍を離し、皆々様が今川の名を忘れていただく時間を置くのがよろしいと愚考する次第にございます」
「阿波方はまだ兵がおられる。今楠公も健在とありまするが」
伊勢守がわずかに震えた声で言った。
裾の中の手は見えないが、動かさぬようにと明らかに肩に力が入っていた。
「すべては公方様と幕臣の皆様にお任せするほかございませぬ。治部と今川軍数万を置き、阿波方との戦を締めよと申されればそう致しまする。されど、今一度公方様のご威光を知らしめる一助と考えるのであれば、治部のことはご放念いただきたく。世のためにございましょう」
そう言って頭を下げた。
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五郎は翌日、京の町中をぶらりと歩いた。
目的地は一つ、正親町三条家の邸宅であるが、少し遠回りもした。京の街並みを確認しておきたかったのだ。
それに際して供はそれなりに多く付けた。だが、豪奢な格好はさせていない。少なくとも今川家の当主の一行とは思われぬ程度である。
五郎自身も塗りの剥げた笠をかぶり、裾を端折っていた。道は乾いていて、歩くたびに沓の先から白い埃が立つ。
戦装束を解いてから大分経つのに、肩と腰にはまだ具足の重さが残っていた。
前を行く供が二人、後ろに三人、離れてもう二人という並びで、皆それらしく荷を提げている。
公家街を通ったあたりで、五郎は笠を僅かに上げてあたりを窺った。
上げた縁から日が入り、目の奥が痛んだ。人通りはまばらで、物を売る声も遠い。
「花の京か」
「枯れておりますな。遠江の、天野領あたりの方が華やかでございましょう」
側に天野宮内がいた。
あの時の問答から少し、宮内自身距離を置いていたが、またいつの間にか側にいる。
笠は被らず、手拭いを頭へ載せているだけで、日に灼けた首が、襟から覗いている。
この男を初見で今川治部の腹心と見抜く者はいない。精々が隠居した田舎武家であろう。とはいえ、あからさまに京を貶す言葉は目立つ。
「大きな声で申すな」
「これは失敬を、してこの花を如何されましょう」
試すような言葉であった。
「手摘みにはせん」
「目の前に落ちてまするが」
宮内が五郎の目を覗きこんだ。その視線は鋭かったが、五郎はこれといった反応を返さない。
ただ、淡々と胸の内を言葉にした。
「持て余す。それにあまり興味がわかぬ」
散々祖母や母から教わったが、公家趣味は五郎に根付かなかった。
猫は被れる。公家らの教養にもついていける。だが、そこに喜びが湧かない。
公家らが感嘆する風情に心が高鳴らない。
駿府で幾度も歌の席に付き合い、そのたびに一番良い顔をして座っていたが、あれは仕事である。
五郎の胸の内に響くものはなかった。
笠の下で、五郎はもう一度あたりを見渡した。
「今川治部という男は存外、地金は野暮であったな」
「野暮というより武骨に過ぎましょう。聞きましたぞ、管領代を断り、軍も遠ざけると。忠節が著しすぎると評判にございます」
やはり京は噂が早い。気を緩めるとどんな醜聞が流れるか分かったものではない。
「褒められては、おるまいな」
「若武者が格好だけなぞらえておると京童は笑っておりました」
大内や六角、古くは三管領家など名門武家を飽きるほど見て来た京である。五郎ごときの浅い忠臣の演技は見抜いているらしい。
「一緒に笑っておけ」
供の一人が足を止めかけ、宮内に肘で押し戻された。
押された当人は、口を引き結んで前を向く。若い顔に、まだ赤みが残っていた。
「切りかからんとする今川の若衆を止めるので精一杯にございます」
「止めながら笑っておけ。今だけよ」
すぐに笑えなくなる。できれば笑い話になってほしいが。
五郎はそう言うと、京の街並みを眺めた。
塀はところどころ穴が開き、向こう側が筒抜けになっている。数百年前は典雅であったろう庭先に、隠れるようにして畑が作られていた。
菜と豆が半々で、畝の端には水を汲むための桶が伏せてある。塀の穴から犬が一匹、こちらを見ていた。
焼けた跡の残る柱を、そのまま使って建て直した家もある。五郎は笠の下から、それを順に見ていった。
宮内はそれから黙った。
五郎を見て、時折頷いている。何を頷いているのかは分からない。
得心したという頷きでも、感心したという頷きでもなかった。
五郎は歩きながらふと尋ねた。
「そう言えば、宮内。其方なぜ治部に仕えた」
宮内がきょとんとした。載せていた手拭いがずれ、それを直しもしない。
「なぜ、と申さば、どなたかが、態々家に来て、仕えよと申したゆえ」
「あの折の治部は、駿河から追い出された童である。馬鹿にするな、と切り付けていても良かったであろう」
あの時、遠江の代官地へ追い出された折、五郎は数人の供とともに宮内を訪ねた。
宮内は世捨て人に近い暮らしをしていたが、不思議と追い出されることはなく、最後まで話を聞いた。
板間に胡坐をかき、膝の子を片手であやしながらであった。囲炉裏には火も入っておらず、灰だけが白く残っていたのを覚えている。
仕えるにあたっての諸々の取り決め、天野に与える権利など、五郎に許される範囲といった雇いの筋はすべて話した。
だが、その場で仕えるとは、宮内は返さなかった。考えておく、とも言わなかった。
断られたと取るほかない返し方である。
数日後これはもうだめかと思っていたところ、ひょっこり天野宮内は代官地に現れた。
幼い子供らを連れ、仕えると、世話になると言って頭を下げたのである。荷は一人で背負える程度しかなかった。子らのほうが荷より多いくらいである。
「御料様は切り付けられたかったのですかな」
「さて、切りつけられるぐらいで、天野を結び付けられるならば安いとも考えていた。今川は主君、家の仇故、何もなしでは通るまい」
「確かに、そう思えば、切り付けるぐらいは許されましょうな」
周囲がぎょっとした。
前を行く供が振り返り、後ろの者は足を速める。
だが、宮内だけがけたけたと嗤った。
「まあ、それをしなかった理由としては、このまま腐っていくのもつまらないと思うたまでにございます。武家らしく主家に忠節を誓い、そしてその主家より大きな家に潰される、それに飽き飽きしていたのも事実ではございますが、何か変わったことをしてみたかったと言いましょうか」
「追い出された子供を操ることか」
「それは二日ぐらいでやめ申した。操ろうと糸を絡めれば、腕ごと持っていかれる」
宮内は顎を撫でながら、何処か遠くを見た。
撫でる指が、そのまま襟元まで下りていく。話しながら歩く速さは、少しも変わらない。
「そんなことよりも、何をしでかすか分からぬ、暴れまわる龍にしがみ付き、一緒に暴れまわった気になる方が良い。そう思うた次第に」
「結果はどうであった」
宮内が笑みを深めた。日に焼けた顔がくしゃりと歪んだ。
「そこそこに楽しんでおりまする」
「そこそこか」
「そこそこに、なにせ物語の山場には寿命が持ちませぬ。期待だけさせてこれでは、あまりに酷というものに」
宮内が芝居がかった素振りで頭を抑えて悲しんで見せた。
五郎は喉を鳴らした。笑ったのか、唸ったのか、自分でも判じかねる音であった。
「竜頭蛇尾という言葉もある。竜と思って飛びついたは良いが、実は蛇であった。そのようなことを後悔せずに済んだと思えばよかろう」
宮内が立ち止まる。それから五郎の背を見た。
「やはり最後のほうが面白そうに見えまするが」
などと言いながら頷くと、追いかけて来る。
「気のせいであろう。人間の晩年など、どれも骨と皮。詰まらぬ」
五郎は、宮内を真似するようにからからと笑った。
笠が揺れ、また日が目に入る。
「何か変わられましたか」
「何も、と言いたいが、そうかもしれぬ」
「何を思われましたかな」
五郎は天を仰いだ。宮内もそろって上を向く。
塀の上に、細い雲が一筋だけ伸びていた。二人して立ち止まったので、後ろの供が慌てて足を詰めてくる。
「まあ、大したことではない。これは重く大したものだと皆が言う壺をな、背負うにあたって己にはできぬと思い込んでいた」
五郎は両手をかざした。太陽を持ち上げるように大きく背を伸ばした。
「実際は軽々持てましたか」
「いや、壺は死ぬほど重い。だが中身を見た」
五郎は広げた手を戻し、口の端だけで笑った。
「さぞ大層、立派と思われていた中身は鐚銭であった」
五郎がそう言うと、宮内は珍しく言いよどんだ。なんと答えるべきか、迷い頬を掻いた。
「それは、まあ、なんと言いますか。下ろしても良いのでは」
「そうか。だが銭は銭だ。一つ一つは鐚でも価値はある。誰かが持って運んでいかねばなるまい」
重き荷を背負っていく。誰かがやらなければならない。
五郎は笠を指先で僅かに持ち上げた。
「そしてそれは、私で良いと思うたまでだ。資格など必要なかろう。たまたま持てそうな人間が見当たらぬのだ、致し方あるまい」
神君も第六天魔王も日輪の子も、生まれてこないかもしれない。
五郎がそうしたのだから。
「なんとも迂遠で壮大な話でございますな」
五郎はまた声を上げて笑った。
前を行く供が、今度は振り返りもしない。笑われることに慣れたらしい。
「いや、卑近で矮小な話よ」
所詮、天下の話はそんなもの。
五郎は薄く笑った。
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三好筑前守は、堺、その裏手の堀に架かる橋の欄干へ肘を置き、下を見下ろしていた。
木の欄干は人の手で擦られて白くなっており、その白いところだけが日を撥ね返している。
水は濁って流れず、荷を積んだ小舟が二艘、舳先を並べたまま動かずにいた。舟の上では船頭が胡坐をかき、菅笠を顔に載せて寝ていた。
堺へ入ってから幾日か、筑前守は日に一度はここへ来ていた。仕事はある。兵を纏め、不満から暴発しないように躾ける。万が一今川勢がなだれ込んできた際は、これを食い止め堺公方や細川六郎を逃がせるように備える。
とはいってもこの仕事も、ここ数日はないも同然である。義維には少し休むように申し付けられ、主君六郎にはこれ幸いと実権を奪われかけている。
この奪われかけている実権を筑前守は取り戻す気概がない。民部大輔の遺体を見てからまるで気概が湧いてこない。
筑前守は堺の街並みをちらりと見た。
大分堺の街はあわただしい。ただ、そこに騒乱はない。
新たに主となる公方へ通じるにあたって、何を持っていくか、そのようなことを話しているのだ。
やれ酒だ、武具だ、米だと、公方の歓心を買うために色々と策を練っており、そこに阿波方への配慮は大分薄まっていた。
筑前守が橋に立っていても、通りかかる者は目礼して行き過ぎるだけである。
おそらくは向こう側は自分を三好筑前守とは気が付いていないだろうが、阿波方の武士とは知っていてこれだ。
先月までは、こちらが足を止め、訴えを聞くまで動かなかった者たちであった。
あまりの変わりようだが、責める気にはならない。負けた将に頭を下げ続けろとは、筑前守にも言えなかった。
「派手に負けたものよな」
「神五郎」
何時ぞやは民部大輔が来たが、今日、筑前守を探しに来たのは神五郎であった。
こちらも同じ三好だが、この男は背を押してはくれない。
いや、橋を眺めている今ならば押すかもしれない。
神五郎は橋の袂で立ち止まったまま、しばらくこちらへ寄ってこなかった。声だけを先に投げて、そこから足を運ぶのがこの男の癖である。
「戦うのは愚策であるのは一目瞭然であった」
「後知恵だ、とは言わないよ。神五郎は戦を防ごうと動いたわけだから」
保身の色は多くあったが、神五郎の選んだ道が結果としては正しかった。
三好の将兵の多くは帰ってこない。堺公方に傾きつつあった公家らの声も、完全に公方へと転んでいる。
今川と結んでいれば、ここまで大きくは変わらなかっただろう。
「六郎様は其方を切るぞ」
神五郎は試すように言った。だが、それにも反感を覚えない。
「それも良い」
「三好の当主も変わるかもしれぬ」
「神五郎がやるというならば止めはしないけれど、貧乏くじという物だよ」
言いながら、筑前守は欄干の上で指を組み替えた。
切るという言葉も、当主が変わるという言葉も、どこか他人の家の話に聞こえる。
「貧乏くじにした男が良く言う」
神五郎は同じように橋に立った。欄干へ手をかけ、筑前守と同じ高さまで身を屈める。
並ぶと肩の位置が違い、この男のほうが幾らか低い。
下を覗きこんで、寝ている船頭に目を止めていた。橋板が軋み、二人分の重みでわずかに沈む。
「民部大輔は阿波に戻した。丁寧に塩漬けされていたし、季節が季節だ。荼毘に付さずとも良かろう」
神五郎のその言葉には響くものがあった。
「礼を言う。どうにも手が回らなかった」
正確に言えば、それをやれば民部大輔が死んだと認める気がした。ゆえに遠回しになってしまっていた。
「六郎様の手配だ。礼を申せ」
「いけば切られる」
「切られて来い。もう未練はなかろう」
未練、という言葉を口の中で転がした。
噛んでも味のない餅のようで、飲み込むところがない。
ただ、未練というと一つ頭に思い浮かぶものがあった。
「義維様はどうなろうか」
出た言葉を神五郎は鼻で笑った。
「そなたが気にすることではあるまい」
「私が負けたから、御立場を危うくしてしまった。気にして当然であろう」
神五郎は下らぬとばかりに息を吐いた。
欄干の白いところを、指の腹でひと撫でする。撫でた指を袖でぬぐってから、話しはじめた。
「足利の御血筋で、六郎様も担いだ方だ。公方様に差し出すなどは考えておられまい。阿波に戻すゆえ、お許しいただきたいと話を詰めておる」
「六郎様は忠臣の振る舞いが上手い」
橋の下で、船頭が寝返りを打ち、顔へ載せていた菅笠を落とした。
落ちた笠は舟板の上で二度ほど回り、そのまま止まった。
「そなたが下手なだけだ。勝てぬ戦に前に出て、命を散らすだけが家臣のやることか」
「それを言われると、返す言葉がない」
神五郎は鼻を鳴らした。いつもの嫌味も陰気なところも鳴りを潜めている。
ここへ来たのは、阿波方の中央から締め出された筑前守に対し、勝ち誇りに来ただけのようだ。
この男は昔から、知っていることを人へ渡すときだけ機嫌が良い。
「そなたが気にしていた今川だが何のことはない。野心は見せず、領地に帰った。現状、近江守護とどこぞに代官を置く権利だけを与えられたらしい」
筑前守は息を詰めた。欄干にかけた指の先が、木目の溝へ食い込んでいる。
今川の名はまだ重かった。
「副将軍はないと思ったけれど、管領代は持っていくものと考えていた」
「仲が悪いのかもしれんな。兵などもすべて引き上げた」
筑前守の背筋が伸びた。欄干から肘が離れ、袖が落ちる。
痩せた手首が、自分の目にも細く見えた。堺へ入ってからこちら、飯が通らなかった。
それが急に空腹を覚えだしている。
「兵も」
声が震えた。
「ああ、延ばされていた帝の即位式の警護なども公方様の兵でやられるらしい。今川は幕政には関わらん、近江を貰っただけで大喜びよ。まあ、田舎大名などそのような者かもしれん」
「近江は弾正少弼殿がいらっしゃったが、これはどうなった」
筑前守は自分の腹に力が満ちていくのを感じた。声にも張りが出た。渇いていた喉が、いつのまにか塞がっていない。
まだ神五郎はそのことに気が付かない。
橋の下へ目を落としたまま、どこからか聞きかじった話を得意げに話していた。話しながら、欄干を指で叩いている。
「揉めておる。南近江の国人らは今川が近江守護という運びになると、早々に下ったようだが、六角に近しい者らは観音寺に籠っておる。弾正少弼殿は腹を切りたいそうだが、重臣らが認めておらぬ。だが、」
「下の家臣らは早く切れとせっついている。それで今川は兵で観音寺を囲んでいる。そういうことか」
神五郎は不機嫌そうに唇を尖らせた。自分の口から言いたかったらしい。
「なんだ察しがいい。まあ、そう言うことよな。いくら歴代将軍の征伐をはねのけた六角と言えど、今の今川はいかぬ。遠からず落ちよう」
「だがまだ落ちていない」
筑前守は欄干から手を離し、橋から身を離した。
唇を舐め、東を見た。




