8章_9
京の御所に義晴の一行が入り、幾日か経つ。
幕臣らが身構えていた騒乱はなかった。
三好筑前守は、堺と阿波が切り離されること、堺を抑えられて堺公方を取られることを恐れ、京を出たのである。
筑前守と細川六郎の間は冷えている。
策に策を弄し、必勝とした戦に負けた以上、この仲はさらに冷え込むと幕臣らは見ていた。
その筑前守が今後も阿波で勢力を保つには、明確な後ろ盾である堺公方、足利義維を奪われるわけにはいかない。
これが義晴の手に落ちた瞬間、筑前守の正しさは明らかに失われうる。
わずかでも堺が取られる目があるのであれば、下がらざるを得ない。
ただ、幕臣らによると向こうもかなりの者であり、今川方に、退く時に矢をかけぬことを公家を通じて誓わせたとのことだった。
そのため悠々と下がるその背を、見送るほかなかったらしい。
義晴はそのような話を、御所にて耳にした。
話を運んできた者は、板の間の下座で額を伏せたまま、一度も顔を上げなかった。
酒は入れていない。公家への挨拶や、諸将へのねぎらいなど、赤ら顔ではできないことが山積みであった。
義晴は喉を鳴らした。
少し目をつぶれば、あのするすると入る酒が思い出される。
美濃や、そこから京に上るまでの道すがらは、手を伸ばせばいくらでも酒が出た。
御所に上ると逆に不自由するとは思わなかった。
上段の脇息へ肘を預けてみたが、板の冷えが尻から上がってくるばかりである。
京は美濃よりも寒い気がした。
義晴は扇で口元を隠しながら、
「殊勝である」
と、此度の戦に加わった国人の一人の挨拶へそう返した。
国人は板の間に額をつけ、膝でいざって下がって行く。
日に焼けた首筋だけが、烏帽子の下から覗いていた。控えの近習が、次はもうおらぬという顔で、名を記した紙を膝の上で畳んでいる。
この国人がどこの者かは聞いていない。
いや、言っていたのかもしれないが、頭から抜け落ちていた。
抜け落ちるということは、大した名ではないのだろう。扇の骨を指で数えているうちに、下がる足音も消えた。
「これで終わりか」
近習らにそう言うと、無言で頭を下げられた。もう終わりらしい。
では、酒でも飲むかと膝を立て、居室へ下がろうとしたとき、下座から声が掛かった。
「お待ちください、公方様」
見れば伊勢伊勢守貞忠である。列の前へ膝を進め、両手を板につけたまま顔だけを上げていた。
幕府政所執事の職に就き、幕府の財政の管理と訴訟を主に取り扱っている。
薄いつながりではあるが、今川の縁者らしい。
今川領内では、肝心の縁者である北川殿が隠居し、治部太夫本人も義晴を厚遇していたため、その縁を使うことはなかった。
むしろ、常に一歩引き、今川との折衝は取次役の大館伊予守に任せていた男である。
弁えた男というより、頭が固くあまり使いたくないというのが、義晴の所感であった。
「どうした。もう良かろう。疲れた」
義晴は腹を揺らした。立てかけた膝を戻し、脇息へ寄りかかる。
酒を飲んで英気を養っていたはずが、むしろ体は疲れやすくなった気がする。
近習が膝を進めかけ、義晴の手つきを見て、また元へ退いた。
「今後のことについて話したく」
「今日の予定は終わった。今日は女も要らぬ。酒を飲んで少し寝たい」
「いえ、今日ではなく、先々の話。幕府の今後にございます」
伊勢守がそう言うと、幕臣らが袴を鳴らして居住まいを正した。
冷えた謁見の場が痛いほどに静まり、板の間の軋む音だけが響いた。誰かが咳を殺し、その音がまた場の静けさを目立たせた。
「今後か。道永はおらず、六郎も堺。致し方ないゆえ、我らが幕政を取り仕切るほかあるまい」
義晴は少し口角を上げた。上げてから、扇で隠した。右往左往したが、結局細川も他の管領家同様に跡目争いで傾いた。
あとは今川が堺にいる堺公方を捕らえれば、足利の長い悲願であった将軍親政の始まりとなるだろう。
「それはそうなりましょう。しかし、そのためにも一つ考えねばならぬことがございます」
「勿体ぶるな。というよりそのようなことであれば、治部の帰参を待ってからでも良かろう」
今川治部は、堺まで筑前守が戻るか、遠巻きに確かめて追いやっている。
洛中に同道しては、と伊予守が勧めていたが、田舎武者が同道しては公方の格が下がる、と遠慮したらしい。
あとあと伊予守に詳しく聞いたところ、公方の帰還だけを京の公家らに見せるためという気遣いでもあったとのことだ。
益々殊勝なことだ、と義晴はその時のことを思い頷いた。
だが、伊勢守が目を伏せた。
口元には苦みがある。板についた手の指が、揃えたまま少しだけ開いた。
「失礼を、しかし、今しかありませぬ。治部殿がおらぬ今決めねばなりませぬ」
「何をだ」
「治部殿に何をもって報いるかという点にございましょう」
む、と義晴は扇を弄んだ。持ち手をひっくり返し、顎の肉に埋める。
埋めたまま、しばらく伊勢守の額を見ていた。
「今までの無体の償いであろう」
二度の上洛の命に今川家は叛いた。それに対する償いのはずである。
伊勢守は虚を突かれた顔をした。一瞬、顔が無になるが、再び厳めしい顔を作った。列の後ろで、幕臣の誰かが身じろぎしている。
「今後も治部殿を使われるのであれば、それはご再考すべきかと。治部殿は殊勝な方ですが、家中が付き合いませぬ。それに治部殿は此度の戦で大功を上げておりまする、これを無視すれば天下の武士らは腰が引けましょう」
「吝嗇に思われるか」
自分で言って自分で不愉快に思えた。義晴の扇が軋む。握った指の下で、骨が一つ鳴っている。
「ご賢察のほどお願いいたします。なにとぞ」
三度頭を下げるので、義晴は鼻を鳴らしそっぽを向いた。
喉がまた渇いてきている。唾を溜めて飲み下してみたが、渇きは奥に残った。
「伊予守」
義晴がそう呼ぶと、幕臣らの列の中にいた伊予守が膝を進めた。
伊勢守の斜め後ろで止まり、そこから先へは出ない。
陣中では泥に塗れ走り回っていたこの男も、今日は小綺麗な格好であり、香まで焚いている。
「は、治部殿の求めるところにございましょうか」
「何か言っていたか」
「畏れながら、公方様のお許し以外には何も頂けぬと」
義晴は頷いた。扇を帯に差し、息を漏らす。差した扇の要が、帯の結び目に当たって止まった。
やはりあの男は殊勝である。
道永や弾正少弼と言った者らは、所詮、今川よりも家格は下である。それがあれやこれやと命じて犬のように使おうとするから無理があった。
足利の当主が命じるのであれば、今川は不満に思わないのだろう。
そう思うと、この冷えた場もいくらか居心地がよくなった。
「ですが、尚のこと与えるのがよろしいかと」
伊予守は息を吐き、背を伸ばした後、義晴のつま先に目を落とした。伊勢守の口が半ば開き、そのまま閉じられた。
「期待している物が与えられぬから不満を持つ。期待していないところに物を与えれば、より大きく尻尾を振りましょう」
一理ある。
義晴はまた帯から扇を抜き、開閉して弄んだ。開くたびに、冷えた風が顎のあたりへ当たる。
「では、何が良いか。存念はあるか」
「畏れながら、ここは好機と見て、ひとつ試すべきかと」
伊勢守が目を見開いて、口を挟んだのである。膝がさらに半寸ほど前へ出た。
「今川は使える。毒餌はいかぬぞ」
「そうではございませぬ。幕政に関わり、公方様を操ろうとしているか、これを見る必要があると愚考いたしまする」
伊予守が顔を横に振った。斜め後ろから、伊勢守の横顔へ体を向けている。
「伊勢守殿、武功を上げた家の忠義など試してはいけませぬ。それに御身と今川は縁続きではないですか」
「武功を上げた家、縁続き故に試さねばなりませぬ。伊勢家が血縁で天下を横したなど思われては敵いませぬゆえ」
なおも伊予守が何か言おうとしたところで、義晴は扇を開いた。
開いた扇は二人の間を遮った。二人とも口を閉じ、揃って板へ手を戻した。
「飽き飽きする。伊勢守、何を与える。早う申せ」
伊勢守は心得たりと、すぐに頭を下げた。下げたまま、背だけを起こして話しはじめる。
「畏れながらまずは近江を如何するか、これを見るほかないかと。今、今川は近江の六角を攻めておりまする。これを欲するかどうかが一つ」
「くれてやるほかあるまい。阿波には攻め込めぬと申しておった。直ぐに来られるように道筋を設けねば、いざという時、奉公もできまい」
思えば六角に近江を任せたのが不味かったのだろう。実際九代、十代の治世においては六角を討伐しようと軍を上げたことがあった。
それを考えれば、六角に山城の隣国を任せ続けるのは愚策であったように思える。
ただ、かと言って今川に近江もというと義晴も頷きたくはない。
正直言えば、今川は大きすぎるようにも思える。
幸い治部太夫はあの通りであるし、子供が二人いる。子供の代になり、領地を二つに分けるようになれば、多少は落ち着くだろう。
分けたとしてもどちらも足利の血である。
義晴は扇を閉じ、膝の脇へ置いた。
先ほどから伊勢守の視線が強くなるのを感じていた。
「左様でございます。道として渡すは英断かと。ただ、そこで止まるのであれば良し。されどその先を求めたのであれば、気を払わねばなりませぬ」
「先。先とはなんだ」
「管領代、これでございます」
場がまた静まった。列の中ほどで、誰かが隣の者と顔を突き合せている。
前へ出てきた二人は、どちらも板へ手をついたまま動かない。義晴は扇を開いて顔を仰いだ。
「管領代ぐらいはくれてやっても良かろう」
伊予守もそれに追従した。腕を解き、板へ手をついてから口を開く。
「公方様の仰せの通り。というより、大功を上げた治部殿を差し置き、他の者を管領代という運びになりますと、これまた難しき事かと。今川家とその管領代の家、双方に訝しまれましょう」
「無論、某も今川家に管領代はいかぬと申しているわけではございませぬ」
その言葉に義晴は黙った。仰いでいた扇の手も止まっている。伊勢守はさらに続けた。
「治部殿の本心を見るためにも一つ試しに管領代などを匂わせる。断ればそれでよし。受け取るようであれば、天下への野心あり。断固として子の代には領地の分割などを行い、力を落とさねばならぬ。それは御承知くださいませ」
なんだ、そんなことか、と義晴は安堵した。
もともと考えていた事であった。置いた扇をまた取り上げ、手の中で立てる。
「承知しておる。子の代には分ける、簡単ではないか」
「公方様。それは、」
伊予守が言葉を濁した。言いよどみ、口をもごつかせる。
伊勢守のほうは、こちらを向いたまま瞬きもしない。
「伊予守、さすがにこれは当然であろう。別に今川家の領地が減るわけではないが、あまりに大きいと向こうも統治が出来ぬ。もともと二国の守護であったものが、ここまで大きくなったのだ、文句などあるわけがない」
「伊予守殿、あくまで管領代を欲した時のみの場合にございます。それに幕府のため、足利のためあらば、今川殿も分割相続程度飲みましょう」
伊勢守が言い含めるように目を尖らせると、伊予守は顔を顰めたまま腕を組んだ。
組んだ袖から、焚き込めた香が薄く流れてきた。
伊予守は美濃に落ちてから深く今川と付き合った。いや、もっと言えば、関東から十万の軍が湧いてからの付き合いかもしれない。
多少なりとも贔屓目になるのも仕方がない。
「問題ない。治部のことよ、余が強く言えば何なら近江すら要らぬと申すかもしれぬ」
義晴はそう言って腹を揺らした。
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今川勢はその日、京と堺の間で陣を張っていた。戦らしい戦は起こっていない、去っていく三好勢を見送るだけの陣である。
兵を多少入れ替えながら、二万程度の軍で緩やかな進軍を続けていた。
その進軍の最中、五郎は陣幕の中に諸将を集めていた。その場にいるのは今川家の中でも、一門、譜代や重臣など限られた者である。
父の代からの家臣もいれば、五郎の代に加わった者もいる。
ただ、どの将も戦に手慣れ、固く戦う者と五郎は見ていた。
「次郎左衛門」
名を呼ぶと、三浦次郎左衛門が照れくさそうに前へ出た。
具足は身に着けたまま、兜だけを脇に抱えている。倅二人が、その後ろへ並んで膝をついた。
「追い過ぎだ」
次郎左衛門は、追わぬと約束した三好勢の間近まで迫り、何度も物見を出して、挑発に近い動きをとっていた。
もし筑前守の堪忍が足らなければ、戦の火蓋が切られただろう。
「さて、矢は射かけておりませぬ。それに勝てるときに勝ちを大きくする。これが御身の軍法ではありませぬか」
「やめよ」
次郎左衛門は露骨に面白くなさそうにした。腕を組み、鼻を鳴らす。
倅たちは泡を食ったように、父の頭を下げさせようと右往左往した。一人が袖を引き、一人が背へ手をやり、当の父はどちらの手も払いのけた。
「御屋形様は勝ちに飽かれている。勝てるときに前に出ねばなりませぬぞ」
宿老の突然の皮肉に、家臣らが背を伸ばした。諸将の鎧が音を立てる。
「戦には飽いておるが、負けを欲するほど数寄者ではない」
「戦を起こさぬための方法は一つにござろう。負けた相手を徹底的に叩く。これ以外にはござらん」
そう言う手もある。だがもっと楽な手もある。
「別の相手を用意する。裏で後継者争いを起こさせ力を削ぐ。他にもあろう」
「悠長に過ぎましょう」
それは一理ある言葉であった。
次郎左衛門は憮然として言い、組んだ腕を解こうともしない。
五郎は今川八カ国、いや、いま攻めかかっている近江を入れれば九カ国を領しうる太守である。
それに対して、ここまで吼えられるのは、もはやこの男しかいないのかもしれない。
備中守も左京進も、腹の内では似たことを思っていても、それなりに弁える。安房守は迂遠な皮肉を好む。
そう思うと、背筋のあたりに隙間風が通った。五郎は口角を上げた。
上げてから、すぐには戻せなかった。次郎左衛門はそれを見て、咎めるように顔を顰めた。
「やもしれぬ。であるが、どちらでも良い。これ以上は寸土拾いの様なもの、筑前守殿が下がるならば追わぬ」
次郎左衛門は、分かったのか分からないのか、腑に落ちぬ顔をした。口を開きかけ、倅の一人に袖を引かれて閉じる。
「治部が丸くなったかなどはどうでも良い。それよりも次郎左衛門、筑前守はどうであった。攻めっ気は絶えておらぬか」
問われると、次郎左衛門は訝しみをひっこめた。
それから顎を揉み、目を中空へ漂わせた。揉む指が、無精髭の伸びた顎をざりざりと鳴らす。
「まあ、左様でございますな。堺が危ういと見て戻りましたが、それがなければすぐにでも攻めかかる気であったかと。兵らも殺気立っておりました」
「前に出たがるのは察していたが、今少し、策を弄する男かと思った」
敗戦を経てなおも血気盛んである。
筑前守は先の十三渡の戦では赤松を使った。つい先日の戦では朝倉、六角を使い、大きな絵を描いて見せた。
謀略を好む男かと思ったが、存外に自ら前へ出る類らしい。
「単純に下がっても後がないと見ておられるかと」
涼やかな声が挟まった。洛中にやった承菊が、列の端に戻ってきていた。
いつ座ったのかも分からない。裾に埃を残したまま、数珠を手首へ巻いている。
「策を弄しようとも時がございますまい。それに直接の主君の六郎殿は公方様に身を寄せようとしておられる。下がれば下がるほど時を無為に過ごすだけかと」
「庵原の坊主か。そう言うが、むしろここで逃すと阿波に逃れるのではないか」
次郎左衛門が問うと、承菊は顎をしゃくったあとで笑った。明らかに小馬鹿にしていた。
それを見た次郎左衛門の眉間に筋が浮かんだ。
「逃げても意味がないように思えましょう。御屋形様は近江を抑えられた、まもなく近江の守護ぐらいは取れましょう。そうなった場合、今まで以上に畿内に上るのが難しくなる。六郎殿が周辺の国人らを纏めて、公方様に降伏されればさらに」
「さらに時を待つ。それぐらいはやりかねぬ。阿波には軽々に攻め込めぬ。やはり今三好を討つべきであろう」
次郎左衛門が語気を強くした。憮然とした物言いのまま、歯を見せて笑った。いや、威嚇していた。
「待っても意味がございませぬ。御屋形様と筑前守殿の年の差を見れば、簡単にわかること」
承菊がやれやれと、首を横に振る。そろそろ次郎左衛門が飛びかかる気がした。
五郎が承菊に目をやり、もういいだろうと睨むと、当の承菊はただ薄く笑みを浮かべ、袈裟を翻した。
「死に物狂いで前に出ねば、政治的にも情勢的にも上手くない。筑前守殿はそう見ておられるか」
やはり五郎の見立てはずれていない。
ただ、もはや迂遠な手を使う余裕はなさそうである。承菊は答えず、頭を下げる形だけを作った。
「して、御屋形様はいつまでこちらに居られるのですかな」
「気が済むまで」
承菊が数珠を鳴らした。一つ、二つと繰り、そこで止める。
そうではないだろう、と内心で怒っているらしい。
「御所では御屋形様抜きで戦後の話が進んでおられまするぞ」
「好きにさせよ。幕臣らの気が済むまで話し合い、落ち着けば、京に入ろう」
承菊だけでなく諸将らにも訝しみが浮かんだ。
「いまさら無欲を飾りましょうか」
「それはもう飾る必要がない。そもそも飾ったつもりもない。取っていくものは決めた」
承菊の眉が上がった。
居並ぶ諸将、朝比奈備中守、次郎左衛門、岡部父子らも身を前へ出す。床几の脚が土を噛む音が、幾つも重なった。
「何を取られるのですかな」
ふと口が勝手に動いた。
「天下」
遠雷。
どこかで雷が落ちた気がした。
誰も口を開かず、木の葉の擦れる音だけが残った。
五郎は空を見上げた。雲はあるが、晴天と言ってよい天気である。
そういうこともあるのか、と五郎は首元を撫でた。手甲のざらついた感触が肌を引っ掻いていく。
視線を戻すと、誰も空を見上げていなかった。
いち早く我を取り戻した承菊が、唾をのみながら口を開く。
「それは、凄まじいことにございますが。では猶更、御所に出向かれるべきでございましょう」
「冗談だ。本気にするな」
五郎はそう言って、膝に立てていた刀を杖の代わりにし、ゆっくりと床几から身を起こした。
長く座っていたせいで、片方の膝が伸びきるまでに間があった。
「承菊、用件はなんだ」
「近江方、あらかた片付き申した。城主切腹でお許し願いたいと」
「らしくない」
伊勢で会った、あの弾正少弼が大人しく腹を切るだろうか。
感じの良い貴公子然としながら、己の求めるところをもぎ取っていく男である。
そのように大人しく命を差し出すところが想像できなかった。
「そうは言えますまい。六角家はすでに十三渡しで大負けしておりまする。弾正少弼殿がいくら名将であっても家臣が付き合いませぬ。幕府の忠臣という看板も剥がれ、今となっては焼き働きに慣れた今川が南近江に跋扈しておる状況」
「腹を切り早々に戦を纏めねば、一族まとめて首を取られかねん。そういう見方か」
やはり敗北は大きい。
一度目の敗北は弾正少弼の責でないとはいえ、立て続けとなれば家臣が許さない。
そして、それは今川家、五郎もそうなのだろう。
五郎は諸将を見ながら、刀の柄に両手を置いた。
「如何します。一族まとめて首が落ちるまで待ちましょうか」
「後を考えればどちらが良い」
答えると承菊が眉を顰め、裾で口元を隠した。隠したまま、しばらく何も言わない。
奇妙に思い、思い返すと、そう言えば、五郎は今まで戦後や統治を聞いてこなかった。
策を任すことはあっても、その後の統治については自分で練ってきたのだ。
「気弱でございますな。なにか学ばれたようでございますが、それでは天下など夢のまた夢にございます」
「それは冗談と申した。それに今後領国が広がるうえで、差配の案も家臣らに上げさせねば回るまい。して、存念はあるか」
場が改まる。天下は取らないと言ったが、領地がさらに広がると暗に示したのである。
そのことを扱いかねたようで、諸将らは顔を突き合せた。後列の若い者は、前の者の背へ体を寄せている。
その中で承菊は表情を消し、無になった。稚気を消し、知恵の詰まった頭をどんどん回しているようであった。
その間、指は数珠へも袈裟へも伸びない。その内に睨むようにこちらを見て、言葉を紡いだ。
「近江は寺が邪魔でございますな。これをどうにかせねば近江の力は出せませぬ。あと江北の衆も悩ましく」
坊主が言うことかと思ったが、妥当ではある。
近江の寺領、とくに延暦寺のそれは大きい。五郎は刀の鞘を土へ立て直し、そこへ体を預けた。
「まとめて畳んでも良い。考えておけ。江北と寺領は龍王丸とそなたの手習いとする。師匠としてほどほどに石を取り除いておけ」
以前より承菊に龍王丸の師に就ける話は内々で行っていた。
だが、母や妻が難色を示すため、立ち消えになりかけていたのだ。それを今、公に承菊に任すと言葉にした。
「よろしいので、生臭坊主の拙僧でございますが。それに、」
そう言うならば改めよと思ったが、今となっては詮の無いことである。
この坊主の生臭は、十年前からいっこうに直らない。
「その生臭が小賢しい童に要る。ただ、其方がおらぬと何もできぬようにはするな。精々突き放し育てよ」
「いえ、若君のご指導については御屋形様は関わらぬようにと約束したはずと」
確かに弟芳菊丸を長尾に人質にした際、約束させられた。父の位牌にも誓わされた。
「破る」
天下人を育てるには、綺麗ではだめなのだろう。
立派な人間であることは、むしろ損である。
平気で裏切り、忠節を捻じ曲げる。そういう男でないと、乱世など治まらないように思えた。
五郎の言葉を聞いた、承菊は破顔する。手首の数珠が滑り落ち、指へ引っかかった。
「北川殿が化けて出られますぞ」
「そなたの経で追い払ってくれ。天下に必要なことと煙に巻くとよい」
承菊が肩を揺らした。揺らしながら、居並ぶ諸将のほうへ一度目を配っている。
「天下。いや、離れで地図を描いていた童が真に大きくなられた。ええ、若君の師匠の件承知いたしました。近江の件も今川の御為にうまく転がして見せまする」
「策がまとまったら上げよ」
「おや、好きにやらせてくれるのではございませぬか」
「またつまらぬ三文芝居に唐突に出ろと言われたくはない」
尾張の一件は忘れていない。承菊は一際大きく肩を揺らした。
それから袈裟を整え、恭しく頭を下げた。
居並ぶ諸将らも、それで我を取り戻したのか、後に続いた。




