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8章_8

 五郎は本陣へ帰った。馬を渡すと、待っていた小者が二人がかりで袖をはずしにかかった。

 借り物の具足を脱ぎ、身に着けていた鎧を普段の物へ戻す。

 

 小者が胴の緒を締め直すあいだ、肩が急に軽くなり、汗の引いた背が冷えた。脱いだほうの胴は、脇の当たっていたところだけ色が変わっている。首元や身に着けていた物をもとに戻し、兜を付け直してから、床几に座った。


 暫くすると、戦の声が引いた。


 近くで上がっていた喚声が細くなり、代わりに馬の蹄と、木を割る音が目立つようになった。


 それからさらに待っていると、三好勢を追いかけていた将のうち、朝比奈備中守が戻ってきた。

 具足の胸から下が土で白く、草摺の一枚が垂れ下がっている。


 三浦次郎左衛門は戻っておらず、その倅らのみが陣へ戻っていた。

 陣幕の外では、荷駄の者が水桶を運び、傷を負った者の名を読み上げる声が続いている。幕の内には十人あまりが集まり、床几に腰を下ろす者と、立ったままの者が半々であった。


 まだ呑気に首実検はできないが、もはや山科で戦はできそうもない。五郎は床几の上で背をもたせかけ、兜の緒を結び直した。

 何度か結び直し、漸く満足いくところに結び目がいったことを確認すると、五郎は備中守に向け口を開いた。


「次郎左衛門はどうした。まだ戻らぬか」


「三好筑前守殿の背を追いかけておりまする」


 備中守は膝を落としたまま、兜を脇へ置いて答えた。声は嗄れており、答える前に一度、喉で咳を切っている。

 相当に大声を出しながら、三好筑前守の背を追ったらしい。


「首に輪を付けてでも連れ戻せ。京に火が掛かったおり、今川方の責とならば上洛は不首尾と心得よ」


 五郎は極力常の通りに声を出したつもりであったが、諸将らは僅かに目を見張った。

 互いの顔を見やり、どうしたものかとどよめいた。


「どうした」


 備中守が唾をのんだ後に答える。背後の国衆らが、揃って目を伏せた。


「いえ、なんと申しますか、声が通っておられましたので」


「左様か。京が近く気が急いているやもしれぬ。なにか懸念があれば申せ」


 そのようなことはなかったが、そう言うことにした。


「では、某から」


 声を出したのは備中守ではない。前に出て行った岡部左京進である。

 左京進は首を一つ抱えていた。布に包みもせず、髷を掴んで下げている。

 土の付いた顔は、目だけが白い。近くに座っていた国衆が、膝を引いて場所を空けた。


「切り込みの将か」


 三好勢で奮戦した男である。凡将ならば今川四万にすりつぶされるはずが、しばし持ちこたえてみせた。


「おそらく」


 おかしな答えであった。左京進ほどの男が、討った首の素性を言い切らずに置いている。


 五郎は手甲をさすった。つい先ほど身に着けたばかりのそれは、先ほどと違い金糸で豪奢に飾られている。

 指を滑らせると、糸の盛り上がりが爪へ引っかかった。


 つくづく中身が空の男に似つかわしい着物である。そして、その中身を理解できる者などどこにもいない。

 そう思うと、可笑しさが勝った。口元が緩むのを抑えきれず、五郎は手甲の上で指を握った。


「如何されました」


「いや、なんでもない。切り込みの将はどこかで退いたか、影武者を何人か用意して散った。そう言うことか」


 左京進が頭を下げた。首を抱えた腕はそのままで、下げた頭の先から泥が一つ落ちた。


「ご明察にございまする。ただ某の隊が討った者が嫌に手ごわく、周囲の兵も気遣う動きがございました。おそらくこの男かと」


「体はあるか」


「ございます」


 心得たものである。岡部左京進はさらし首を好まない。


「繋いで筑前守殿に送ってやれ。体の傷みが激しければ首だけでよい」


 左京進は眉を上げた。汗と泥で汚れた額に、深い皺が浮かんだ。

 だが、それは少しのことで、抱えた首を持ち替えると、納得して頷いてみせた。


「承知いたしました」


 五郎にとっても切り込みの将の首をさらすことに、もはや大きな意味はない。

 今後のことを考えれば、三好との間に繋がりが残ってもよいとみていた。


 ただ、そのことを左京進がどこまで察したかについては、今の五郎は気にしていない。


「今後どうなりましょうか。三好勢とはにらみ合いがあるとは思うておりましたが、ここまで大きくぶつかるとは」


 備中守が尋ねた。尋ねたというより、半ば独り言のような声である。

 置いた兜の吹返しを、指の腹で拭いている。


「何も変わらぬ。前に出て三好、阿波勢は京より出てもらう」

 

 諸将は分かったような分からぬような顔をした。顔を突き合せた者もあれば、床几の上で座り直した者もある。

 

 大前提が狂っているのは、皆薄々察しているのだ。

 そもそもの前提とは六角、朝倉と功を分け合うこと。三好とは兵を背景に睨み合い、和睦で穏やかに京から追い出す。

 これが当初の流れである。

 というより、実態として諸将にはこれを予定として伝えていた。六角の裏切り、朝倉の葛藤などは一部にしか教えていない。


 だが今となっては、三好、阿波勢とは互いに落としどころを探すというような段階にはない。

 六角とは武功を分け合う必要もない。もっと言えば、朝倉はその首根っこを押さえている。


 五郎の一存で、京も天下もどうとでもなると言えた。

 ゆえに五郎は肩から力を抜いて、言葉を発した。


「いつも通りでよい。法度を定め、従うとなれば守り、その国を育む。叛くとなれば、叛く理由を聞き取り、話し、相容れぬとあればこれを討つ。万事、いつも通り進むのみ。異論はあるか」


 言い終えて、五郎は幕の内を見渡した。

 

 誰も口を開かない。そのまま諸将の背が伸びた。

 その中には備中守、岡部父子といった譜代の家臣らもいれば、五郎の代になって加わった国衆らもいる。床几に座っていた者は立ち上がり、立っていた者は指先を真っすぐにして体につけた。


「では、諸将、戦の後片づけが済み次第、京を囲む。一旦はその後、形だけの約定を結ぶことになろう」


 諸将らは真っすぐの姿勢のまま、五郎の言葉を一言一句刻むようにして立っていた。床几を蹴った音も、具足の擦れる音も、すぐにやんでいる。

 

 そこまで大したことは言っていない、そう思った。だが、彼らにとってはそうでないらしい。


 五郎は首元を緩めながら、僅かに息を吐いた。


「諸将には今一度天下静謐の御為、助力願う」


 五郎がそう言って締めくくると、諸将らは肩から力を抜いた。

 腰を下ろし直す者があり、幕の内に具足の音が戻った。

 

 年嵩の将らは訝しむように五郎を見、若い者らは何かを期待するように五郎を隠れ見ていた。

 

 見ても何もわかるまい。


 五郎はそう思いながら、腕を組んだ。組んだ腕の下で、手甲の金糸がまた爪に触れる。

 本日の五郎の役割はほぼ終わったが、あと一つやるべきことがあった。


 そして、それは向こうから来た。


「朝倉家、朝倉宗滴殿がお目通りを願っておりまする」


「通せ」


 落ち着きかけた諸将が、またざわついた。腰を浮かせた者が二、三人あり、外の伝令へ目を走らせている。


 五郎が備中守に目をやると、備中守は心得たもので、大きく咳ばらいを挟んだ。

 宿老格のそれで、諸将らはすっと静まった。


 それを見計らい、左京進が尋ねる。手にはもう首はない。


「良いのですか。今まで一度も御屋形様を訪ねてくるなど、ついぞなかったことでありましょう」


 何か企んでいるのでは、左京進はそう言った。


「いま、治部の首をとっても意味がない。そこが分からぬ人ではなかろう」


「また、そのような」


 左京進が眉を顰めたので、五郎は笑った。自分でも予想外に大きな笑いとなり、幕の内の幾人かが顔を上げた。

 別に自分と他人を比べて軽んじなくとも、単純に、五郎はそういう考え方をするらしい。


「許せ、別にまだ死にたくはない。ただ、宗滴殿の腰は軽くないというだけだ」


 死にたくはない。自然とこう言えた。言ってから、床几の上で座り直した。


 左京進は備中守に一つ目配せをした。どこか騙されているのではないか、そのような訝しみが感じ取れた。

 だが、互いに見合い、問題ないと判断したのか、しきりに頷いた。


「であれば、よろしいのですが、お気を付けください。もはやどこが敵で味方かなど誰もわかりませぬ」


「そこはこちらでやる。案ずるな」


 五郎の言葉に、とうとう顔を顰めた左京進は、後ずさるようにして諸将の列へ混ざった。


 それからすぐに陣幕が開き、鷲を思わせる老将、宗滴が顔を出した。

 

 戦場を走り回ったのか、兜は僅かにずれ、甲冑の下の着込みもよれて見える。

 幕を押さえた手の甲に、血の乾いた跡があった。だが、宗滴本人の目の鋭さは変わっておらず、今にも飛びかからんばかりに生気が満ち溢れていた。

 五郎は床几から立たず、手甲の上で指を組んだ。


「宗滴殿、先ほどはお見事でございました」


 宗滴の鼻に皺が寄った。兜の緒を解こうとして、途中で手を下ろしている。


「さほどのことではござらん」


「でありましょうか。これと言って試し戦などもしていなかったにも関わらず、欲しいところでご助力いただけたので治部太夫、目を見開いておりました」


 宗滴が顔を歪ませながら、顎を撫でた。撫でた指が、そのまま頬の傷の上で止まった。


「さて、働きを見て目を見開いたと申されるが、本隊に居られぬようでありました。いったい、どちらに居られましたかな」


「岡部の隊におりました」


 するりと言うと、宗滴が唾をのんだ。光の加減か、その目は黄金に輝いているようにさえ見える。

 瞳孔の広がった様は、まさしく猛禽の眼であった。


 その眼を見て、五郎は静かに頷いた。


「察しておられたようですな」


「惜しいことをした。遮二無二飛びかかれる若さがあれば、勝っていた」


 宗滴は立ったまま、自分の草摺りを叩いた。草摺りと手甲がぶつかり、鈍い音を響かせる。

 乾いた土が幾らか落ちた。詳細を知らぬ諸将らは小首をかしげた。この老将が何を嘆いているのか、理解できないのだ。


「ですが間に合いませなんだ」


 若さがなかった。五郎がここまで伸びるのを止められなかった。朝倉当主と話し合う時がなかった。

 様々な足りないが積み重なった結果、今がある。

 

 宗滴の目がこちらを向いた。向けられるだけで痛みすら覚える、怜悧な眼差しであった。

 これほどの男であっても、万事を見通すことなどできないらしい。


「勝ち誇るか」


「まさか、この度は誰かが落とした勝ちを拾っただけ。重々承知しておりましょう」


「かえって嫌味よな」


「しかし、他に言い様もございませぬ。負ける打ち筋を減らし、勝てる目に大きく賭ける。後は相手が下手を打つまで待つ」


 宗滴が目を鋭くしたまま、息を吐いた。

 その背後で朝倉孫九郎が養父の袖へ手を伸ばしかけ、引っ込めている。


「それができる形勢を作られた時点で、分の悪い博奕をせねばならなんだ」


 宗滴にとっては、やはり分の悪い勝負であったらしい。


 五郎は気が付けば、僅かに身を前へ出していた。足が小石を踏み、音を立ててそのことに気が付いた。

 好奇心が無為に鎌首をもたげているのだ。五郎は腰を戻し、手甲の縁へ指を掛けた。


「もはや言っても詮の無きことでありましょう。それよりも先の話をいたしたく」


 宗滴が喉を上下させた。


「先とは」


「この後、京に参りましょう。公方様はもう待てぬとばかりの有様ゆえ、今日中には都を一望できるところまで進もうと考えております。その折、朝倉殿は如何されましょう」


 宗滴の目が外れた。幕の一点を見たまま考え込み、それから肩を落とした。鎧の重みが急に増したような下がり方であった。


「申し訳ござらぬが、ここで越前に戻らせていただきたく。公方様にはお役に立てぬことをお詫びいただきたい」


 諸将はまた息を詰めた。


 一番の旨味を得られる場、論功行賞にも出てこないというのだ。

 

 備中守が口を開きかけ、五郎を見て閉じた。

 

 だが、五郎にとっては、それは無理もないことに見えた。


 越前を突ける位置に今川の軍が今この時に陣取っている。

 

 五郎が朝倉の阿波方への寝返りを握っている以上、なし崩しで攻め取れる目はある。

 宗滴が越前へすぐに戻らなければ、その目は大きくなりうる。


 無論、朝倉の当主に越前への侵攻はしないと約束しているが、五郎の言葉だけを命綱にはできないのだろう。


 五郎は頷き、そのうえで宗滴の側に立つ男へ目を向けた。

 朝倉孫九郎が目を白黒させながらそこにいた。養父の言葉を聞くだけであり、まだ一度も口を開いていない。


「御国元のことゆえ、御留め立てはできませぬ。されど今まで陰に日向にご尽力された朝倉殿のおらぬ、上洛はあり得ぬことにございます」


 朝倉を今後の幕府の運営に関わらせる。そう言った。孫九郎の肩が動き、宗滴の目がゆっくりと戻ってきた。


「よろしいのか」


 宗滴は察して聞き返した。声が低くなり、一歩、床几のほうへ踏み出している。

 今川が幕府で専横を極める機会を手放してよいのか、ということである。今ならば、力で全てなし崩しができる。


「無論のことにございましょう。御当主にはその旨で約定を結んでおりますゆえ」


 今後、幕府は傾く。その際に一時でも首を突っ込む家が今川以外にあるか、ないかは大きい。

 そのことを滲ませずに五郎がそう言うと、宗滴は息を深く吐いた。


---


 山科の日ノ岡峠を抜け、京を臨めるところに陣を張った。


 洛中にいるであろう阿波方、三好勢に向け、今そこを退くのであれば背は討たぬ。

 そのような文を持たせた使者を公家、商家へ送り、時を待った。使者は日のあるうちに三度出て、二度は暗くなってから戻ってきた。


 その間、本陣には義晴が戻ってきていた。


 戦の最中は邪魔過ぎるため、陣を離し、近くの寺にいてもらっていた。そのままずっと、居ていれば一番だったのだが、義晴は戦の最中に右往左往した。

 まず六角、朝倉が追いかけて来たあたりで、上機嫌で本陣に加わろうとしたらしい。

 ただ、六角が阿波方に寝返り、後方が危ういと聞くと、寺の門を閉じて息を殺していたとのことだった。


 義晴が本陣に戻ったのはそれから随分後。

 今川軍が六角を押し込み、本城から動かさぬようにしていること、また阿波方の三好勢を打ち破ったと聞いたころである。


 戻ってから数刻は戦々恐々としていたが、落ち着くと酒をあおりだした。

 勝ち戦の宴とのことで、持ち込んだ酒の中でも一等良いものを開けた。


 さすがにこの姿を、他の者らにはあまり見せられない。そのため、幕の内には義晴の供の者が数人と、今川方からは五郎、そして数人の小姓だけが入れられていた。


「そちは飲まぬのか」


 赤ら顔の義晴が盃をかざした。美貌の小姓がそこへ酒を注ぐと、義晴は口から酒を迎えに行った。

 喉を上下させ、盃を干すと息を吐く。そこへまた小姓が酒を注いだ。義晴は膝を崩し、片手を後ろへついたままである。


 小姓は今川の手の者である。五郎はその小姓へ目礼しつつ、頭を下げた。

 手の盃は、注がれたまま膝の上にある。指で回すと、かがり火の色が酒の面で揺れた。


「小心者でございます。六角殿があのようなことになったゆえ、どうにも酒が進みませぬ」


「ふ、は、足利一門の名が泣くぞ。京童らも今川の御曹司は肝が細いと嗤おう」


「公方様と並べられれば、致し方ありませぬ。されど治部は泥に塗れておる方が落ち着く者でございます」


 五郎は自分の裾をはたいてみせた。前線で切り合うようなことはなかったが、それでも戦場を駆け巡っている。

 煌びやかな戦装束には、埃や泥が点々とこびりついていた。はたいた分だけ土が落ち、板敷きの上に薄く散った。


「致し方ない男よな。無作法極まるぞ」


「もとは駿河の田舎侍故、笑われるものと覚悟しております。都に入った折は、公方様の影に隠れさせていただきたく」


 義晴は腹を揺らした。揺らしながら、盃の縁を指で弾いている。

 幕臣や五郎が言い縋り、かろうじて鎧は身に着けていた。だが兜はしめず、手甲も外している。

 床几の前に置かれた机の上で、兜と手甲が転がり、かがり火の明かりを映していた。


「しょうがない男よな。良かろう。余が都での過ごし方について教えてやろうぞ」


 義晴はまた盃を干した。空の盃を膝の脇へ倒したまま、都での作法を数え上げはじめている。

 小姓が五郎へ目配せをした。まだ酒は注いでいない。このまま酒を入れ続けてよいのかと、暗に尋ねているのである。


 五郎は口角を上げて、微かに目だけで頷いた。小姓は息を詰めたが、直ぐにまた盃へ酒をなみなみと注いだ。

 注ぎ口の当たる音が、幕の内に高く立った。


「まあ、今は作法は良かろう。それよりも酒であろう。勝ち戦の酒ほど美味いものはない。道永も弾正少弼もこれを知らぬとは哀れなことよ」


 五郎は曖昧に微笑み、頭を下げた。そして、義晴が酒へ目を落としているうちに、その意識から離れた。

 そっと陣幕の外へ一歩、二歩と出る。


 そこには、五郎が待っていた男がいた。


「伊予守殿、三好勢どうなった」


 京へ送られた幕臣、大館伊予守が疲れた顔でたたずんでいた。

 沓は泥で重くなり、袖口の折り返しが解けている。かがり火から離れた場所を選んで立ち、五郎が出てくるまで手を前で組んでいた。


「揉めておりまする。まずまとまらぬかと」


「六郎殿、義維様、筑前守殿、それぞれどう考えておられる」


 伊予守がその三名の名前を聞いたとき、肩を落として深く息を吐いた。

 組んでいた手が離れ、片方が袖の中へ入った。


「六郎殿は和睦に賛成しておられます。堺公方様の御命を守るためにも、京を離れ堺に、そして堺より四国に戻るべきと」


「自分はそれに付いて行かず、京で幕政に関わる気か」


「おそらく、いえ、まずその腹かと。実際、そのあたりは特に我らも関わるなと申しておりませぬゆえ、まず何も言わなければ何食わぬ顔で加わりましょう」


 五郎は陣幕を指で少し押し開き、その合間から中を覗いた。

 義晴は酒に飽きたのか、干した魚を箸で弄っている。あれも随分塩をふっているが、気にはならないようである。


「六郎殿はかつての道永殿の様に、自分は管領になるのが当然と思われているのであろうが、叶うものなのか」


「それは、治部様の御心一つにございましょう」


 伊予守は治部殿、ではなく治部様と言った。言ってから、目だけを上げてこちらの顔色を窺っている。

 現金な、とは笑わない。時勢を読めなければ、高位の幕臣など務まるわけがない。


「治部は幕政には関わらぬ。公方様と幕臣らでお決めになられることであろう。して、六郎殿の幕政、叶うのか」


 五郎の目は義晴を向いていた。だが、視界の外で伊予守が生唾を飲んだことは分かった。

 声が返ってくるまでに、間が一つあった。


「それは条件次第かと。堺公方様を出家させる。筑前守、波多野兄弟の生き残り、赤松、これらを妥当に裁き、公方様のお許しをいただければ幕政には多少とも関われましょう。されど、」


「管領は難しいか。揉めよう」


 細川京兆家の家督のために、ここまでの騒乱を生んだ男である。

 どれだけ待っても管領職に就けぬとあれば、もう一度乱を起こすぐらいはやりかねない。

 

 伊予守もそこは同じ考えらしく、言い淀んだまま次を出さなかった。


「阿波方が今少し対等に戦っていただけていれば、和睦の中で、折を見て管領にという話もあったやもしれませぬ。ですが、ここまで兵を減らし、頼みの筑前守殿も負けたとあれば、譲る必要もないと見ましょう」


 誰がそう見るか。義晴の他にはいない。幕の内では、箸が皿を叩く音が続いていた。


「六郎殿が恥も外聞もなく許しを請えればよいのだが、そう言う男でもなさそうか」


「そのような方ならば、京兆家の家督欲しさに騒乱は続けますまい」


 五郎は半眼になり、顎を撫でた。撫でた指に、乾いた泥の粒が残った。

 一つ話が済むたびに、今後どうするかが固まっていく。


「では、筑前守殿と義維様はどう考えておられる。筑前守殿は見ての通り、京より動かぬ様相であるが」


 五郎は顔を京へ向けた。当然であるが京の街並みなどはまるで見えない、それを囲う自軍の灯りだけが目に入った。

 

 今宵は朝比奈、由比の隊が固めている。言葉合戦などは行わないが、兵力を背景に、早く京より出るようにと圧をかけていた。

 対する三好筑前守は数千ほどの兵で洛中に籠り、市街で戦う備えをしているとのことである。


「筑前守殿は引けぬとのことでございますが、義維様は筑前守殿に堺に引くことを望んでおられるご様子」


「堺にか。阿波には」


 伊予守が首を横に振った。眉間に皺が寄っている。

 そこは通らぬらしい。一度足を踏み入れ、堺公方などという名を得た以上、堺からは出ないつもりなのかもしれない。


「如何されましょう」


 伊予守が背をかがめながら言う。誰かに見咎められるのを恐れる仕草である。


「洛中が燃えるのは望ましくない」


 五郎は短くそう言った。伊予守は意図を察しかねたようで、小首をかしげる。

 かしげたまま、喉をまた上下させた。


「水軍を向ける。堺と阿波の道を断つような動きを見せる。今引かねば、堺公方殿は公方様の虜となる」


 伊予守が身を引いた。踏み出した足が泥を鳴らし、懐より手拭いを出して額をぬぐう。

 ぬぐった手拭いを握ったまま、しばらく下ろさなかった。


「失礼を。いや、しかし、可能なのでしょうか。今川家に水軍があることは承知しておりまするが、今は伊勢でございましょう」


「ぶつけることはできない。振りだけになろう」


 そもそも勝つ見通しが立てられない。五郎は水軍の戦はほとんどしてこなかった。


 無論、兵の量では勝っているだろうし、訓練の量も勝っているはずだ。

 だが、灘が違えば戦い方もまるで違う以上、三好水軍の本拠近くでぶつかるのは避けたかった。


 伊予守は握った手拭いを下ろし、袖で口元を隠した。


「こちらは脅し半分に過ぎぬ。ゆえにもう半分は、堺の商人、公家らに水軍のことを吹聴してもらう」


「あの豪胆な今楠公がそれに乗りましょうか」


 今楠公。

 五郎はその名を少し持て余した。


 その名前は他でもない、承菊が京で吹聴した名前である。

 

 もっと言うならば、細川六郎晴元と三好筑前守元長、この二人の仲を分ける策の一つとして放った矢の一本であった。

 矢は思うように刺さらず、六郎と筑前守が戦の前に争うようなことはなかった。だが、二人の間に不和は生んだ。


 軍神という名を背負わされた五郎は、筑前守を気の毒に思いながら頬を上げた。

 夜風が幕を鳴らし、かがり火の火先が横へ倒れた。


「筑前守殿が堺公方様を賭けて博奕を打ちたくない、そう思われれば退かれる。そうでなければ、また別のことを考えるほかなし」


 五郎は、さらに筑前守のことを考えてしまった。


 おそらく悪い男ではない。弾正少弼や宗滴が分の悪い賭けに乗っても良い、そう思わせるだけの魅力があるのだろう。

 

 人間としての魅力では、五郎よりもはるかに上であろう。

 だが、そうであったとしても、人間としての値は大した違いがない。

 

 手痛い失敗を受けた後、股肱の臣の遺体を見た後、動く道筋も想像の域を出ないはずだ。

 五郎は顎から指を離し、袖で撫でた。


「相手がどう動こうと、伊予守殿を初め、幕臣方にも今少しご協力いただきたい。京には不慣れ故、何かと面倒をおかけいたす」


 五郎は思い出したようにそう言って、軽く頭を下げた。伊予守は慌てて手拭いを懐へ押し込み、礼を返した。

 陣の中では、義晴が盛大に舟をこぎ、いびきをかいていた。

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― 新着の感想 ―
裏を知らなければ三好は今川の大軍に正面から叩き潰されたで、知ってれば三好元長の二番煎じの策が当然のように読まれて終わったか。 これから何とかお家を存続させるために寝返り裏切りがいっぱいみられるんだろう…
強い酒と塩辛い肴を日常的に飲食し 感情の起伏を煽り酩酊状態にし醜態を臣下に晒す、また現代人ならわかり易い高血圧からの成人病コース 足利義晴三国志なら袁術並の末路に成りそうで作品楽しみに読んでます
伊予守、今川が幕政に関わる気が無いのを見てホッとしてるのと同時にビンビン嫌な気配感じてるんだろうな、山崩れの前兆みたいな
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