8章_8
五郎は本陣へ帰った。馬を渡すと、待っていた小者が二人がかりで袖をはずしにかかった。
借り物の具足を脱ぎ、身に着けていた鎧を普段の物へ戻す。
小者が胴の緒を締め直すあいだ、肩が急に軽くなり、汗の引いた背が冷えた。脱いだほうの胴は、脇の当たっていたところだけ色が変わっている。首元や身に着けていた物をもとに戻し、兜を付け直してから、床几に座った。
暫くすると、戦の声が引いた。
近くで上がっていた喚声が細くなり、代わりに馬の蹄と、木を割る音が目立つようになった。
それからさらに待っていると、三好勢を追いかけていた将のうち、朝比奈備中守が戻ってきた。
具足の胸から下が土で白く、草摺の一枚が垂れ下がっている。
三浦次郎左衛門は戻っておらず、その倅らのみが陣へ戻っていた。
陣幕の外では、荷駄の者が水桶を運び、傷を負った者の名を読み上げる声が続いている。幕の内には十人あまりが集まり、床几に腰を下ろす者と、立ったままの者が半々であった。
まだ呑気に首実検はできないが、もはや山科で戦はできそうもない。五郎は床几の上で背をもたせかけ、兜の緒を結び直した。
何度か結び直し、漸く満足いくところに結び目がいったことを確認すると、五郎は備中守に向け口を開いた。
「次郎左衛門はどうした。まだ戻らぬか」
「三好筑前守殿の背を追いかけておりまする」
備中守は膝を落としたまま、兜を脇へ置いて答えた。声は嗄れており、答える前に一度、喉で咳を切っている。
相当に大声を出しながら、三好筑前守の背を追ったらしい。
「首に輪を付けてでも連れ戻せ。京に火が掛かったおり、今川方の責とならば上洛は不首尾と心得よ」
五郎は極力常の通りに声を出したつもりであったが、諸将らは僅かに目を見張った。
互いの顔を見やり、どうしたものかとどよめいた。
「どうした」
備中守が唾をのんだ後に答える。背後の国衆らが、揃って目を伏せた。
「いえ、なんと申しますか、声が通っておられましたので」
「左様か。京が近く気が急いているやもしれぬ。なにか懸念があれば申せ」
そのようなことはなかったが、そう言うことにした。
「では、某から」
声を出したのは備中守ではない。前に出て行った岡部左京進である。
左京進は首を一つ抱えていた。布に包みもせず、髷を掴んで下げている。
土の付いた顔は、目だけが白い。近くに座っていた国衆が、膝を引いて場所を空けた。
「切り込みの将か」
三好勢で奮戦した男である。凡将ならば今川四万にすりつぶされるはずが、しばし持ちこたえてみせた。
「おそらく」
おかしな答えであった。左京進ほどの男が、討った首の素性を言い切らずに置いている。
五郎は手甲をさすった。つい先ほど身に着けたばかりのそれは、先ほどと違い金糸で豪奢に飾られている。
指を滑らせると、糸の盛り上がりが爪へ引っかかった。
つくづく中身が空の男に似つかわしい着物である。そして、その中身を理解できる者などどこにもいない。
そう思うと、可笑しさが勝った。口元が緩むのを抑えきれず、五郎は手甲の上で指を握った。
「如何されました」
「いや、なんでもない。切り込みの将はどこかで退いたか、影武者を何人か用意して散った。そう言うことか」
左京進が頭を下げた。首を抱えた腕はそのままで、下げた頭の先から泥が一つ落ちた。
「ご明察にございまする。ただ某の隊が討った者が嫌に手ごわく、周囲の兵も気遣う動きがございました。おそらくこの男かと」
「体はあるか」
「ございます」
心得たものである。岡部左京進はさらし首を好まない。
「繋いで筑前守殿に送ってやれ。体の傷みが激しければ首だけでよい」
左京進は眉を上げた。汗と泥で汚れた額に、深い皺が浮かんだ。
だが、それは少しのことで、抱えた首を持ち替えると、納得して頷いてみせた。
「承知いたしました」
五郎にとっても切り込みの将の首をさらすことに、もはや大きな意味はない。
今後のことを考えれば、三好との間に繋がりが残ってもよいとみていた。
ただ、そのことを左京進がどこまで察したかについては、今の五郎は気にしていない。
「今後どうなりましょうか。三好勢とはにらみ合いがあるとは思うておりましたが、ここまで大きくぶつかるとは」
備中守が尋ねた。尋ねたというより、半ば独り言のような声である。
置いた兜の吹返しを、指の腹で拭いている。
「何も変わらぬ。前に出て三好、阿波勢は京より出てもらう」
諸将は分かったような分からぬような顔をした。顔を突き合せた者もあれば、床几の上で座り直した者もある。
大前提が狂っているのは、皆薄々察しているのだ。
そもそもの前提とは六角、朝倉と功を分け合うこと。三好とは兵を背景に睨み合い、和睦で穏やかに京から追い出す。
これが当初の流れである。
というより、実態として諸将にはこれを予定として伝えていた。六角の裏切り、朝倉の葛藤などは一部にしか教えていない。
だが今となっては、三好、阿波勢とは互いに落としどころを探すというような段階にはない。
六角とは武功を分け合う必要もない。もっと言えば、朝倉はその首根っこを押さえている。
五郎の一存で、京も天下もどうとでもなると言えた。
ゆえに五郎は肩から力を抜いて、言葉を発した。
「いつも通りでよい。法度を定め、従うとなれば守り、その国を育む。叛くとなれば、叛く理由を聞き取り、話し、相容れぬとあればこれを討つ。万事、いつも通り進むのみ。異論はあるか」
言い終えて、五郎は幕の内を見渡した。
誰も口を開かない。そのまま諸将の背が伸びた。
その中には備中守、岡部父子といった譜代の家臣らもいれば、五郎の代になって加わった国衆らもいる。床几に座っていた者は立ち上がり、立っていた者は指先を真っすぐにして体につけた。
「では、諸将、戦の後片づけが済み次第、京を囲む。一旦はその後、形だけの約定を結ぶことになろう」
諸将らは真っすぐの姿勢のまま、五郎の言葉を一言一句刻むようにして立っていた。床几を蹴った音も、具足の擦れる音も、すぐにやんでいる。
そこまで大したことは言っていない、そう思った。だが、彼らにとってはそうでないらしい。
五郎は首元を緩めながら、僅かに息を吐いた。
「諸将には今一度天下静謐の御為、助力願う」
五郎がそう言って締めくくると、諸将らは肩から力を抜いた。
腰を下ろし直す者があり、幕の内に具足の音が戻った。
年嵩の将らは訝しむように五郎を見、若い者らは何かを期待するように五郎を隠れ見ていた。
見ても何もわかるまい。
五郎はそう思いながら、腕を組んだ。組んだ腕の下で、手甲の金糸がまた爪に触れる。
本日の五郎の役割はほぼ終わったが、あと一つやるべきことがあった。
そして、それは向こうから来た。
「朝倉家、朝倉宗滴殿がお目通りを願っておりまする」
「通せ」
落ち着きかけた諸将が、またざわついた。腰を浮かせた者が二、三人あり、外の伝令へ目を走らせている。
五郎が備中守に目をやると、備中守は心得たもので、大きく咳ばらいを挟んだ。
宿老格のそれで、諸将らはすっと静まった。
それを見計らい、左京進が尋ねる。手にはもう首はない。
「良いのですか。今まで一度も御屋形様を訪ねてくるなど、ついぞなかったことでありましょう」
何か企んでいるのでは、左京進はそう言った。
「いま、治部の首をとっても意味がない。そこが分からぬ人ではなかろう」
「また、そのような」
左京進が眉を顰めたので、五郎は笑った。自分でも予想外に大きな笑いとなり、幕の内の幾人かが顔を上げた。
別に自分と他人を比べて軽んじなくとも、単純に、五郎はそういう考え方をするらしい。
「許せ、別にまだ死にたくはない。ただ、宗滴殿の腰は軽くないというだけだ」
死にたくはない。自然とこう言えた。言ってから、床几の上で座り直した。
左京進は備中守に一つ目配せをした。どこか騙されているのではないか、そのような訝しみが感じ取れた。
だが、互いに見合い、問題ないと判断したのか、しきりに頷いた。
「であれば、よろしいのですが、お気を付けください。もはやどこが敵で味方かなど誰もわかりませぬ」
「そこはこちらでやる。案ずるな」
五郎の言葉に、とうとう顔を顰めた左京進は、後ずさるようにして諸将の列へ混ざった。
それからすぐに陣幕が開き、鷲を思わせる老将、宗滴が顔を出した。
戦場を走り回ったのか、兜は僅かにずれ、甲冑の下の着込みもよれて見える。
幕を押さえた手の甲に、血の乾いた跡があった。だが、宗滴本人の目の鋭さは変わっておらず、今にも飛びかからんばかりに生気が満ち溢れていた。
五郎は床几から立たず、手甲の上で指を組んだ。
「宗滴殿、先ほどはお見事でございました」
宗滴の鼻に皺が寄った。兜の緒を解こうとして、途中で手を下ろしている。
「さほどのことではござらん」
「でありましょうか。これと言って試し戦などもしていなかったにも関わらず、欲しいところでご助力いただけたので治部太夫、目を見開いておりました」
宗滴が顔を歪ませながら、顎を撫でた。撫でた指が、そのまま頬の傷の上で止まった。
「さて、働きを見て目を見開いたと申されるが、本隊に居られぬようでありました。いったい、どちらに居られましたかな」
「岡部の隊におりました」
するりと言うと、宗滴が唾をのんだ。光の加減か、その目は黄金に輝いているようにさえ見える。
瞳孔の広がった様は、まさしく猛禽の眼であった。
その眼を見て、五郎は静かに頷いた。
「察しておられたようですな」
「惜しいことをした。遮二無二飛びかかれる若さがあれば、勝っていた」
宗滴は立ったまま、自分の草摺りを叩いた。草摺りと手甲がぶつかり、鈍い音を響かせる。
乾いた土が幾らか落ちた。詳細を知らぬ諸将らは小首をかしげた。この老将が何を嘆いているのか、理解できないのだ。
「ですが間に合いませなんだ」
若さがなかった。五郎がここまで伸びるのを止められなかった。朝倉当主と話し合う時がなかった。
様々な足りないが積み重なった結果、今がある。
宗滴の目がこちらを向いた。向けられるだけで痛みすら覚える、怜悧な眼差しであった。
これほどの男であっても、万事を見通すことなどできないらしい。
「勝ち誇るか」
「まさか、この度は誰かが落とした勝ちを拾っただけ。重々承知しておりましょう」
「かえって嫌味よな」
「しかし、他に言い様もございませぬ。負ける打ち筋を減らし、勝てる目に大きく賭ける。後は相手が下手を打つまで待つ」
宗滴が目を鋭くしたまま、息を吐いた。
その背後で朝倉孫九郎が養父の袖へ手を伸ばしかけ、引っ込めている。
「それができる形勢を作られた時点で、分の悪い博奕をせねばならなんだ」
宗滴にとっては、やはり分の悪い勝負であったらしい。
五郎は気が付けば、僅かに身を前へ出していた。足が小石を踏み、音を立ててそのことに気が付いた。
好奇心が無為に鎌首をもたげているのだ。五郎は腰を戻し、手甲の縁へ指を掛けた。
「もはや言っても詮の無きことでありましょう。それよりも先の話をいたしたく」
宗滴が喉を上下させた。
「先とは」
「この後、京に参りましょう。公方様はもう待てぬとばかりの有様ゆえ、今日中には都を一望できるところまで進もうと考えております。その折、朝倉殿は如何されましょう」
宗滴の目が外れた。幕の一点を見たまま考え込み、それから肩を落とした。鎧の重みが急に増したような下がり方であった。
「申し訳ござらぬが、ここで越前に戻らせていただきたく。公方様にはお役に立てぬことをお詫びいただきたい」
諸将はまた息を詰めた。
一番の旨味を得られる場、論功行賞にも出てこないというのだ。
備中守が口を開きかけ、五郎を見て閉じた。
だが、五郎にとっては、それは無理もないことに見えた。
越前を突ける位置に今川の軍が今この時に陣取っている。
五郎が朝倉の阿波方への寝返りを握っている以上、なし崩しで攻め取れる目はある。
宗滴が越前へすぐに戻らなければ、その目は大きくなりうる。
無論、朝倉の当主に越前への侵攻はしないと約束しているが、五郎の言葉だけを命綱にはできないのだろう。
五郎は頷き、そのうえで宗滴の側に立つ男へ目を向けた。
朝倉孫九郎が目を白黒させながらそこにいた。養父の言葉を聞くだけであり、まだ一度も口を開いていない。
「御国元のことゆえ、御留め立てはできませぬ。されど今まで陰に日向にご尽力された朝倉殿のおらぬ、上洛はあり得ぬことにございます」
朝倉を今後の幕府の運営に関わらせる。そう言った。孫九郎の肩が動き、宗滴の目がゆっくりと戻ってきた。
「よろしいのか」
宗滴は察して聞き返した。声が低くなり、一歩、床几のほうへ踏み出している。
今川が幕府で専横を極める機会を手放してよいのか、ということである。今ならば、力で全てなし崩しができる。
「無論のことにございましょう。御当主にはその旨で約定を結んでおりますゆえ」
今後、幕府は傾く。その際に一時でも首を突っ込む家が今川以外にあるか、ないかは大きい。
そのことを滲ませずに五郎がそう言うと、宗滴は息を深く吐いた。
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山科の日ノ岡峠を抜け、京を臨めるところに陣を張った。
洛中にいるであろう阿波方、三好勢に向け、今そこを退くのであれば背は討たぬ。
そのような文を持たせた使者を公家、商家へ送り、時を待った。使者は日のあるうちに三度出て、二度は暗くなってから戻ってきた。
その間、本陣には義晴が戻ってきていた。
戦の最中は邪魔過ぎるため、陣を離し、近くの寺にいてもらっていた。そのままずっと、居ていれば一番だったのだが、義晴は戦の最中に右往左往した。
まず六角、朝倉が追いかけて来たあたりで、上機嫌で本陣に加わろうとしたらしい。
ただ、六角が阿波方に寝返り、後方が危ういと聞くと、寺の門を閉じて息を殺していたとのことだった。
義晴が本陣に戻ったのはそれから随分後。
今川軍が六角を押し込み、本城から動かさぬようにしていること、また阿波方の三好勢を打ち破ったと聞いたころである。
戻ってから数刻は戦々恐々としていたが、落ち着くと酒をあおりだした。
勝ち戦の宴とのことで、持ち込んだ酒の中でも一等良いものを開けた。
さすがにこの姿を、他の者らにはあまり見せられない。そのため、幕の内には義晴の供の者が数人と、今川方からは五郎、そして数人の小姓だけが入れられていた。
「そちは飲まぬのか」
赤ら顔の義晴が盃をかざした。美貌の小姓がそこへ酒を注ぐと、義晴は口から酒を迎えに行った。
喉を上下させ、盃を干すと息を吐く。そこへまた小姓が酒を注いだ。義晴は膝を崩し、片手を後ろへついたままである。
小姓は今川の手の者である。五郎はその小姓へ目礼しつつ、頭を下げた。
手の盃は、注がれたまま膝の上にある。指で回すと、かがり火の色が酒の面で揺れた。
「小心者でございます。六角殿があのようなことになったゆえ、どうにも酒が進みませぬ」
「ふ、は、足利一門の名が泣くぞ。京童らも今川の御曹司は肝が細いと嗤おう」
「公方様と並べられれば、致し方ありませぬ。されど治部は泥に塗れておる方が落ち着く者でございます」
五郎は自分の裾をはたいてみせた。前線で切り合うようなことはなかったが、それでも戦場を駆け巡っている。
煌びやかな戦装束には、埃や泥が点々とこびりついていた。はたいた分だけ土が落ち、板敷きの上に薄く散った。
「致し方ない男よな。無作法極まるぞ」
「もとは駿河の田舎侍故、笑われるものと覚悟しております。都に入った折は、公方様の影に隠れさせていただきたく」
義晴は腹を揺らした。揺らしながら、盃の縁を指で弾いている。
幕臣や五郎が言い縋り、かろうじて鎧は身に着けていた。だが兜はしめず、手甲も外している。
床几の前に置かれた机の上で、兜と手甲が転がり、かがり火の明かりを映していた。
「しょうがない男よな。良かろう。余が都での過ごし方について教えてやろうぞ」
義晴はまた盃を干した。空の盃を膝の脇へ倒したまま、都での作法を数え上げはじめている。
小姓が五郎へ目配せをした。まだ酒は注いでいない。このまま酒を入れ続けてよいのかと、暗に尋ねているのである。
五郎は口角を上げて、微かに目だけで頷いた。小姓は息を詰めたが、直ぐにまた盃へ酒をなみなみと注いだ。
注ぎ口の当たる音が、幕の内に高く立った。
「まあ、今は作法は良かろう。それよりも酒であろう。勝ち戦の酒ほど美味いものはない。道永も弾正少弼もこれを知らぬとは哀れなことよ」
五郎は曖昧に微笑み、頭を下げた。そして、義晴が酒へ目を落としているうちに、その意識から離れた。
そっと陣幕の外へ一歩、二歩と出る。
そこには、五郎が待っていた男がいた。
「伊予守殿、三好勢どうなった」
京へ送られた幕臣、大館伊予守が疲れた顔でたたずんでいた。
沓は泥で重くなり、袖口の折り返しが解けている。かがり火から離れた場所を選んで立ち、五郎が出てくるまで手を前で組んでいた。
「揉めておりまする。まずまとまらぬかと」
「六郎殿、義維様、筑前守殿、それぞれどう考えておられる」
伊予守がその三名の名前を聞いたとき、肩を落として深く息を吐いた。
組んでいた手が離れ、片方が袖の中へ入った。
「六郎殿は和睦に賛成しておられます。堺公方様の御命を守るためにも、京を離れ堺に、そして堺より四国に戻るべきと」
「自分はそれに付いて行かず、京で幕政に関わる気か」
「おそらく、いえ、まずその腹かと。実際、そのあたりは特に我らも関わるなと申しておりませぬゆえ、まず何も言わなければ何食わぬ顔で加わりましょう」
五郎は陣幕を指で少し押し開き、その合間から中を覗いた。
義晴は酒に飽きたのか、干した魚を箸で弄っている。あれも随分塩をふっているが、気にはならないようである。
「六郎殿はかつての道永殿の様に、自分は管領になるのが当然と思われているのであろうが、叶うものなのか」
「それは、治部様の御心一つにございましょう」
伊予守は治部殿、ではなく治部様と言った。言ってから、目だけを上げてこちらの顔色を窺っている。
現金な、とは笑わない。時勢を読めなければ、高位の幕臣など務まるわけがない。
「治部は幕政には関わらぬ。公方様と幕臣らでお決めになられることであろう。して、六郎殿の幕政、叶うのか」
五郎の目は義晴を向いていた。だが、視界の外で伊予守が生唾を飲んだことは分かった。
声が返ってくるまでに、間が一つあった。
「それは条件次第かと。堺公方様を出家させる。筑前守、波多野兄弟の生き残り、赤松、これらを妥当に裁き、公方様のお許しをいただければ幕政には多少とも関われましょう。されど、」
「管領は難しいか。揉めよう」
細川京兆家の家督のために、ここまでの騒乱を生んだ男である。
どれだけ待っても管領職に就けぬとあれば、もう一度乱を起こすぐらいはやりかねない。
伊予守もそこは同じ考えらしく、言い淀んだまま次を出さなかった。
「阿波方が今少し対等に戦っていただけていれば、和睦の中で、折を見て管領にという話もあったやもしれませぬ。ですが、ここまで兵を減らし、頼みの筑前守殿も負けたとあれば、譲る必要もないと見ましょう」
誰がそう見るか。義晴の他にはいない。幕の内では、箸が皿を叩く音が続いていた。
「六郎殿が恥も外聞もなく許しを請えればよいのだが、そう言う男でもなさそうか」
「そのような方ならば、京兆家の家督欲しさに騒乱は続けますまい」
五郎は半眼になり、顎を撫でた。撫でた指に、乾いた泥の粒が残った。
一つ話が済むたびに、今後どうするかが固まっていく。
「では、筑前守殿と義維様はどう考えておられる。筑前守殿は見ての通り、京より動かぬ様相であるが」
五郎は顔を京へ向けた。当然であるが京の街並みなどはまるで見えない、それを囲う自軍の灯りだけが目に入った。
今宵は朝比奈、由比の隊が固めている。言葉合戦などは行わないが、兵力を背景に、早く京より出るようにと圧をかけていた。
対する三好筑前守は数千ほどの兵で洛中に籠り、市街で戦う備えをしているとのことである。
「筑前守殿は引けぬとのことでございますが、義維様は筑前守殿に堺に引くことを望んでおられるご様子」
「堺にか。阿波には」
伊予守が首を横に振った。眉間に皺が寄っている。
そこは通らぬらしい。一度足を踏み入れ、堺公方などという名を得た以上、堺からは出ないつもりなのかもしれない。
「如何されましょう」
伊予守が背をかがめながら言う。誰かに見咎められるのを恐れる仕草である。
「洛中が燃えるのは望ましくない」
五郎は短くそう言った。伊予守は意図を察しかねたようで、小首をかしげる。
かしげたまま、喉をまた上下させた。
「水軍を向ける。堺と阿波の道を断つような動きを見せる。今引かねば、堺公方殿は公方様の虜となる」
伊予守が身を引いた。踏み出した足が泥を鳴らし、懐より手拭いを出して額をぬぐう。
ぬぐった手拭いを握ったまま、しばらく下ろさなかった。
「失礼を。いや、しかし、可能なのでしょうか。今川家に水軍があることは承知しておりまするが、今は伊勢でございましょう」
「ぶつけることはできない。振りだけになろう」
そもそも勝つ見通しが立てられない。五郎は水軍の戦はほとんどしてこなかった。
無論、兵の量では勝っているだろうし、訓練の量も勝っているはずだ。
だが、灘が違えば戦い方もまるで違う以上、三好水軍の本拠近くでぶつかるのは避けたかった。
伊予守は握った手拭いを下ろし、袖で口元を隠した。
「こちらは脅し半分に過ぎぬ。ゆえにもう半分は、堺の商人、公家らに水軍のことを吹聴してもらう」
「あの豪胆な今楠公がそれに乗りましょうか」
今楠公。
五郎はその名を少し持て余した。
その名前は他でもない、承菊が京で吹聴した名前である。
もっと言うならば、細川六郎晴元と三好筑前守元長、この二人の仲を分ける策の一つとして放った矢の一本であった。
矢は思うように刺さらず、六郎と筑前守が戦の前に争うようなことはなかった。だが、二人の間に不和は生んだ。
軍神という名を背負わされた五郎は、筑前守を気の毒に思いながら頬を上げた。
夜風が幕を鳴らし、かがり火の火先が横へ倒れた。
「筑前守殿が堺公方様を賭けて博奕を打ちたくない、そう思われれば退かれる。そうでなければ、また別のことを考えるほかなし」
五郎は、さらに筑前守のことを考えてしまった。
おそらく悪い男ではない。弾正少弼や宗滴が分の悪い賭けに乗っても良い、そう思わせるだけの魅力があるのだろう。
人間としての魅力では、五郎よりもはるかに上であろう。
だが、そうであったとしても、人間としての値は大した違いがない。
手痛い失敗を受けた後、股肱の臣の遺体を見た後、動く道筋も想像の域を出ないはずだ。
五郎は顎から指を離し、袖で撫でた。
「相手がどう動こうと、伊予守殿を初め、幕臣方にも今少しご協力いただきたい。京には不慣れ故、何かと面倒をおかけいたす」
五郎は思い出したようにそう言って、軽く頭を下げた。伊予守は慌てて手拭いを懐へ押し込み、礼を返した。
陣の中では、義晴が盛大に舟をこぎ、いびきをかいていた。




