8章_7
筑前守の眼下で、兵らが飛び出していった。
最初の集団はそう多くない。峠が通せるだけの、数百の兵である。それが一斉に飛びかかって道を開き、今川勢はその勢いに押されて左右へ開いた。
「よし、行け。民部」
筑前守は草摺を叩いた。土埃の染みたそれは跳ねて、僅かな土を落とした。
足場の板は、飛び出して行く兵の足に踏まれて鳴り続けている。
筑前守は柵の残った一本に手をかけ、爪先立つようにして道の先を追った。
傍らの物頭は、口を結んだまま下を見ている。下からは、名を呼び合う声と、具足の擦れる音が絶えず上がってきた。
目論見どおり、民部大輔の率いる集団は今川勢をかき分けて行った。
先頭の背が坂を下り切って、街道の平らへ出た。これは阿波方の兵が今川勢よりも強いということではない。
無謀な突撃ではない。理はある。
まず、こちらのほうが高いところを取っている。走り出せば勢いがついた分だけ相手は押される。
後先を考えず、ありったけの矢玉をそこへ合わせれば、その瞬間だけは押し勝てる。
次に、朝比奈勢と三浦勢の入れ替わる隙を狙った。ことに三浦勢から朝比奈勢へ攻めが変わる時である。
前のめりになっていた集団が潮の引くように大人しくなり、今川の軍勢のあいだに大きな空きが生まれる。そこを打った。
そして峠である。上るにつれて狭まる道は、裏を返せば下るほどに兵を出せる。
今川勢は攻め上がる兵を限らねば砦に取りつけぬが、三好勢にその縛りは薄い。一度、砦の入口から今川勢を跳ねのけてしまえば、一万の兵を十全に扱えた。
現に、数百の兵がこじ開けた道を通って、千、二千と兵が次々に飛び出していく。
柵の残骸を跨ぐ者、脇の斜面を滑り降りる者があり、砦の内はしばらく人の背中ばかりであった。
気がつけば、砦に陣取る筑前守の周りには数千しか残っていない。残った者は弓と荷を持つ組が多く、槍を抱えた者は皆、腰を浮かせてこちらを窺っていた。
筑前守は采配を下ろし、動かぬ顔を作った。
だが、それでも知らず知らずにまた同じ名を呼んでいた。
「民部」
民部大輔の率いる兵は勢いを増していた。峠の両側へ三浦、朝比奈の両勢を押しのけ、本隊らしき部隊の近くまで走っている。
少しでも早く京へ着きたかったのか、今川勢は前のめりであった。民部大輔の旗は先頭に近く、土埃の中で何度か見えなくなっては、また前へ出た。
このまま行けるか。三好勢だけで今川治部の首が取れるか。
そう思った。喉が鳴った。
だが民部大輔の部隊は、今川の本隊と思われるそれにぶつかると、ぴたりと動きを止めた。
兵の練度と厚みが、これを押しとどめたのである。
かろうじて、そのまま潰れはしない。民部大輔は兵に集まるよう命じ、必死に前をこじ開けようと号令を発し続けている。
旗が一所に寄り、寄ったまま動かなくなった。柵を握る手に力が入り、掌の皮が丸太の割れ目へ食い込んだ。
「朝倉、六角。いまだぞ」
筑前守は焦れながら言った。采配を持つ手が汗ばみ、握り直すたびに柄の巻きが指の下で軋んだ。
物頭は何も言わず、足場の縁へ膝をついている。東には、まだ動く旗がない。
どう贔屓目に見ても、民部大輔の奮闘は長く続かない。その背を押す後続の兵も、復した三浦、朝比奈勢の挟み撃ちを食らって勢いを失っていた。
峠の下では、三浦の旗が両脇から寄り、三好の旗の列が細く伸びきっている。このままでは分断され、一つずつ叩き潰される運びとなる。
だが、今なお朝倉、六角勢は動いていない。
じりじりとした内心に押されるようにして、筑前守は馬に乗った。
鐙に足をかけるとき、鎧の重みで一度足がすべり、二度目でようやく鞍に収まった。
手綱を握り、いっそ自分が行くかと兜をいじった。
そこを一人の兵が押しとどめた。轡へ手をかけ、頭を上げぬまま体を寄せてくる。
年の若い男で、具足の胸板がまだ新しく、手の甲に血が乾いてこびりついていた。
「なぜ止める」
筑前守はその若い男に言った。責めるというより、懇願する声が出た。
若い兵は武功のある大将を前にしても、一歩も下がらなかった。悲痛な顔で筑前守の馬の手綱を握り、前に出そうとしない。
「民部大輔様の命にございます。前に出るようであれば押しとどめよと。自分が立てた策を信じよと、仰せられました」
言い返そうとして、口を開きかけたまま閉じた。
筑前守は歯噛みした。兜の飾りを握り、盛大に動かした。兜の下の髪が揺れ、汗が滴った。汗は顎を伝い、地に落ちる。
秋だというのに、首から下が、嫌になるほど熱を持っていた。
轡の兵は動かない。馬が首を振っても、手を離さなかった。
「どうか、その時にお備えください」
兵はそう言って頭を下げた。筑前守は喉を上下させると、手綱を持つ手を緩めた。
近くの数人が腰を落とし、抱えていた槍の石突きを地へ戻す。見張り台のほうからは、何かを言い交わす声が続いていた。
その時、見張り台の兵が騒いだ。台の上で手を振り、板を踏み鳴らしている。
「六角、朝倉勢、動きました」
筑前守は馬上より首を伸ばした。鞍の上で腰を浮かせ、鐙を踏み直す。
目を凝らせば、確かに朝倉の旗が動いている。旗を持つ軍勢が、少しずつこちらへ近づいてくる。
軍勢の速さは、見る見るうちに上がった。全力で駆けているのだろう。後続の千ばかりの六角勢は切り離され、六千ほどの朝倉勢だけが前に出た。
砦の内からどっと声が上がり、誰かが物見の名を呼んで、確かめ直させている。
若い兵は轡から手を離して柵際へ走りかけ、途中で気づいて戻ってきた。
「行けるのか、宗滴殿。その数だぞ」
独り言のつもりであったが、若い兵が顔を上げた。筑前守は采配の先で東を指し、案ずるなという形に振ってみせた。
宗滴の力量については疑っていない。
昨年対陣した筑前守自身が、散々味わったからである。
あの老鷲のごとき将が六千の兵で後背に奇襲をかけたなら、倍の兵くらいならば吹き飛ばす。
本陣の大将にたどり着けたのならば、必ず首を取れる。
だが、相手は不敗の今川治部太夫である。
はっきり言って、筑前守には、どうして道永や義晴や幕臣があの男を粗雑に扱えたのか理解できない。
数年で領地を数倍にし、攻め落とし、時に焼き払った土地の国衆を忠実な家臣に変える力量である。
宗滴が規格外ならば、あちらは異常だ。
ゆえに宗滴の六千では安心だと言い切れない自分がいた。
本当ならば六角が五千は出し、大津あたりで一万以上をもって後背を突き、逢坂山へ押し込める。
そこまでやって、ようやくの想定であった。
だが、宗滴自身が行けると踏んだのであれば、もはや何も言えない。
「南無八幡」
知らず知らずのうちに、筑前守は八幡へ祈っていた。
宗滴の奇襲が今川の本隊へ叶うように。
できれば、その混乱に乗じて民部大輔が戻ってくるように。
「は、」
だが、それは逸れた。
筑前守は鞍の上で身を起こした。
宗滴の軍勢は、あとわずかで今川の本隊の背を突ける、そんなところまで迫った。
しかしその途中で逸れ、峠から降りて来た三好勢へ向かう道へ進路を取った。
「なにをしている。宗滴殿」
筑前守は呆然とした。
呆然としている間に、宗滴の率いる朝倉勢が前に出て、三好勢の前と後ろを切り離した。
民部大輔の率いる切り込み隊と、それに続かんとした後続の兵とを、二つに分けたのである。
切り離された後続の列が押し返され、左右へ割れはじめた。
見事な奇襲であった。
情勢を見て、戦の趨勢を決める一撃である。
筑前守は思わず、馬から滑り降りそうになった。轡を押さえていた兵が、慌てて鐙のあたりを支えた。
砦の内の声はやみ、物頭が足場から立ち上がって、東を向いたまま口を開けている。
「どうしてだ」
---
時は僅かに戻り、日ノ岡峠の陣から、阿波方の兵が勢いよく突っ込んできた頃である。
阿波方の兵は、ちょうど三浦、朝比奈の交代の隙を突いたようで、今川勢の真正面を射抜いた。
先頭に立つ将は三好の旗を掲げていた。真っすぐに、真っすぐにと飛んでいく。旗は一度も横へ振れなかった。
喊声は峠の下から真っすぐに伸びてきて、こちらの列の背へぶつかった。
見たところ数百ほどの集団が突っ込んで道をこじ開け、そこを後続の兵らが突き進んでいる。
道の横へ追いやられた朝比奈、三浦勢は、たたらを踏んでそれを見送るほかなかった。
その開いた道を、阿波方の後続の兵がさらに突き進んでいく。
列の切れ目から、また新しい旗が湧いて出た。総じて見れば、少なくとも六千ほどは出ているのではないだろうか。
五郎は借り物の胴の縁を脇へ押しつけながら、それを眺めていた。寸法が合わず、手綱を持つ腕を上げるたびに縁が当たる。
周りは岡部の徒歩の者ばかりで、肩の触れる近さに立っている。
土埃と汗の匂いがした。
五郎は顎を引き、兜の目庇の下から前を見る形を崩さなかった。
組み上げたものが手を離れて動いていくのを、離れた場所から眺めている。落ち着かぬというより、手持ち無沙汰であった。
「父上、よろしいのでしょうか。本陣に向かっておりまするが」
「放っておけ。五郎兵衛」
「いえ、ですが、三好は以前の十三渡の戦いを見れば、後方より朝倉、六角あたりが突っ込んでくれば難しいことになりまする」
「よい。放っておけ」
五郎の眼前で、岡部左京進とその息子である五郎兵衛がやり合っていた。
馬を寄せながら、元服して間もない五郎兵衛が父に食いついている。
それを左京進が、ため息をつきながらいなした。
周囲の兵らは槍を立てたまま、聞こえぬ顔をして前を向いている。周囲の兵らは岡部の郎党や雇いの兵らしく、この岡部父子のやり取りにはさして驚いてはいなかった。
五郎も口を挟まずに聞いていた。
倅のほうが正しく、父のほうが答えを持っている、そういうやり取りである。
本当ならば、倅をよく見ていると褒めてやりたいのだろうが、左京進にはそうできない理由がある。
現に左京進は時折、兵らに紛れた五郎へ目をやり、睨むように眉間へ皺を寄せている。
「その目の付け所は良い。だが、まあ、露骨にすぎよう」
「六角、朝倉でしょうか」
「あとは三好筑前守殿もな。ああも、今一度十三渡を、と意気込まれるとこちらとしても構えざるを得ない」
左京進はもういいだろうと、五郎のほうへ体を向けた。
鞍の前輪へ手を置き、腰を据え直している。
たしかに、今となっては兵に紛れるほうが、問題は大きいのかもしれない。
五郎は鐙を踏み直し、馬を前に出した。
徒歩の者らが左右へ寄って道を空け、その動きで五郎兵衛が振り返った。
五郎兵衛は怪訝な顔で、急に進み出た兵を見やった。だが、兜の下からのぞく顔に見覚えがあったらしく、にわかに目をむいた。
年若い五郎兵衛は手綱を持ったまま、鞍の上で背筋を伸ばした。
「御屋形様」
若い声が震えた。
「そう固くなる必要はない。今少し、一兵卒で頼む」
「左様。五郎兵衛。貴様がこの方をその内叱りつける役目になる。その体でそれが叶おうか」
同年代では豪胆で名の知れた五郎兵衛であるが、口を開閉させた。
数年前、五郎が甲斐に腰を据えていた折は、五郎兵衛を何度も相手にしていた。膳を供にしたことも数えられぬほどある。
だが、時が空くと、過日の如く接するのは難しいようであった。
「御屋形様、結局、如何されましたでしょうかな」
左京進が苦い顔をしながら聞いた。
声は落としているが、口の動きは大きい。五郎が答えるまで、鞍の前輪を指で叩いている。
「先ほど、知らせが飛んだ。六角、観音寺に閉じこもったらしい。朝倉もそれで腹をくくったようだ」
岡部の陣に伝令に紛れ、草の者が五郎に伝えていたのだ。
左京進の眉間の皺が、いくらか浅くなった。
「ああ、それはようやくでございますな。長井殿の倅、新九郎殿、それと関口彦三郎殿も働かれたようで」
「宗滴殿はあちらよりも、結局六角が前に出れるかだけを気にしていたようだ。六角が逢坂山から山科に入れるようであれば、越前のことは多少目をつぶって前に出ただろう」
左京進は手甲をいじり、鞍を鳴らして背後を振り返った。東の方に朝倉、六角の旗が翻っている。風が西から東へ流れるたびに、両家の家紋が目にちらついた。旗は次第に足を速めながら、こちらへ近づいてくる。
「すべて手の中でしょうかな」
左京進は責めるように言った。気を抜くなと、倅に接するようである。
五郎は首を横に振る。
「そう見えるのであれば、多少は良い。実際はこのような臆病をさらしている。筑前守殿を笑えぬ博奕であろうよ」
五郎は自分の兜を叩いた。手甲と兜がぶつかり、乾いた音を立てた。
見た目は些末なそれであるが、身に着けている防具は、内に薄く補強を入れてある。このような装具でなければ、岡部の陣に紛れることを、左京進や備中守が許さなかった。
「今川治部太夫氏景は本陣から微動だにせず、今楠公を迎え撃った。後世に残るのはそれだけにございましょう」
朝倉の裏切りを案じて、影武者を立てたなどという話は外に漏れない。正々堂々と戦い勝った。
左京進は前を向いたまま、そういうことにする、と口の端だけで言った。
「承菊あたりがそれを許すものか」
あれは五郎の恥や失敗をかき消すことを許さないだろう。後々の学びのためと称して、一割、二割増しにしてこっぴどく残しそうである。
考えるだけで気が重くなった。
それを察した左京進が顔を顰め、右方の陣を睨んだ。そちらには承菊が同道している備えがある。
「お待ちを」
そこでとうとう五郎兵衛がしびれを切らした。話についていけず、顔をこわばらせている。
父と五郎のあいだで幾度か目を往復させ、それから馬を半歩、前へ出した。
「左京進、倅に伝えていなかったか」
五郎は横眼で左京進を見た。左京進は微動だにしない。
「策が成るまでは秘中の秘にございましょう」
甲斐で丸くなった関口彦三郎とは違い、この男は一層に固くなった。少なくとも五郎に対しては固い。
それでも何とか甲斐衆を纏め上げているあたりが、この左京進という男なのかもしれない。
五郎は馬を寄せて、五郎兵衛にそっと話した。
「簡単に言うと、五郎兵衛の思う通り宗滴殿と弾正少弼殿は阿波方に寝返っている」
「では、今迫る軍は」
五郎兵衛がはっとして、後ろを振り返った。朝倉方の兵は勢いよく進んでいる。
五郎兵衛の手が腰の刀に伸びた。
「ああ、あちらはもう問題ない」
「いえ、ですが」
五郎兵衛はまた鞍の上で腰をひねり、東の旗を確かめてから、また向き直った。
顔から血の気が引いて、目だけが動いている。
「弾正少弼殿は後詰の兵で近江を攻めると城に籠った。あの千の兵はこちらの者。朝倉の見張りになる」
今川が出せる兵は今までは即応の軍だけである。国人衆らにはほとんど軍役を課していない。村々から農民を引き出してもいないだろう。
だが、今回はそこを僅かに緩めた。
信濃、美濃あたりの兵を使い、六角の兵が動くや否や近江になだれ込んだ。
何をするのかと、六角家からの批難が届いていた。だが、阿波との内通を知っていると匂わせると、六角は早々に城に籠ったのだ。
まず、六角は動かないだろう。一万五千が城に張り付いている。
五郎がそう言っても、五郎兵衛はまだ落ち着かない。後ろをしきりに見て、朝倉勢に顔を顰めた。
「いや、六角殿はともかく、朝倉殿は如何なさる。宗滴殿を名将と称されたのは御屋形様でございましょう。千の見張りではどうにも」
「宗滴殿の腹はどうにもならなんだ」
確かにと五郎は頷いた。あの老将は先が見えている。
ここで今川を砕くことが、朝倉の今後のためになると重々承知しているため、寝返れと言っても寝返らない。
「では、」
「ゆえに宗滴殿の上、御当主を揺らした。条件付きであるが」
五郎兵衛が口を開きかけ、そのまま止めた。
朝倉孫九郎が挨拶に来た後、美濃、信濃の兵を一部動かし、朝倉が出立した後で、朝倉家の当主と繋がった。
幾つかの取り決めのもとに、阿波方に付かぬことを約束させ、此度の上洛においては一貫して義晴に忠実であったということにした。
「信じられるのでしょうか」
五郎兵衛が問うたのは五郎に対してであった。だが、答えたのは横合いからであった。
左京進は察しが悪いとばかりに、鼻を鳴らした。
「どちらでも良い。御屋形様は本陣にはおらぬ。朝倉が寝返り、多少は陣が乱れようがこの戦は勝つ。無数にいる部隊の中で宗滴殿があたりを引ける自信があるのならば、それでも良いが」
左京進が言い捨てた。倅のほうは見ず、東の旗を追ったままである。組下には面倒見がいいという評判であるが、倅には厳しいらしい。
いや、と思い直す。自分が水を向けろという話であろう。
五郎は兜の下で柔らかな笑みを作った。
「左京進の言葉ではないが、朝倉の当主が内心では阿波方に通じていても、宗滴殿が今この瞬間に本陣に突っ込んでも変わらぬ。居残りの兵で越前を呑む」
はっきり言えば、上洛よりもこちらのほうが得かもしれない。
朝倉、六角のせいにして軍を下げる。越前、南近江は領することができる。
「宗滴殿はどうされましょうか」
五郎兵衛が息をのんだ。まだ前と後ろで目が行き来する。手綱を持つ手が、鞍の上で小刻みに動いていた。
五郎は答えず、しばらく前と後ろを見比べていた。
前方では、猛々しく三好勢が本陣の手前まで来ていた。
それらは態勢を整えた三浦、朝比奈勢の挟み撃ちにあっているが、それでもまだ道を開き、留めること、前に進むことをあきらめてはいない。
三好の旗が土埃の中で幾度も傾き、そのたびにまた立った。後方の朝倉方は、みるみる速さを増している。
見張りとして置いた千の兵、六角の旗を掲げた今川勢を振り切った。
「繰り返すが、宗滴殿が自身の才覚と読みで治部の首のありかを見極められる。そう思うならば、突っ込んでくる。自分こそ朝倉の真の当主である、その自負が忠節を上回るのであれば、迷いはすまい」
五郎兵衛が息を詰めた。朝倉が足を速める。
三好の声が大きくなる。五郎は手綱を握ったまま、胴の縁が脇へ食い込むのに任せていた。
そして、
「年の功か」
五郎が言うと同時に、朝倉軍が今川の本陣を逸れて、前線へと向かった。
周りの兵から、低いどよめきが上がった。
朝倉宗滴は安全策を取った。
どこにいるか分からぬ五郎の首を取り、美濃やその近辺を今川の手から取り戻す道は選ばなかった。
自分自身の才覚に折り合いをつけ、せめて越前だけでも守れる方向へと舵を切ったのである。
五郎は手綱を握り直した。掌が湿っていた。
五郎兵衛が胸をなでおろし、鞍の上で肩を落とした。それを左京進が見咎める。
「まだ終わっておるまい。何を休んでおるか」
五郎兵衛は背筋を伸ばした。伸ばしたまま、鞍の上で身を固くしている。
「いや、終わりでよい」
五郎は前線を見て言った。明らかに三好勢の勢いが落ちていた。
何が起こったか分からず、呆然と朝倉の旗を眺めている。
押し合っていた槍の穂先が、揃って東へ傾いた。
そして、勢いづいた朝倉の突撃を、後方の兵がもろに食らった。列が真ん中から折れ、旗の一本が土埃の中へ沈んだ。
「朝比奈勢、三浦勢に伝令。加減はもうよい。前々から決めた地点、京の手前までであれば好きに追え」
同じように兵へ紛れていた直轄の者らが、槍を置いて列を離れ、後ろへ走った。
走る背が二つ、三つと土手を越えて見えなくなる。
それから五郎は岡部親子へ顔を向けた。左京進は慣れたもので、太々しいほどに馬上でゆったりと構えている。
息子の五郎兵衛は初陣らしく、顔を紅潮させ、攻めかかる時を今か今かと待っていた。
先ほどまで朝倉の動向に肝を冷やしていたが、今は完全に頭を切り替えたらしい。
本当ならば岡部親子の元で筆仕事でもしたかったが、この様子では難しそうである。
父子とも、もう半分は前を向いていた。
五郎は内心で嘆息しつつ、命を発した。
「左京進、五郎兵衛も追撃に加わることを許す」
五郎兵衛は音が出るほどに、手綱を握った。左京進はそれを横目で見て、口をとがらせる。
ただ、叱るのは後にするようであった。
「承知いたしました。御屋形様は如何いたします」
「今日はこのまま、兵に紛れる。朝倉の稚気が湧かぬところまで戦が進めば、帰ろう」
左京進の目が五郎を射抜いた。
また黙って我が身を危険にさらすのか、そんな疑いが向けられる。
返す言葉はいくらでもあったが、どれを言っても同じ目で見られるのは分かっていた。
五郎が呆れたように眉を上げると、しばらくして納得したように目を逸らし、鞍の上で兜の緒へ手をやった。
「では、失礼を」
そう言って岡部親子は馬の腹を蹴った。
徒歩の者らが二人の後を追って走り出し、立てていた槍が一斉に前へ倒れた。
五郎はそこに残された。
---
五郎は馬にまたがったまま腕を組んだ。
西では喚声がまだ続いており、土埃が街道の上に長く残っている。岡部の旗はもう見えない。
だが、確かに戦の気配は遠ざかり、手持ち無沙汰になった。
そうなると、また何時ぞやの懊悩が戻ってきた。
今の勝利はなにが齎したのだろうか、そんなことを考えてしまう。
まず、今の勝利は、自分とやらを大切にしたゆえの道と仮定する。
たしかに、そういう側面もある。芳菊丸を跡継ぎから外した以上、龍王丸が十を超えるまでは生きる必要が出てきた。そのような心情が、自分自身を慎重にしたのかもしれない。
だが一方で、五郎が本隊から離れて別の備えに紛れるというのは、以前、上野で長野出羽守に対して行ったことの真似である。
あの時は、自分を大切にするとか、そういったことに思い悩んではいない。
それが一番得る物が多いからやっただけである。
その過日の戦と今、いったい何が違う、そう問われたら、
「何も変わってはいまい」
そう答えるほかなかった。
結局、与一郎との問答も、宮内との問答も、五郎に明確な解をもたらすには至っていない。
長い時間をかけて出来るようになったのは、悩みを切り離し、普段の自分を取り戻す感覚を覚えたことだけである。しかし、無理に切り離せば、また戻ってくる。今がそれであった。
五郎は馬上で息を吐いた。胴の縁が、腕を動かすたびに脇へ当たる。
組んだ腕を解いて手綱を拾い、馬の首を軽く叩いた。馬は耳だけをこちらへ向け、それから土を掻いた。
西の喚声が一度大きくなり、また遠のいた。
残念ながら思考に潜る時間はあるようだった。
「あの、申し訳ありません。ちょっと教えてもらっても良いでしょうか」
その時、声が掛かった。
声をかけたのは、先ほどまで紛れていた徒歩の兵の中の一人である。
左京進が連れてきた物頭に率いられた、銭雇いの兵であった。
槍を肩へ担ぎ、片手を顔の横まで上げて、鐙のあたりから見上げてくる。日に焼けた首筋に古い傷が一本あり、鉄笠の紐がその上を通っていた。
五郎の直轄の兵らがそれを不快気に思い、腰の物へ手をやった。
確かに、今川勢四万の大将に対して軽々しく声をかけることは、褒められたものではない。
「よい、申せ」
だが、今の五郎は岡部勢の物頭の一人である。
五郎は直轄の兵らを目で抑えながら、問うてきた兵に言った。声は腹から出す形にして、少しだけ低くした。
「あの、岡部の殿様が前に出たのですが、わしらはどうすれば良いんですかね」
ああ、と五郎は頷いた。
左京進は念のため、銭雇いの兵らを陣に残している。五郎が好きに使えということだろう。
五郎は、残された兵らと、こちらを窺っている物頭らを見やった。
それらは合計で百ほどおり、槍を杖にして腰を下ろしている者もあれば、水を回している者もある。
この中に五郎を今川治部太夫と知る者はいない。
だが、岡部父子と馴れ馴れしく話す有様から、今川中枢に近い者と見たらしい。
「案ずるな、この場で留まる。いま少しすれば、戦は終りという運びになろう」
「あ、へへぇ」
五郎が言うと、その兵は少し残念そうに背を曲げた。
担いでいた槍を下ろし、石突きで足元の土を突いている。突いては足で均し、また突いた。
「どうした」
「いえね、戦が終わったのならば漁りにいっても良いのか、なんてね」
戦場漁りは、別に珍しいことではない。今川の即応の兵や、ごくわずかな常備の兵を除けば、残りは農兵である。
農兵の武具は自前である以上、戦場で拾うほかに刀槍、鎧を手に入れる術は限られる。
この男の胴も、板の色が二枚ばかり合っていなかった。どこかで拾ったものを継いだのだろう。
「やめておけ、三好勢は気勢を僅かに取り戻しつつある」
五郎は手綱を持ったまま、そっと峠の入口を指した。
切り込み役として来た集団が、声を大きくしながら、峠の砦にたどり着かんとする今川勢を足止めしている。
大将の三好筑前守を逃がすつもりなのだろう。
兵は指の先を追い、目を細めて、しばらく口を開けたままでいた。それから鉄笠の縁を下げ、日をよけて見直している。
「ははぁ、そんなものですか。よう見ていらっしゃる」
その軽い言葉に直轄の兵らが殺気立った。
今度はそれらへ手を振り、下がっているように命じた。彼らは不服そうに一歩だけ引き、そこから動かなかった。
「大したことではあるまい。この程度は、二度、三度、戦場に出ればわかる」
「いやあ、わしは餓鬼の時分より戦に出ますが、とんと分かりやしません。やっぱり出世される方は違うわ」
その兵は言いながら、笠の下へ指を入れて掻いた。禿げ上がった頭が、鉄笠の合間からのぞく。
「出世などしてはおるまい。見ての通りの木っ端であろう」
そう言えば、祖母の葬儀の日にも似た言葉を吐いた。
兵は掻く手を止め、妙なことを聞いたという顔をした。
「出世されんので。今川様は能があれば、駿河、遠江の生まれでなくても上に上がれると聞きやしたが」
「それは本当であろうが、私など如何程のものでもない。多少は良い家に生まれたというだけで、本質的にはどうしようもない男だ。上に上げるべきではない」
本音がぽろりとこぼれた。言ってしまってから、言う相手ではなかったと思ったが、遅い。
兵はさらに訝しんで、鉄笠を持ち上げた。黄ばんだ眼がこちらを向く。五郎は兜を目深にかぶって、その目から逃れた。うなじに汗が伝った。
「なにかしくじりをされたのですか」
あまりの無遠慮に五郎は苦笑した。声を出さずに、口の端だけが動いた。
本当ならばこんな問答はしない。今も無礼者と怒鳴ったほうが良い。物頭と言えど、それぐらいはした方が良いと知っていた。
だが、今は心がざわついていて、少しでも何か吐き出したかった。手綱を持つ指が、鞍の前輪を二度、三度と叩いている。
「岡部の一門ともめた。叱られた。私は捨て身で物事をやり過ぎるらしい」
「あれま。そりゃまたどうして」
やはり随分と突っ込んでくる兵である。隙間の空いた歯を剥いて笑い、槍をまた肩へ担ぎ直した。
馬上の相手に遠慮するという気配がまるでない。
「なぜと言われれば、まあ、私に価値があるとは思えぬからであろうよ」
素直に言葉が出た。自分を知らぬと思えば、簡単に吐き出せるものである。
その兵はそれを聞くと、得心がいったように頷いた。緩く結ばれた鉄笠が上下し、染みの入った地肌がのぞく。
「まあ、御武家様も次男坊、三男坊となりゃ、珍しくありませんからな」
その兵は勝手に解釈し、勝手に五郎を捨てられた次男、三男と言った。
五郎は次男ではない。少なくとも今生はそうだ。
「珍しくないか」
「ええ、家で捨てられりゃ、そう言う風に思っちまうんでしょうな。どんだけ努力しても、ちょいと図体のでかい長男がいりゃ、物覚えの良い次男、三男なんて、ポイですぜ。長男に餓鬼が出来れば、すぐにでも」
五郎の直轄の兵が前に出ようとした。それを追い払うように手を動かした。
「そうか、それを経験した次男、三男はこう思うわけだ。自分はきっと根っこの部分が人より劣っているから捨てられた」
「どいつもこいつも同じように考えなさる。まあ、兄が憎いに行く方もそこそこにおられなさるが、そちらも、御武家様の考え方もまあまあ多い」
五郎は鼻で笑った。笑いながら、手綱の余りを指へ巻きつけ、巻いたそばから解いている。
「して、そのように考える男をどうすればより良くできる。ましな人間に出来る」
兵は呆れたように言う。
「失敗すれば、その内考えを変えられるのでは。あとは嫁さんでしょうかな」
「自分自身などと捨て鉢になって、そこそこに上手くいったとしたら、それに妻を娶っても、自分が下らないという思いがぬぐえないのならば。どうすれば、自分を大切に、いや、誇らしく思える」
歯の抜けた兵は、間の抜けた顔をした。
それから腹を抱えて笑った。笑い声が高く、近くの数人が振り返った。五郎は笑われるまま、手綱を握って待っていた。
「それは考え違いってもんでしょう」
「なにが」
兵は目じりの涙をぬぐった。笑いすぎて咳が出たらしく、しばらく胸を叩いている。
「誇らしくなんか思えるわけありやしませんぜ。だって、大層な人間なんていやしないんですから」
兵はそこで、はっとした。
武家の物頭に対して言ってはならないことを言ったと、気が付いたようだ。
頭を下げて逃げ出そうとする前に、五郎は鞍から身を屈めて、その襟を引っ掴んだ。
「ついでだ、申せ」
「なにを、でございましょうか」
歯抜けの兵は怯えた。掴まれた襟の上で、喉仏が上下している。だが、その目を見返して言った。
「続きだ。大層な人間がいないとはどういうことか」
「いえいえ、そんなことはございません。御武家様は、」
「心の内を申せば許す。褒美も出そう」
五郎がそう言うと、兵は唾をのんだ。それから五郎の後ろの直轄の兵らをちらりと見た後、おずおずと続けた。
襟を掴んだ手はそのままである。声はさっきより小さく、早口になった。
「いやね、人間そう大した違いはないということです。夫になって、父親になって、切り捨てる側に立てるってことに気が付きましょう。自分をかつて切り捨てた人間だって、しょうもないって。じゃなければ、その立場になれるわけないでしょ」
「捨てられた男に価値がなく。捨てられなかった側に価値がある。そう考えるのが普通であろう。でなければ捨てられぬ」
「人間の価値なんて、わかりゃしませんよ。あったとしてもみんな勘違いで、勝手に値を付けてるだけですぜ」
その兵は大分調子が出てきたのか、また声を大きくし始めた。
鉄笠を後ろへ押しやり、へらへらと身振りをした。そして、遠くにたむろしている同じ銭雇いの兵を指さした。
この男と同じように、みすぼらしい恰好で土を弄っている。
「皆、しょうもない人間ですぜ。そんな気を張る必要はないって、気付いた方がいいって話です」
五郎は襟から手を離した。兵は襟を直しもせず、まだ何か言おうとして口を動かしている。
視界が広がったことに気が付いたのは、その後である。
それから、どうしようもなく笑いがこみあげてきた。
腹からこみあげたそれは抑えることができず、只管に口から飛び出た。笑い、笑い、それからまた笑った。
鞍の上で体が折れ、兜の錣が肩当てに当たって鳴った。
馬が驚いて半歩下がり、五郎は片手で首を撫でて宥めた。
「御武家様」
歯抜けの兵や、直轄の兵らが心配して寄ってきたが、五郎はそれを手で押し留めた。
ひとしきり笑い、五郎は姿勢を正し、目尻を指でぬぐった。
「左様か。なるほど、私は勝手に他人に様を付けて、一歩引いていた馬鹿者か」
五郎は笑いを含んだまま、腰から小刀を取って放り投げた。今川の家紋は入っていないが、それでも値の張る名刀である。
熱田の商人が献上してきた名物であった。銭にすれば、かなりの物だろう。
その名物が歯抜けの兵の手元に入った。
「いや、これは」
「金言、馳走になった。これで、戦場漁りは諦めよ。決戦が故、兵を分けるつもりはない」
五郎はそう言うと、馬首を返した。
困惑の顔を浮かべる直轄の兵らに微笑みかけると、自分の本隊に向けて馬を駆けた。




