8章_6
三好筑前守元長は山城国の山科、日ノ岡峠に布陣していた。
山科は盆地である。北と南を山にふさがれ、東と西の口だけが開いている。
京へ入る東海道は、西の日ノ岡峠、東の逢坂山という二つの難所を越えて、この盆地の底を通り抜けていた。
南へ抜ける道がないわけではない。だが四万の軍勢が兵糧と荷駄を引き連れて京を目指すとなれば、東海道を捨てるのは容易ではなかった。
この山科、日ノ岡峠というのは待ち構えるには良い場所である。
だが、筑前守は丸太を積んだ囲いに片手をかけ、盆地の底を東の端まで見渡してから、少し歯噛みした。
本当ならば、近江の大津か逢坂山まで出て行きたかった。あそこならば、今川勢を近江の内で押しとどめられた。
六角の膝下であるから、兵も米も思うように動く。逢坂山は日ノ岡峠よりも険しいため、大軍を防ぎ日を稼ぐのも容易である。
時を稼げば、大和の勢が起つのも、尾張の織田弾正忠が兵を挙げるのも間に合ったかもしれぬ。
今川が、六角を待ち、もう少し時を費やしてくれていれば、そうなっていた。
言っても始まらぬことを、まだ考えている。そう感じて筑前守は顔を振った。
「だが、まあ、悪くない。よな」
声に出してみると、思っていたよりも張りのない声が出た。
前の晩からろくに眠っておらず、朝から喉が渇いている。腰の竹筒を取って口に含んだが、水は生ぬるく、渇きは引かなかった。
「自信を持て、筑前」
三好民部大輔が日ノ岡峠の囲いに背を預けながら言った。
籠手をはめた腕を組み、片足の裏を丸太に当てている。
「大枠でうまくいっている。向こうはまだ気づいておらんのだろう」
「おそらくね。山科盆地の四ノ宮を抜けて、悠々と進軍している」
筑前守は采配の柄で、盆地の東の隅を指した。
逢坂を降りきったあたりに、砂埃とも霞ともつかぬものが薄く伸びている。
物見の話では、今川勢は一糸乱れず四ノ宮を通ったという。
指した腕を下ろすと、胴丸の重みが肩から首筋へ移った。昨夜から具足を解いていない。
「側に朝倉殿を置き、後背を六角殿に任せてか。狙い通りよな」
民部大輔が顎を揉みながら唸った。
「そんな簡単な相手、というわけでもないように思えるが」
「気にしすぎだ。あの公方に宴に付き合わされ酒毒で頭が回っておらんのだろう。それに相手は若くして勝ちを重ねすぎておる。そういう相手はここ一番で浮足立つ」
民部大輔は囲いの隙間から外を覗き、それから覗いた目のまま笑った。
下では兵が二人がかりで丸太を担ぎ上げてきて、囲いの継ぎ目に据えようとしていた。今少しでも囲いを固くしようと動き回っていた。
「まあ、それもなくはないが」
今川治部を見るに、あそこまで成功を積み重ねるともはや周囲が疑っても口に出せない。
今川勢は今川治部が前に出ろというと、妄信的に前に進むのだろう。
「では、何が気になる」
「伊勢で弾正少弼殿が今川との断絶を匂わせた。それを放置して、背中を預けるというのが聊か気になる」
筑前守は采配を持ち替えた。
先の会談でそのことを尋ねた折、六角弾正少弼は、良い思い出のように言った。
だが、筑前守にとってはやはり心配である。
民部大輔はそれを聞いて鼻を鳴らした。
「そうは言っても、もはや袋の鼠ではないか。今川治部が六角殿の心中を気にかけ、寝返りを疑ったとしても、どうすることもできなかったのだろう。おそらく、幕臣らが散々世話になった六角家を粗略にするな、謀略にかけるなと言い含めたのではないか」
「それは、あり得る、が」
「気にし過ぎよ。軍神という張子の虎に踊らされてどうする。あちらに軍神がおるのだとしても、こちらには今楠公がおる。胸を張れ」
民部大輔が大仰に言って口角を上げた。
筑前守は肩を落とした。今楠公の名はやはり重すぎる。
「いや、勘弁してくれ。六郎殿の目が本当に怖いんだ」
企てを防いでからはさらに厳しい。
民部大輔はなおも笑った。
「ここで今川を打ち破れば、もはや怖がることはなくなる。そう言う物だ」
民部大輔は筑前守の背を平手でばんばんと叩いた。鎧を着ていたが、あまりの力強さに筑前守はむせた。
むせている間、囲いの下で丸太を据えていた兵らが手を止めて、こちらを窺っていた。
筑前守は咳をおさめ、何でもないという顔を作って采配を振ってみせた。兵らはまた丸太に取りついた。
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そこから一日が経った。今川は東海道をさらに西へ進み、山科の御陵のあたりに差しかかったところで動きを変えた。
今川の物見が日ノ岡峠の陣に気づいたのである。街道を細長く伸びていた列が、盆地の中ほどで横へ膨れはじめた。
旗が横に並び、その後ろに新しい旗が並んだ。
先手として攻めかかるのは先手大将の三浦次郎左衛門と見えた。近くは伊勢の攻略において、手際よく長野やそれに与する国人衆らを片した男である。
その次郎左衛門に率いられた一万ほどの軍勢が、旗を悠々となびかせた。そして、屈強な兵らが足早に前に進んできた。
「一万の大軍ですら先手に過ぎんか」
筑前守は言った。声が思うように出ず、また竹筒に手が伸びた。
傍らに来ていた民部大輔が、その手元をちらと見た。
「どうする筑前。予定通り下がるか。兵らはあまり頼りにできん」
今川勢は負けなしである。勝ちの味を知っている軍は強い。
筑前守らも十三渡で大勝を味わったばかりではあるが、それはあくまで筑前守配下の一部の兵であった。
阿波方の全体は纏まりに欠け、今川と真正面から槍を交えるとなると気が引けている。
勝ち馬に乗ろうと寄ってきた国人衆は言うまでもない。昨日から囲いを積んでいる兵の中にも、東の砂埃を見るたびに手が止まる者がいた。
「予定通り逢坂山に陣取れたなら、下がって引き込めたのだけれど、ここはもう山城だ。下がれない」
「持ちこたえるほかあるまいな」
民部大輔は歯を食いしばって、馬を駆り前線へ走った。
坂を下って行く背に、筑前守は采配を持ったまま片手を挙げたが、民部大輔は振り返らなかった。
「すまんな、民部」
筑前守の見るところ、これは所詮博奕である。
今川の大軍を叩きのめすには、いくつかの手筈が揃わねばならなかった。
一つは、六角の寝返りを今川に悟らせず、そのまま背を向けさせること。
二つには、治部太夫の本隊のそばに、遊軍を置かせぬこと。
三つには、朝倉が自由に動ける場所におり、しかも治部太夫の本隊から遠くないこと。
これが揃うまで、耐えねばならない。
日ノ岡は東海道が通ってこそいるが、峠と名の付くだけあって、大軍が一度に押し寄せられる道ではなかった。
それでも兵の数といい質といい今川が勝っている以上、いつかは破られる。
囲いの丸太は、昨日から今朝にかけて切り出したばかりであり、ちらりと見ただけでその組み合わせに雑さが目立った。
筑前守がそれらに歯噛みしていると、わあわあ、という声が前方より響いてきた。
とうとう戦が始まったのだ。
「押し返せ、ひるむな」
民部大輔の大きな声が、本陣の筑前守の耳にまで届いた。
前の囲いのあたりで喚声が上がっては途切れ、また上がった。
矢が空を切る音が、風の向きしだいで本陣まで届く。
峠道は幅が狭く、三浦勢は一万を抱えていながら、一度に取りつけるのはせいぜい数百であった。
だが、その数百を、三浦次郎左衛門は惜しげもなく入れ替えた。
倒れた者の上を後ろの者が踏み越えて囲いに取りつき、丸太を槍で突き、縄をかけて引く。いかにも手慣れた兵らが、勝って当然とばかりに前に出てくるのだ。
無論、阿波方も突き返した。だが、押し返す声よりも、坂を下がってくる者の数のほうが目についた。
肩を射抜かれた男が、矢を折りもせずに本陣の脇を抜けて行った。
足を引きずる者、兜を失った者、他人に肩を借りて降りてくる者が、次第に増えた。旗が一本、また一本と後ろへ動いた。
「耐えろよ、耐えろ」
筑前守は呟きながら、床几に腰を据え、采配の柄を握っていた。
掌に汗が滲んで、柄の巻きが滑る。
何度も握り直した。前の様子は音でしか分からず、音は絶えず変わった。
近くに控えている物頭や旗持ちが、時折こちらを覗き見ては、すぐに平伏するのを繰り返している。
筑前守はできるだけ動かずにいた。動けば、動いた分だけ読まれる。腹を読まれれば、日和見の兵らが逃げる。
ゆえにじっと、筑前守は構えるほかなかった。
だが、戦が始まり一刻ほど経って、民部大輔が戸板に乗って運ばれてきた。
「民部」
まさかと思い、床几を蹴るようにして駆け寄った。民部大輔は怒った顔で見返してきた。
「筑前守様、戦の最中にございます。気を緩めてはいけませぬ」
周囲に人がいるので、気を使った話し方である。
筑前守は襟を正し、背を伸ばした。戸板を担いできた四人が膝をつき、そのまま頭を下げている。
四人とも肩で息をしており、一人は籠手が血で汚れていたが、それが誰の血かは分からなかった。
「して、どうなった」
「申し訳ござらぬ。何とか押しとどめてはおりますが、三浦勢が手強く。流れ矢が頭に当たり申した」
民部は軽く言ったが、筑前守はぞっとした。そして、民部大輔の頭を見た。
兜の吹返しの上あたりが浅くへこみ、そこだけ塗りが剥げて白くなっている。
筑前守が手を伸ばしかけると、民部大輔はその手を目で押しとどめ、呆れるように息を吐いた。
「兜が防ぎ申した。ただ、ふらついたので下げられただけにございます。直ぐに戻る故心配無用」
「いや、まて」
民部大輔は膝を立てた。そして立ち上がろうと力を込める。
「畏れながら待たれませぬ。敵勢は三浦勢と入れ替え、朝比奈勢を前に出し申した。攻めかかりの勢いだけでも防がねば、抜かれ申す」
「無理をするな。戦は始まったばかりであろう」
起き上がろうとする民部大輔の胸を押すと、あっけなく戸板に腰がついた。
睨まれたが、その手にも肩にも力がない。普段の民部大輔であれば、このような無様は晒さぬはずであった。
「筑前が参る。そこもとはここにおれ」
「総大将の出番に早すぎましょう」
「早くはない。朝比奈が出たということは、今川治部の周囲が薄くなったと見れる。機が来ておるのであれば、筑前が見極めねばならぬ」
気遣いはあった。だが、嘘はなかった。
戦が始まって、もし六角が動いているのであれば、好機はすぐそこまで来ている。
そのとき筑前守が陣頭に立って、突撃、の一言を言わねばならない。そうでなければ、及び腰の兵らは前に出ない。
「わかるな、民部。今楠公の目が必要なのだ」
そう言うと、民部大輔はくしゃりと顔をゆがめた。
「自分で申されるあたり、気に入っておられるのでは」
「気に入ってなどおらぬ。馬鹿者」
言い捨てて背を向けると、後ろで戸板の担ぎ手が笑いを噛み殺す気配があった。
筑前守は馬に乗ると、民部大輔を本陣に置いて前へ出た。
急ごしらえの砦である。正直に言えば、砦というにはあまりに粗末なものであった。
最前線の物であっても、丸太を横にして何本か積んだものを道の真ん中に置き、そこにありあわせの足場を拵え、弓兵らを添えただけである。
高いところを取っているから、物を投げれば勢いがつき、矢を放てば矢勢が増す。
だが、それだけであった。足場の板は釘が足りず、上を歩くたびに撓む。
そのような不格好な砦に対し、朝比奈勢は竹の束を重ねたものを持ち、じりじりとこちらに迫ってくる。
竹束の陰から足だけが見え、その足がまた止まり、また少し進む。
「勢いがない。こんなものなのか」
筑前守は側にいた直轄の物頭に尋ねた。物頭は朝比奈勢を見やりながら、小首をかしげている。
「いえ、三浦勢は果敢に攻めかかってきました。矢なども嫌になるほど放つので、頭を上げられませなんだ。ただ、朝比奈勢はご覧になったようにじりじりと進んで参ります」
「こちらの方が楽か」
言っていると朝比奈勢の先頭で、竹束を持った兵の一人が膝をついた。こちら側が射た矢が腕に当たっていた。
だが、即座にその兵は下げられ、後ろの兵が代わりに竹束を持ち、先頭を引き継いだ。
物頭は足場の弓兵に手を挙げて射るのを止めさせ、それからまた首をかしげた。口元が苦み走っていた。
「わかりかねます。あ奴ら下がらぬので、三浦勢と同じように気を吐いていると、根負けしそうになります」
「であろうな」
筑前守は生唾を飲みながら、馬上より周囲を見渡した。
砦の付近に見張り台があるのを見つけ、下馬してそこを上った。梯子は湿った丸太で、鎧の重みが肩に食い込んだ。
ぎょっとする兵らを、すまぬ、と押しのけ、東の方角へ目を凝らした。
「よし」
筑前守はまずは胸をなでおろした。
今川治部太夫の馬印は見えない。
だが、本隊と思われるあたりが前のめりになっている。朝比奈、三浦も、峠を交代で攻められるように前方へせり出していた。
そのまま見張り台から降りようとしたところで、ふと疑問が生まれた。
「まて、朝倉勢は何処にいる」
筑前守が思わず口に出すと、見張り台にいた兵が恐る恐る口を開いた。
「朝倉殿は三浦勢が攻めかかっているうちに、東にさがったようで」
筑前守は唾をのんだ。それでもかすれた声が出た。
「揉めていたか」
「と言いますと」
「今川軍と揉めたか。いや、こう、動きが迷うように右往左往したりはしなかったか」
最後のほうが語気が強くなったため、兵は肩を震わせた。まだ若く、頬に土のついた顔で、筑前守の胸のあたりに目を据えている。
だが、戦の大将があまりに真剣な様子であったため、震えながらも答えてみせた。
「畏れながら、そのような動きはなかったと。ゆっくりと、ただ下がっただけに見え申した」
「確かか。他にそれを見たものは」
筑前守が見張り台にいる他の兵へ順に目を向けると、皆ぱらぱらと頷いた。筑前守はそれを見て、拳を握った。
「機が来た」
そしてそう呟いた。
筑前守の見るところ、六角の寝返りについて、今川治部太夫は訝しんではいる。いるのであろうが、確証を持つまでには至っていない。
ゆえに攻めかかるにあたって、前のめりになる危うさを減らすため、後ろへ兵を割いた。
それが朝倉勢であったのだろう。
手柄を独り占めにせんとして治部太夫がそうしたのか、はたまた宗滴が言い出したのかは分からない。
ともあれ朝倉は、後ろを見張るために下がったのである。
ならば、あとは待つだけである。東に六角と朝倉の旗が翻り、今川治部太夫の本隊を突く。
そうなれば今川の大軍は山科盆地で四方を囲まれ、潰える。
握った拳が、籠手の中で汗ばんでいた。開いてみると、采配の柄の跡が掌に残っている。
筑前守はそれを袖でぬぐい、もう一度握り直した。
近くに迫った朝比奈勢の目につくのも構わず、筑前守は見張り台から声を張った。
「今少し耐えよ。必ず勝てる。今楠公を信じよ。そなたらは末代までの武功を得られようぞ」
言うと、些末な砦全体から歓声が上がった。
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さらに数刻が経った。それでもまだ東の動きはない。
朝比奈はその間、何度も峠の砦に取りついた。
竹束を並べて矢をしのぎ、囲いの下まで寄せては引き、また寄せる。
引くときも走らない。矢を配って回る小者の足がだんだんに遅くなり、足場の弓兵は坐りこんで射るようになった。
その何度目かの攻勢において、朝比奈勢が囲いを破壊した。
丸太の継ぎ目に縄を掛け、十人ばかりで一度に引いたのである。据わりの悪かったあたりから崩れた。
筑前守らは砦が落ちるのを察して、急ぎ陣を下げた。砦は急ごしらえであるがゆえ、あと一つ後方に作ることはできていた。
旗を巻き、床几を担ぎ、負傷した者を先に通した。筑前守は馬から降りて、下がってくる列の脇に立った。
そこに立っていれば、通る者が皆こちらを見る。見た者が足を速めるのが分かった。
下がる間、朝比奈勢は追ってこなかった。功に焦ることなく、三浦勢に交替したのである。
兵たちはほっとしたが、筑前守は肝が冷えた。
今川治部太夫の後背を守る位置に、朝比奈勢が付くのではないか。博奕の前提が壊れることを恐れたのである。
だが、その恐れは杞憂であり、朝比奈勢は本隊らしき軍の前方に張りついた。
次の交代のために英気を養うようであった。
それを認めると息を吐きながら、筑前守はふと東を見た。
喉はもう痛いほど渇いていたが、竹筒はいつのまにか空になっている。
来い、来い、と必死で念じた。
待つうちに、それは叶った。
朝倉方と六角方の旗が見えたと、見張り台の兵が言ったのだ。
筑前守は見張り台に再度上がった。先ほどの砦のそれよりも高い位置にあり、そこに立てばはるか東まで見渡せた。
「来た」
筑前守は呟き、口角を上げた。
梯子を上るときには気づかなかったが、膝から下が小刻みに震えている。手すりの丸太を掴んで、震えの止むのを待った。
六角勢の旗は少ない。五千は出すという話であるが、いいところ千である。
だが、朝倉勢を伴い、こちらに向かっている。その二つの軍勢は、今川からさほど離れていない後方に陣取った。
もし筑前守が守りを解いて攻めかかれば、すぐにでも今川の後背を突ける場所である。
「筑前守様、行きまするか」
見張り台から下を見れば、民部大輔が大声を上げていた。
足取りはしっかりとしており、こちらに向けて不敵に笑っている。
「然り」
筑前守は滑るように見張り台から降りると、民部大輔に駆け寄った。そして顔を寄せ、耳もとで低く言った。
「もう良いのか、民部」
民部大輔は眉を寄せた。下らぬことを聞くなと男臭く笑っている。
「十分休んだ。飯も食えた。これ以上は苔が尻に生える。それに、この大一番で某を抜きにするのはあんまりという物であろう」
「厳しい戦になるぞ」
当然だが、陣頭に立って突っ込む役になる。少なくとも六角、朝倉が後背を突き、今川の中に混乱が広がるまでは、命の保証はない。
民部大輔は軽く、筑前守の背を叩いた。今度は力がこもっていない。へこんだ兜はそのままで、緒だけが結び直されていた。
「この地を今川治部の最後とする。そんな大仕事の切り込み役。任せられる人間は他に居るまい。それとも神五郎でも引っ張ってくるか」
「馬鹿を言わないでくれ」
「であれば、ぶつくさ言うな。早く号令をかけろ、今楠公」
筑前守は今一度、民部大輔の足を見た。震えているところはない。また眼もはっきりこちらを見据えている。
平時の民部大輔である。
筑前守は頷いた。そして、先ほどから自分たちを窺っている兵らに対して声を張った。
近くの者は槍を抱えたまま、遠くの者は土手の上に立って、こちらを見ている。
「策は成った、これより攻めかかる」
兵らがどよめいた。槍を立て直す者、隣の者の袖を引く者、坐ったまま動かぬ者がいた。
阿波方の兵は、この場に多くとも一万である。
峠にそもそも兵を置けぬということ、加えて大和から今川が入ったときの備えとして、残りは分けてあった。
この兵数で四万を号する今川勢に攻めかかると聞いて、明らかに腰が引けていた。前列の者が後列を振り返り、後列の者が顔を突き合せた。
ゆえに筑前守は言葉を重ねる。本当に楠木正成の如く、自分に神憑った軍才があるとでも言わんばかりに。
「十三渡と同じことである。あの時は五千で突っ込み、道永坊主の首を上げた。此度は一万で突っ込む。軍神を名乗る不遜な小僧の首などたやすく取れよう」
「良く申された」
民部大輔が、見計らったように合いの手を入れた。
「さても今楠公の軍略を疑う者はこの場に居らず。しかし、一つ気になることがあり申す」
下手な芝居であるが、気が楽になる。筑前守は湧いてくる笑みを殺しながら言った。
「民部大輔、申せ」
民部大輔は大笑いをした。
「今川治部の首を取れば、如何程いただけましょうか」
「さて、銭にしては何万貫。領地にして万石はもぎ取り褒美となろうな」
そんな話は義維、六郎のどちらにも了承を受けていない。だが、まず取れると踏んでいた。
兵らはその話を聞いて、生唾を飲んだ。
坐りこんでいた者が立ち上がり、槍の石突きで地面を突いた。
民部大輔は両の手を打ち、周囲の注目を集めた。
「おお、そこまで申されるか。であれば、相当な勝算でござる。是非に一番槍を任されたし」
「無論、許す」
そう言ってから、筑前守は兵らに振り返った。兵らの目に欲が滲んでいるのを見て、大仰に頷いた。
「兵ども、民部大輔に先を越されるな。今約束した褒美は今川治部の首を取った者であれば、必ず渡そう」
筑前守はそれから馬に乗った。何時かのように兜の緒を締め、刀を馬上で振り上げた。
「門をひらけ、突撃よ」




