8章_5
五郎はあれから稲葉山に戻っていた。那古野には文を一つ、二つ投げ、足を向けてはいない。
いつも通り、仕事をし沙汰を捌きつつ、六角の返事を待っていた。
その日の五郎も、習慣的に早起きし、城の弓場に立っていた。
稲葉山城を拡張した折に、弓場は優先的に備えた。
城のほうはまだ縄張りの杭が方々に立ったままである。それでもここだけは板を張り、的場まで土を均させた。
五郎が何かを言う前に、大林源助が普請の者を幾人か割き、いつの間にか形が整えられていた。
どうやら源助の奥方が入れ知恵をしたらしい。妻を得ることで、男は良い方にも悪い方にも変わる。源助という男に関しては、良い方向に転んでいるようであった。
五郎は矢をつがえながら、息を吸った。
夏の盛りである。麓の田では水が温んでいるはずであったが、山の上は朝のうちだけ涼しい。射位の板は夜露を吸って黒ずみ、足袋の底からその冷たさが上がってきた。
五郎は弦を引き絞り、放った。
弦音のあとに、藁の乾いた音が返る。
当たってはいる。的を外れてはいない。ただし、狙ったところではなかった。
五郎は顔を振った。このような矢の当たり方は十本目になる。
ある矢は真ん中を狙ったが、そこから拳ひとつ分だけ外へ逃げる。ならば、と初めから外側へ狙いをつけてやると、今度はきれいに真ん中へ入った。
五郎は弓を下ろし、弽をはめた右の手を開いて閉じた。指の付根が熱を持っている。左の肩から肘へかけては、まだ張りが残っていた。
姿勢が崩れているのではない。稽古は我ながら感心するほど熱心に続けている。その甲斐もあり、踏み開いた足の幅も、弓を押す左の肩も見本となった小笠原正安入道とさして変わりはない。
少なくとも五郎はそう思っている。
それゆえに何が悪いのか自分ではわからない。いっそ正安入道を呼ぼうかとも思ったが、あの男はいま信濃に送り、長井新九郎と共に動いてもらっている。自分の些細なことで呼び出すなどあり得ないことだった。
五郎は的場まで歩いて、藁から矢を抜いた。夜のあいだに湿ったのか、藁は思ったより固く矢を噛んでいて、抜くのに二度手を持ち替えた。
抜いたところの穴が、どれも真ん中から同じだけ逃げて並んでいる。
矢を束ねて戻ると、弓場の入口に男が二人立っていた。
「お悩みですな、御料様」
「宮内。と、玄蕃か」
片方は毎日のように顔を見る天野宮内である。もう片方は、遠江の代官地にいた折に蔵役として使っていた大河内玄蕃であった。今は伊勢へ置いてあり、久しく会っていない。
五郎は矢を、板の間の端に置いた矢筒へ落とした。
「久しい。玄蕃の方は、跡継ぎが夏風邪をこじらせたと聞くが、もうよいのか」
玄蕃は板の間へ上がりかけて、たじろぎ、その足を止めた。口を開いては閉じ、また開いた。
随分と成長したものである。以前のこの男ならば、名を呼ばれただけでうめき声の一つも上げたはずであった。
「まあ、何事もございませぬよ。玄蕃殿のところは細君が万事うまく取り仕切っておりますゆえ、腕の良い医者を呼びつけて終りでございまする」
随分肝が据わったはずの玄蕃だが、五郎と親し気に話す気はないらしい。代わりに宮内が苦笑し、間を繋いだ。
「さすがは左馬助殿の孫か。肝が据わっている」
遠江で大河内を取り込むとき、ひそかに五郎と繋がっていたのが、老武士の大河内左馬助であった。
その孫と玄蕃が婚姻し、すでに何人かの子宝に恵まれている。
左馬助自身は数年前に隠居したが、いまだに壮健で、玄蕃の息子ら曾孫の面倒を見ながら余生を楽しんでいるという。しかもふらりと遊びに来る。玄蕃をはじめ、あの老人に頭の上がらぬ者たちがその都度肝を冷やすというのは、家中でも知られた話であった。
二人が上がり、宮内が一間ほど離れて座った。玄蕃はさらにその斜め後ろへ、膝を揃えて座る。
五郎は弦を外し、弓を壁際へ立てかけた。
「して、懐かしい顔を見せに来ただけではあるまい。何かあったか」
弓については、今日はもう当たらぬと分かっていた。おそらく、明日も、明後日も同じであろう。
「伊勢で、動きがございます。蔵より細かに材木と米が、某の目をごまかす様にして外、大和の国境に出ております」
玄蕃がつっかえながら言う。おっかなびっくりではあるが、それはこの男の癖のようなものであった。
目を見るに、腹は据わっている。
一歩間違えれば己のしくじりと取られることを、はっきり口に出したのである。
「長野の残党」
「それは散り申した。残った者らを厚遇しておりますので、兵を挙げるようなことはできませぬ」
ふと口に出した言葉を、宮内が否定した。
「おそらくでございますが、大和からこちらを窺う動きがございます」
玄蕃が眉を八の字にしたまま言う。
伊勢で蔵のまとめ役をつとめ、伊勢の国衆らと毎日やり合っている割に、どうしても肝が小さそうに見える男であった。
「大和はすぐにまとまるまい。どこの家が動いた」
大身の国人は大和にもいる。だが、なまじ京に近いゆえに力を持った寺社なども入交り、複雑な情勢が織りなされている。
「それはまだ分かりかねます。ただご承知の通り、あれらは一つにまとまる旗頭がおりませぬ。であるにも関わらず、」
「今川の蔵役に取り入り、大事を起こそうとした」
五郎の言葉に、玄蕃が頷いた。どこか悔しげに口をゆがめている。
以前玄蕃は蔵の物を流し、代官地に問題を起こした過去がある。この男においては、決して繰り返したくないことと見られた。
その顔を横目で見ていた、宮内が取ってつけたように笑った。
「どちらかと言えば、これは御料様のしくじりにございましょうな。伊勢にはこれ、といった者を置かれておらぬ」
宮内が面白げに言う。玄蕃がひきつけを起こしたように肩をびくつかせた。
「伊勢は取られるかもしれぬ。家臣に軽々に与えると難しくなろう」
伊勢はすでに長野、北畠と言った主だったものの首は取り、残りは法度で首を押さえつけている。
伊勢神宮を始めとした勢力も大人しくしており、志摩の海賊らも下した今、伊勢それ自体に火種はない。
だが、六角らが手放せと命じた状況を察するに、今川の手にあり続けることが良いとは確信が持てない。
そうでなければ、三浦あたりを本格的に移封したかもしれない。今少し弟らが育っていれば、彦五郎か芳菊丸をという手もあった。
もしくは天下の騒乱が穏やかであれば、伊勢を小分けにし、駿府の家臣らを植えることもできた。
「八カ国をおさめる御料様から本気で領地を奪えると思う人間など、どれほどおりましょうか。ああ、無論、あの公方は別でございますが」
唐突に出た、武家の棟梁を小馬鹿にする言葉に、玄蕃が泣きそうな顔になった。
玄蕃に優しくしたいのか、脅かしたいのか分からない男である。
五郎は汗をぬぐいながら、僅かに話を変えた。
「大きくなればなるほど末端には目がいかぬ。巨体を洞と見れば食って掛かるものもおろう」
「伊勢は洞でしょうかな。難しい土地故に玄蕃殿を初め、忠節確かなものを重役に据えて動かしておられる。ゆえにこの知らせも昇ってきたのでございましょう」
宮内が玄蕃を一瞥した。玄蕃はまだひきつった顔であったが、然りと頷いた。
五郎の思うところ、宮内はつまらない阿諛追従を行う男ではない。この男の目から見ると、伊勢は固く、軽々には崩せぬらしい。
となれば、
「今川を知り、本気で打倒せると思う者が大和の何某かをせっついた」
宮内が顎を撫でた。
「ほかにございますまい。如何された、普段の御料様ならば、今少し早くお気づきにございましょう」
宮内は目を細め、五郎の足先から頭までを眺めた。
五郎はその視線から逃れるように、そっぽを向いた。的場のほうでは、抜いたあとの穴に朝の光が入っている。
「大戦の前ゆえ、気が張っておるのやもしれん。捨て置いてくれ」
「捨て置けませぬ。大将が迷えば家が滅びましょう」
五郎は宮内の真似をして顎を撫でた。
髭の感覚はない。もうすぐ二十だというのに、つるりと子供のような肌である。
「迷ってなどおらぬ。何に迷うという」
「天下がどうだ、人としてどう生きるかどうだ、そんなつまらぬことにございます」
玄蕃が息を詰めた。巻き込まれたこの男には、申し訳なく思う。
五郎は煙に巻こうかとも考える。いつも通りだ、疑うのかと強がることもできた。
だが、宮内は今この場で、腹の内を答えねば納得しない。そう思えた。
それに天野を一度潰した今川の男が情けない姿など見せれば、次の戦場で切りかかってくる。
そのような危ういところ、暇つぶしで余生を生きている節が宮内にはあった。
それゆえに五郎は笑った。離れた厨にまで響くほど大きく。
「笑わせるな。今まで今川を大きくするにあたり、何人焼いて来た。何人晒してきた。そんな治部がいまさら、足など止めようがなかろう」
宮内と視線が絡んだ。
「ええ、でございましょうな。誰に何を言われたかなど知りませぬ。軍神がいまさら人間の真似をして何になりましょう」
宮内は立ち上がり、二歩、三歩と歩み、五郎の目と鼻の先に座った。
間近に迫った宮内は、初めに会ったころよりずっと老いていた。
目じりの皺は深く、染みも額に浮かんでいる。五郎は言葉を飲んで、その皺と染みを目で数えた。
「御料様はそれでよろしい。誰にも側に寄せず、高くあればよろしい。今川の当主とはそう言う物でございましょう」
その冷えた声に、五郎はふと内側をこぼした。
「そう言う人間は間違う時は盛大に間違う」
宮内が鼻で笑った。
「良いではないですか。御身が一代で築いた大国でございます。派手に転び、吹き飛ばせばよろしい」
勝手な言い草である。
だが、五郎は言葉を挟まなかった。ただ、じっと宮内の眼を見つめ返していた。
その内に、宮内が立ち上がった。
その時には普段の朗らかな笑みが張り付けてある。そのまま下がると、一度平伏した。
「勝手なことを申しました。ですが、ままになさりください。こういう風に見る人間もいる。御身を煩わせ、否定するもののみではございませぬ」
宮内はまた玄蕃を見やった。視線を向けられた玄蕃は背筋を伸ばした。
「現にそこの玄蕃などは、お優しく人の心に寄り添う若君であれば、救い上げられなんだ男にございましょう」
宮内はこちらに向き直ると、まるで好々爺の如き微笑みを浮かべた。
「人に好かれ愛されるだけが、その者の全てではありますまい。誰かがやらねばならぬことをする、結果疎まれる。それでも良いではないでしょうか」
悪魔のような一言であった。
その一言で、懊悩が煙のように消える気さえした。
もし今そこの弓を取り、的にめがけて矢を放てば当たるという確信すらあった。
だが、その思考の行く先は重々承知でもあった。
「考えておく。それでよかろう」
五郎はそう言うと、息を吐いた。弽を外すと、指の付根に赤い筋が残っていた。
宮内は両の手を床に付き、また頭を下げたあと、立ち上がった。
踵を返し、立ち去ろうとしたところで、思い出したように振り返る。
「ああ、そう言えば、六角殿から知らせが来たようでございます」
宮内は、一等重大なことを何よりも軽く扱った。
五郎は思わず眉間を揉んだ。
「通さぬというところか」
であれば、ゆっくりと伊勢に手を回せる。
義晴の面倒を見るのは大変だが、伊勢を固め、大和を切り崩す時間は得られるだろう。
その思惑に反して、宮内は首を横に振った。
「いえ、通すと」
五郎は唸った。玄蕃が身を引いた。
「どれほどの数ならば許すと言ったか。人質や公方の扱いは」
「詳しくは安房守殿が御承知ですが、人質の話はなかったと。公方についても寄越せなどとは言っておられませなんだ」
五郎はまた唸った。
---
軍を上げたのは享禄二年(一五二九年)の秋口である。
今川の軍は、決めた通りに動いた。即応の兵三万五千に、五郎の周りを固める精鋭の五千を合わせて四万。
これが近江へ入った。
安房守によると軍の総数については指定はなかった。
いざ何か言ってくるようであれば、承菊を出向かせ、公方の戦に手足を縛るのか、とでも言わせるつもりだった。
だが、結果として、五郎が率いるのであれば乱れる訳もなし、好きに通られよと、六角方から返しが来た。
よって四万の兵を引っ張り出した。通る国の民らは唖然としていたが、実際出そうと思えば、まだ出せた。
しかし、広い今川領である。京だけを見てもいられない。
一部は伊勢へ残して固めさせ、あとは長井新九郎ら美濃の者へ預けて動かさなかった。
では、上洛の軍は手を抜いているかと言えば、そうでもない。
将は朝比奈備中守と三浦次郎左衛門の先手大将二人に、一万ずつを持たせ、残りは五郎が率いた。
ここに六角の軍五千と朝倉の軍六千が加わり、総勢五万以上の軍となる。
六角、朝倉の両勢とは、近江と山城の境で合流する手筈であった。
朝倉は約束の日に来た。越前から六千を連れ、遠い道を、日を違えずに着いた。
着いてからは、今川の陣と半里ほど離して自分の陣を張っている。時たま宗滴が孫九郎を連れ、義晴に挨拶に来た。
五郎とは深く会話はしていない。
これは別に構わなかった。問題は六角である。
六角は来ない。
六角を待つために陣を張って幾日にもなるが、影も形もない。
無論、使者は幾度も出した。向こうからも人は来る。来るのだが、口にするのは、仔細は申せぬがしばし待たれたい、それだけであった。
六角に近い幕臣が間へ入って取り成し、六角からの使者が丁寧な口上を上げるので待ててはいる。
だが、肝心のなぜ待つのかについては、まるで見えてこなかった。
幸い兵糧はうんと積んである。誼を通じた近江商人からも米を買い足し、十日の遅れによる影響などはまるでない。
値が上がりはしたが、今川領からの追加の荷が届くとそれも落ち着いた。酒も入れれば、兵らの気も荒れてはいない。
ただ、秋が近づくにつれ朝晩は冷えるようになった。火をたいた陣中であっても、草摺の下から、湖の風が入ってくる。
そして十日目の朝、また六角方から使者が来た。
後藤但馬守という男である。轡取りを一人だけ連れて来て、陣の前で馬を降りた。
年のころは四十の半ば、日に焼けた顔で、鬢に白いものが混じっている。
下ろしたての袴をまとった正装であるが、埃を払いもせずに陣幕をくぐり、五郎の前まで進むと、深々と頭を下げた。
土が小綺麗な袴にこびりついた。だが、その気にも留めず、そのままの姿勢で動かない。
「この度はお待たせして申し訳ございません」
「いや、気にしてはおらぬ。して、六角殿はいつ頃来られるか」
五郎は横目で義晴を見ながら言った。
義晴は上座に据えた床几へ腰かけている。膝をゆすっており、その膝が上下するたびに、肥えた腹と草摺が揺れた。
陣中で一番酒樽を空けたのは間違いなくこの男である。
夜更けまで飲んでいたようで、酒の香気が僅かに漂っている。今日も寝起きが悪く、頭を抑えながら座り込んでいる。
但馬守は義晴を気にしていないのか、頭を下げたまま言葉を紡いだ。
「今少しはかかりましょう。ご不便をおかけして申し訳ございませぬが、近江にてお待ちいただきたく。無論、公方様、治部様におかれては付近の屋根がある場所を」
「お気持ちはありがたいが、四万の軍である。公方様の手前、生臭い話はするべきではないが、待つだけでも米と銭がいる。いつまでも待つことはできまい」
但馬守が顔を上げる。そして唇を舐めた。
「滞在分は無論、こちらから出すと弾正少弼は申しておりまする」
意外である。
六角は去年から戦い通しで、将兵の痛みも激しい。十三渡で前へ出した兵は戻らず、当主自身も近江へ逃げ帰るのがやっとであった。
いくら豊かな南近江の太守とはいえ、懐が良いはずもない。その六角が、四万の滞在分を出すという。
「御言葉はありがたいが、公方様をお待たせしては申し訳がござらん」
五郎がそう言うと、義晴が露骨に頬を上げた。膝が一度止まった。
言葉のやり取りの間にたまに水を向けてやると、機嫌が直る。
扱いの難しい花のような人であった。ここ数か月の間に、五郎はその水のやり方を大分覚えた。
但馬守は少しばかり考えていたが、致し方なしという顔で口を開いた。
「他聞を憚る話でございます」
そう言ってから、但馬守は膝を進め、声を潜めた。莚が鳴った。
「主君、弾正少弼、臥せっておりまする。以前阿波方と和睦の件で、三好神五郎殿の面通しをした後、どうにも体調が思わしくなく」
五郎は目を細めた。
立ち消えになった話ではあるが、阿波方の細川六郎と三好神五郎を通して和睦を図ったことは、確かにある。
三好筑前守の首を差し出させ、足利義維を畿内から放逐する。
その代わりに六郎を細川京兆家の当主と認め、幕政に加わることを許す。
これらは六郎が言い出した、恣意的なものが見える和睦であった。だが、肝心の義晴も乗り気で、六角が仲立ちに加わることもあった。
だが、その話は、随分前に消えている。体調のことを言い出すにはあまりに遠い話である。
さらに言えば、伊勢で会ったとき、弾正少弼は自分の足でしっかりと歩いていた。板敷を降りるのに手も借りず、沓を履くのに人を待たせもしなかった。
五郎が黙っているので、居た堪れなくなったのか、但馬守が言葉を足した。額に汗が浮いている。秋の朝である。
「足の傷も思わしくなく、出陣しようとする主君を押しとどめておりまする。家中の恥をさらすようで申し訳ござらぬが、代将として誰を出すか出さざるか、そのような話で家中も揉めておる次第で」
「なるほど、それはよろしくない」
形だけの言葉を返して、五郎は義晴へ目をやった。
膝をゆする速さが、先ほどより上がっている。ご機嫌よろしからず、六角不届き、というところであろうか。
正直に言えば、義晴は待たせてもよい。弾正少弼は寝ていろ、代将を立てて兵だけ出せと言う。それで数は多少稼げる。
だが、そのつもりはなかった。
「残念だ」
五郎はそう言うと、押し黙ったままの宗滴へ目をやった。
宗滴は目を閉じたまま、こちらを見ようとはしなかったが、ゆっくりと頷いた。
老鷹のような鷲鼻の下で、口は結ばれている。膝の上の手も動かさない。
陣に入ってから、この男はずっとこうであった。五郎とは声を交わさず、糸口の一つも作らせない。評定に出ても、聞かれたことにだけ短く答えて終わる。
今日も、朝から座を動いていない。
この老将は美濃のことを相当に腹に据えかねている。今川家中はそのように見ていた。
「申し訳ないが、先を急ぐ。弾正少弼殿には安静になさるようお伝え願う」
五郎が手を挙げると、諸将はそれだけで立ち上がり、足早に陣幕の外へ出て行った。
備中守が出しなに莚の端を踏み、次郎左衛門がそれを直していく。幕を割って出る音が、幾つも重なって聞こえた。
「お待ちを」
但馬守が唖然として言った。あまりの速さに、目を白黒させている。
腰を浮かせたまま、立つでも座り直すでもない。
「いま代将を決めておると申しましたが、半ば決まっておりまする。せめて後十日、お待ちいただけないものでございましょうか。江北にも声をかけておりますれば、軍勢はより豪壮なものとなりましょう」
「十日か」
義晴が呟いた。十日と区切ってあるのなら悪くはない、という口ぶりである。
ゆするのをやめ、代わりに指が扇の要をいじりはじめた。
「申し訳ございませぬが、筑前守殿に先手を取られたくない。勝ちの味を覚えた筑前守殿をどこかに潜ませ、回り込まれる。公方様が同道している今、道永殿の二の舞を踏めば、道永殿ご本人が御怒りになりましょう」
いや、あの道永ならば負けてしまえと言うかもしれない。
五郎はあったこともない坊主を浮かべながら、西を指した。
指の先には陣幕があり、その裾が風で持ち上がっては落ちた。義晴の目が、その裾を追った。
「それにもはや阿波方も動き出しているとの話がございまする。可能ならば一日も早く山城に入り、陣を組みたく存じ上げます」
但馬守はまだ何か言い縋ろうとした。だが、五郎が先んじた。
「此度は天下分け目の戦にございましょう。何事も先手先手を打ち、公方様に確実な勝利を奉じたく」
そこで五郎は、義晴に対して片膝をついた。具足が鳴り、義晴がはっと、我を取り戻した。
義晴は突然の五郎の行動に驚いたようであったが、やがて得心のいった顔になり、手の中の扇を開いた。
「殊勝である」
それだけであった。中身のない言葉だが、五郎には十分である。
幕臣らも、心得たもので揃って頭を下げた。
「但馬守殿、ひいては六角家中におかれましては、初戦はゆるりとお越しくださりませ。弾正少弼殿の見立て通り、上手く陣取れば阿波方は動けず、大きく戦況は動きませぬ。さすれば、櫛の歯が欠けたように阿波方は兵を乱し、公方様に首を垂れましょう」
弾正少弼の見立てなど知らないが、そう言うことにした。
いま口に出したことも実現はしないだろうが、そう言うことにした。
但馬守はしばらく考え込んだ。無作法に腕を組み、親指で下唇をなぞり、それから眉を寄せた。
組んだ腕がほどけるまで、誰も口を利かない。
「お気遣いいただき申し訳ない。準備ができ次第六角家も軍を発しましょう」
「それは心強い」
五郎はそう言って、但馬守の手を取った。




