8章_4
駿河は夏に入った。
近頃に起きたことを並べれば、吉報もあった。
だが、あわせて眺めると、今川の立っている場所は悪いほうへ動いているように、五郎には思えた。
吉報としてまず挙げるのであれば、同腹の弟らのことがあった。
まず、ほんの一月前に松寿丸が元服した。
名は彦五郎氏光とした。父が本当は五郎に付けたかった名、氏輝をもじった。
それに気が付くと母の寿桂尼は、ことのほか喜んだ。村上の姫との婚儀も、続けてすませている。
また、あわせて尾張の一郡を与えた。彦五郎は信濃と思っていたらしく、渡した書付を二度見て、僅かに戸惑った顔をした。
代官地で励んだ信濃には格別の思いがあるのだろう。
ただ、代官地の治め具合より大きな領地を任せられる。そう五郎が言うと、松寿丸、あらため彦五郎はようやく喜色を浮かべて頷いた。
おまけとばかりに父の愛用の太刀を渡すと、喜び勇んで領地へ入っていった。
入れ替わりに芳菊丸を代官地へ入れた。信濃ではなく、美濃の直轄地の一部である。
こちらは統治について試したいことが幾らでもあったようで、かつての彦五郎以上に動き回っているらしい。
また外の事情で言うと、関東はおおむね良いと言っていいだろう。
北条が武蔵で少しばかり領を広げたのだ。
また、扇谷の勢いが収まると山内上杉の竜春丸は幼いうちに元服し、兵部少輔景憲と名乗った。
名乗るにあたっての取り成しは、こちらから出した。
扇谷上杉も古河公方も、それに対しては何もできずにいる。
西へ出るにあたり、後ろは当分崩れないだろう。
吉報はそれで終わりであり、続くのは悪い知らせばかりである。
まずは何に付けても阿波方である。
春の終わりに、堺の会合衆を通して話が持ち込まれた和睦が完全に立ち消えになった。
細川六郎が三好筑前守の首を添えて下るかもしれぬ、堺公方を打ち捨てて義晴を担ぐ、という和睦であった。
間に立ったのは三好神五郎という三好の一門で、今川と義晴と六郎を繋ごうとした。
水面下でこの和睦が動いていると知った時、義晴は意外に喜んだ。戦をするよりも早く京へ帰れると踏んだらしい。
ただこの話は壊れた。
打ち壊したのは、見捨てられるはずの堺公方足利義維と、筑前守その人であった。
二人は阿波方にも、阿波に付いた家々にも、徹底して今川を討てと説いて回ったのだ。
先の大勝に活気づいていた阿波方は、一気に決戦へ傾いた。
こうなれば、和睦は弓矢を交えぬかぎり誰の口にも上らない。細川六郎は和睦をひっこめ、筑前守に軍配を預け続ける他なかったようである。
正直言えば、これ自体は良い。期待しているものは、今川家中にも少なかった。
ただ、これを聞いた義晴の機嫌が、一転し悪化の一途をたどった。
腹立ちは大酒を飲んでもおさまらず、酒を飲むたびに、五郎を呼びつけ、軍を上げよと申し付ける。
時間をかけ、味方を増やしたかったが、このままでは勝手に戦の触れを出しかねない勢いである。
そして、何より悪いことは、祖母の北川殿が身罷ったことである。
五郎は死に目には会えなかった。
具合が悪くなった折には直ぐに知らせよと、駿府の者には言い付けてあった。
だが、北川殿自身が知らせを止めていた。
しかも己の葬儀を内々に整え、入る墓も、経を読む坊主までも決めていたらしい。知らせが那古野へ届いたときには、決めた通りに事が動き出していた。
結果、その死の知らせはあまりに唐突なものになった。朝起きて執務室に入ると、小姓が滑り込んできてその死を告げたのだ。
五郎は内心驚きながら、船を乗り継いだ。その折、血族で連れて来た者はいない。
息子らと朝姫は那古野へ置き、参列を許さなかった。また、彦五郎と芳菊丸にも遠慮させた。
もはや阿波方との戦の最中と言っても過言ではなく、軽々に跡継ぎ候補を集めるのは危ういように思えた。
ちなみに朝姫は第三子を身籠っており、単純に動かせなかった。
納得したのは長男の龍王丸と、まだ喋れぬ次男の千代丸ぐらいである。他の者は明らかに不満げであったが、強く通した。
その様にして出た葬儀は、意外に質素であった。
場は城内の広間である。駿府の家臣らは皆出たが、駿河の外へ出した一門は遠慮させた者が多い。
公家も中御門など縁の深い者しかおらず、慰問の客も絞ってある。
八カ国、四百五十万石を領する今川、その祖母の見送りとしては、あまりに寂しい。
広間は蒸した。香の煙が天井まで上がりきらず、板戸のあたりで横に流れる。
白木の位牌は小さく、書かれた名も短い。家臣らは列の後ろから時折こちらを窺っては、すぐに平伏するのを繰り返していた。
喪服の襟が首に貼りついたので、五郎は一度だけ指を入れて浮かせた。
五郎は全てが整った場で、形だけの喪主を務めた。そのような有様だったので、父の葬儀と比べれば、ずいぶん楽であった。
棺は白木の輿に乗せられ、門を出た。従う列は短く、坂を下るとじきに見えなくなった。
見送ったあと、五郎は駿府の街へ出た。
護衛は多めに付けている。だが、深く笠をかぶり、質素な身なりをした五郎を、今川の当主と気づく者はいない。
人通りの多い駿府では、いとも簡単に市井へ紛れることができた。
目当てもなく歩き回っていると、足に疲れが来た。
葬儀の後の挨拶も含めて、随分と立ちっぱなしである。笠の内は汗で湿っていた。
角をひとつ曲がると、辻に、茶屋があった。
葭簀を二枚立てて日を切り、その内に床几を四つ並べてある。
店構えは小綺麗で、人も多い。先客は三人で、一人は荷を足元へ下ろした行商、あとの二人は近くの職人らしかった。
護衛の者らは嫌な顔をしたが、五郎はその店へ足を延ばした。外の床几に腰を下ろし、店の娘を呼び止めた。
「私と、供の者に何か飲めるものをいただけるか。あとは供の者らには摘まめるものも」
若い娘であった。赤い小袖を身に纏い、笑顔で頷く。
大人数の客である。稼ぎになると思ったのか、大きな笑みを見せた。
「五郎様。よろしいのでしょうか」
供の一人、天野の男が身を寄せた。
天野宮内の従兄の甥の庶子、とにかく宮内の見込んだ男らしい。一族だけあり、宮内の息子の兵馬に顔が似ている。
「そなたらには悪い。だが、許せ。一息ついたら、もう帰ることにしよう」
供の者らは顔を見合わせたが、それきりで黙った。
暫くして、盆に乗った幾つもの茶と、山盛りの草餅が運ばれてきた。
五郎は湯呑の一つを取り、供の一人へ渡した。供はそれを一口飲み、しばらくして頷き、五郎へ返した。
そのやり取りに、赤い小袖の娘が目をむいた。
武家だとは分かっていても、毒見をするほどの家とまでは思っていなかったらしい。
「草餅は其方らが片せ。気を張ってもらっている、遠慮するな」
言いながら、五郎は懐へ手を突っ込んだ。
娘が身を強張らせる。取り出した銭を、その手に握らせた。
「田舎者で申し訳ない。気を使わせた。家中の者らは葬儀で気を張っていた」
「ああ、いえ、殿さまの御身内が亡くなられたのですものね」
娘は合点がいったらしい。
「おい、御武家様に無礼な口を利くな。それに亡くなった、なんて」
店の奥から、店主らしき男が娘を叱った。
確かに今川治部の祖母の死を口にするにしては、確かに軽い言い方である。
男は襷を掛けたまま、片手に濡れた布を持っていた。指の節が太く、爪が短い。餅を搗くのはこの男であろう。
「気にされるな、見ての通り木っ端武家である。駿府で店を出され、大身の武家を見慣れた方に、御武家様などと言われると気恥ずかしい」
五郎は笠をかぶったまま、大仰に肩を竦めた。
店主と娘は五郎の身なりを上から下まで見、それから供の者らを見て、息を吐いた。
「迷惑ついでに一つ聞きたいが、駿府は変わられたか」
店主が奥から出てきて、娘の後ろへ立った。
立ったが、口は出さない。二人は顔を見合わせた。それから娘のほうが、おずおずと答えた。
「その武家の方々がちらほらと尾張、美濃に移られております。武家街、公家街のほうが少し寂しくなりました」
「その割に人の行き交いは多くなっておられるようだが」
「ええ、代わりに商人や職人の方が入られまするので、人は増えているかと」
五郎はまた銭を娘に握らせた。
「忙しい中申し訳なかった」
それだけ言って、茶を口に運んだ。
普段飲むものより幾分薄く、淹れ方も良くない。だが、疲れた体には染みた。
駿府から武士が減り、替りに商人か職人が増え始めている。また入った者が人を雇い、雇われた者がまた店で銭を使う。この流れが加速しているのだろう。
駿河はどちらかと言えば、これまで、他所から来た物を食う土地であった。
それが、物を作って出す土地へ動きはじめている。祖母の死で家臣らが美濃、尾張へ流れれば、動きはさらに速くなるだろう。
五郎が望んだことである。そうしたほうが今川がより栄えると判断し、なじみ深い駿河から本拠を離した。
「そう言うところか」
五郎は呟いた。
頭の中には、ずっと与一郎との問答がある。自分をきちんと勘定に入れろ。そう言われた。
馬鹿な、と五郎は自嘲した。
天下についての問答は、六角弾正少弼に即答できなかっただけである。
それで何をどう変えろというのか。
今川はこの形で大きくなり、これで勝ってきた。
少なくとも今は、強権的で即断即決の当主のほうが良い。
「詮の無い話よ」
数十万、いや数百万に及ぶ人間を差配する男が、自分のことに囚われてどうする。
五郎は息を吐き、もう一度茶を飲んだ。
その時、眼前を公家らしき一行が通った。お忍びらしき姫と、そのお付きの女房衆。それから数人の供である。
五郎は笠を目深にかぶった。それから、目線を彼らの足元へやった。
ちらりと覗いた紋は正親町三条であった。
これ自体は珍しいことではなく、慰問客として対応をした。
実際、正親町三条の現当主は北川殿の孫にあたる。
今までも今川は、この家を散々支援をしてきた以上、参列しないのはありえない。
五郎は、華奢な側付きへ声をかけた。
その者は護衛の者らに混じっているが、明らかに毛色が違う。刀より算盤を振るう方が得意そうな男である。
「慰問に訪れた正親町三条の者は、当主とその息子だけであったが、相違ないか。いや、姫君を連れたものは公家衆などは他にいたか」
側付きは小首をかしげたが、しばらく後に頷いた。
「御当主とご子息のみでございました。公家衆らの中で姫君を連れた方はおられなかったと」
「左様か」
記憶違いではなかった。
五郎は笠を目深にかぶったまま、息を殺した。一団は、こちらへ近づいてきていた。
「一つ、伺ってもよろしいか」
一団の中から、公家に仕える青侍が店へ来てそう言った。
娘が反応した。
はい、なんでしょうか、と高い声で言って前に出た。
「この店、座敷はあるか。当家の姫が少し休みたいと仰られておる」
娘は眉を八の字にした。
「申し訳ございません。小さな店で、座敷などは備えておらず」
「いや、無理を言った」
青侍はそう言って踵を返そうとした。だが、その折、五郎を見て動きを止めた。
笠の下から見えるのは足先だけである。
その足先が動かず、無遠慮な視線を感じた。
「無礼ではござらんか」
護衛の一人が声を張った。若い男である。直ぐに別の者が肘で脇を突いた。
青侍は気分を害したらしく、唾をのんだ。
「やめよ。そちらにも失礼した。これにて去る故、お忘れください」
五郎はそう言うと息を吐いて、銭束を座っていた場所へ置いた。
ちらりと後ろを見ると、山と積まれた草餅はすっかりなくなっていた。
「馳走になった」
そう言って、笠を結び直した。護衛の者らも茶を急ぎ飲み干し、立ち上がる。
青侍は何も言わなかった。姫のほうへ行かぬとあらば、文句はないらしい。
五郎はそのまま通りへ出た。その時、公家の一団、特に姫の視線を感じた。視線はすぐに外れた。
五郎は笠を外すこともなく、振り返ることもなく、城のほうへ歩き出した。
「与一郎、やはり己のことなど詰まらぬ。どうでも良いだろう」
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美濃国、福光館は、入り口からして物々しかった。
夜であるのに、門の両脇で篝火が轟々と焚かれ、館の入口のあたりは昼のように明るい。
火の粉が上がるたび、門を出入りする者の影が石畳の上で伸び縮みした。
五郎は駿府から船と馬を継いで来た。喪服から替えてはいるが、湯浴みなどはできていない。今朝がた着替えたばかりの服に汗が背に貼りついていたが、さらにもう一度着替え、身なりを整える暇はなかった。
本来ならば一度那古野へ寄り、葬儀のことを家の者と話すつもりでいた。だが公方義晴に呼び戻された。
絶好の好機を得た、直ぐに来い、ということのみを使者に言付けて呼びつけられたのだ。
葬儀を理由にすれば断れる筋はあったが、どうにも嫌な予感がし、結局急ぎで美濃まで戻ってきていた。
そのように急ぎでたどり着いた福光館であるが、門をくぐってすぐのところに、男が二人立っていた。
今川家中、美濃国人の長井新左衛門と、稲葉彦六郎である。
新左衛門は美濃における家宰のような立場で、なにくれとなく役に立ってくれる。難しい面ばかりが目立つ男だが、最近は五郎もこの男の使い方を心得ており、互いにいい塩梅に呼吸が合っている。
一方の彦六郎は元服して間もない若者である。五郎が美濃へ入ってすぐに仕え、今もよく働いていた。夜番でもないのに門まで出ているのは、新左衛門に付けられてのことであろう。
二人は五郎の姿を認めると、揃って一礼した。馬を下りたばかりの五郎の足元へ、彦六郎の目が一度落ちた。
「誰が来ている」
「聞いておりませんので」
新左衛門が怪訝な顔で答え、彦六郎のほうも意外そうに目を丸くした。
「朝倉というのは聞いている。朝倉の誰が来た」
幕府よりの使者は口を閉ざしたが、開けさせた。だが、それ以上は使者も分からなかったらしい。
「朝倉孫九郎景紀殿。ご承知でございましょうか」
現当主、朝倉左衛門尉孝景の弟である。それ以上に言葉を付け加えるとすれば、
「宗滴殿の養子であったな」
二人が同時に頭を下げた。
五郎は袖の内で指を握り直した。船と馬で固まった腕が、まだ言うことを聞かない。
「話の用向きは探れたか」
彦六郎は気恥ずかし気にうつむいた。五郎がそう聞くことは察していても、どうにも成果がないようである。
だが、新左衛門のほうは神妙な顔で、一歩踏み出した。
「確かなことは何もありませぬ。公方様や幕臣方が御屋形様が戻るまで秘すると。ただ、某の見たところ相当に公方様の機嫌がよろしいので、そういう向きかと」
「上洛、でしょうか」
彦六郎が思わずといった様子で口を挟み、五郎に目を向けられると畏まった。
「その見立てでよかろう。宗滴殿はどちらにせよ腹をくくられた様子であろう」
「よろしいのでしょうか。畿内の切り崩しにはまだ時が要りましょう」
堺の会合衆を通した畿内の切り崩しは、時をかけるほど効きが見えていた。
あと一年あれば大和あたりの国衆は中立か、今川に寄る。承菊と源助の二人が揃って太鼓判を押している。
「確かに時があれば楽に勝てた。だがいつも万全とはいくまい。そのための準備は常にしている」
そう言うと彦六郎は口角を上げた。ただ、新左衛門は騙されてくれなかったようだった。
それ以上の弁明はせず、五郎は館の奥へ目をやった。
廊下の突き当りから、大館伊予守がゆるゆると歩いてくるのが目に入ったのだ。
置かれた蝋燭の前を通ったところで、伊予守の顔色が露わになった。棺越しに見た祖母のほうがまだ生気があった。
酷い顔色の伊予守であるが、こちらまでは出て来ない。館の内に立ったまま五郎を見て、早く来いと言外に訴えている。
今すぐに五郎を公方の元に、引っ張っていきたい。だが、幕府最大の支援者である今川の当主に、そのような無作法はできぬ。そのような葛藤がありありと見えた。
「あまり待たせられまい」
「葬儀からすぐに御足労願い、申し訳ありませぬ。こちらで巻き取ろうとも思いましたが」
「幕府の用であろう。巻き取れる筋ではあるまい」
五郎が言うと、新左衛門はあらたまって腰を折った。
そうしているあいだにも、伊予守は廊下を右往左往しはじめている。普段であれば肝の据わった男である。それが、いかにも落ち着きがなかった。
ゆえに一つ気がかりが生まれた。
五郎はもう一度、新左衛門と彦六郎を手招きした。二人が篝火の届かぬ石の陰まで寄ってくる。
「新左衛門、そこもとと、その息子に頼みごとがある。彦六郎は聞いたら信濃に頼む」
二人は生唾を飲み込んだが、神妙に頷いた。新左衛門は難しい面のまま、彦六郎は目を見開いたままである。
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言付けを頼み終えると、五郎は義晴の居室へ足を運んだ。小姓が開けた襖を通り、まずは平伏した。
「遅いぞ。治部」
上座から叱責が飛んだ。叱りの言葉であったが、声が明らかに酒で緩んでおり、機嫌のほうは良いようだった。
畳に額をつけたまま、五郎は座の音を聞いた。
膳を下げる音はせず、酒器だけが幾つか動いている。人は十を超えていた。喪服の膝が畳に触れて、まだ湿っている。
「誠に申し訳ございませぬ」
五郎はそれだけ言った。葬儀のことなどは口にも出さない。それから許しを得るより先に、微かに顔を上げ、周囲を覗った。
義晴から数歩の位置に、数人の男が座っている。見ない顔であることから、件の朝倉であろうと察せられた。
幕臣らは義晴の斜め後ろへ固まり、こちらを時折覗き見ては、すぐに平伏するのを繰り返していた。
「もうよい、顔を上げよ。こちらは朝倉家の、」
義晴がそこまで言って中空を見上げた。
そのため、その先は朝倉方の男が引き継いだ。
「お初にお目にかかりまする朝倉孫九郎景紀にございます。御噂はかねがね」
朝倉方の男、孫九郎が頭を下げた。丸々とした目が印象に残る、優し気な風貌である。
勇ましい逸話の絶えない宗滴の養子とは思えなかった。
だが、その温和そうな男が、どこか得意げに堂々と構えている。
「今川治部太夫氏景と申します」
挨拶はそれだけである。何か言う前に、義晴の扇が鳴った。
「孫九郎曰く、宗滴は上洛の軍に加わってくださるそうだ。しかも前回以上の数を出すと。して、これをどう思う」
求められている言葉は分かっていた。五郎は背筋を伸ばした。口元で笑みを作り、眉は八の字に固めた。
重要なのは、権威に屈した顔である。これがなければ義晴は機嫌を損ねる。
「名将の宗滴殿が加わるとなれば、鎧袖一触かと。あとは六角殿が通行を許せば、即座に戦となりましょうか」
「であろう」
義晴の扇がばさばさと振られ、幕臣らが息を詰めた。
幕臣らと何度も膝を突き合わせて、今後の方針は詰めてある。
そして次は負けられぬゆえ、盤石にして挑むという同じ落としどころにも至っていた。
ゆえに、今川と幕臣らは合力し、大和などへ時をかけて調略をかけていたのだ。
その方針と仕掛けが、今取り消された。
五郎が矢面に立ってでも公方の心を変える。幕臣らがそう思っていたとしたら、これは彼らにとっては裏切りに近い。
現に、伊予守の隣に座った若い幕臣は、扇の音が止むまで顔を上げなかった。
上げてからも、目はこちらへ向けず、畳の縁を追っている。
「して、いつにする」
「六角殿も朝倉殿が同行するとあれば、通行を許しましょう。ならば、すぐにでも参りとうございます。明日でも参りましょうか」
幕臣の一人が短く息を吸う音がした。誰かが膝を動かし、畳が鳴る。
「おお、なんじゃ乗り気ではないか」
義晴が胸を張ると、この夏で一際肥えた腹が絹の着物を持ち上げた。
目の下の隈は、前に会ったときよりも濃い。美濃へ入ってからの飲む量が、そのまま顔と体に出ている。
「お待ちください」
水を差したのは、意外にも朝倉孫九郎であった。先ほどまでの泰然とした構えが掻き消え、膝の上の手が袴を掴んでいる。
義晴の扇が止まり、充血した目が孫九郎へ向いた。
「今日明日などとは、さすがに越前は遠うございます」
「朝倉殿がそうおっしゃるのであれば、改めて日取りは決めとうございまする。ただ公方様は待たせとうございませぬ」
五郎がそう言うと、義晴は孫九郎を睨んでからそっぽを向いた。
幕臣らは僅かに肩から力を抜いた。
「して、孫九郎殿に不躾ながらお伺いしてもよろしいか」
「無論の事にございます。ともに戦うとならば当然のことでありましょう」
五郎は朝倉の一団を一瞥した。みな口に力が入っていて、一様に畳に視線を落としていた。
当主の弟を寄越し、これだけの数を付けてきたのだから、越前を出るときに言い含められた文句があるのだろう。
であれば家臣らから切り崩すのは難しい。そう考えた五郎は極力声を穏やかにしてから問うた。
「それはありがたい。では此度の戦、宗滴殿は出られるのでしょうか。名将の旗が並ぶか、並ばぬか、これは戦の趨勢にも関わりましょう」
「当家の宗滴は必ず前に出ると仰せにございます」
「では、いつまでおられましょうか」
孫九郎は怪訝な顔をして、一団の中にいた年嵩の僧と目配せを交わした。
ここか、と思い五郎は踏み込んだ。
「いえ、失礼。先の戦において、宗滴殿は年を跨いで戦われた。今川は可能な限り前に出て、公方様を御所にお戻ししたい」
義晴の耳が動いたのを横目で見ながら、五郎は続けた。
「されど、無法者の阿波方が御所、洛中に火をつけると馬鹿を言えば、足を止めざるを得ませぬ。腰を据え交渉という運びもありましょう」
義晴が体をこちらへ向けた。口は開かないが、眉間に皺が寄っている。
今少し大人しくしていてくれないか、と思いながら、五郎は話を締めにかかった。
「無論、今川は勝つまで続けるつもりにございますが、朝倉家は何処までお付き合いいただけましょう」
義晴はその言葉で漸く納得した様子であった。長くかかるのは気に入らない。
だが、殊勝さを差し引きして許す。そのようなところだろうか。
問いを投げられた孫九郎のほうは、なんだそんなことか、という顔で胸をなでおろした。
「御心配には及びませぬ。宗滴は此度は勝つまでおるとのことでございます」
ふうん、と五郎が唸ると、孫九郎と朝倉の一団が身を震わせた。
「越後の長尾殿によると、加賀の叛徒らは血気盛んとのことでありましょう。恐れながら、大戦が間近になった折、頼みの綱の朝倉家が退かれる、そのような事態はあり得ましょうか」
加賀一向宗の状況はそこまで調べてはいない。越後の長尾によると、前に出てくる様子はないとだけ伝えられていた。結局のところ、吹っ掛けであった。
しかし、その様に問われた孫九郎は笑った。屈託のない笑いである。
「そのようなことはあり得ませぬ」
「なにゆえ」
間髪入れず問うと、孫九郎は僅かに鼻白み、背を曲げた。しかし、また例の僧と目を合わせると、胸を張り直した。
「宗滴曰く、此度の戦はすぐに終わる。そう見ておりまする。これを疑いましょうか」
義晴の目が、今度はこちらを向いた。宗滴の名を出されて、こちらが何と返すかを見ている。
五郎は顎に指をあて、目を細めてから、もう一度唸った。朝倉だけでなく、今川の者も幕臣らも居住まいを改めた。
「いえ、宗滴殿の御言葉であれば疑いようもございませぬ。戦は早く終わる、その見立てを信じさせていただきたく」
それから五郎が幕臣らへ目をやると、伊予守が目礼を返し、そっと義晴の横に座った。
「今川、朝倉ともに近く軍を出す。それでよろしゅうございますな。であれば、これ以上は無用な話にございましょう。公方様に銭の束数や、米の俵数など下の話を聞かせるのはよろしからず」
五郎は再び平伏した。畳に額をつけると、汗が一筋、鼻の脇を伝って落ちた。
義晴は鼻を鳴らし、大義、と一言だけ言って立ち上がった。
そのまま大人しく去るものと思ったが、頭を下げる五郎に向けて言葉を吐いた。
「年明けは御所で祝いたい。心せよ」
五郎は深く頭を沈めた。
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館を出るところで、五郎は大館伊予守に引き留められた。
伊予守は誰もいない離れの一室へ五郎を呼び入れ、そっと顔を近づけた。灯は入れていない。廊下の火が遠いので、互いの顔の輪郭が分かる程度である。伊予守が先に膝をつき、五郎もそれに倣った。
「よろしいのですか、あのように申されて」
あのあとの話し合いで、今川が兵を出すのは夏の終り頃と決まった。
伸ばせるだけ伸ばしたが、そうなった。概ね朝倉の言い値を聞いた形である。
「それはこちらの台詞かと。公方様のあの調子では、兵をすぐに出すと約束されておられましょう」
伊予守は言葉に詰まり、身を固くして腰を引いた。
五郎は戸を開けた。風が通り、蒸した室内に夜気が抜けていく。襟口をいじると、溜まった汗が背筋を流れた。
「御存じで、あられましたか」
「失礼ながら、伊予守殿が、あそこまで狼狽されるとなれば想像もつきましょう」
というより、義晴の態度が露骨に過ぎた。座に着く前から日取りの話へ持っていく気でいたし、こちらが何を言っても扇が先に鳴った。
決まった話を飲ませるだけの座である、と部屋に入った瞬間に察することはできた。
「調略、間に合いましょうか」
「可能な限り急ぎまする。ただ同時に六角殿にも話を通しましょう。六角殿ならば、今川は通したがらないかと」
伊予守が肩から力を抜いた。
幕府の取次役ということもあり、情勢への理解は深い。まず六角が今川を通すことはあり得ないと見ているのだろう。
もっとも、先の伊勢の会合を見るかぎり、六角が違う出方をすることもあり得る。そのことは口に出さなかった。
「して、此度の会合、どのような筋で始まったのでしょうか」
伊予守が首をひねり、それから膝の上で指を組み直した。
「進士美作守晴舎殿より、朝倉殿が公方様に申したいことがあると」
「美作守殿」
正式な取次役ではない。
「伊予守が方々に出歩くにつれ、他の者が取次を臨時で行うこともあり申す。さほどおかしなことではございませぬが」
そう言う伊予守の眉は寄っていた。五郎から何も返ってこないことを訝しんでいるようであった。
「失礼した。あまり聞かぬ方ゆえ」
「確かにどちらかと言えば、西に使いに行かせることが多い者でございました。今川家には向けておりませぬ。されど、いざという時腹をくくれる男でございます」
五郎は襟元を緩め、開け放った戸から外を見た。月には雲がかかり、目を凝らさねば先も見通せない。
膝から下が重く、今日はもう、船にも馬にも乗れそうもなかった。
「如何いたしました」
「いえ、六角殿の答えがどうであれ、公方様に叱られぬ様に軍備を進めておきまする。ただ、六角殿の件、常の通りよろしくお願いいたす」
もしかしたら、伊勢を通り進軍することも考えなければならない。その場合、表裏定かでない大和衆の間を突っ切らなければならない。
可能ならばその進軍路は避けたかった。もっと言うならば、進軍自体、まだしたくはなかった。




