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8章_3

 水路にかかる橋を渡っていると、向こう岸の屋敷の潜り戸が開いた。


 町の会合が寄り合いに使う屋敷である。表は蔵と同じ白壁で、看板も紋も出ていない。

 荷主と蔵主が数を突き合わせるのも、値を決めるのも、この屋敷の内であった。夜に灯が入っているのは珍しくない。船が着けば、着いた日のうちに割りを決める。


 だが、調べた範囲では、今夜この屋敷を使うという予定は会合衆の間では聞き及んでいないらしい。


 つまり今、灯がともっていることも、今、戸が開いたことも奇妙なことである。

 出て来た男は、足音を殺して往来へ下りた。そのまま首を回し、左右を見渡している。


 三好筑前守元長は笠を手に提げたまま、足を止めなかった。

 後ろには民部大輔と、供が十ほど続いている。木戸はもう閉まる刻限であり、往来に人はいない。


 筑前守はそのそっと歩く男に対して声を大にした。


「神五郎、なにしているんだ」


 男がぎょっとして、また周囲を見た。それから、橋のこちらへ目を留める。


「筑前」


「ああ、筑前だ。同じ三好の筑前守。そう驚くような相手じゃないだろう」


 筑前守は笠を持った手を振りながら、橋を渡りきった。

 三好神五郎政長である。同じ三好で、今は主君細川六郎晴元の側に詰めている。

 

 勇猛さで知られた男であったが、筑前守が先の戦で大勝を収めてからは、会合の場でもほとんど口を開かない。

 口を開かぬまま、こちらの手元を見ている男であった。


 その神五郎が身を固くした。懐へ手をやり、何かをそっと隠すようにして襟を立てる。

 ますますもって奇妙なことであった。


「何隠しているんだ。阿波への土産なら是非に参考にさせてほしい。忙しくて選ぶ暇もない」


「そなたまだ近江のはずであろう」


 近江で六角、朝倉と会合したのは、つい数日前である。

 そこからは好意で船に乗せてもらい、あとは馬を乗り継いで急ぎ堺へ戻ってきた。尻も腿もまだ痛む。

  


「予定では神五郎の申す通り。でも、予定というのは変わるものだろう。忠節ほどじゃあないが」


「ふざけた男よ。そのような軟弱でこれからの三好が成り立つものか」


 筑前守は手を横に広げた。前へ出ようとしていた民部大輔が、それで止まった。

 まだ話し足りないことがある。できるならば刀を抜くのは避けたかった。


「硬骨な男になれば、三好や堺公方様が栄える。そういう道理があるというのであれば、いくらでも演じて見せるが、そうではないだろう」


「たわけ。今は大戦の最中。弱いところなど見せてどうする」


 筑前守は指を差した。神五郎の出て来た屋敷をである。


「神五郎、君は今、弱いところを見せているが」


「何を言うか」


 神五郎が露骨に身体を固くした。


「今川と繋がりたいのか」


 神五郎が肩を上げ、首を守るようにした。


「別にどうもしない。神五郎に六郎様の命が来ている以上、私が如何こうできる話ではない。ただ、何度も言っているように、義晴を担いでも三好は栄えない。結局のところ、又者として軽んじられるだけじゃないか」


 三好は三管領細川京兆家の被官である。六郎の指示の元、堺公方から公方に旗を変えたところで立ち位置が良くなるわけではない。

 ただ、神五郎はそうは思わないようであった。懐を抑えながら歯を剥いた。


「では無理な戦に前に出るか。あの今川治部と組み合えるか」


 筑前守は両掌を開き、神五郎に見せた。


「それこそ弱腰の意見という物ではないかな」


 神五郎がそこで唾を飲んだ。その目には怒りと屈辱がありありと見えた。

 

 不味いことを言ったかもしれない。筑前守は頬を掻いた。


「まあ、ね。別に良いさ。君のそれが完全に間違いとは言っていない」


「筑前」


 背後に立つ民部大輔が憮然として言った。ごつんと肩を叩かれる。


「民部大輔は文句を言っているけれど、私が言いたいのは、結局勝ち目があるのになぜ、大勝の機会を狙わないのかってことなんだよ」


 少しだが詭弁が混じった。


「今川に勝つ、そう言うか」


 神五郎が懐の物を隠すように背を丸めた。どうやら相当な物らしい。

 そのままの姿勢で、口を尖らせる。


「今川に勝つと言って、負けたものは今まで大勢おる。関東十万、武田五郎、三河。良い様に使おうとして失敗した者であれば、土岐、斯波。枚挙にいとまがない」


「今まで私は戦ってない。そう言うのは傲慢だろうか」


 傲慢だ。自分で言ってそう思った。

 十三渡で本陣まで届いたのは事実である。ただ、届く道を開けたのは赤松であった。


「傲慢だ。たかが赤松の裏切りで勝ちを拾った分際で名将を気取るつもりか」


 やはり言われた。

 背後で民部大輔が鯉口を切る音がした。筑前守は一歩右へずれて、民部大輔の視線を切った。


「筑前。もう良かろう。三好の問題である、六郎様の顔色を窺ってどうする」


「家臣が家臣を切った。そう取られるだけだ。道永殿が波多野兄弟を叛かせたのと似たようなことが起こる」


 道永は丹波で己の側の者を上意討ちにし、そこから柳本と波多野の反発を招いた。招いた火は消えぬまま、あの入道の足元を焼いた。

 民部大輔は舌打ちをして、刀から手を離した。


「まあ、今のは少しだけ、ほんの少し傲慢だった。けれど神五郎が今川と繋がって義晴殿を担ぐのはお勧めしない」


 神五郎は背を丸めたまま吼える。


「なぜだ、三好は幕府の中で栄える」


「中というより、誰の下で。それが問題なのではないかな」


 徐々にであるが、会話が成り立ってきている。まずはこの場はどうにかなるであろう。

 筑前守がそう息をついたとき、また別の声がした。


 ここにいるはずがない声である。


「して、何が言いたい。まるで六郎の下が嫌だとでもいう口ぶりではないか」


 その声が耳に届いたとき、今度は筑前守らがぎょっとした。


 先ほど神五郎が出て来た屋敷から、見知った顔が現れた。細川六郎晴元。筑前守の主君である。


 供は四人ほどで、いずれも笠印を付けていない。

 屋敷の灯を背にしているので、顔の造作までは見えなかった。声だけが、往来の石へよく通った。


「頭が高いな。筑前。今楠公と呼ばねば頭も下げられんか」


 言われてすぐに頭を下げた。

 民部大輔らもそれに続いた。笠は橋板の脇へ置いた。


「なにやら面白げな話をしていたな。得意げに誰の下に付くのが重要か、などと賢しらげに。やはり大楠公の再来とあらば、足利の家中には矢を引かねば気が済まぬか」


 不味いところを聞かれていた。

 筑前守は唇を噛みつつ、頭を回した。


「まさか、今川に頭を下げることになるのであれば、我らは今川の下に組み入れられかねない、そう言う話でございまする」


「そうは聞こえなかった。それは六郎の不明か」


 やはり主君の六郎は馬鹿ではない。

 狭量で猜疑心が強く、嗜虐的で執拗なだけで、細川京兆家を継ぐだけの能力はある。


 今はそれが少しだけ残念であった。


「こちらの言葉が悪うございました。神五郎は三好でありますゆえ、気やすくなり申した」


「三好は誰の家臣であるか」


 その問いには淀みなく答えられた。


「細川六郎晴元様の家臣にございます」


「誰の指図に従うべきであろうか」


 その問いに対しては、筑前は含みを持たせてしまった。


「六郎様、ひいては、六郎様の奉じる、」


「六郎であろうよな」


 言い切られる。やはり忠誠のありかについては、疑われているらしい。


 顔をゆがめていると、筑前守の背を民部大輔が撫でた。

 ここぞというところでだけは優しい男である。三好一族の中では、こちらが何を言っても腹に入れておいてくれる、数少ない相手であった。


 夜気が背へ入ってくる。橋の板はもう冷えていた。


「畏れながら、唯々諾々と従うだけでは細川のためにならず。主君が道を誤ったのであれば、これを正すのも家臣の責務でございましょう」


「この身が誤ったか」

 

 六郎があざ笑うように言った。


「さにあらず、されどこのままいけばそうなりましょう」


「筑前、貴様」


 神五郎が懐を抱えたまま唸った。走りださんばかりの唸りである。

 だが、これは六郎が止めた。


「今楠公、なぜそう思う。貴様が思う道はなんなのだ」


「無論、今川を打倒し、堺公方様を正当なる将軍へと押し上げることにございましょう。六角、朝倉はこれを了承し、あとは今川を討ち、義晴を手中に収めるだけにございましょう」


 本当ならば近江で義晴を得れば、今川と戦う必要すらなかった。

 六郎は鼻で笑う。


「陣を都合によって変える者など信用できまい。六角、朝倉、後々の赤松とならぬと誰が言えよう。それを勝算とすればあまりにか細い。ならば、いっそ今川と結んだ方が良かろう」


「そうは思いませぬ。六角、朝倉とも道理を知った家でございます、少なくとも今川を美濃から退けるまで、両家が陣を変える利はございませぬ。ともに今川を美濃より遠ざけねば先はありませぬ」


 正確には、六角、朝倉とも先がないと思い込んでいる。

 だが、見立てとしてはさほど間違ってはいないように思えた。今川治部太夫の勢いは留まるところがない。


 六郎は顎をしゃくり、こちらを見下したように言う。


「その二家を足したとしても、今川と結んだ方が明らかに良い。あれは天下に興味がないのであろう。美濃も伊勢も持たせてやればよい」


 その見立ても間違ってはいない。弾正少弼ほどの男の人物眼である。今川治部太夫は幕府の中枢に入ろうとはしないだろう。

 米の石高だけでも四百万石を超える怪物が、それで大人しくなるならば、いっそ賢い判断ともいえる。

 

 だが、


「されど、そうなったとき東に幕府の権威が一切届かぬ地が出来ましょう。この今川に対して、新たな幕府は一切頭が上がりませぬ。これは足利が行ってきた政策の正反対ではございませぬか」


 六郎が唸った。

 誰がどう見ても長い目で見て今川は伸びる。当主の治部太夫は若く、まだまだ先がある。

 京のある山城には手を出さないかもしれないが、伊勢を皮切りに畿内の豊かな土地をもぎ取っていくことは十分に考えられた。


「近々始まる六郎様の政権、これは今川が畿内の入口を抑える以上、盤石とはならず。どうかご再考をお願いいたします」


 筑前守は再び平伏した。眼前に、乾いた橋板だけが映る。

 じっとそのまま待っていると、小さく足音だけが遠ざかっていった。顔を上げると、遠巻きに去っていく六郎の背中があった。


「増長者が」


 神五郎はそう言って、懐を抱えながら六郎を追いかけていった。

 屋敷の潜り戸が内から閉められた。閉めた者は顔も出さない。表の灯も、じきに一つ落ちた。


 筑前守は息を吐いて、身を起こした。橋板の脇から笠を拾い、膝の埃を払う。


「うん、失敗したな」


 心は動かせなかった。そう思う。

 民部大輔に頭をはたかれた。


「端から分かっていた事であろう。あの方にもう話は通じぬ。筑前、其方が近江にほぼ独断で前に出たあたりで、完全に睨まれておる」


「だが、近江に出たおかげで六角家中と話を通じ、弾正少弼殿を引き込めた。そこを皮切りに朝倉殿もこちらに寄せられた」


 義晴の背中を捕まえられない。そう判断した段階で、六角家中の領地を焼かず丁寧に接した。そして、六角弾正少弼の帰国を助けるような動きもして見せた。

 その結果、此度の反今川包囲網へと至ることができたのだ。まるっきり無駄ではない。


 だが、民部大輔は眉を寄せた。納得などしていない顔である。


「それも睨まれる理由であろう。堺公方様、つまりは主君以外の許しがあった、これを名分に家臣が他所の家を引き込む。これを何という」


「謀反」


 筑前守はするりと言い切った。そこに疑いはない。


「良く分かっておるではないか」


 民部大輔は橋の欄干に身を寄せ、付き合いきれんと天を仰いだ。つられて上を見ると、大きな満月がのぞいている。

 水路には夜舟が一艘、灯を点けて下っていくところであった。


「神五郎と六郎様は結局何をしようとしていた。本当に今川と繋がろうとしていたのか」


「打診程度かな」


 軽く言うが、民部大輔は見逃さない。


「何の打診だ」


 民部大輔が橋に身を預けたまま、目をぎょろりと向けた。


「戦が長引いたとき、自分だけは義晴の政権に入る。そんなところではないかな」


「まさか、義晴が許すまい」


 民部大輔がはね起きた。


「土産があれば許すだろう」


「馬鹿を言え。仲が悪かったとはいえ、自分の腹心の前管領を討ち取られている。これを許す土産などない」


 そう言って、民部大輔はいかつい顔でかぶりを振った。

 その純さに随分救われている。今から言うことなど、考えもしていないのだ。


「あるだろう、ここに」


 筑前守は自分の首を叩いた。

 民部大輔が目をむき、それから忌々し気に顔へ皺を寄せた。


 何もわかりやすく、自分を上意討ちなどはしないだろう。たとえば、供の数を少なくして歩く用事を命じる。

 それを道永側の縁者へ教える。そういったことでも良い。


 その上で、義晴に対して今後は私心なく仕えると誓えば、おそらく義晴はこれを受け入れる。

 六角、朝倉を抑えるためには自分が必要と六郎が売り込めば、幕臣らの中には説得する者も出るだろう。今川への対抗馬として六郎を見る者も出てくる。


 そういうことも六郎はやれる、と筑前守は主君を読んでいた。


「あまりにも無体であろう。筑前は十三渡の戦の武功者であるぞ」


 筑前守は肩をすくめた。


「だからこそ、だろう。力のある家臣などいらない。時代は下剋上。同じ三管領家の斯波武衛がああなった以上、細川京兆が安泰などとは思う方ではあるまい」


「卑劣よ」


 民部大輔が橋の板を強く踏んだ。三好の家臣らも同感の様子で、腕を組んで何度も頷いた。


「というわけで、あまり隙は見せられない。用意ができ次第、今川に布告を出す」


 義維を初め、阿波方を上手くまとめればできるだろう。そう筑前守は見ていた。

 今楠公などと大層な武名が轟いている間は、確かに阿波方は武辺の匂いがする意見を好むとも、予測していた。


「もたもたしていると勝手に結ばれ、堺公方様ごと切り捨てられるか」


 民部大輔が長く息を吐いた。


---


 尾張、津島の館の奥の一間に二人の男がいる。

 夏も盛りというのに、川風を嫌って障子は閉めてあった。

 二人の内の一人、織田弾正忠信秀は胡坐のまま、膝の前へ文箱を引き寄せた。


 文は二通、箱に入って届いていた。どちらも商人の手を経て、津島に置かれた物である。ほとんど同じ日に届き、届けようとした矢先に弾正忠が津島へ来ていた。

 弾正忠は朝のうちに勝幡を出て、馬で来た。腰がまだ重い。用は年に一度の納めの相談であったが、それは半日で済んでいる。


 一通目は、今を時めく今楠公、三好筑前守元長からであった。

 弾正忠の見るところ、そのあだ名は、細川京兆家の家臣の、そのまた当主に付いた名としては大きすぎる。呼ぶ側が面白がっているのか、担ぎたいのか、そこまでは尾張に届いてこない。


 その今楠公からの文であるが、中身は多岐にわたった。

 時節の挨拶から始まり、弾正忠の奉公が京で噂になっているとある。是非に一度上洛し、朝廷に挨拶をするのはどうかという誘いが続いた。


 その先に、嘆きのようなものが匂わせられた。

 かつては清州織田の三奉行であった弾正忠家が、今は尾張の一国人になり果てている。このことを深く嘆き、そしてどうにかしたい。

 そのように堺公方も今楠公も考えている。そう受け取れる文が書いてある。

 

 三奉行というのは、清州の守護代織田家の下で、政と兵と銭の割りを預かった三家のことである。弾正忠家はその一つであった。今川が尾張を取り仕切るようになってからは、文の通り名前だけに成り下がっている。


 紙は上等で、折り目は二つきりであった。人を選び、荷に紛れさせず持たせたのであろう。

 弾正忠は指で紙の端を押さえたまま、二度読んだ。


「筑前守殿の手は長いな。耳が良いと言った方が良いか」


「いえ、堺と津島はそれなりに近うございます。銭の流れに乗ってやり取りをすれば、噂話も入りましょう」


 二人の男の内のもう一人、大橋清兵衛重長が恭しく言った。この館の主である。

 清兵衛は津島の顔役で、津島四家七名字の一角であった。弾正忠の父がこの男へ娘を嫁がせているので、弾正忠にとっては義理の兄弟ということになる。


「あちこちに、このような文を出されておられるか」


「でありましょう。ただ、向こうは一番に弾正忠様に出したと申されていました」


 弾正忠は口を歪ませ、茶碗に手を伸ばした。

 椀の中に、駿河の茶の緑があった。それを見た後、飲む気が失せる。


「商人の売り文句よな」


「買いまするか」


 弾正忠はもう一通の文へ手を伸ばした。


「別の店を見てからにしよう。より良いものが安く買えるやもしれぬ」


「良きことかと。引き合いに出せば、元の店も条件を変えるかもしれませぬ」


 弾正忠は鼻を鳴らし、もう一通を開いた。そして顔を顰めて、閉じた。

 駿河の茶へ手を伸ばし、冷えたそれをあおった。


 悔しいが美味い。

 東海道のみならず、その商圏で広まっているのが良く分かる味であった。

 頭を覚ます苦みと、甘さすら覚える淡い後味がたまらない。公家らなど特に気に入りそうである。


「如何されましたか」


「気に入らぬ坊主の文字であった」


 ああ、と清兵衛が眉を寄せた。

 津島の商人にも、今川の坊主、九英承菊の名は良く知られている。言葉尻一つ、証文の書き方一つを取り、これは法度に反しているのではないか、と詰める男であった。

 熱田の商人らを初め、今川領の商人には猫撫で声で融通を利かせる癖に、そうでない商人には明らかに嫌らしく責める。


 去年は津島の者が一人、証文の日付の入れ方が今川の書式と違うというだけで、荷を三月止められた。止めた側は詫びもしない。詫びの代わりに、次から使えという雛形を送ってきた。


「あれでも治部様のお師匠で、重臣なのですから読まぬわけにはいきますまい」


「わかっておる。気を入れただけだ」


 弾正忠は顔から遠ざけながら、文をそっと開いた。

 京で名の知れた寺院で修行したのは事実らしく、これはと思う達筆である。しかし、読んでいるうちにどうにも気力が萎えて来る。

 弾正忠はその文を右から左から読み、再度目を凝らして読んで、閉じた。


「いかがでしたか」


「清兵衛は読んでおらぬか」


 清兵衛が身を竦めた。


「欠片でも切られる理由は作りたくございませぬ。あの御坊は弾正忠様に首ったけでございましょう」


「嫌なことを申す」


 弾正忠はかつて、主君である清州織田を売るという博奕をした。

 結果は、微負けであろうか。今川の伸長は止められぬ、尾張は荒らされると見て、まずは生き残るために立ち位置を確保した。

 そこまでは成った。あとは適当に清州織田や岩倉織田へ浸透し、尾張に影響力を持とうとした。


 しかし、突如としてあの今川治部が本拠を変えた。那古野に居城を作り上げ、物の流れからなにから何まで変えてしまった。

 物と銭の流れは大きく熱田と那古野へ寄った。津島の口を通る分は、この二年でじりじりと減っている。

 減った分は、船の数にも、積み替えの手間賃にも出ている。つまり弾正忠家に上がってくる銭も減っているのだ。

 

 確かに、弾正忠家は残った。だが、今川に信用ならぬ家として名を覚えられ、大きくなる道は塞がれてしまった。

 伊勢を取られてからは、さらにである。加えて、あの性悪坊主の策謀の邪魔をしたということで、事あるごとに足を引っかけられる始末であった。


 いま弾正忠の手元にあるのは、勝幡の周りと、津島の口だけである。尾張の他の家はみな今川に出頭して法度に従うと誓紙を出し、本領を安堵され、子弟を仕えさせている。

 

 弾正忠だけが、その流れに乗れていない。


「して、文の内容は」


 清兵衛が身を乗り出した。歴戦の商人も焦れるらしい。


「何もない。時節の挨拶だけ。いつもと違って釘も刺してこない」


 弾正忠は文を再び開いて、清兵衛の元へ滑らせた。清兵衛は乗り出した身を引いたが、それでも文を握った。


「誠にございますな。誠に挨拶だけで」


「であろう」


 清兵衛が顔を上げ、口をゆがめた。


「弾正忠様に阿波方の手が伸びていると気が付いておらぬ。ということでしょうか」


「まさか、気が付いておる」


「では、これはどういうことでしょうか」


 弾正忠が見たところ、治部という男は奇策を好まない。傍から見ると奇策に見えるだけで、勝ち目の多い筋にとんでもない額を賭けるだけである。


 そこを見るに、この文は三河で松平次郎三郎を釣ったのと似た手であると思えた。手を伸ばせるだけ伸ばさせておいて、伸びきったところを断つ。あの次郎三郎も、それで西三河から消えた。


 きっと、弾正忠家も同じように阿波方に連動させ、その後に潰す。


「誘われておる。好きに歯向かえと、餌に食いつけと鎖を緩めているのであろう」


 清兵衛が生唾を飲んだ。

 弾正忠は襟元を緩め、息を吐いた。蒸した空気が肺の中に染み込んだ。


「お止めください」


 清兵衛が姿勢を正して口を開いた。こちらの腹を読んでいるようだった。


「いかぬか。今川に嚙みつくのは」


「畏れながら、清州織田家はなく、次に身代わりとして差し出される者はございませぬ。切られる理由は作ってはいけませぬ」


 まるで忠臣のようなことを言う、と弾正忠は可笑しさを覚えた。


 大橋家とは、長く蜜月であったわけではない。つい一昔前、弾正忠の父の代には津島へ攻め込んですらいる。

 それが改まったのは大永四年(一五二四)のころ、和睦を結んだ結果であった。

 この和睦により清兵衛と弾正忠は義兄弟となり、津島は事実上、弾正忠家の下に入っている。


 そこから見れば、清兵衛は津島が燃えることを望んでいないだけなのだろう。


「わかっておる。兵の差を見れば、そのような馬鹿な考えを浮かべるわけなかろう」


 阿波方に乗れば、津島は弾正忠家を離れる。分からないわけがなかった。

 清兵衛は弾正忠の言葉を聞いて、露骨に胸をなでおろした。


「ええ、でありましょう。いや、こちらも馬鹿なことを申しました」


 本音を言えば、弾正忠はその馬鹿をやりたい。


 尾張に伸びるにしては、那古野の居城に頭を抑えられる。西はまだ目があるが、今川の水軍がどこからでも駆けつけてくる。

 阿波方の勝ちに賭けるほか、弾正忠家が今川に飲まれずに大きくなる道はないように思えた。


「話は変わりまするが、弾正忠様は治部様に挨拶に参られたのでしょうかな」


 弾正忠は、没頭していた考えから引き戻された。


「挨拶」


 その言葉を口の中で転がした。


「いえ、以前岩倉城に乗り込まれた際、治部様が尾張守護になられた際はお支えすると申されたと聞き及んでおります」


「それか、まだだ」


 清兵衛が顔を覗き込んだ。その目線がうっとおしく、弾正忠は腕を組んだ。


「向こうもどうにも時間がとれぬゆえ、しばらく気遣い無用とのことであった」


「ああ、まあ公方様が美濃に腰を据えられた話や、上洛の件もございましたから」


 清兵衛は言葉でそう言ったが、額の皺は残っていた。

 はっきり言えば、折はあったが行かなかった。

 伊勢神宮での祭祀など、顔を合わせる場は作れたのである。

 行かなかったのは、一度でも寄れば、なし崩しで何を約束させられるか分かったものではない、という懸念からであった。


 向こうから気を使わなくて良いと文が来ているので、それに甘えた形になる。

 家中には、挨拶に行けば上洛の大戦に巻き込まれるとして、保留にしてある。


「津島としては、どこかで幕臣方にご挨拶を考えておりますが、弾正忠様は如何でしょうか」


 清兵衛が身をかがめるようにして言った。弾正忠は腕を解き、その顔を一瞥した。


「こちらから都合が良い時を尋ねてみよう。邪険にされては困ろう」


 清兵衛はかがんだ姿勢のまま、動かなかった。

 だが、弾正忠の言葉を受け、しばらくたつと深々と頭を下げた。


 


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これ信長が産まれて来ないは有るかもな、
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