8章_2
近江、堅田の寺の一間である。
南の障子を開け放ってあった。そこから湖が見える。舟は幾つも出ていて、網を上げているのもあれば、俵を積んで南へ下っていくのもあった。三好筑前守元長は、その下っていく舟を目で追った。
北の浦へ着いた荷は、荷駄に組み直さず、そのまま舟へ移して南へ落ちる。落ちた先で陸へ上げれば、京までは半日であった。越前の物も、伊勢の物も、みなこの水を通る。堺から京へ入れるのに、こちらは荷駄と人足を仕立て、山を越えさせ、日数を数えねばならない。
つくづく近江という国は強い。恵まれている。
ふと筑前守はそう思った。
筑前守は膝の横へ置いた扇を取り、掌で二度打った。
朝のうちに南の浦から舟へ乗り、この浦へ着いた。まだ足の裏が揺れている心地がする。連れて来たのは三好民部大輔と、供が十ほどである。多く連れれば話が漏れるし、少なければ舐められた。
それに、少なすぎれば細川六郎が稚気を起こすことさえも考えられる。嫌になるほど難しいことである。
「いや、御足労申し訳ない」
そう言うと、向かいの二人が僅かに鼻白んだ。
右が六角弾正少弼定頼である。近江の守護であり、この湖と平野を持つ家の当主であった。右の足を前へ崩して座っている。先の大戦で太股に矢を受けたと聞いた。座り方を見るに、まだ抜けきってはいないらしい。
左が朝倉宗滴。越前の当主ではない。当主の縁戚で敦賀の郡司であると同時に、朝倉の軍を預かる男である。年は六十に近いと聞いていたが、まるでそうは見えない剽悍さが全身から漂っている。
先の大戦では道永の本陣を救わず、兵を損なわぬまま越前へ引いている。
だが、それをもってしてもこの男と怯懦を結びつける者はいない。
二人ともかつての道永方の柱石であり、日の本にそれと知られた男たちである。
その二人が揃って、筑前守の態度や物腰に訝しむ様を見せていた。
こんな軽い男がそうなのか、と疑っていた。
筑前守は背中に民部大輔の呆れるような視線を受けながら、頭を掻いた。
「ああ、某でしょうかな。どうにも、こんなものでござる。又者ゆえ飾っても致し方ない」
背後で三好民部大輔一秀が咳払いをした。多少は飾れということらしい。うるさい男である。
「して、改めてご本人の口から言葉をいただきたく。同盟の件、納得されたということでよろしいかな」
「それは、いまさら」
弾正少弼が小気味よく言った。
「今川とは物別れでございますかな。たしか伊勢のあたりで交渉されていたと思っていたのですが」
「よく承知で」
弾正少弼が眉を上げ、肩を揺らした。
「今川治部の動向だけは何があろうと目を離していません。まあ、嫌でも目に、耳に入るのですが」
「違いござらん。治部殿は目立つ」
弾正少弼が銘酒でも思い出すように口角を上げた。悪い出会いではなかったらしい。意外であった。
「弾正少弼殿、何を約束された」
宗滴が鷲鼻に皺を寄せながら言った。座ってからこちら、体には力が入りっぱなしであり、欠片も緩んでいない。
この男だけは純粋な将としてここにいるのだとわかった。
「何も約束はなりませなんだ。ただ、美濃、伊勢、公方様を手放せと申したが、返りがない」
ふはっ、と筑前守はふき出した。
なんだそれは。まるで戦で負かしたときの申し出ではないか。
体を揺らしていると、再び民部大輔が咳払いをした。次は頭を小突かれるだろう。
「いえ、失敬」
「無理もござらん。通るとは思っていないことでござる。むしろ、こちらの反感を見せる形になり、手を誤ったともいえましょう。だがそれでも腹を見たかった」
「見え申したか」
宗滴が短く問うた。そしてそのまま続けた。
「弾正少弼殿は今川治部が天下を欲しているか、気にしておられた。して答えは」
「天下は欲しておられない」
宗滴が唸った。筑前守も小さく頷いてしまった。
筑前守にとって、今川の当主はどういう人間なのか、いまひとつ掴めない。
教養はある。礼儀も尽くす。戦には強く、内を纏める、富ませるのも上手い。
それだけである。
獣の生態を淡々と並べているだけであり、それがどんなものなのか肌に実感がわかない。初めてのことだった。
見立ては二度外している。関東で潰れると見て潰れず、五か国で止まると見て尾張と美濃へ手を伸ばした。
外した二度とも、こちらの読みが甘かったというより、読む相手を間違えていた気がする。
「なれど、天下を取れる場所から動こうとはしない」
「謎かけでしょうか。して、答えは」
筑前守が言うと、背中をはたかれた。民部大輔め。
「某ごときには、あの男を論ずる資格はない。墓から佐々木道誉でも引っ張り出さねば」
朝廷が南北に分かれ、激しく戦った時代の名将。婆娑羅大名と呼ばれた佐々木道誉は六角家の先祖にあたる。
教養がありながら、時に無法、時に忠節を尽くした破格の人物であった。
確かに、かの婆娑羅者ならば今川治部の腹も読みつくせるだろう。
しかし、
「佐々木道誉殿ならば、面白がって今川治部殿に仕えそうですが」
「それは違いない」
弾正少弼が笑った。筑前守は歯噛みした。
この男は大笑いしても男ぶりが良い。
「結局、今川治部殿は邪魔ということでよろしいか」
宗滴が吊り上がった目をそのままに言う。
口調は穏やかであり、姿勢も揺れていない。
「六角にたいしては間違いござらんな。今川家、今川治部殿は邪魔にござる」
弾正少弼は何のこともないかのように言う。
散々、今川の銭と米で戦をつづけたというのに、そのことに一切悪びれはしない。
筑前守は胃に痛みを覚えた。
弾正少弼は味方にすれば強い。戦も謀略もできる。兵も出せる。近江としての国の強さは、堅田に来るまでに嫌というほどに見た。
湖を使っての水運は畿内で戦ううえで、抗いがたい優位性をもたらす。米、兵を縦横無尽に移動させるそれは、敵にするのは恐ろしすぎる。
かと言って、これは同盟相手とするにはあまりにも無法に過ぎる。
家臣として使えるならば問題ないのだろうが、肩を並べる、神輿として担がれる、そのどちらも心を許せる相手ではない。
だが、筑前守はその言葉を信用した。
今川が美濃、伊勢という畿内の入口を抑えているのはあまりに恐ろしい。それが公方という名分を持ち続けているのも、近江の大名としては許せないことだ。
今川治部はまだ若く、弾正少弼より二十は下である。
代替わりなど、六角が緩んだ折、今川が前に出ないとどうしていえるのだろうか。六角の当主としては、今叩くほかない。
その考えだけは、筑前守には手に取るように分かった。
「なるほど、では、六角殿は今日より同輩にございますな」
筑前守は口で笑みの形を作った。それから弾正少弼の側により、その手を両手で握った。
弾正少弼はこちらの手汗に顔を顰めたが、それでも握り直した。
手汗に関しては、そちらのせいであろう。筑前守はその言葉を必死にひっこめた。
「して、朝倉殿は」
筑前守は手を離し、隠す様に手汗をぬぐいながら、顔を向けた。
宗滴は何も変わらず、口を開いた。
「美濃の一件がある故、無論今川にはつけ申さぬ」
「ああ、それは分かっていますが、それは御当主も承知で」
ぴしゃりと、筑前守の背がまたはたかれた。
いや、これは聞かないとだめだろう。筑前守は背に手を回し、民部大輔を追い払った。
宗滴は恐ろし気な風貌のまま、目を細めた。
老いた鷲が笑みを浮かべるとこんな感じだろうか、と筑前守は取り留めもなく思った。
「ご承知いただいておる。戦のこと、すべて宗滴に一任すると」
「であれば、なにも問題はございませぬ」
筑前守は二人から等しく離れた位置に座り直すと、平伏した。
「堺公方、足利義維の御為、ご助力をお願いしたく存じ上げます」
「無論のこと。天下静謐のため助力は惜しみませぬ」
「左様、朝倉も同じでござる」
「おお、心強い」
そう言って、筑前守は背後の家臣らや、民部大輔に振り返り頷いた。
民部大輔を初め、その場にいた三好の家中は、ほっとしたように胸をなでおろした。
ただ、筑前守の胸中は重いままだった。
この両家とも、今をもってしても足利義維のために働くとは申さなかった。
両家も赤松次郎と同じく、戦の大目的である堺公方を将軍に押し上げるというところには興味がない。
今川という、突如として湧いた巨獣を打倒すためだけの一時的な助力である。今川を打倒した後は、おそらくまた争うことになるだろう。
筑前守は家臣らに向けていた顔を引き戻した。そして、何度目か分からない、無理に作った笑みを用意した。
「して、この場に集まったのは何かの縁でございましょう。是非に一席設けたく」
筑前守がそう言うと、各人の前に些細な膳が運ばれた。膳には大したものが乗っていない。漬物が数切れと、酒程度だ。
膳も器も寺の借り物であり、酒は堺から舟に積ませた分である。魚は湖で幾らでも上がるが、出させなかった。
この浦の者に献立を任せれば、こちらが何を運び込んだか、その日のうちに湖じゅうへ知れる。
またこれから舟と山を戻ることを考えても、盛大に宴とはいかない。
では、と音頭をとると、皆一様に膳へ手を伸ばした。
酒を一口、二口飲み、皆が襟元を僅かに緩めたころを見計らい、筑前守は話を切り出した。
「弾正少弼殿、今少し今川治部殿のことを伺ってもよろしいか」
弾正少弼は手に持っていた酒を膳に戻した。六角の家中も歓談をやめ、すっとこちらへ目を向けた。
室内の言葉数が減っていき、潮がひくようにやがて静寂が残った。
弾正少弼はそこでくすりと含み笑いをこぼした。
「失敬。どこでも同じことを聞かれると思うたまででございます。されど先ほども申した通り、某に語れることなどなにもございませぬ」
「しかし、弾正少弼殿しか言葉を交わした者はおりませぬ」
「筑前守殿は文のやり取りをもしていた。そう聞いておりますが」
「いや、あれは明らかに祐筆にございましょう。美筆に過ぎる」
今川が尾張を取る以前、こちら側へ寄せようと文を頻繁に送った。一度は堺の商人に持たせ、一度は寺を通し、あとは駿府へ人をやっている。
返りは必ず来た。だが、どれも当たり障りのない季節の挨拶か、公家らや寺社へのひっ迫はやめてくれというものばかりであった。
それらは思わず飾りたくなるほどの美筆であり、なるほど相当な祐筆が今川家にはいるものと感心した覚えがある。
「ああ、それはおそらく直筆でしょうな。有名な話でありましょう。宗滴殿」
筑前守は思わず酒を取り落としそうになった。
話を受けた宗滴が、思い出すように頷いた。
「道永殿が不機嫌になったゆえ。覚えておりまする」
「季節の挨拶、言葉選び、筆運びとそつがなく。揚げ足を取ろうとしても取る場所がない、あれは前の管領としては面白くなかろう」
話が逸れかけた。
「つまり、何事もそつがない御曹司ということでありましょうか」
駿府には下向した公家らが多くいたはずである。
今川の跡取り息子が強く求めれば、いくらでも教えは受けられるだろう。
筑前守の頭の中に、公家趣味の貴公子が浮かんだ。
だが、弾正少弼はそれを否定した。
「そう言う面もあるが、むしろ、なんといいましょうか」
弾正少弼が腕を組んだ。
面白げなことを思い返すようにして、小首をかしげる。
「ああ、なんというか、上手く当主をやらされている。そのようなところでありましょうか」
「相当に優秀な家中が補っている、そう言うことで」
思わず宗滴に目が行った。このような男が二人、三人といて今川を支えているのであれば、急拡大もなくはない。
「優秀な者は確かに今川には多く居られようが、それらに首輪をつけているのは他でもない今川治部殿に他ならないでしょうな。まあ、先ほども申したように某には言葉にはできぬことでありましょう」
「獣が人間の振りをしているだけ。美濃から逃れたものはそう申しておられたが」
宗滴がぽつりと言った。
それには弾正少弼は賛意を示さなかった。
静かに首を横に振る。顰められた眉から見るに、その物言いに微かな不快感すら覚えたようである。
「宗滴殿の手前言うことではないやもしれぬが、心遣いはされる方であった。足の負傷を気遣い、そのうえでこちらの顔も立てる度量はあった」
弾正少弼は残った酒を一息にあおった。
「今をもって言うと、なぜあそこまで踏み込んだのか自分でもわかり申さぬ。美濃、伊勢、公方だなんだという必要はなかった。大国二つに旗頭、今川が富強でも到底譲れるものではない。ならば、ずっと旗色を鮮明にしない。そちらのほうが良かったかもしれぬ」
「飲まれ申したか」
またぽつり、と宗滴がこぼした。
弾正少弼は目を見開き、肩に力を入れた。朝倉家中が殺気立った。
弾正少弼は息を吐くと、体を萎ませた。
「やもしれませぬな。ここで戦わないで済むのであれば、それでよし。そう思うてしまい申した。欲がでたと申されても否定しがたい」
また場が静まった。
筑前守はどうしても気になったことを口に出した。
あとで民部大輔にどやされるだろうが、それはもう仕方がない。
「公方様と今川治部の関係はどう思われる」
「どう、とは」
弾正少弼が片眉を上げた。
「失礼ながら上手くいかぬとあらば、そこから割るということもできましょう」
「確かにそうすれば戦わずには済みましょうな。美濃の件は別にして」
弾正少弼の言葉に、宗滴が鼻を鳴らした。
両家には悪いが、そちらの方が堺公方の得になる。今川は強くてもこちらはかまわない。
足利義維を将軍として、頭を下げるのであれば、今だけは、むしろそちらの方が望ましいほどだ。
筑前守は民部大輔に背をつつかれながらも、頭を掻いて笑った。
「まあ、何事も考えなければ済まぬ質でございまして」
弾正少弼は腕を組んだ。
「おそらくでござるが、上手くはいく」
「失礼ながら、あの公方様と」
自分で聞いておきながら、筑前守は疑った。
弾正少弼も、気持ちはわかると肩を揺らして見せた。
「今川治部殿、あの方は蹴飛ばされようが泥に塗れようが何も思わぬ方であろう。食えと言えば馬糞でも食う。犬の真似をしろと言われればする」
「やはり、そういう手合いか。でなければあそこまで燃やさぬ」
宗滴が苦々しい口調で言った。
「でありましょうな。腹の底の底を読めれば違うのでしょうが、公方様はそれをなさらない。足蹴にさえできれば満足なさるでしょう。筑前殿におかれては、公方様と今川治部殿の離間はおやめになられた方が良い。失礼ながら逆手に取られる」
筑前守は気恥ずかしさから頭を下げた。背後では民部大輔が大きくため息をついた。
いや、今川とやるのであれば、何でも使う必要があるだろう。筑前守はさらに頭をひねり、何か今川治部の弱点にたどり着けるものはないかと悩んだ。だが、どれだけ悩んでもこれといった問いが湧いてこない。
弾正少弼はそれを察してか、咳ばらいを一つ挟んだ。
「そんなことより、こちらも先の大戦の件伺いたく」
筑前守は、はっとして襟を正した。
「いや、話すことなど何もなく」
「そう言われては六角として立つ瀬がござらん。大楠公の再来、今楠公と謳われた武勇について是非」
大楠公。足利尊氏の好敵手であった、南朝の楠木正成である。
筑前守としては正直に言って遠慮したいあだ名であった。仮にも足利家臣の細川京兆家、その家臣の三好当主である自分が、足利の敵対者の再来と呼ばれるのは心苦しい。
ただ、これは気が付いたときには堺、京で広まっていた。現公方である足利義晴を打ち破ったことから、定着していた。主君である細川六郎は嫌な顔をしていたが、足利義維の方が京に親しまれている証とし、これを受け入れるように命じて来た。
それゆえに筑前守は、今楠公と呼ばれるたびに気恥ずかしさと心苦しさを覚える羽目になった。
「いや、誠に無我夢中としか言えず。不思議の勝ちというものでありました」
そう言ったが、弾正少弼は聞かず、どういう判断で本陣に切り込んだかなど、微に入り細を穿つ問いを投げかけた。
宗滴に助けを求めたが、こちらも戦話となると手加減はなかった。むしろ問いを重ね、話を切り上げる隙をつぶしていく始末であった。
膳の酒はとうに尽き、湖の面は暗くなっていた。
形だけの宴であったそれは夜遅くまで続き、筑前守の声は枯れた。
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駿府の館の奥、北川殿の部屋を芳菊丸は足を運んでいた。
障子は閉めてあった。庭の明るさが紙の向こうで白く滲んでいるだけで、部屋の中は薄い。
枕元に香炉が置かれ、薬の匂いと混じっていた。次の間には侍女が二人控えており、時折衣ずれの音がする。
芳菊丸は夜具の脇に正座していた。持ってきた包みは、来てすぐに枕元へ置いてある。
中身は干柿と、自分で写した書が一巻である。菓子だけでは芸がないと思い、写しを添えた。閉め切った部屋は暑く、襟の内がじっとりと湿っていた。
北川殿が床に臥せったのは、これで二度目である。
一度目は昨年の冬で、十日ほどで起き上がった。今度は起きたり臥せたりを繰り返しており、医師は寒くなるまでは無理をさせるなとだけ言う。
見舞いに来ているのは、今日は芳菊丸だけであった。
養子に出た異腹の兄弟らはまだ来ていない。清州の新三郎氏豊も、東条吉良へ入った孫六郎良真も、それぞれの家の都合がある。
同じ今川家中で同腹のすぐ上の松寿丸は信濃であった。備中守のもとで府中と伊那を往き来しており、駿府へは月に一度、書付が届くきりであるところを見るに、相当に忙しいらしい。
とはいえ、散々世話になった祖母の見舞いである。本当ならば兄弟揃って来る話であったが、それを長兄である五郎が止めた。
三好方が何か考えている節がある、手段を選ばぬことも考えられるため、兄弟はできれば揃わぬようにせよ、とのことだった。
松寿丸とは話したいことは色々とあり、残念ではあったが、不満はない。
妥当な話だと芳菊丸は思っていた。
「調子は如何でしょうか。御祖母様」
「よろしい。騒ぎ過ぎということがなければもっと良い」
北川殿は床に臥せたままぴしゃりと言った。
今日は相当機嫌が良いらしい。芳菊丸には、不思議とこの厳しい祖母の心の動きが良く分かった。
「御屋形様は参られたのですか」
芳菊丸は部屋の隅を見た。
見舞いの品が並べてある。花、茶菓子、扇子、着物と様々であるが、どれも長兄である今川五郎氏景の好みに思えた。
地味であるが、素材は良く、長く使える、そういうものだ。着物は染めも織りも派手ではなく、袖口の始末だけが妙に丁寧である。扇子の骨も同じで、絵は薄いが要がしっかりしていた。
公家、同盟相手、家中などに物を送るときは、それぞれの好みに合わせる人である。だが身内には、ふとしたときに自身の好みの品を出す。
「来ておりませぬ。これは御台殿と龍王丸のものです」
ああ、そういうことか、と芳菊丸は納得した。
あの義姉も長兄と似たような趣向をしている。そういうところはかみ合う夫婦なのかもしれない。
「御祖母様もいっそ那古野に移られてはいかがですか。そうすれば若君らも頻繁に足を運べましょうし、御屋形様も安心しましょう」
「曾孫らにはもっと会いたいものですが、治部殿は結構」
「気にされていたと思うておりましたが」
北川殿が寝ころんだまま息を吐いた。
「治部殿や弟にもよく言うたことですが、賢しらなところを出しすぎです。勝手に心の内を読む。これは行き過ぎれば切られまするぞ」
「御屋形様はそうなさる方ではありますまい」
「ええ、わかりにくいですが、あれは弟妹らを気にしてはいます。けれど切りましょう」
北川殿がこちらを向いた。
顔は皺だらけで、細い首は枯れ木の如くである。されど、まだ往年の女大名の佇まいはあった。
伊勢の家から今川へ入り、家格のこと、婚姻のこと、京への繋ぎのことに口を出してきた人であった。当主にも一門にも、面と向かって物を言える者は、家中にこの人のほかにいない。
「あまり主君の器に甘えぬことです。家中はなにくれとなくあの子に甘える故。心配になります。そこだけはどうにもできないことでした」
「力量を思えば致し方の無いことでは」
芳菊丸が思うに、長兄にはとことん頼ったほうが良い。
あれだけの力量のある主君に張り合ったりするほうが、馬鹿らしいのだから。
「死んだときどうします」
「あり得ますまい。まだ二十にもなっていないのですよ」
「そなたの父上は、これからが盛りという時に病に倒れました。祖父、私の夫は遠江での勝ち戦の帰りに流れで矢に討たれた。誰がどうなるかなど分かりはしません」
北川殿はまた天井を向いた。両の手を腹のあたりに置いて、じっとしている。
「私の弟、新九郎の兄も若くして逝きました」
第九代将軍の跡目争い、その政変の中で起こった諍いで倒れたと聞いていた。
だが、それは長兄には当てはめるのは無理がある、と芳菊丸には思えた。
「御屋形様はそうなりますまい。負けなしの軍神でございます」
「あれが軍神なものですか、今なお幼くして死んだ小姓のことに囚われている」
言ったあとで、北川殿は口の中で何か続けた。
芳菊丸が身を寄せると、でなければ千代丸などと名付けるものか、と聞こえた。
千代丸は長兄の二番目の子に与えられた名である。
北条の嫡男がそう言う名であったゆえ、義姉が強請ったのかと思ったが、そういう経緯であったらしい。
芳菊丸は、ふと膝が痺れはじめていることに気が付いた。膝の下へ指を入れて、少し重心をずらした。
「御祖母様は、御屋形様が当主に相応しくないと」
まさか、と北川殿がふき出した。
「ここまでのことを成した男に、当主として不適格。そう言えば、だれも後に続きますまい。いえ、龍王丸殿は成せそうで御座いますが」
嘘のような話だが、この人は曾孫に甘いらしい。
特にあの聡明な若君は、目に入れてもおかしくないほど可愛がっている。
芳菊丸の思うところ、普段の北川殿ならば、才ありと見れば鬼のように躾けただろう。
「なんです、その目は」
じろりと睨みつけられ、芳菊丸は曖昧に微笑んだ。
「いえ、何もございますまい」
北川殿は、ふんと鼻を鳴らした。
「良いではないですか、最後の最後で曾孫の一人ぐらい、うんと甘やかしても。甘やかしても腐らぬような子なのです」
芳菊丸はいい加減辟易した。香炉の煙が一筋上がって、途中で崩れた。
もう良い時間である。
「とにかく、御屋形様には頼り過ぎない。妄信しすぎない。これでよろしゅうございますか」
「足りませぬ」
「ほかに芳菊丸にどうしろと仰せられる」
芳菊丸は肩を落とした。
「同腹なのです、きちんと支えなさい。松寿丸にやる様に、治部殿にも接しなさい」
「それは、」
芳菊丸は息を詰め、裾を握った。
それは無理だろう。
あの長兄には人を寄せ付けないところがある。
敵対しようとか、嫌ってなどもいない。
かといって、何か困ったことはありませぬか、などと親し気に文を送れる相手ではない。
「最近は特に悩んでいる節があられる。其方が力になりなさい。良くしてもらっていると思うならばなおのこと」
「悩みというと、上洛の件でしょうか」
美濃の福光館に居ついた、将軍義晴の態度の悪さは有名である。
朝令暮改は当たり前であり、刀こそ抜かないが、長兄に手を挙げるなどざらであるという。
そんな義晴を使い、伊勢を飲み込むところまで行ったのだから、長兄には脱帽するほかない。
ただ、伊勢を飲んだ故に、六角、朝倉との決別が間近に迫っているのも、家中で噂されることであった。
近江が塞がれば西へは出られぬ、いや西へ出る気などはじめからない、という言い合いを、芳菊丸は評定の外で幾度も聞いている。
どちらの言い分にも、長兄の口から出た言葉は一つも混じっていなかった。
「力になりたく存じ上げますが、表にはいまだ芳菊丸はなにも関われませぬ」
悔しいが、清州城にいる弟の新三郎のほうが、まだましだろう。
芳菊丸は学問と弓と礼法を修めさせられただけで、いまだ何の役も持たない。そろそろ美濃か尾張で代官地を任せるという話があるが、まだ先である。
「そんなことはどうでもよろしい。治部殿は勝手にやります」
天下の一大事を、伊勢家の女はそんなことと言い切った。
芳菊丸は喉を上下させた後に聞いた。
「では、何を」
「何かにつけです。子供の育て方や、家庭のこと、言うことを聞かない家臣、そう言った愚痴をきちんと聞き取れるようになりなさい」
芳菊丸は首を傾げた。
あの兄がそんなことで悩むとは思えない。表面上は困った振りはするだろうが、何も感じずに淡々と沙汰を下すだろう。
答えぬ芳菊丸に、北川殿が焦れた。腹の上の手が、夜具の縁を一度掴んだ。
「良いですね。遺言と心得なさい。頷かねば化けて出ます」
化けて出られるのは、流石に許していただきたかった。
「承知いたしました」
そう言うと、北川殿は満足したように頷いた。




