8章_1
那古野の城下を、岡部与一郎はゆっくりと歩いていた。
日はすでに傾いている。西の空はまだ白いのに、道の東側だけが先に翳りはじめていた。今日の丁場は昼過ぎに片が付き、あとは組下に書付を渡して回っただけである。与一郎は右の脇に丁場帳を抱え、左の手を空けたまま、城下の邸へ向けて歩を進めていた。
すぐ後ろに、側付きが何人かついてくる。
偉くなったものである。十年前は供の一人も連れず、脛に泥を跳ねて堤の上を歩いたものだった。それが今は、道の端を人が避け、荷を担いだ者が肩を落として頭を下げる。気恥ずかしさすら覚えた。
与一郎は視界に入った本丸を見上げた。
那古野城の普請の状況は良い。良すぎるほどである。
三年はかけるという話であったが、二年と少し経ち、およその形が出来ようとしている。少なくとも城は十分であった。堀は掘り上がり、石垣は天守の台まで積み終えた。あとは屋根と塗りと、内部の造作が残るだけである。城下町の方も、南の町割りに縄が張られ、東の道が二本、すでに荷を通していた。
思うところ、これには三つの要因がある。
一つは、今川の商圏の大幅な拡大と繁栄である。
美濃、伊勢を短期でのみこんだ今川は、文字通り東海道を牛耳ることになった。もともと産業に力を入れていたところに、圧倒的な商業路の利便と整った法度の相乗が働き、人と物の流れが加速した。その結果、主君の肝煎りと言える那古野城とその付近の開発には、東海道の全域から物と人が流れ込んだのである。
もう一つは、手前味噌であるが、普請奉行の技量というのがあるのだろう。
今川領内のおおよその大川には、この十年で手を入れてきた。堤を切り、瀬を替え、井堰を組み、用水と排水を分けた。大規模な新田の開発も、道の手入れも、あらかた手慣れたものである。たとえ未曾有の巨城とその城下町の普請であろうが、所詮は今までやってきたことの延長に過ぎなかった。
忙しくはある。だが目を回すほどではない。
そして最後の一つ。これは普請奉行としては認めがたいのであるが、あの隻眼、隻脚の男、大林源助がある。
大林源助はなんといっても気難しい男であった。
宿老庵原安房守が推挙した築城の名手であり、様々な普請に関わった男であるとは承知していた。与一郎もどこかの丁場であの男を見た覚えがあった。片方の脚を革と木で継いでおり、歩けば必ず土に丸い痕が残る。あの痕には見覚えがあった。
実際、推挙されるだけのことはあり、有能な男には間違いない。
主君、五郎の望み通り、天守閣なる見たこともない異様な設備を備えた城を作り上げた。城下町の割り振りも、川のいじり方も、唸るようなものである。ここまで早く那古野が済んだのは、大林源助の力量もあるのかもしれない。
だが、ひたすらに口が悪い。
いつもむっつりと黙り込み、こちらが話しかけても答えもしない。だが、仕事ぶりを見ていないわけではなく、少しでもしくじりがあれば、盛大にため息をつく。
しくじった相手が甲斐や遠江の者であれば、大川に悩まされ何もせぬ国衆ゆえ仕方がないと嘲笑う。
源助と同じ三河者であれば、そんなのだから五郎に何一つ抗えぬと唾を吐く。
信濃、尾張などであれば、端から期待などしていないとはっきり言う。
駿河者であれば、主君に当てつけるように、こう言うのだ。
「治部殿のお膝元の駿河衆ですが、どうしようもないので叱りつけても構いませぬか。いえ、駿河衆は赤子のようにあやさねば働かぬと仰せであれば、従うほかないが」
五郎は喉を鳴らし、他と同じようにせよと返す。
流石の与一郎も、源助には腹に据えかねる。いっそ切りつけてやろうかとも思わないでもないが、主君の目でそれを止めた。
その日のうちに、普請奉行の各家々へ文が送られた。常日頃の働きぶりに対する感謝が記された、直筆のものである。源助に対しては一つ考えがあるので、しばらく預けよという一文が添えられていた。
実際、この文は正しかった。
源助の不愛想は直らなかったが、しくじりに対して直接は申さず、側付きの者を通してどこが悪かったかのみを伝えるようになった。
どうやったのか、と主君に尋ねたところ、人を付けた、とのみ答えが返ってきた。
どういうことか、と重ねて尋ねると、主君は薄く笑い、答えなかった。
後になって人伝に聞いたところ、源助は妻を娶ったらしい。
大層できた女人であり、源助のあれを笑って許すような人柄であるとのことだった。
この話は広まった。普請奉行の間でも、主君の人格を称える話が広まった。
曰く、人を見る目がある。
曰く、不世出の名君。
曰く、才徳兼備の人。
そこへ美濃、伊勢という大国を立て続けにのみこんだこともあり、主君の名声は家中でさらに高まった。
だが、与一郎はそこで小首をかしげざるを得なかった。
主君の才覚を疑ったことはない。
幼い時より、常人と違うというところがあった。それゆえに駿府の館を飛び出し、遠江で根を張った。
初陣で十倍の兵を打倒した。天野、大河内など今川に恨みのある家を忠臣に変えた。名将武田五郎を不利な状況から討ち取り、甲斐を奪った。
そこから家督を継ぎ、三河、信濃、尾張と家中を富まし、まとめながら今川を強くしてきた。
才覚は疑いがないだろう。遠江を奪い返した先代よりも、功績ははるかに上だ。
戦績もそうだろう。まだ若いが不敗。戦った相手も名将、猛将、十万の大軍と、枚挙に暇がない。
まさしく比類なき力を持った君主である。
だが、人格となるとどうであろうか。
与一郎は主君が龍王丸と呼ばれた時、側にいた。あの時側にいて、主君を優しいとか、温厚だ、などと思ったことはなかった。
それどころか、今は亡き弟分の由比千代丸の死に目に会わなかったことを恨んだ覚えすらあった。
今思うとおかしな話である。
主君は千代丸に対して常に気を使っていた。病がちで役に立てぬ小姓など邪険にしてもおかしくないが、頻繁に休ませ、食事の献立にすら口を出した。御舎弟らを見ても、そこまでやっている者らはいない。
であるにも関わらず、主君よりも御舎弟ら、特に松寿丸君などの方が、気立てが良いようにすら思える。
両者とも心遣いなどはあまりしない。
松寿丸君は温厚ではあるが、自分のことに精一杯であり、心配りの文を送ったなどは聞いたことがない。
芳菊丸君は相当に切れるという話であるが、こちらもまだまだ才気ばかりで素っ気なさが目立った。
比較して五郎は幼少のころより、家臣らに文を送り、暮らし向きが困った家臣があれば、何くれとなく世話を焼く。だが不思議と寒々しさを覚えた。
「目か」
与一郎はそう呟いた。
足の裏が石を踏んで、思考が今に戻ってきた。埃が舞い、額の汗が顎まで落ちている。
「如何されました殿」
「なんでもない。忘れてくれ」
与一郎は側付きにそう言って、手を振った。
主君は目が冷たい。
言葉を話すとき、どこか突き放した目が嫌に目立つのだ。相手と自分は物が違うと言わんとする、冷めた目が、主君の内側に寄り添うことを拒絶させる。
遠江で苦労をし、泥に塗れればそういった冷たさはなくなる。先代の修理大夫などは、そう思ったのかもしれない。
だが、帰ってきた主君は冷たさを悪化させていた。
言葉自体は多くなった。冗談も言う。笑いもする。だが、それらはそう求められているからであり、突き放す部分は変わっていない。いや、家督を継ぐようになり、冷たさはさらに強くなった。
それを悪いとは、もはや言えない。
主君は大今川の比類なき当主であり、公方が唯一頼りにする足利一門である。文字通り他の者らとは一線を画す存在である。
私はあなた方と同じ人間だ、などと言って目線を合わせる方が困るというものだ。と、与一郎は思うことにした。
「今思えば、我が不明であっただけのことか」
龍を人間として扱おうとした。それが間違いだったのだ。
与一郎は顔を振った。側付きたちが怪訝な顔をしたが、取り合わなかった。
そのまま歩を進め、自分の邸宅へたどり着いた。
門構えも含め立派なものである。邸宅の中には馬が数頭繋がれており、弓場さえも設けられている。普請奉行で三人いる組頭の役料が高いというのもあるが、単純に那古野の城下が空いているというのも大きい。
家臣らは、準備ができ次第、那古野の城下町に住むようにと命じられている。だが、まだまだ腰の重い者らも多い。主君が本気で命じれば、今日明日中には埋まるだろうが、まだ普請の途中ということもあり加減した命である。
それゆえに、与一郎のような普請のために根を張る者以外は、まだ駿府にいた。
悪い城ではない故に移ったほうが良い、と普請をした側の与一郎は考えていた。
「帰った」
門扉をくぐった与一郎が声をかけると、妻の佐奈と老僕が廊下から現れた。
「どうした、何かあったか」
与一郎は思わずそう声をかけていた。
佐奈の顔は青かった。
肝の太い妻である。由比家の出で、あの由比小次郎の妹であった。言葉は少ないが芯の強い女で、地震があった時も平然と家を切り盛りしていた。そんな女が、深刻そうに額に玉の汗を浮かべ、息苦しそうにしている。
「どこか悪いのか」
佐奈は着物の帯を手でいじった。それから、声を絞り出した。
「御屋形様がいらっしゃっています」
「は」
「殿をお待ちになっております」
「まて、いつ頃だ」
「一刻ほど前、伊勢での祭事が終えられた後、直ぐにこちらに」
「御台様や若君にはお会いしておらぬのか。それはさすがに」
北条より嫁いできた朝姫は、傍からはそうと見えないが悋気である。
主君に側室をという話が公家らから上がると、上の空になることは有名であった。幸い、主君が女を殊更に求める性質ではなかったため、表沙汰にはならなかった。
とはいえ、その性質を思うと、妻をほったらかしにして家臣の家に来るというのは、後々不味いのかもしれない。
佐奈もそう察したのか、うつむきがちに言う。
「殿が那古野の城で出くわしていなければ、一番に来たことになりましょう」
「何用であったか尋ねたか」
「まさか、口などきけませぬ」
肝が太いはずの佐奈が、完全に萎縮し、箱入りの小娘のように震えた。
主君はこういうところがある。女性には殊更に怖がられる。
聞いた話であるが、同腹の妹であってもそれは変わらないらしく、面と向かって一対一で話したことさえないらしい。
「何用でございましょうか、殿は御存じですか」
佐奈に問われた与一郎も、首を横に振る。
「見当はつかぬ。重大なことであれば、少なくとも私には来ぬぞ。安房守殿や年嵩の相談役らに行くはずだ」
「でありましょうが、殿は御屋形様の側付きでありました」
「ほんのわずかな間だ。心を通わせたことは、」
なかった、だろうか。
いや、あった。
たった一度、主君が遠江へ流されるおりだ。たった一度、こちらの言葉を聞き、冷たさが剥がれたことがあった。
「殿」
「なにか、お悩みなのかもしれん。相当なことだ」
であるならば、聞かねばならない。
与一郎は丁場帳を老僕に渡し、自分の頬を叩いた。ぴしゃりと音が、人の気配のない、薄暗い廊下に響いた。
「佐奈、茶を頼む。それを置いたら、少し離れておいてくれ」
佐奈は頷いた。だが、佐奈の帯には震えた指が引っ掛かっていた。
与一郎はその指を持ち上げ、両の手で握り温めた。
「案ずるな。恐ろしい方であるし、平気で焼き討ちをなさる冷酷な方だが、まあ言葉は通じる」
佐奈は一層震えた。
与一郎は、言葉を間違えたと内心で大いに反省した。
「失礼いたします」
自分の邸宅、その客間で、与一郎は平伏しながら襖を開けた。
「済まぬ。急に訪ねて迷惑をかけた」
「いえ、名誉なことでございます」
与一郎は襖を閉じ、それから頭を上げた。
部屋には灯が入っていた。日が落ちきる前に老僕が入れたものらしく、燭台の火が細く立ち、床の間の隅までは届いていない。
脇息は部屋の隅へ寄せたままである。主君はそれを使わず、部屋の中ほどに背を伸ばして座っていた。
今日の五郎は、背筋を伸ばし黒い羽織を着ている。絹などではなく、木綿地の質素なものだった。
しっかりとしたものであるが、どこか地味である。だが、五郎が身に着けると一段、二段と質の良いものに思える。
与一郎はそこであらためて、まじまじと五郎の顔を見た。
相も変わらず美しい顔立ちである。
切れ長の目は玲瓏で、その上に柳の眉が乗る。唇は薄いが花弁のように鮮やか。鼻は筋が通りつつも、形が整っている。
それらがそれぞれを引きたてつつも、ちょうど良い塩梅の大きさで顔に配置されている。
幼い時より美しかったが、数え年二十に近づくにつれ、もはや人間離れしていくようだった。
なるほど、軍神。
いっそ、与一郎は人ならざる主君に納得した。
「与一郎、そなたの子供、幾つになった」
急に問われ、言葉が詰まった。
「は、確か数え年三つか、四つかと」
「龍王丸の小姓として、連れて行って良いか」
与一郎は正座のまま、よろけた。手をついて体を支えた。畳の目が手のひらに食い込んだ。
「人払いは済んでいる。率直にたのむ」
「は、なんと言いますか、海の物とも山の物とも分からぬ愚息であります。八カ国の太守、その御曹司の小姓は少し重いかと」
「そうか」
五郎はそれだけ言った。
恐る恐る顔を覗くと、目を閉じて、何か思案をしていた。不快に思ったところはないようだった。
「それだけでしょうか」
「いや、今のは思い付き、というのは其方に悪いか。ただ、与一郎の顔を見て、それが良いかと、少し思うた」
「顔と申しても、その」
「忘れよ。龍王丸にそなたのような男が側にいたら良い、そう思うただけだ」
「畏れながら、八カ国の中には有名になるような才に溢れた子らもおりまする。某の子はまあ、凡庸かと」
親のひいき目であるが、我が子は出来が悪くない。
言葉を喋り出したのは十分に早かったし、病もしない。食には困らぬからか、すくすく体も大きくなり、岡部一門の集まりでは同年代の子らよりも大きいだろう。
だが、五郎が目をかけているらしい関口虎千代や、岡部左京進の倅など、明らかに才覚豊かな子らとは比べられない。
これらを飛ばして、我が子をあの聡明な龍王丸の小姓にというのは、しっくりこない話である。
「才というのは所詮環境が大きい故、物覚えの速さなど大したことではない」
孫子を初め武経七書を一読しただけで諳んじた男が、そう言った。
「そうはいっても、物覚えの良い人間、胆力のある人間、つまり未来の才人こそ側に付け、股肱の臣とすべきではございませぬか」
「そう言う人間は働ける場所を作り、適切に評価すれば勝手に近寄ってくる。態々幼少期より側に付ける必要もなかろう」
「では、どういった人間を側につけたいのでしょうか」
五郎はそこで腕を組んだ。そして、じっと与一郎の目を覗きこんだ。
「鏡のような人間であろうか」
「鏡、でありましょうか」
五郎は組んだ腕を解き、また組み直す。この主君には珍しく、明らかに言葉に迷っていた。
「自分が取るに足らぬ人間であると、ずっと知らしめてくれる男。見たくもない部分をきちんと見せて来る男。そう言う物かもしれぬ」
「それは、某がそう言う人間であると」
「少なくとも私にとってはそうだった」
主君が、自分自身を「私」と称した。それは初めてのことであった。少なくとも与一郎は初めて聞いた。
与一郎は、僅かに違和感を覚えつつも、吐き出された言葉を咀嚼した。
五郎が口に出した言葉の意味はとんと分からないが、それでも頭をひねり、そうしてその一言が口をついた。
「御屋形様は、なにかお悩みなのでしょうか」
五郎が僅かに目を見開いた。珍しく嬉しげである。
「そうか、わかるか」
「さすがに今日は分かりやすうございます。急にお出でになり、鏡だなんだと申されれば、某でなくともわかりまする」
「そうか」
五郎はそう言って、口角を上げ、白い歯を見せた。
今知ったが、主君は歯並びも良いらしい。見た目だけは瑕疵の無い男である。
「だが、その前に茶を貰おう。佐奈殿に悪い」
五郎はそう言うと、与一郎が閉じた襖の方を見た。
襖がすっと開き、佐奈が青い顔で、盆にのせた茶を持ってきた。
佐奈は震える手で与一郎と五郎に茶を渡そうとしたが、それを五郎が止めた。
「ありがたく。あとはこちらで」
目を白黒させる与一郎夫婦をしり目に、五郎はそう言って盆ごと受け取った。盆は与一郎と五郎の間に置かれた。
「何もない。直ぐに帰る故に、お気遣いは無用」
五郎の言葉に、佐奈はこくこくと頷き、襖をしめた。足早に立ち去る音が聞こえ、それは徐々に遠ざかった。
五郎は湯呑を手に取り、傾けた。与一郎も釣られるように茶を飲んだ。
冷えた茶である。淹れてからずいぶん経っている。
立ち聞きしていたのだろうか。であるとしたならば、あまりに無作法である。
「我が子のことだ。心配して当然、責めるには値しない。与一郎も気にするな」
五郎は何も感じていないように返した。言葉だけならば穏当で、気配りのそれである。
だがやはり、気を使っているようには思えない。
目が冷たい。
五郎は茶を一口、二口飲むと、湯呑を置いた。
来る、と思い、与一郎は居住まいを正した。
「少し六角殿と話してきた」
「六角弾正少弼殿。まさか、伊勢に参られたのですか」
「与一郎も疑った側か」
五郎が冷たい目のまま、喉を鳴らした。
与一郎は主君の判断を疑ったようで、身を縮めた。
五郎が伊勢神宮に奉仕していることは、家中でも噂になっていた。鶴岡八幡宮の再建にも手を貸していたことから、存外信心深いのかという話も出た。
ただ、やはり政治的な意味合いが強かったらしい。伊勢神宮に材や銭を送り、滞っていた祭事を行う、機会があれば参られよと六角家や近隣の家々に文を送ったのも知られている。
まず、これらは来ないであろうと与一郎は見ていた。
五郎の膝元に、今は危うい関係の六角家の当主が来るはずがない。今川の家中ではそういう見方が強かった。
「そこで、今後について話した」
「上洛、阿波方との戦でございましょうか」
「そう言う話は出なかった。いや、出たが、本質は違った」
「では何を」
五郎はまた黙り込んだ。
今度は座禅のように足を組み、肘を足について頬杖のような姿勢になった。
不思議と、だらしがない、とは思わなかった。
この主君は何をしていても様になっている。だが、それゆえに近づきがたい。
「天下」
五郎が唐突にそう言った。
与一郎の背中、襖の奥がざわついた。本当ならば叱りつけなければいけない。
だが、与一郎もそれどころではない。生唾を飲み、身を前に乗り出した。
五郎は頬杖をついたまま、訥々と語った。
「天下を、欲していないならば、美濃と伊勢、あとは公方を手放せと言われた」
与一郎は何も考えずに口を動かしていた。
「六角、不遜でございましょう」
「そちらか」
「当たり前でございます。美濃を取ったのは朝倉、土岐が国を乱したゆえ。隣国の今川が前に出ただけにございます。公方様や六角に与えられた訳ではございますまい。口を出されたからと言って手放すのは道理ではありませぬ。それにあちらは御屋形様が本拠と定めた場所にございましょう」
「では伊勢はどう思う。あちらは本拠ではない」
「伊勢も同じにございます。討たれた北畠ではおさまらぬと、接収したまで。これは幕府も認めたことにございます。逃げ帰ってきた六角に責められる筋合いはござりませぬ」
五郎はまた少しだけ口角を上げた。
「どちらも不当に奪ったもの、そう言う見方もできるが」
「されど正統なるもの以上に治め富ませておりまする。それを言うならば足利の天下とて、」
与一郎はそこで、はっとして口を閉じた。
五郎は足利の一門、今川の当主である。足利の正当性など否定しては不味いことになる。
五郎は笑ったまま、湯呑に手を伸ばし、茶を飲んだ。
今思うが、この人は一切毒見をしていない。与一郎が入れるわけではないと信じているのだろうか。
「まあ、家中はどう思おうが、譲っても良いか、ともちらりと思った」
「それは、」
「私が取った国である。今川の今後百年、二百年続くのであれば、諍いの元は要らぬ。あとは私が出家して、龍王丸に任せれば済むかとも思った」
五郎が恬淡と言った。
これほど大きな功績、今川という大家の当主、その権限、全てぽんと捨てられると言ってのけた。
冷たい。
与一郎はまた、何時ぞやの気持ちがよみがえってきた。
血の通わぬ男に仕えている、そんな気持ちである。気が沈み、知らず知らずのうちに視線が下に落ちた。
「だが、答えられなかった。天下などいらぬ、美濃、伊勢、公方、これらを手放すと言えなかった」
与一郎は顔を上げた。
そこには頬杖をついて嘆息する主君がいた。整った顔を顰め、何かに懊悩している。
「私は多分人より劣っている。肝心要で人の深いところが分からないらしい。そんな人間が天下を差配すると恐ろしいことになる。それが分かっているのに、頷けない」
五郎は身を起こした。与一郎をじっと見た。
「御屋形様はどうして、某にそのようなことを尋ねられるのですか」
「以前遠江に行くとき、与一郎が泥に塗れて生きろと言ったろう。そうすれば多少はまともになれるのだろうと、勝手に私は考えた。結局この様だが、与一郎は私がどうなればよいと思っていたのか、ふと知りたくなった」
与一郎は口を開閉させた。
先ほどまで感じていた、冷たさのようなものが消え失せた。手汗がわっと湧き出て、心の臓が早鐘を打った。
「覚えて、くださったのですか」
「どうにも、たまに思い出すことがある。子供が生まれてからは特に多い」
五郎はもはや微動だにせず、与一郎の答えを待っていた。燭台の火が一度大きく揺れ、五郎の頬に影が寄って、また離れた。
「御屋形様は比類なき君主でございます。家督を継ぎ、十年もたたぬ間に今川家を十倍近くまで拡張なされ、法度にて各国衆を一糸乱れぬ様に統べておられる。これは余人にできることではありませぬ」
「そう難しくはない。己を排し、何事も最終的に公正に見、必要な場面で前に出る。それだけであろう」
与一郎はそこでようやく理解した。
「そこでございましょうか」
「何がだ」
「己を排して、の部分にございます」
五郎はきょとんとした。首を傾げて訝しんだ。
「恣意的な君主など不要ではないか。恣意的な法も不要。統治の邪魔になろう」
「統治のことではございますまい。何事も己を外に置く、これが御屋形様のよろしくない所であった、今をもってそう思いまする」
五郎は目を細めた。何一つとして納得していない。
「私が生まれたときから今川はまあ大きかった。家柄も武家の中では上から数えたほうが早い。自慢やもしれぬが、私は物覚えも見てくれも良かった」
「一切相違ございませぬ」
「恵まれたのならば、自分のことなど後回しでよかろう」
「そう思うならば、芳菊丸様や松寿丸様が恣意的に振舞うことを叱りつけないのはなぜでしょうか。嫡男にあらずなどとは仰られないでください。今の今川のほうが、御身が幼きときより恵まれておりまする」
五郎の口が開きかけ、閉じた。
「なぜ自分など、と嘯いて外に置かれるのでしょうか。あなたがおらねば今川は立ち行きませぬ」
「そのようなことはない」
「若君はなるほど、目を見張るばかりに聡明でありますな。しかし、甘く、弱い。小綺麗な屁理屈だけの子供に素直に従うほど、家臣らは穏当でしょうか。法度など力あってのことにございまする」
また五郎は黙り込んだ。怒ってはいないが、どこか苦し気に顔をゆがめている。
「なぜ自分を軽んじられるのでしょうか」
「申したであろう。人の心など踏みにじるような男など、」
「なぜ踏みにじっていると」
「そなたも見た通りだ。佐奈殿など怯えて去っていった、これは私が気付かぬうちになにかしたのだろう。甲斐や武蔵と同じようなことを、皆の心の内でやってしまったのだろうよ」
「逆かと」
五郎と目が合った。
「おそらくですが、御身が突き放すゆえ周囲の者が怖がるのではないかと。まあ、甲斐や武蔵のことがないとは言いませぬが」
五郎が口だけで笑った。初めて見る歪んだ笑みであった。
酷く醜く、血の通ったものである。
「ではなにか、私が心を開き、自分自身を見下すことなく、目線を合わせればよいということか」
「ありていに言ってそうかと」
与一郎は先程まで考えていたこと、信じていたことと逆を言った。
五郎が声を上げて笑った。面白がるようなそれではなかった。痛みにあえぐような声だった。
「それはどう考えても、だめだろう」
「なぜでありましょう」
「私がそんなことをしても、迷惑であろう。意味がない」
「そうは思いませぬ。自分を出さねばなにも始まりませぬ」
「自分を出しても結局は、千代丸は死んだろう。其方も私を見限った。私などそんなものなのだ」
五郎の目に、そこで初めて冷たさが消えた。
じっとりと仄暗く、熱っぽい視線が見えた。
与一郎はそこで唾をのんだ。先ほどまで考えていた言葉が消え失せていた。
この方はあのことをずっと覚えていたのか。そう思った。しかし、与一郎の中でしっくりとは来なかった。なにか、他にある。自分にはたどり着かぬ何かがあるように思えた。
与一郎が息を止めていると、五郎が息を吐いた。
そして、目の奥に冷たさが戻った。
「済まぬ。忘れてくれ。責める筋はない。その腹もなかった」
五郎はそう言うと湯呑に手を伸ばし、残っていた茶を飲み干した。
それから、すっと立ち上がると、与一郎の脇を通って襖に手をかけた。
「今日のことは治部も忘れる。治部は真っすぐに城の奥に向かった、そうせよ」
「お待ちください」
五郎は小さく、薄く笑うと、そのまま襖をあけ、薄暗い廊下へと歩を進めた。
主君の姿が徐々に遠ざかる。
与一郎は立ち上がって追いかけることができなかった。足に力が入らない。
故に代わりに声を張った。
「御身がおらねば、今川家は立ち行きませぬ。天下もそうでございます」
足音は遠ざかっていく。黒い羽織を着ている五郎の姿は、もう見えない。だが、そこにいると思った。
「他にこれを保つ人間などおりませぬ。六角にも、公方様にも、阿波方にもできぬのですぞ」
返事はなかった。




