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7章_12

 長野城の麓に、首が並んでいた。首は棒の上へ載せられ、その下に塩が薄く撒いてある。

 

 暦の上では夏の盛りが近く、朝のうちからひどく暑い。風はなかった。蝿が湧いて、耳をすませば不快な羽音が聞こえた気がした。

 

 五郎が晒された首に馬を寄せると、付近に控えていた兵らが一斉に平伏した。見上げれば城の門は開いたままで、櫓の上にも人がいない。

 焼けた跡はどこにもなく、堀の水だけが日を受けて光っていた。

 

 水を見ると五郎は自分がひどく喉が渇いていることを思い出した。ずっと動き回っていたからか、具足の下はすでに汗で濡れている。


 長野との戦は終わっている。戦にすらならなかった、と言った方が近い。

 まず興津といった今川の水軍を出させ、志摩の海賊衆をすりつぶしながら、船を続々と鳥羽の湊へ入れた。

 兵糧と替えの矢を船で運べたので、陸の荷駄は少なくて済んでいる。


 次いで三河の三浦次郎左衛門を尾張に呼び、それを伊勢に流し込んだ。

 流れる水のようであった、とは次郎左衛門につけた軍監の言葉である。


 そもそもの戦力差が違い、長野らは今川が矛を収めないとなると戦う以前に瓦解しかけていた。

 加えて、もともと南伊勢に地盤も何もない長野の者らは支えきれない。

 ゆえに、次郎左衛門が尾張との国境付近に近づくだけで、長野勢は本拠である安濃郡の長野城へ引いたのだ。


 あとはこれを囲んで仕舞となった。


 伊勢は北から南へ長い国で、南は山が海際まで迫って、船の方が早い。

 安濃郡から西へ折れれば、長野峠を越えて伊賀へ抜ける。長野氏はその道を押さえて勢力を張っていた。


 国司として由緒正しい北畠と鎬を削るあたり、伊勢では名の知れた勢力である。

 だが、さすがに分が悪かった。

 また、時も悪かったらしい。

 

 というのも、長野の当主と一門以下を征伐し、斬首せよという命は義晴から出たのだ。一等の酒を回し、能を楽しみ、機嫌のよい時を見計らって長野をどうするかと聞いた。予測では捨て置け、寺に入れろなどで終わる、五郎と幕臣らはそう思っていた。

 だが、酒が入り気が大きくなっていたらしく、義晴はぽんと斬首を命じ、その場で命を文に書いて寄越した。


 文には、後々思い出したように付け加えられた、伊勢の静謐の任についても記載があった。

 伊勢神宮の件も含め、伊勢の静謐を五郎に任すということであった。


 少々気に入らないことではあったが、五郎はこれを受け入れた。

 次郎左衛門が伊勢に入るより前に、伊勢神宮の禰宜らと文を取り交わし、今後どうするかについて詰めた。

 長野勢が打ち捨てた霧山城に居を据えながら、中立の国人らや挨拶にきた国人らを安堵し、只管に伊勢の安定に努めた。


 そんな中、次郎左衛門から長野勢が片付いたから一旦首実検に来てくれと知らせが来た。

 その知らせを受け、五郎がこの城の前まで来たのは、兵を発しておよそ一月の後であった。


 麓には陣が張ったままになっている。首の垣を払うための人足が、少し離れた木の下に集められ、鍬と縄を足元へ置いて待っていた。


「長野氏の首か」


 五郎がつぶやくと、陣の中から大柄な男が大股に近づいて来た。三浦次郎左衛門である。

 草摺を鳴らし、平伏する兵の間を割って来た。今川の先手大将であり、顔は日に焼け、頬から顎にかけて剃り残しが黒く伸びている。

 兜は脱いで、小脇に抱えていた。


「他の者が混じっていたら面白うございましたかな」


 次郎左衛門は犬歯を向きながら言った。


「笑いごとになる首とは何だ」


 五郎は馬を降り、手綱を近習へ渡した。

 地面の照り返しが、そのまま顔へ上がって来る。


「織田弾正忠殿の首などよろしいかと」


「その場合、笑う前に承菊を問いたださねばなるまいよ」


「たしかにあの御坊は随分、弾正忠殿を気にかけておられますな。良い遊び相手ゆえ力加減を間違えたとすればあり得るかと」


 五郎は首の列の前まで歩いた。顔の前で蝿が鳴いた。

 どの首も悲痛な顔でこと切れている。

 納得の上で腹を切った、そう窺える顔はなかった。


「笑えん。あれを龍王丸の師匠にでもしようかと思っているのに、それでは母に反対されよう」


「御舎弟の師には決してなされなかったのに、満を持して我が子でございますか。中々に過酷ですな。それは龍というより獅子の子育てでありましょう」


 言い終えて、次郎左衛門が自分で吹き出した。後ろに控えた息子らが、顔を見合わせて右往左往した。


「本当ならばそなたに任そうと思っていたが、最近仕事が面白そうだと聞いてやめた」


 次郎左衛門はさも意外とばかりに、肩を揺らした。


「某ですか、それはまたなんとも品の無い若君になりそうで」


「それはそれで構わないが、小さくまとまるのも詰まるまい」


 次郎左衛門は面白げに顎髭をいじった。


「某や承菊殿ならば要らぬことも教えてしまいそうにござる。奇をてらうならば正安入道殿や甲斐の穴山殿など面白うございますぞ」


「父上、それは他国の者でございましょう」


 息子の一人が口を挟んだ。次郎左衛門の拳が唸って、その兜を吹き飛ばした。

 兜は乾いた土の上を二度跳ねて転がった。次郎左衛門は笑ったまま、表情を変えていない。


「今川はこれにて八カ国。新参者の方が多い故、愚息の意見などお忘れください。おお、そうだ、手前味噌ではありますが、三河も中々に面白うございますぞ。松平七郎殿のところに預けた酒井なども中々にござる」


「譜代の意見も取る。駿河や遠江を忘れるのも今川の若君ではあるまい。数人付けて一色のみにならぬようしてみたい」


「ああ、そう言うことでございますか。では、さらに冒険してみて長井などは如何でしょうか」


 長井新左衛門のことである。悪くない案であった。ただ、あの男はまだ働き盛りで、美濃から離すのは惜しい。隠居を願い出て来たら、相談役にでも置こうと思っている一人であった。


 だが、次郎左衛門の見立て通り、新左衛門は龍王丸とは合うだろう。そう思えた。


「悪くない。三河の国衆も含め、少し遠く外に出すことも考えておこう」


「ええ、御屋形様が遠江の御料様となったように、若君も上手くやられましょう。あれは中々に面白い」


 次郎左衛門の言葉通り、五郎を強く推している国は何処かと言われれば、おそらくそれは遠江になる。

 その次が駿河、甲斐、三河と続く。

 天野宮内曰く、五郎は遠江にとっておらが村の殿様、と言ったものらしい。


 それを思えば、龍王丸を尾張、美濃、伊勢に縁深く育てるのは悪くない。


「父上、若君にそのような」


 兜を拾い上げた息子が、ぶつくさと言った。次郎左衛門は一瞥しただけで、声を上げて笑った。

 五郎はそれを横目に見ながら、また首へ目を戻した。日はいよいよ高い。早く済ませて木の下へ入りたかった。


「話がずれた。長野の首についてであるが、三好について何か申したか」


「何もございませぬな。皆大人しいものにございます」


 次郎左衛門は淡々と言った。そして、首の列を見やり、端の一つを指さした。


「当主殿は最後の最後で観念したようでありまして、三好と繋がり伊勢を簒奪せしめようとしたことを認めました」


 認めさせたらしい。


「左様か」


「ええ、その代わりに武士の情けを願われました」


 次郎左衛門が手招きをすると、可愛がっているらしい末の息子が来て、五郎へ文を差し出した。

 上気した頬で五郎を見つめたあと、頭を下げ、嬉しそうに下がって行った。


 今川家中、若い者らにとっては珍しくもない反応である。だが、宿老格の三浦の子らがそれでは困る。


「次郎左衛門、あまり吹き込むな」


「御屋形様が今までにやってきたこと、これをありのままに述べただけにございます」


 しゃあしゃあと言うので、取り合わずに文を広げた。


 一つ、三好筑前守、細川六郎に命ぜられ、北畠不在の伊勢を簒奪せんとしたること、相違なし。

 二つ、伊勢を奪いたるうえは、京を取り返さんとする公方様の軍の後背を狙わんとしたることも認め申す。

 三つ、敗れたるは、不遜にも武家の棟梁へ弓を引きたる故なり。

 四つ、せめて当主と嫡男のほかは、仏門に入ることにて御許し願いたし。


 墨は薄く、最後の四つ目だけ字が大きく崩れていた。

 上三つは今川側があらかじめ書き、四つ目はここに並ぶ首の中の誰かが書き足したのだろう。


 五郎は紙を懐にしまった。


「許す。が、当主と嫡男以外の首も晒されておらぬか」


「こちらも当主と嫡男以外は出家すれば許すと申したのですが、生憎と逆らい申した」


 次郎左衛門らしい気の使い方をしたらしい。

 次郎左衛門は三河の吉田で旗頭をやって長い。残した方が良い家とそうでない家の見分け位は付く。


 気分の良いものではない。だが北伊勢に長く根を張る長野の討伐を義晴が命じ、それに今川が従った以上恨みは避けられない。

 ならば、長野が勧告に従わなかったという体で、伊勢の統治を安定させるために、最初に剪定を行った。そう言うことなのだろう。

 

「晒すのはもうよい。首は菩提寺に送り、女子供は滞りなく出家させよ」


 五郎は内々で苦いものを覚えながら、居並ぶ首たちに目を合わせた。

 白濁したそれらは五郎を睨んでいた。


「どこぞの酔っ払い曰く、一月は晒せという話であったかと。それに帰京の邪魔をする長野は女子供も許すなともありましたが」


「一月は晒した、それでよかろう。後半は忘れよ」


 どうせ義晴は伊勢に来ない。ならば五郎が一月晒したとすれば、一月晒したことになる。

 五郎は身を起こした。肩が重く、緩慢な動きになった。

 

 次郎左衛門がそれを見て、口角を上げた。


「また蹴られ、泥まみれになりますぞ」


「安い」


 五郎が短く言い切ると、次郎左衛門が男臭い声を張って笑った。山賊というより、狼が遠くで吠えるのに近い声である。

 木の下の人足らが顔を上げ、目が合うと慌てて下を向いた。


「某も先手大将らの中では聊かに薄汚い人間と自負しておりますが、御屋形様にはまるで及びませぬな」


「綺麗に生きることは先代に誓っておらぬ」


 また上機嫌に吼えた。


「公方様も頼ってはいけない人間を頼られた」


「だがほかに頼る人間はいない」


 次郎左衛門が腕を組み、何度も頷いた。


「まっことその通りにございます。散々、道永坊主になじられながら、銭と米を回し続けた甲斐がございましたな。とうとう縋ってまいりました。いやいや面白くなってきた」


 次郎左衛門は肩を揺らし、腹を抱えた。いまにも小躍りを始めそうであった。

 五郎は次郎左衛門の息子らへ目配せをした。みな目を逸らした。


---


 伊勢神宮の六月の月次祭は、外宮が十五日の夜から、内宮が十六日の夜から始まる。亥の刻に由貴夕大御饌、丑の刻に由貴朝大御饌、明けて昼に奉幣といった儀式が行われる。


 長く行われていなかったが、この六月の月次祭は伊勢神宮にとっても重要なものである。

 九月の神嘗祭、十二月の月次祭とあわせて三節祭と呼ばれ、年の祭のうちでも重いものであった。

 

 五郎はこの月次祭の由貴夕大御饌、由貴朝大御饌に奉拝した。


 それらでは飯と水と塩をはじめ、鰒、堅魚、海の魚、山の菜と果物、それに御酒が供される。

 奉る者は前もって身を清め、火も別に改める。

 夜の御饌は灯を落とした闇の中を運ばれ、聞こえるものといえば、衣ずれと玉砂利を踏む足の音だけである。


 両方とも厳かな儀式であり、出ているだけで肩が凝った。


 そして最後の奉幣は幣帛を奉る儀である。本来は京から使が下るものであるが、近ごろはそれも滞りがちであった。

 だが、それも今川が伊勢を領したことで状況が変わった。垣の内の社は板材が入れ替えられ、美しい木目のそれが目に入る。


 京からやってきた公家ら、禰宜も時折涙しながらも、厳かな儀式を取り仕切った。

 そのように昼の奉幣が済むと、禰宜らは心得たもので、そそくさとその場を後にした。


 五郎や今川家中はその足で奉幣後の休所に場所を移した。


 此方にも残った者はそう多くない。京から来たらしい公家らと幾人かの武家である。

 このうち公家らは、五郎の顔色を窺ってはいるが、互いに何かを喋る気配もなかった。陰口すら叩けぬほどに萎縮していた。


 もっとも、五郎が待っているのはその者らではない。前に置かれた折敷には、御饌の後に下された神酒の土器が残ったままであった。五郎は坐ったきり動いていない。


「治部殿。よろしいか」


 待っていた男である。六角弾正少弼が、家中を三人ばかり連れてこちらへ歩いて来た。

 祭に合わせた薄い色の直垂で、腰の物は預けて来たらしく、脇には何も差していない。


 また歩みに危ういところはなく、周囲に助けを借りている様子もなかった。

 太ももを矢で射抜かれたという話は嘘なのだろうか。

 そう思ったが、近づくにつれて、五郎の鼻に薄い薬の匂いが来た。

 

 胡麻の油。

 矢傷に貼る金創膏の匂いであった。


「ええ、ですが、恥ずかしながら足がしびれてしまい動けませぬ。この場でよろしいでしょうか」


 弾正少弼は、座ったままの五郎を見下ろした。それから六角の家臣らに頷かれ、すぐ横の座布へ腰を下ろした。

 五郎は折敷をわきへ寄せた。公家らはその瞬間に立ち上がり、そそくさと立ち去って行った。踏み出す足が乱れ、褪せた袖が木立の陰へ消えた。


 残ったのは五郎と今川の家中、そして弾正少弼と六角の家中である。

 六角の者らは主の後ろへ半円に膝を突き、板間の縁の外へは出なかった。木立の向こうで川が鳴り、蝉の声が高くなっては切れた。


「気を使わせた」


 弾正少弼は腿のあたりを撫でた。

 なんでもない、と五郎は首を横に振った。


「いえ、こちらこそにございまする。来られるとは聞いておりましたが、まさか御当主にお目にかかれるとは思うておりませなんだ」


「このような機会でなければ、治部殿にお会いすることは叶わぬと思うてな」


「そう権高い男ではありませぬゆえ、美濃と近江の境でいくらでも会えましょう」


 弾正少弼が自分の足をぴしゃりと打った。今川と六角の家臣らが、そろって身を震わせた。


「いや、失礼。気を入れ申した。察しの通りの足でござる故、お笑いくだされ」


「名誉の負傷にございましょう。御不快にお思いでしょうが、あの大崩れから自身の命をお守りされた。他の家々が滅んだことを思えば、弾正少弼殿を笑うことなどできますまい」


 現に北畠参議は勝ち戦と油断し、帰ってくることができなかった。その結果、長野に隙を突かれ、名門北畠は風前の灯となっている。

 それと比べれば、五体満足で領地に戻り、南近江の所領を誰にも奪わせなかった弾正少弼を蔑むことはできないだろう。


「そう申されると救いになりまするが、天下はそう思いはすまい」


 五郎は膝の上で指を組み、そのようなことはないという顔で頷いて見せた。


 弾正少弼は足を揉み、それから胸を張った。大家六角の当主でありながら、その体には隆々とした筋骨が宿って脈打っている。

 今が盛りであると、全身で示していた。


「天下、京は今誰の名前を最も大きく呼んでおられるかご存じか」

 

 そう言って、弾正少弼が五郎から目線を逸らし、前を向いた。広い部屋の中、がらんとした空間だけが残っている。


「三好筑前守」


「その軍略、大楠公のごとしと、堺公方びいきの者らは称することもありますが、弱い。所詮は陪臣ゆえ洛中は筑前守殿を相手にしますまい」


「足利義維」


「筑前守殿がこれ、と頼むにあたり人品は良いのでしょう。最後で筑前守の案を取るあたり、頭も悪くございませぬな。されど神輿は神輿」


「細川六郎」


 語るに及ばずというように、弾正少弼が高らかに笑い声を上げた。品の良い笑い声である。豪快でありながら、その男自身の自信のようなものが声に籠り、涼やかささえあった。


 おそらく、あまり義晴とは合うまい。そう思えた。


「いえ、失礼」


 六角の家臣らに背を突かれ、弾正少弼が目尻を拭った。


「洛中の公家らは名馬を乗りこなせませぬが、他の乗り手の良し悪しは分かりましょう」


 六郎では筑前守や細川京兆家を乗りこなせない。洛中ではそう見ているらしい。


「馬に乗れずとも良いのではないでしょうか。人に与えることも、なんなら荷を引かせることもできましょう」


「他人の懐が自分よりも膨らむことを許せぬ。六郎殿はそう言う輩ゆえ」


「では、そのうちにその馬を切りましょうな」


 五郎はその一言を、独り言のように口にした。今川と六角の家中からは、衣ずれと唾を呑む音だけが残った。

 弾正少弼だけは動じずに頷いた。


「そのうちにそうなりましょう。ですが、今ではない。それを防いでいる物がありまする。それがあるため、六郎殿は馬にしがみついておられる」


「六郎殿を馬にしがみつかせる物と、申されると」


「話が戻りまするが、要は天下で鳴り響いておる者の名。今川治部太夫氏景という男にござろう」


 五郎は膝を揉んだ。長く馬に乗って来たので、太ももの内側に疲れが残っている。

 弾正少弼が太い首を回して、こちらを見た。


「今川は大きくなり過ぎましたな」


 責めるような色があった。


「最初の数国は殴り掛かってきた故、殴り返した。そう申しましょうか」


「信濃あたりまではそれでも通じましたが、尾張、美濃、そして伊勢。ここまで取られると、天下は治部殿がくしゃみをしただけでも身を震わせましょう」


 五郎の頭に先ほどの痩せた公家らが思い浮かんだ。自分の元から去った霧姫を思った。

 それでも口は勝手に動いた。

 

「最後の三国は道永殿や公方様の命に従ったまでにございます」


 弾正少弼がまた笑った。


「尾張は斯波を立てろ、美濃は土岐という命であったと思われるが」


「一番は上洛のための静謐を持たせという命でありました」


 上洛する、それに近づきさえすると幕府は黙った。面白くは思っていなかっただろう、五郎の忠節を疑ってもいただろう、だが、それでも今川の大国を奪うのを許した。


「都合よく変えられる」


 弾正少弼の声から、笑いが落ちた。


「こちらの都合など考えぬ命ばかりが飛んでくる故、出来る範囲で忠節を尽くしたまでにございましょう」


「確かに、武家などそうあらねばなりますまい」


 弾正少弼は否定しなかった。またどこか遠くを見たあと、自分の膝を打った。


「であるが、ここらで譲っていただけぬか」


 蝉の声が遠くなった。


「なにを譲ればよろしい」


 五郎がそう言うと今川の家中が強く板間を踏みしめた。建て替えたばかりの座が、みしりと音を立てた。


「美濃、伊勢。あとは公方」


 五郎は弾正少弼を見なかった。弾正少弼もこちらを見ずに続けた。


「美濃は言うまでございますまい。これを今川が押さえたままであれば、朝倉殿が矛を収めぬ。朝倉家は先代の守護殿と婚姻を結んでおられる。先代守護の遺児を美濃に戻されぬ限り、少なくとも宗滴殿は御身を睨み続けましょう」


「その遺児を美濃の頭に載せても、滑り落ちるだけかと」


 先代、土岐修理大夫の遺児は五郎が抱えている。

 将来的に出家させようと、武家としては育ててはいない。ただ気質が荒く、幼いにも関わらず周囲に当たり散らすため、受け入れる寺すらない状況である。


 まず守護として美濃を差配できる人間ではない。今川が手を引き、これを長井父子に任せた場合、数年で下剋上という運びもありえた。


 弾正少弼もそれを察しているようであったが、軽く答えた。


「朝倉殿は零れ落ちる頭を支えたいのでしょうな。そうすれば朝倉は美濃に存在感を示し続けられる」


 無駄なことだと思わないでもない。人も時も無駄になる。だが朝倉はそれをし続けたいらしい。

 五郎は痺れた足を揉んだ。


「して、伊勢は何故にござろうか」


 朝倉、六角にも大した関係はない。


「大きすぎる。それではなりませぬか。伊勢を取られるとなると、治部殿は東海道を名実ともに牛耳られることになりましょう。そして、治部殿は内を固めるのが存外にうまい。孫の代まで今川が大きく、強くあられると、六角の邪魔にござる」


 弾正少弼は上品な声で、自分の都合を簡単に言ってのけた。

 あまりのことに五郎は小さな笑いをこぼした。


「はっきり申される」


 六角の家中の何人かが、板間へ目を落とした。

 五郎が笑いながら身じろぎすると、襟のあたりに溜まっていた汗が、背筋を伝って落ちた。


「譲られるのであれば、公方様を六角にお返しいただきたい。そうすれば此度はきちんと轡を並べ、阿波方とぶつかりましょう。無論幕府の席次であれば、今川を上に立てること、朝倉とのもめ事であれば、今川にご助力することを誓いましょう」


「さて、戦後のことより、まず勝てましょうかな」


「今川で五万は軽々出せる。六角、朝倉も少々手伝えば圧勝にございましょう。無論、此度は邪魔なものは避ける」


 浦上、赤松、そして国人らを、弾正少弼は邪魔と言い切った。言葉の端には怒りが滲んでいた。


 五郎はそこで顎に指を当てた。


 頭の中の天秤の片方に妥協が乗り、もう片方に天下が乗っている。五郎自身の欲でいえば、皿は妥協の方へ傾いていた。


 ここで前に出ればどうなるか、考えないわけがない。


 今川八カ国、米だけで四百五十万石。市と津の実入りを数え込めば八百万石になる。

 伊勢から駿府までを一つに束ね、道と関と蔵を落ち着かせれば九百万石は固い。

 

 いま図っている明との商い、いずれ来るであろう南蛮との商いが加われば、そこからさらに跳ねるはずであった。


 そんな家に、将軍が転がり込んで来ている。手を伸ばせば天下があった。


 まったくもって、五郎には要らぬものである。

 今川の国々に法度を敷き、安堵状を出し、軍役を書面に定め、奉行の裁定に不服のある者の訴えを聞く。

 八カ国から上がって来るものを、一つずつ落としていくだけで一年があっという間に過ぎる。


 天下を差配することなど考えたくもない。

 ましてや自分のような男がその座に着くとなれば、八代将軍義政の頃を超える大乱が起こりうる。


 では、弾正少弼の言う通りにこれを手放すのかという話になる。

 

 大国二つは富国のための政策を考えれば確かに惜しい。

 だが今川の百年、二百年の安寧のために、どうしても要るというものではなかった。尾張までを固めるだけでも十分のはずである。


 そこまで分かっていてなお、天秤はどうにも揺れ続けていた。


「治部殿が天下を欲しておらぬ、ありとあらゆる家を己の法度で縛ろうとなさっておらぬのであれば、頷けるものでありましょう」


 五郎は答えなかった。


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― 新着の感想 ―
よく言われるけど、天下統一の全国的な天下と畿内や御所的な狭義の天下があるよね 六角はもちろん後者のこと言ってるけど、三英傑みたいな歴史知っちゃってると武士公家宗教勢力はじめ立ちはだかる者全て轢き潰して…
六角が「美濃と伊勢、公方を寄越せ」と言うのは管領代か知らんが近江半国の領主のしては傲慢すぎやしないか。相手が八カ国持ってるのにずいぶん強気で来られる。
六分の一殿の末路考えたらもう天下取る以外の道は残されてないわ今川
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