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7章_11

 美濃国、福光の館は、朝から蒸していた。

 

 広間の蔀は上げてあるが、風は入って来ない。日だけが庭先から差し込んで、畳の縁を白く光らせている。庭の木で蝉が鳴きはじめていた。

 五郎は上座の斜め下に膝を折り、白扇を膝の脇へ置いていた。

 京を逐われた公方がこの美濃へ移って以来、五郎はここを離れずにいる。朝の勤めから膝を折り通しで、足の先はとうに痺れていた。


 上座の義晴は、脇息へ半身を預けている。目の下の隈が濃かった。座に出て来たときから、あたりにわずかな酒の匂いがある。昨夜の酒が抜けきらぬまま、ここへ出て来たものらしい。両脇には幕臣が三人ばかり、身じろぎもせずに控えていた。


 その前に、二人が平伏していた。一人は村上左衛門佐義清。北信濃では並ぶ者のない大身の国人である。もう一人は長尾弾正左衛門尉為景。越後の守護代であり、守護の上杉を圧して、実のところ越後を差配している男だった。京から公方が落ち延びて来たとあって、二人ともわざわざこの美濃まで頭を下げに来た形になる。


「大儀である」

 義晴はそれだけ言った。

 五郎は膝を進めて、座をわずかに左へ移した。左衛門佐の厚い背が、上座の目からいくらか隠れた。左衛門佐は額を畳へ付けたまま動かない。畳の縁を掴んだ指の先だけが白くなっていた。


「これらも忠義のものであり、等しく幕府に奉仕するものにございまする」


 五郎が恭しく言ったが、義晴は目をこすっただけである。返答はない。

 背後で、歯を噛み合わせる音がした。豪快な音は、まず左衛門佐であろう。

 

 五郎は聞かぬふりをした。この座はまだ終わらない。


「先の戦においても、両家とも度々道永殿を通じてなにくれとなく背を支えておりました」


「兵は出さなんだか」


 義晴の指が脇息の縁を叩いた。


「治部が道永殿に出すなと申された件があり、今川と約定を結んだことも鑑みるとどうにも遠慮していただいた、そう言いましょうか」

 

 実際はまるで違う。両家とも端から上洛など考えてもいないが、そう言った方が良い。

 義晴の鼻が鳴った。


「治部、そちの顔を立たせるために遠慮させたか」


「は、これはなんとも」


 五郎は曖昧に笑い、目を伏せた。伏せた先に自分の白扇があった。

 義晴が膝を打ち、肩を揺らした。


「小人め。幕府の用より面目が大事か」


「返す言葉もございませぬ」


「許さぬ」


 そう言いながら、義晴は頬杖をついた。顔には笑みが浮かんでいる。

 この機嫌は昼まで持つまい。持っているうちに、片をつけておかねばならなかった。

 弾正が頭を伏せたまま、こちらへ目配せを送ってきた。背後の歯ぎしりは、いよいよ上座へ届きそうなほど大きくなっている。手を後ろへ回して押さえてやりたいところだが、そうもいかなかった。


「無論、汚名をそそぐ場をいただければ、直ぐにでも働きたく」


 義晴はふんと鼻を鳴らし、扇子を開いた。


「伊勢か」


 左衛門佐と弾正が、そろって息を詰めた。弾正の背が、平伏したまま固くなったのが分かる。


 五郎の意図はそちらではなかったが、義晴はそう受け取ったらしい。そもそもこの座で出す話ではなかった。

 二人へは後で、庭ででも話すつもりでいた。だが義晴は、思いついたことを口へ出さずにはいられぬ。

 五郎は膝の脇の白扇へ手を掛けた。


「は、伊勢の件が成ればまず京は、公方様以外の名を、武家の棟梁として浮かべは致しますまい」


「武家の棟梁としてやるべきことであろうか」


「武家の棟梁故、このような些事も取り計らう。堺公方にはできぬことでありましょう」


「即位式のみでよかろう。早う戻りたいわ」


 開いた扇子が、義晴の胸元で二度、三度と動いた。


「ご賢察通り、即位式で十分にございましょう。されど、道永殿が一度断ち切りかけた京の縁、結び直せば公方様の治世はそれだけ多くの者に望まれましょう。どうか、お許しを」


 五郎は頭を下げた。下げた頭の向こう側で、扇子の閉じる音がした。


「治部、頭を上げよ」


 顔を上げると、義晴はすぐそばまで来ていた。膝で寄って来たものらしい。手にした扇子の先が、そのまま五郎の喉へ当てられた。

 酔った手つきである。喉を圧してはいるが、苦しさはいくらもなかった。それでも五郎は、喘ぐように唸った。

 義晴の頬が緩んだ。


「良かろう。北畠は道永の縁者である、これの遺領を害するとあらば、やはりその者は阿波方、堺公方を奉じるものであろう」


 扇子の先が退けられる。

「ありがたく」


「されど、あまり時はかけるな」


 義晴はあくびを一つ挟み、そのまま部屋を出て行った。

 足音が奥へ消えると、控えていた幕臣の一人が、聞こえるほどの息を吐いた。庭の蝉の声が戻って来た。


 入れ替わりに幕臣らが膝を進め、何度も頭を下げながら、左衛門佐と弾正へ御内書を渡していった。左衛門佐は書付を押し頂き、そのまま両手で持って、どう扱ってよいのか分からぬ顔をしている。弾正は目だけを走らせて、それから懐へ納めた。


 あわせて村上、長尾の両家には、白傘袋と毛氈鞍覆が許された。守護、あるいは御供衆の格式である。傘を納める袋と、鞍を覆う毛氈にすぎないが、これを供に持たせて道を行くことは、許された家でなければできない。書付には両家の名が添えられ、即位式への献納と、幕府への絶えることのない奉仕に対する返礼という体になっていた。


 特に長尾には、これが大きい。長尾は越後上杉の守護代である。上杉を圧して国を差配していながら、家格の上ではいつまでも上杉の家臣筋であった。それでは越後のためにもよろしくない。そこから抜けて長尾という家を一つ立てるのに、公方から白傘袋の免許が出たことは悪い話ではない。


 これは村上にしても同じことである。こちらは守護代でもないが、他の国人衆より一歩先んじたことは確かだった。


 だが両家とも、書付を受け取っても口を結んだままでいる。目だけが五郎の方を窺っていた。


 五郎は白扇を取り上げると、二人へ目礼を返し、そのまま連れて庭先へ出た。

 人払いは済んでいる。幕臣らは遠ざけてあり、庭には五郎の手の者と、両家の家臣らしかいない。

 青々と茂った木は、風が吹くたびに葉を鳴らし、地に落ちた影を乱した。踏み石を降りたところで、五郎の足はまだ痺れていた。

 

 よろけぬように一足ずつ砂利を踏み、五郎はその木の真下に立って、二人へ向き直った。


「この三家で会うのならば、信濃の諏訪大社とも思いましたが、公方様がこれ以上東に進むのを嫌がり、福光までご足労頂いた次第でございます。忙しい中申し訳ありませぬ」


 軽く言うと、左衛門佐は分かりやすいほどに目を白黒させた。

 弾正の方はさすがに落ち着いていて、自分の腰を叩きながら返した。


「いえ、治部殿こそ御苦労されておりましょう。それに実りのある面会でござった」


「そう言っていただき幸いにございます。ご両家とも忙しい身ゆえ、治部も幕臣らも文一つで良いかとも思いましたが、公方様が直接会われたいと」


「ご本人が言って、あれでござるか」


 左衛門佐が野太い腕を組んだ。


「今日は大分機嫌がよろしい。お二人が約定通り来られたので、納得されたようにございましょう」


「あれで」


 五郎は答えずに、笑みを浮かべた。

 左衛門佐は首を伸ばして五郎の顔をしげしげと覗き込み、それから腕を一層深く抱え込んで黙り込んだ。


「して、先ほどの伊勢とは何でございましょうか」


 そう言ったのは弾正である。両家の家臣らは、木から少し離れたところに、互いに間を空けて立っていた。

 ああ、と五郎は顎を撫でた。何から話すべきであろうか。


「そちらに話を持っていくつもりは毛頭ありませなんだ。ただ、考えたことを話したがり、その考えを否定されるのを嫌がる方でございます」


 五郎の後ろで、今川家中の者が目頭を揉んだ。


「ただ、伊勢の一件というと二つのことがありまする。一つは伊勢の国司である北畠殿の件にございます」


「たしか、先の管領、道永殿の娘婿であられましたな。そして、先日の大崩れで道永殿と同じく討たれたと」


 伊勢の国司北畠参議晴具は、道永と同じく十三渡で果てている。道永に組した国人の多くと同様に、楽に勝てると思って顔を出したものらしい。 

 ただ、赤松次郎と三好筑前守の策の前に、そのような心構えでは成す術はなかった。戦の前日の宴でしたたかに酒をあおったこともあって、崩れかけた本陣のあたりで馬にも乗れず右往左往した挙句、三好勢に討たれたという。


「嫡男は数え年一つの子が残されておられた。ただ、敵も多く残されておられたようで、難儀されているようにございます」


「敵というと」


 考えに沈んでいた左衛門佐が、顔を上げて問うた。


「志摩国の国衆、というより海賊ら。これを参議殿は随分圧しておられました。あとは大和国の吉野郡などの国衆。最後は同じ伊勢の長野氏でありましょうか」


「四方八方敵だらけではないか。どうしてそんなときに前に出た」


 弾正が苦笑した。この男もまた、四方八方を敵に囲まれている。


「先に権威と武威を引っ張ろうとしたのでありましょうか」


 弾正がそっと言った。その瞳が動いて、五郎のそれと一瞬合った。

 気を使われたらしい。


 今をもって、五郎に北畠参議の腹は分からない。ただ、隣国の尾張で伸びた今川を、幕府の権威で抑えようという心もあったのではないか。

 どうにもそう思われた。

 

 同じく今川の圧を感じているらしい、弾正はそのことを口には出さなかった。


 左衛門佐はまた悩んだ。豪放磊落に過ぎる男は、一度信を向けた相手には中々注意を払えないらしい。

 弾正はその屈強に過ぎる隣人へ苦笑を向けてから、話を続けた。


「して、その伊勢がどうされた」


「長野殿が三好筑前殿と繋がっておられる」


 ということにしている。


「なるほど、それは公方様にとっては中々歯がゆいことにございますな」


「ええ、いざ前に出ようとしたとき、伊勢から兵を向けられることになれば困りまする」


 弾正が足元の砂利を踏み替えた。


「長野殿から治部殿や公方様に対して、弁明はあったのでしょうか」


 弁明は、こちらが言い出すよりも前にあった。

 堺公方、公方とのどちらにも組した覚えはなく、伊勢内の因縁によるものであるとした。


「堺公方に靡いておらぬ証を出せ。そうすれば公方様は許すと仰せになったのでございますが、どうにも」


「それはいけませぬな」


 悪魔の証明である。やっておらぬことを証して見せるのは、まずできぬ相談だった。


「それになにより、長野殿は行動で示してしまいました。北畠殿のご子息が残る館を攻め落としてございます。これで公方様に対して叛いておらぬは、通じぬと、幕臣方も判断されたようにございます」


「しくじった。ということにございましょうか」


 弾正の声色が冷たくなった。


「そこまでは申しませぬ。長野殿がこの後も勝ち続ければ、しくじりとは言いますまい」


「御身を相手にか」


「公方様にございましょう」


 弾正が敷き詰められた砂利を踏んだ。互いの吐息がかかる距離にいた。


「困った方であるが、上手く使われておられる」


 手触りは悪いが、使い方次第でよく切れる鋏。弾正の目にはそう映ったらしい。

 その鋏でどこまで切っていくか、という話である。


「御心配せずとも伊勢で終わりでございましょう。北にも東にも進みませぬ。公方様も、伊勢は西である故に許されただけでありましょう」


 五郎は白扇を帯へ挟み、両の掌を開いて見せた。弾正とその家中は、開かれた掌を一瞥し、それからまた砂利を踏みしめた。


「そのようなことは申しておりませぬが。ただ今川家が西に進まれるということは、信じておりまする」


 弾正はそう言って、自分の掌を裾で拭った。


「そういえば」


 唐突に言い出したのは左衛門佐である。後ろで、左衛門佐の家中が各々の額を叩いた。


「先ほど、伊勢と言えば京の方々が喜ばれる、そのような話があったがそれはどういう意味であろうか」


 五郎と弾正は、何度目か分からぬ苦笑を浮かべた。


「ああ、伊勢神宮の遷御にございます。式年遷宮はとうに年を過ぎておるどころか、先々代のころよりまともに行われておりませぬ。北畠殿がああなり、伊勢が荒れている今、これを取り仕切る者がございませぬ」


 伊勢神宮には天照大御神が祭られている。朝廷との縁は、どうあっても深い。この遷御を公方が取り仕切ったとなれば、公家らの目もいくらかは変わると五郎は見ていた。


 公家は負けた武家に厳しい。かといって京を追われた義晴を、今日明日に解任するようなことはあるまい。しかし、三好筑前守が力を増し、京で義維を奉じ続けるのであれば、万に一つがあり得る。


 五郎はすでに即位式の銭を出し、将軍を解かぬという言質までは取っていた。それでも、義維が朝廷で存在を示すこと自体は、邪魔できずにいる。義晴が京で忘れられぬための一手であった。


「なるほど、それは大きいか」


 左衛門佐が西の方を見た。その先には美濃の山しかない。この男には、山の向こうの伊勢が見えているのだろう。


「おそらくではありますが、公方様は伊勢神宮に集まる様に申されるかもしれませぬ。その折はあらためてご招待させていただきたく」


「まことか」


 左衛門佐が顔をほころばせた。見た目は武辺者以外の何者でもないが、存外に信心が強いらしい。


「弾正殿もよろしければ」


 弾正は顎に手を当てて考え込み、それから家中を振り返った。家中の者らが小さく頭を下げた。


「御邪魔でなければ、御一緒させていただきたく」


---


 三好筑前守元長は、四条の道場で平伏していた。


 そこは板の間であった。それを急遽座敷に仕立てたもので、未だに御所としての備えは足りていないところが随所にあった。


 ただ上座だけに畳が高く積んであり、そこに堺公方の足利義維がいた。少し下がったところに、筑前守の主君である細川六郎晴元がいる。

 二人とも座を崩し、筑前守を見つめていた。


 筑前守の背後には三好の家臣ら、細川の家臣、そして元は義晴についていた幕臣らが、板の上に膝を並べている。

 高窓から入る日が、その膝のあたりまで届いていた。板は固く、額の前へ置いた手の下に汗が溜まった。


「なんと申した」


 六郎がこもった声で言った。日頃は口数の少ない男である。口を開いても、二つ三つ言って黙る。

 だが何も考えていないわけでも、温厚なわけでもない。

 首元にひやりとしたものを覚えながら、筑前守は口を開いた。


「六角弾正少弼殿、近江に戻られたと申した」


 先の戦において、行方知れずになっていた六角家当主の六角弾正少弼であるが、つい先日観音寺城に戻ったと知らせが来た。

 太股に矢を受け負傷したため、大事を取って休みながら、若狭を迂回して近江に入ったらしい。


 念のため朽木谷を通り、公方を迎えようとする動きもしていたとのことだった。

 ただ、弾正少弼が朽木谷に付いたとき、彼を出迎えたのは、がらんとした義晴の居室だけであっただろう。


 六郎が畳をむしった。


「近江の軍を送っておきながら、みすみす逃したのか」


「あの軍は公方様をお連れするための軍にございまする。弾正少弼殿を捕らえる軍にはございませぬ」


 筑前守は、何度も六郎にそう言ったはずである。筑前守は息を吐いて、今すぐに帰りたくなった。

 とはいえ公方を美濃へ逃したのは自分の落度であるから、大きな声で言い返すこともできない。


「公方様を捕らえよなどと命じたつもりはない」


「穏当にお連れするだけにございまする」


「詭弁よ。軍を引き連れ、穏当も何もない」


 六郎が膝を抱えた。

 さすがに分かるか、と筑前守は小さく反省した。


「今後大戦で鎬を削り合うことを思えば、今穏当に将軍解任を受けさせる。穏当にございましょう」


 六郎の拳が強く握られた。毟られた畳がそのままになっていた。


「それを命じた覚えはない」


「失礼いたしました」


 筑前守は視界の端で義維を見た。義維は半眼のまま、微動だにしていない。膝の脇に扇子が一本置いてあるきりで、手も動かさなかった。

 堂々としたものであると、筑前守は内心で嘆息した。


 筑前守の思うところ、主君、六郎の目的は、道永の首を取り、細川京兆家の家督を取るというものは既に達せられている。ゆえに、これ以上戦う理由は、六郎にはない。義維を担ぎ、足利家の騒乱を膨らませる必要などどこにもないのである。


 故に六郎は義晴との和議を結ぼうとしている。少なくとも筑前守にはそう見えていた。

 それも今川が前へ出て来る前に固めたいのだろう。


 それらは今となっては、筑前守の狙いからずれる話であった。


 筑前守は手の汗を床へ押し付けた。


「筑前守、つまり今川に見す見す公方の旗印を渡しに、近江に散歩に行ったということよな。この六郎に無断で」


「言葉もございませぬ」


 六郎の舌が鳴った。立ち上がろうとして、膝に手を突く。


「もう良かろう」


 義維の声で、六郎が止まった。火のつくような目で義維をねめつけたが、周囲の目に気づいて腰を落とした。


「先の戦で功を上げ、それでもなおも余のために前に出た。公方を連れ戻せなんだことは残念であるが、責めるに能わず」


 筑前守は平伏した。

 義維はその下げられた頭に言葉をかけた。


「して、それだけか。今申せ。先の戦を思えば、其方の言葉は聞き逃すべきではなかろう」


 ありがたい言葉である。


「であれば、一つ皆々様に伺いたく」


 無作法を承知で、筑前守は身を起こし、振り返って居並ぶ者らを見た。板の上には、後ろの列まで隙間なく膝が並んでいる。


「この中で長野に気脈を通じた者はおられるか」


 諸将はきょとんとして、互いに顔を見合わせた。膝を立てて身を乗り出す者もあり、後ろの列では、隣と顔を突き合わせて何か言い交わす声がした。

 それを見て、筑前守は手を強く握った。


「長野というと、伊勢か」


 義維が訝し気に問うた。


「は、その長野にございまする。北畠参議殿が倒れた今、北伊勢から南下し伊勢の覇権を握ろうと動いておられるようにございまする」


「今川の手の者か」

 

 義維が出した名前に、諸将が息をのんだ。

 東で存在感を示し続ける不敗の巨獣。この名前を阿波方で出す場合は、誰でも慎重にならざるを得なかった。


「であれば、まだわかりやすく」


 義維の微かに震える指が、膝の扇子の要へかかった。


「どういうことか」


「今川は長野を我々に通じた者と見なしておるかと」


「あり得ぬ」


 そう言ったのは六郎である。突然出た言葉に、彼自身が居心地が悪そうに咳払いをした。


「あり得まい。今川には干渉せぬ。それを守れぬ者など、どこぞの男しか考えられぬ」


 気を取り直した六郎が、腕を組んだまま憮然として言った。


「筑前にいたしましても、今の段階で今川の隣国を騒がせる気はありませぬ」


 阿波方は完勝した。だが、それは被害が一切出なかったということではない。長く続いた根競べのような戦いに借銭は嵩み、筑前守直下の兵も痛んでいる。

 すぐに今川と組み合えるかと言われると、首を横に振るほかなかった。


「つまり」


 義維が扇子をたたんだ。筑前守は頷いた。


「今川がそう言うことにした、これにございましょう」


 伊勢を食うためにそうしたのである。これはただ領地が欲しいだけとも見られるが、筑前守は別の見方をしていた。


「おそらくにございますが、西進する際の攻め口を増やす、または本拠付近の心配事を無くすためにしたことかと」


 今川は、今の公方を守るだけで終わるつもりはないらしい。これを奉じて、一気呵成に前へ出る腹がある。

 残念ながらその片鱗が見えた以上、これに備えざるを得なかった。


「防げるか。伊勢を取られれば京に迫られる」


 六郎が首を引っ込ませながら言った。筑前守は口を結んだ。

 返ってこない答えに、六郎が拳で畳を叩いた。


「奇策が売りの男であろう。臆してどうする」


「あれは向こうの陣容の不和に付け込んだだけにございましょう。今川は後背を固めておりまする。関東、北陸と同盟を結び、家中も中々に上手くまとめておられる」


「であれば、同じことをせよ」


 六郎が、積んだ畳の上で膝を進めた。


「先の戦と同じことでございましょうか」


「ほかに何がある」


 筑前守は板へ置いた手を握り直した。


「戦は水ものでありますゆえ、同じ様に赤松殿にご協力いただくというのは難しいことにございます。野犬を捕らえる罠と、龍を捕らえる罠が違うのと同じことにございましょう」


「つまり、そなたは役に立たぬと」


 六郎が唇を尖らせた。

 諸将らの布切れの音もした。


 筑前守はあえて笑みを作って、頭を下げた。


「いえ、お役に立てましょう。されど、最後の最後に勝つために、幾つか六郎様には気に入らぬことを了承していただきたく」


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― 新着の感想 ―
曲者ばかりの中で、信濃の村上君だけが純朴で癒されます。どこかで活躍して欲しいすね。
斎藤道三、太原雪斎に今川義元、織田信秀という今川陣営に対して三好陣営がこれじゃあちょっとかわいそうなほどのキャストの差が。 元長頑張ってと応援したくなる
うおっすごい更新ペース。三段撃ちかな?
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