7章_9
享禄二年(一五二九)の春である。
摂津国西成郡中島、中津川の十三の渡をはさんで、二つの軍が睨みあっていた。
南岸に陣取るのは、堺公方足利義維を奉じる細川六郎晴元をはじめとする阿波方で、およそ一万。
北岸には公方足利義晴を奉じる先の管領細川道永がおり、六角弾正少弼定頼、朝倉宗滴、赤松次郎政村、浦上掃部助村宗らがこれを支えていた。総勢二万五千ほどになる。
北の陣は川に沿って広がっていた。中央に道永の本陣、その前に六角勢を置き、左に浦上勢、右手に少し離れて朝倉勢を配してある。後ろには堤が延び、その上を赤松勢に守らせていた。
中津川はこのあたりで川幅が広く、川中には細長い洲がいくつかある。洲の縁には浅瀬が続き、瀬を選べば徒でも腰ほど、馬なら腹ほどの水だった。ただ、ところどころに深い流れがある。
十三の渡には前の日までに四十艘余の舟を集め、そのうち十艘は深みに並べて板を渡してあった。ここ数日は雨がなく、水も落ち着いている。兵糧も尼崎から舟で運ばせ、堤の裏に積んであった。
二万五千の軍勢といっても、道永がじかに動かせるのは幕臣の手勢と、京から従って来た国人衆三千ほどにすぎない。あとはみな、それぞれ主人を持つ軍である。六角にも朝倉にも、赤松にも浦上にも、命じるより頼む形になる。
そのため、誰を先に出すかにも順があった。
道永は朝から本陣の床几に腰を据えていた。長く座っていると腰が痺れるので、ときどき立って身体を揺すった。具足は軽いものを選ばせたが、それでも肩の紐が食い込み、擦れたところが熱を持っている。
川向こうを眺めながら、道永は肥えた腹を引っ込ませるようにして頷いた。
「六郎の軍、減ったな」
傍らにいた従兄弟の細川右馬頭も、満足そうに南岸を見た。
「地金が出ましたな。情けの無いことでございましょう」
道永は右馬頭の声を聞いた。怯えている様子はなかった。
この男は形勢が悪いとなれば、人より早く逃げる。それが落ち着いているのを見ると、道永も少し安心した。
「仮にも細川京兆を名乗らんとするもの。あのまま放っておくのは哀れだ。早く片してやらねば」
「して、誰を出されましょうか」
道永は顎の肉に指を埋めて考えた。
考えが最初のところに戻ってきた。道永はしばらく考えた後、やはり一番妥当と思われるものを口に出した。
「六角弾正少弼殿に任せよう。京を追われて以来、随分骨を折ってもらった。一番槍はかの者しかおるまい」
「左様でございますか。いっそ宗滴殿の采配にて、朝倉勢単独で最前線を切り開くとも思いましたが」
右馬頭がかすかに笑った。そこには阿諛追従が窺えた。道永の腹の奥を読んでいる、そう思えた。
道永は少々の腹立ちをごまかす様に、堂々と頷いた。
「宗滴殿の武勇は是非にも拝みたい。だが、弾正少弼殿に譲らねば公方様に顔向けできぬ」
実際のところ、道永も、出来ることなら朝倉には、前に出て少し痛んでもらいたかった。
あの若く、物知らずな公方の前で、宗滴には何度か恥をかかされている。口だけではないところを見せろと、川を渡らせてやりたい気持ちはあった。
だが前へ出せば、宗滴は水を得た魚の如く、良く働くだろう。
そして、宗滴がそのように働けば武功になる。武功が重なれば公方の覚えもよくなり、道永を通さずに御前へ話を持ち込む機会も増える。それは面白くなかった。
それに、ここ一月、二月ばかり口を利いていないこともあり、戦の趨勢が決まった今、何かを頼む気にもなれなかった。
道永は膝に手を置いて立った。
「弾正少弼殿に伝えよ、川を渡り攻めかかる様に。こちらの兵も合わせ、一万をお任せする」
伝令は頬を上気させ、走って行った。
四半刻も経たぬうちに、六角勢が川へ入り始めた。
先頭は徒の兵である。槍を頭上に掲げ、腰まで水に浸かって進む。深みでは舟に渡した板の上を荷駄と馬が通って行った。
兵が入るにつれて浅瀬の水が濁った。水を踏む音が本陣まで届き、その間に押し殺した掛け声が混じる。旗差は旗の裾を濡らすまいと、柄を高く掲げて歩いていた。
その様に渡河に難儀する六角勢に対して、南岸から矢が来た。
何人かが水の中に倒れたが、六角勢の足は止まらなかった。
だが、それでも南岸からの矢は止まない。ひたすらに斜めに落ちる矢が水面を叩いた。
また、南岸では楯を持った兵が前へ出て、その陰へ後続が入る。決して上陸させまいと岸を固めたのだ。
矢が鈍い。
道永にはそう見えた。
今までで矢は三度、まとまって飛んで来た。だが、三度目は前の二度より薄かった。
道永はまた、顎の肉に指をうずめた。
矢の拙さは何処から来たのか考えた。
射手を替える間が空いたのか。それとも矢を惜しんでいるのか。ただ、どこをどう見ても、阿波方にとっては惜しむような戦ではないはずだった。
訝しんでいるうちに、六角勢の先頭が南岸へ上がった。並べられた盾をものともせず、集団が渡河に成功したのだ。
そこで道永は眉をひそめた。
ここまで来ても、阿波方が動かない。上陸した一団を囲みもしない。
普通に考えてみれば、好機である。
川から上がったばかりの兵は足並みが揃わず、濡れた足で泥を踏んでいる。そこへ突きかかれば、まとめて川へ押し戻すことも出来るはずだった。
「弱腰に過ぎる」
道永は唸った。
「とはいっても、総数が違いすぎましょう。六角勢は気力も充実、弾正少弼殿の薫陶を受けた将が陣頭にて指揮をとっておられる」
右馬頭は軽く言ってのける。そこには疑った様子がない。
「だが、かといって、渡河の邪魔も満足にできておらぬ。渡河した兵自体は数もそう変わるまい」
「お落ち着きください、道永様。総勢を見れば、三倍近い戦力差にございまする。それに六郎は若造ゆえ、右往左往しているだけにございましょう」
道永がなお南岸を見ていると、右馬頭が声を落とした。
「頼みの筑前守も、先の和睦の一件で六郎に睨まれておることもありまする。そう見ればまあ、妥当にございましょう」
道永は、む、と低く唸った。
それは確かだった。
三好筑前守元長は、昨年から六郎に遠ざけられているという話が入っていた。先の和睦でも、元長は六郎の意に沿わぬところまで話を進めている。
それを咎められ、中枢から僅かに身を引いたとも噂されている。
「道永様、まず勝てましょう」
右馬頭が口角を上げながら言った。そのあまりにも軽い物言いに、かえって道永の疑いも少し薄れた。
脱兎の如き男が、こうも言う。ならば問題はないのだろう。そう考えた。
だが、そこへ使者が駆け込んで来た。踏み荒らされて柔らかくなった土に膝をつく。
右馬頭が顔を引きつらせ、唾をのんだ。
「申せ」
道永が促すと、泥を浴びた使者が顔を上げた。
「浦上勢、前に出ることを望んでおられまする」
「浦上か」
面倒であるが、悪いことではない。
道永はほっとしつつも眉間を揉んだ。指の腹に脂がついた。
前を見れば、細川六郎の陣はわずかに後ろへ退いている。陣形を縮めてはいるが、中央の馬印はまだ大きく揺れていない。
渡河が成功した今、新手を出し、もう一押しするには悪くなかった。
ただ、浦上を出すとなれば、因縁の深い赤松のことを考えねばならない。
というのも、このところ道永は浦上を贔屓しすぎる、と赤松方から声が出ていた。
実際、宴で掃部助に自ら酒を注いだこともあれば、両家が揉めた時、浦上に有利になるよう裁いたことも二度三度あった。
もっとも、道永は浦上村宗を好いているわけではない。守護代の身で守護の赤松を押しのけるように勢力を伸ばした男を、むしろ好ましく思ってはいなかった。
だが浦上は播磨と備前に根を深く張り、赤松より多くの兵を動かせる。その浦上の機嫌を損ね、阿波方へ回るようなことになれば、こちらの数の優位は大きく削られる。
ゆえに折に触れ、浦上や赤松のために骨を折った。幕臣を両者の陣に頻繁に送り、何度ももてなした。それで同じ陣へ入れるところまでは出来た。
だが、そこからがうまく進んでいない。赤松の当主、次郎政村は決して浦上の当主、掃部助村宗と顔を合わせようとはしない。それだけならば良いが、掃部助が少しでも良い目を見ると、どういうことかと道永に詰問しさえもした。
道永は口内に苦みを覚えつつも、右馬頭に聞いた。
「赤松殿はどうしておられる。確か後背の守りに付けたのだな」
赤松側をなだめる役は、右馬頭に任せてあった。細川京兆家の次期当主、その実父である。不足はないはずだった。
右馬頭は得意満面に頷いた。
「ええ、ここ一番で浦上とは並べられませぬ。事前に相談済でありましたが、出陣前に納得されたようであります」
道永は少し意外に思った。
赤松次郎は浦上掃部助への敵意を隠さない。掃部助が前へ出ると知れば、自分も出ると言い張るかと思っていた。
「とはいえ、赤松次郎殿もこちらの銭を幾つか回し、大事にすると何度も言って漸くにございますが」
「いや、頷いたのであればよい。こちらも譲った、ならば今、浦上を出しても文句は出まい」
次郎へはこれまで三度、銭を回している。陣触れの支度金、兵糧を買うための銭、それとは別に右馬頭の手から渡した銭である。
次郎はそれらの銭を使い、兵を雇っている。少しでも武功を上げ、掃部助よりも上に行こうと必死に見えた。
その必死さも相まって、赤松の兵は守護家として不足のないものになっていた。
もともと浦上に押されているとはいえ、まだ播磨の名門である。結果、集めた兵も三千ほどにのぼった。まず、大戦で後背を守らせるには十分だった。
道永は振り返った。
堤の上には赤松の旗が並んでいる。旗は風に動いていたが、兵達に先走るような気配はない。
「よかろう、浦上勢も六角勢に続いて前に出せ」
使者は立ち上がると、陣の外へ走った。
しばらくすると、左手の浦上勢が動き始めた。
兵が川へ向かって流れ出す。それに合わせるように、南岸の細川六郎の軍が大きくたわんだ。
今度は道永にも、はっきり動揺が見えた。思わず、道永の口角が上がる。
「おお、好機でございますな。いっそ、こちらも本陣を前に出しまするか」
右馬頭も機嫌よく膝を打った。
「今からでは間に合うまい。六角勢と浦上勢に恨まれよう。褒める準備でもしておかねば」
道永は笑みを深め、腕を組んだ。具足の内で腹がつかえたので、少し姿勢を変えた。
その時、右手に離れている朝倉勢が目に入った。
やはり、微動だにしていない。
本陣から大きく離れているせいもあって、味方の別動隊というより、別の軍がたまたま同じ戦場にいるようなよそよそしさがあった。
道永は鼻を鳴らした。
本当に何もしないつもりなのか。
ここ一、二月、宗滴とはまともに話をしていない。
今川から戻って来た伊予守から、今川に強く当たるべきではないと言われた後、道永は朝倉方へ、美濃についてどこまで譲れるかをそれとなく聞いた。
伊予守の言を受け入れたのではない。ただ、今川が譲らないことを匂わせられると、戦を意識せざるを得なかった。
十万の大軍を一蹴した、あの負けなしの治部太夫と、時を置かず戦をするのは流石に厳しいと思ったのだ。
ゆえにまずは互いの落としどころを、と考え朝倉に話を振った。
だが、話を振られた宗滴は何も答えなかった。ただ道永を一度睨んで立ち上がると、歩き去った。それきりである。
大戦を前にして軍から抜けはしなかったが、それからの朝倉勢は本当に陣へ入るだけになった。こちらから回す米や酒も減らしてある。減らしたことについても、宗滴は何も言って来ない。
文句を言う相手には返す言葉がある。黙ったままの相手は扱いに困った。
やはり、無理にでも前へ出すべきだったか。断られるにせよ、言葉を交わすきっかけにはなったはずだ。
「おお、浦上勢の先頭が渡河いたしましたぞ」
その時、右馬頭が立ち上がり、身を乗り出した。
道永は、考えを打ち切り、前へ目を戻した。
確かに浦上の旗が南岸へ上がっていた。六角に気を取られた六郎の軍は、矢を浴びせることすらできなかったようだ。
「まずは良し」
道永が深く頷いた。
南岸に六角と浦上が揃った。そして勢いづいている。
これで勝てる。
だが、そう思った時、後ろから大きな音がした。
人の声と、馬の蹄が土を打つ音である。
道永は振り返った。
堤の上に並んでいた赤松の旗が、勢いよく駆け抜けて来る。
道永は最初は呆れた。
「赤松勢はなにをしておる。今さら手柄が欲しくなったのか」
やはり浦上には手柄を譲れないのか、そう思った。
だが、側で右馬頭が唾を呑んだ。
「なんだ、何か、おかしゅうございますぞ」
赤松勢は止まらなかったのだ。
前へ出るにつれて騎馬の勢いが増し、旗が激しく揺れている。
向いている先は川ではなかった。
本陣、道永の馬印を向いている。
道永はしばらく、その光景を見ていた。そして、ぼう、と考えた。
あのままではぶつかる。
そう思った時には、先頭の騎馬が後方の兵へ突っ込んでいた。何が起きたかわからず立っていた兵が馬に撥ねられ、地に転がった。
「あ」
道永の口から声が漏れた。
「赤松勢、裏切り。赤松勢、裏切りにございます」
直ぐに伝令が駆けて来た。
我を取り戻した道永は声を張った。
「防げ、防げ、相手は小勢ぞ」
幕臣を始めとする手勢はすぐに動いた。
だが、勝ち戦と思って前ばかり見ていた国人衆は遅れた。槍を取る者、逃げる者、その場に立ち尽くす者が入り乱れ、そこへ赤松勢が突っ込んだ。
何人かがたちまち蹴散らされた。
それでも、その混乱が赤松勢の勢いを殺し、少しの時を稼いだ。そして、その僅かな時により、本陣との間へ幕臣の手勢が集まり、槍を揃えることができた。
そこで、赤松勢も足を止め、双方の喚声が重なった。
もう足音は近づいてこなかった。
道永は、ふう、と熱い息を吐いた。
右馬頭も安堵したらしかったが、額には玉のような汗が浮かんでいる。
「慮外者が。そのように短慮ゆえに浦上に付け込まれるのだ」
道永は吐き捨てると、周囲の者も頷いた。
道永はずれた襟を直し、軍配を握り直した。掌に汗をかいて、柄が滑った。
前では六角と浦上がなお攻めている。距離が空いていることもあり、こちらの混乱は影響していないようにも見えた。
ならば、勝ち戦であることに変わりはない。
道永は軍配を大仰に振るった。風が巻き上がり、机の上の地図が揺れる。
「良いか、もはやこれは勝ち戦よ。それは何も変わらぬ。眼前の六角、浦上が六郎の首を取ればそれで仕舞になる。本陣は揺れておらぬゆえ、安心して攻めかかる様に前方の両勢に言い伝えよ。本陣は何があろうと揺れはせぬゆえ、前のみ見るように」
側付きの者が尋ねた。
「赤松勢の仕業であるとは申し上げますか」
少し考え、首を横に振る。
「いや、やめておけ。浦上が浮足立つ。まだ掃部助は渡河中、驚かしてはいかぬ。全ては六郎の首を取ってからよ」
それでようやく伝令が走った。道永は走り去るその背を見て、喉を上下させる。
このまま、赤松を押し止めれば何とかなる。
そう思った直後、堤の上に新しい旗が立った。
道永は目を凝らした。
「ば、」
馬鹿な、と言おうとした。
三好の旗、三好筑前守元長の旗である。
堤の上に一騎の大将が立っていた。その大将は、道永の陣を見てくすりと笑った。そう見えた。
そして、その大将は軍配を掲げ、勢いよく振り下ろす。
すると、その背後から三好勢が一斉に現れた。
「止めろ」
道永は言った。声が掠れた。
側近たちが動いたが、もう遅かった。
三好勢は赤松がこじ開けたところを突き進んだ。するりと国人衆が散って空いたところを抜け、そのまま赤松勢と幕臣の手勢が揉み合っている脇を駆けて来る。
赤松と槍を合わせている兵は、三好の旗が横を通っても動けなかった。手を離せば、そのまま赤松に押し込まれる。
三好勢は多かった。五千はいるだろう。そんな数をどうして見逃したか、それは道永は誰に問うまでもなく理解していた。
赤松が一方面の見張りを受け持っていたのだ。
だがそれを、今理解してもあまりに遅い。
三好を食い止め、前を塞ぐ兵がいなかった。
三好の旗が近づいた。
蹄の音がひとつに重なり、地を震わせた。
道永は、咄嗟に朝倉勢を見た。動いていた。
ようやく動いたが、遠い。
六角も浦上も川向こうにいる。しかも本陣を気にせず、前だけを見ろと伝えたばかりだった。
道永は周囲を見た。だが、側にいたはずの右馬頭がいない。
少し離れたところで、すでに人を押しのけて後ろへ逃げていた。
道永にも逃げるという考えが浮かび、すぐに馬を呼んだ。
曳かれて来た馬の鐙へ足を掛けたが、身体が上がらない。具足を着けた肥えた身体が重く、腹が鞍につかえた。
「道永様。敵勢が、」
誰かが叫んだ。道永は振り返った。
三好の旗が、すぐそこまで来ていた。
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尾張国、那古野城の一室にて、五郎は二人目の子を遠巻きに見ていた。
ついこの間生まれた子であり、幸いにして立ち会うことができた。何をするわけでもなかったが、じっと部屋の前に座っていると、那古野城にまでやってきていた祖母、北川殿に邪魔だと退けられた。
結局、五郎は生まれた子を一度抱き上げ、顔を見ただけであり、その後は稲葉山に帰るだけであった。
そのような忙しない出産であっても、名前だけはこちらで決めた。
名は千代丸とした。
北条の家に縁のある名であると思われたため、家中には多少の異論もあった、らしい。らしい、としたのは、それらが五郎の耳までは届かなかったからである。
五郎がそう、と決めると家中は異論をはさまない。
楽ではあるが、良い傾向ではない。
五郎はその日のことを思い出し、ふと息を吐いた。
那古野の館の奥である。南の障子は開けてあり、日が畳の縁まで差し込んでいた。
火鉢は隅へ寄せてある。千代丸の側には、母である朝姫だけがいた。
乳母などもすでに付けていたが、今日は家族だけということで部屋の中には、五郎と朝姫、あとは数え年一つになる龍王丸だけで、千代丸を囲んでいた。
最近特によく喋るらしい龍王丸が、じっと弟を見ていた。
何が面白いのか、少しも目を離さない。それを見ていた朝姫が笑った。
「親子で似た顔をしないでください」
「龍王丸は父ほど、きつい目はしておりませぬ」
龍王丸はすらすらと答えた。やはり、頭の中に誰かいるのだろうか。
五郎は我が子を訝しみつつも、頷いた。
「私から見ても、そう見えます。龍王丸殿は朝姫殿から良いところを貰った」
龍王丸は膝を崩さずに座っている。前に見た時より背が伸びている。
まるで会わないが、病一つせず元気なものであった。
龍王丸は今の答えが気に入らなかったのか、眉を寄せた。
「父上はいささか余所余所しくございませぬか」
自分が関わってはあまりいいことにはならない。
だが、不仲と思われるのも確かに良くはないことだった。
五郎は僅かに言葉を崩した。
「あまりよい見本にはなれぬゆえ、よそよそしいぐらいがちょうど良い」
「龍王丸めにはそれでよろしいですが、千代丸が物心ついた折には、今少し改めていただきたく。月に一度は、千代丸を抱き上げるぐらいはするべきかと」
「弟ばかり構っては、長幼の序が崩れるのではないかな。お家争いの元になろう」
千代丸が声を上げた。朝姫がそっと抱き直すと、また満足そうに口をもごつかせた。
龍王丸は胸をなでおろしつつ、五郎に向き直った。
「父に構われず、情の浅い子に育つほうが、お家争いの元かと。あと、やはり御台様にもっとお会いするべきかと」
龍王丸の言葉には淀みがなかった。
それが面白かったのか、朝姫は笑いかけた口元を袖で隠し、千代丸を膝に抱き直した。嫁いだ当座は、五郎が黙るだけで背を伸ばすような女だったが、いまは平気で子をあやしている。
五郎は話を変えた。あまり那古野には戻れないのは予測出来ていた。
「朝姫殿、千代丸殿は随分大きくみえましょう」
朝姫がすっと千代丸を持ち上げる。
「確かに、同じころの龍王丸よりもずっと重いですね。骨が太いと北川殿が仰られておりました。良き武士になると」
「頼もしいことにございます」
龍王丸がそう言って、頷いた。
弟が自分より大きく育ちそうだと言われても、嬉しそうにしている。
龍王丸は出してよさそうな感情であれば、素直に表に出せる。そういうところが明らかに五郎と違い、周囲に好まれていた。
横目で我が子を窺っていると、また龍王丸がふと尋ねた。
「そういえば、父上は千代丸を如何されましょう」
龍王丸の目は弟に向いている。
「表の話は、ここでは遠慮せよ」
「いえ、表の話ではなく、弟の側付きなどにございます」
五郎は少し喉を鳴らした。もうそこを気にするのかと思った。
「自分のものも決まらぬうちに、弟の先々のことなど気にして如何される」
「中々那古野に戻られぬので、事前に話しておくべきことにございます」
五郎は朝姫に目をやった。
朝姫は困ったものだという顔をしたが、微かに笑っている。顔色には誇らしげなものが浮かんでいる。
我が子の率直な物言いを、気に入っているらしい。
「さて、まだ決めてはおらぬが、側に付けるとしても駿河、遠江の者のみではない」
「甲斐、三河もありうると」
「尾張、美濃もありえる」
さらに外から入れることもあるだろう。
五郎自身は例外であるが、幼いころから側にいる者は、その子が長じても近くに残ることが多い。
駿河と遠江だけで固めれば、家中の重みもそちらへ寄る。甲斐や三河、これから入る尾張や美濃の者が、いつまでも外の者でいるのは具合が悪かった。
龍王丸は少し目を細め、そのまま黙り込んだ。
その様子を見て、なぜか五郎の口角が勝手に上がった。
「心配せずとも粗略にはせぬ。今はただ、母君と弟御を大事にされよ」
五郎はそう言って朝姫に目礼した。朝姫は少し残念そうにしたが、それでも目礼を返した。
先ほどから、襖の向こうに人の気配があった。物々しい男の息遣いである。
奥近くまで家臣が来ることはまずない。それでも来たということは、よほどの用らしかった。
考え込む息子をしり目に、五郎はそっと襖を開けた。
庵原安房守と承菊、それに長井新九郎が控えていた。
三人が何か言う前に、五郎は声を潜めた。
「歩くか」
三人が音もなく立ち上がった。
そのまま奥を離れ、廊下を歩いた。庭の梅にはまだ淡い花が残っている。
昨日の雨で地面は濡れ、幾つかの水たまりを残していた。風に流れた花弁が揺れ、その水たまりに幾つか落ちて揺れている。
もし次に子が生まれたら、梅の名前でも付けようか。
五郎はふと考えた。
呑気なことを考えつつ、足を早め、居室から十分に離れた、政務の間へ入る。部屋の中には大きな文机と、その上に乗った硯と筆だけがあった。
子供の顔を拝む前に、あらかたの仕事は片づけ、家臣らを下がらせていた。
五郎は、がらんとした部屋の真ん中に腰を下ろした。三人もそれに続いて座り、車座になった。
承菊はかすかに楽し気な面持ち、新九郎は無表情である。だが、一番の年長である安房守だけが顔を固くしていた。
五郎は三人の顔色を確認すると、さっそく口火を切った。
「して、京の戦。どうなった」
既に内容は察していた。
前置きなしで出た問いに対して、口を開いたのは安房守だった。
「細川道永殿、負け申した。惨敗にございます」
そこに承菊が続けた。
「というより、討ち取られ、首を取られました。出家されてしばらく経ちましたが、漸く俗世の未練を断ち、仏門に近くなられたようにございまする」
「討ったのは誰だ」
五郎は軽口には取り合わなかった。
「三好筑前守元長。細川六郎と不仲を演じて、大戦には参加せぬ振りをしておきながら、赤松を寝返らせ、その手引きで後背に回り込んで本陣に突撃。草の者によると見事な手際であったとか」
承菊を軽く睨みながら、安房守が言う。
一転して、承菊はつまらなさそうに鼻を鳴らし、袖の内で数珠を繰った。誰かが名を上げるのが気に入らないらしい。
これも相手をせずに、五郎は重ねる。
「道永殿の首はともかく。その後、朝倉殿、六角殿はどうした。赤松が裏切ったとしたら、浦上は」
安房守が顔を寄せた。
「朝倉殿は、戦が終わるのを待たず、既に帰路につかれました。三好勢も追撃はできないほどの、手早い撤退であったと噂されておりまする」
「宗滴殿が三好勢に通じていた、などという噂もございます」
安房守の答えに、承菊が嘲る言葉を足した。
五郎は朝倉宗滴を浮かべた。
宗滴が道永と不仲というのは聞き及んでいた。だが、かと言ってそれだけで阿波方へ寝返るような男だろうか。
どうにも人物像と合わない。
自身の好悪など捨て置くようなところがある男である。
思考を巡らせていると、安房守の話が先に行っていた。
「して、六角弾正少弼殿でございますが、こちらは分かりませぬ」
「前に出て道永殿と同じく討たれたか」
安房守が首を横に振った。
「本人は前に出ず、家中の者に戦を任せていたらしく、戦の最中で討たれてはいないかと。ただ、朝倉殿とは違い、かなりの兵を前に出していたとのことゆえ、弾正少弼殿の周りは薄くなり申した」
「そこを三好勢が追撃したか」
安房守が重々しく頷いた。
「さて、そうなると近江に逃げ帰れるか見ものにございますな。目と鼻の先であるのに、今をもって音沙汰なしではありますが」
承菊が機嫌よさそうに相槌を入れた。安房守が眉を顰める。
「当家の坊主の見立てを褒める訳ではありませぬが、このまま帰らぬというのは十分にあり得ましょう。そして、そうなれば六角家が揺れることも考えられるかと」
承菊がずいと前へ出た。顔にはまた喜色が浮かんでいる。
「そうなれば、近江。ずいぶん、旨味がございますな」
五郎が目を細めると、承菊は身を引いた。それでも口元には笑いが残っていた。
安房守が咳払いを一つ挟んだ。
「最後の浦上ですが、こちらは京でよくない噂が広まっておりまする」
そこからは承菊が引き継いだ。笑いながら、良く通る声で身振り手振りを交えて話し出した。
「掃部助殿、なんでも本陣が総崩れになるや否や、右往左往。細川六郎の陣めがけて川を渡っていたところであったそうですが、六郎方は活気付いたのを見て怖気付く。かといって筑前守が暴れまわる本陣には戻れぬ。結果、川の中ほどで矢に当たって落馬、あとは行方知れず」
言い終わると承菊が、堪え切れずに口を隠した。安房守がため息をついた。
「承菊。いい加減にせぬか、御前であるぞ」
「とはいっても笑い話にございましょう。現に赤松殿も今頃大笑いでございましょう」
安房守は天を仰ぎ、すぐに顔を戻した。
そこまで聞いて、五郎は低く唸った。
結果を言えば、阿波方、望外の大勝ちである。
道永が討たれ、これについていた国人らはあっという間に霧散。
また、道永が頼みにしていた大身の者らは、帰るか、消息知れずで動けていない。
つまり、京近辺で二万五千まで膨らんだ将兵が掻き消えたことになる。阿波方はこれを機に一気に畿内で根を張ろうとするだろう。
だが、これは別に構わない。それより、五郎には気になることがあった。
五郎は、新九郎に目をやった。ここまで話が行き交っていたが、微動だにしていない。
話が分からぬような男でもなければ、遠慮をする性質でもない。
つまり、言わねばならないことのため、機を見計らっているのだろう。
五郎は水を向けた。
「新九郎、公方様は」
新九郎はひとつ頷き、短く言葉を発する。
「美濃に逃れようとしておられまする」




