7章_8
今川家が美濃を領してから、一年近くたつ。
このところ五郎は、稲葉山と那古野を隔月で往き来していた。
稲葉山へ戻ったのは、三日前である。忙しないが、悪いことばかりでもない。
まず、五郎が通ることで、美濃と尾張の道が縮まった。人の往来が増えた結果、元々の宿場町のようなものが大きくなり、物の往来が一気に増えたのだ。
この背景には、今川の共通の方針として関は廃し、道の幅などについて法度で決めたことが大きい。
それだけ決めると、あとは触れなかった。
だが、領国の商人が国人と話し合い、勝手に道を方々に伸ばし始めた。無論、五郎にはこれこれの理由で、こちらに道を通したいと話が来た。
これを受け入れ、当初予定していた道と重なる部分の道については、作った分に応じて税を減じると、動きはいっそう早くなった。
いま川筋の道は、荷車が二台すれ違える。橋は板を替え、渡しは舟の数を増やした。この一年で、那古野から稲葉山までが二日縮んでいる。
道の脇には数里ごとに馬継場を置き、馬と馬草の小屋を備えさせた。
荷駄宿も数里ごとにして、蔵などの設備を設けさせ、とにかく物の流れを早くするようにした。
材の寸法も七か国で揃えてある。橋板も、桶も、荷車の輪も同じであった。
どこかの国で削った板が余れば、そのまま美濃や尾張の橋に使える。それだけでも直しは早い。
ただそこまでやり、道は縮まったが、五郎の身体の方は楽にならない。
どちらの行きかえりも馬の鞍上でも話を聞き、細々とした内の仕事も手を付ける。家々の縁組もある程度は五郎が決めざるを得なかった。
本来は朝姫や母の領分と言えるが、朝姫が二人目を懐妊してこちらで巻き取るようにしている。
当主としての仕事に手抜かりがありませんな、などと承菊などは笑っていた。
美濃や山内上杉を見れば笑える話ではなかろう、と五郎は思うが、出家した坊主には笑いごとの様である。
五郎は、稲葉山に着いたその日に、机に僅かに溜まった文仕事を片づけた。
美濃国衆が求める安堵状、土岐兄弟に近い者らの降伏の嘆願状などである。
これらは全て五郎が手を付けなければ、どうにもならない物である。
まず、美濃については、まだ数年の預かりという形で安堵を出している。だが、その数年が何年になるかなどを、馬鹿正直に聞いてくる度胸のあるものは今のところ美濃衆にはいない。
五郎が美濃衆同士の沙汰を裁き、水利にまで口出しするようになると、今川が美濃を手放す気がないことが腹に染みたようである。そうなると、いつか五郎が出ていくと考え、耐え忍んでいた土岐兄弟のかつての側近らも降伏し、安堵を願うようになった。
五郎は筆を置き、稲葉山城から西を眺めた。
「お悩みでございますか」
しゃがれた声がした。振り向くと、長井新左衛門がいた。
かつて土岐美濃守に折られた鼻は、わずかに曲がったままだった。本人は人に顔を覚えてもらえると宴席で笑っていたから、さほど気にしてはいないらしい。
やはり相当にできる男であり、美濃の重しである関口彦三郎もこの男を頼ることが多い。特に各里のおおよその収支などは、何も調べずともすらすらと口にでき、各家の当主の為人も頭に入っているため、まずはこの男に聞くのが早かった。
五郎は視線を西に戻した。
「朝倉殿がな、少し妙でな」
新左衛門は側に寄り、声を潜めた。
「また美濃に戻ってこられますか」
朝倉は先代の美濃守護、土岐修理大夫が放逐された折、これを助け美濃に戻している。美濃に対して影響力を持とうという意図は、あるのだろう。ただ、そうはいっても今は時が悪い。
「そこまで無謀な方ではあるまいよ。来るならば勝算のあるやり方を整えてからくる」
新左衛門は縁の際まで来て、五郎と同じ方を見た。
西の空は霞み、遠い山の輪郭が薄かった。
「そうはいっても、朝倉にとって美濃は大事にございましょう。方々に手を回しても、そのままにはなさらぬのでは」
その見立ては間違ってはいないのだろう。朝倉は中央への伝手も太い。
「確かに。何か約定を結べれば良いが、ここ数年の今川は信用がない」
武田、小笠原、上杉、斯波、土岐。
五郎が当主になる前後で、随分な名門が滅ぶ、ないし傾いた。
貪欲に領地を攻め取っていったと言われても、否定はしがたい。
「それは、致し方ありませぬな。旨味のある腹を見せたからと言って、立て続けに食いつきすぎましょう」
新左衛門は少し、言葉に迷ったようだが、結局は認めた。苦笑を混じらせながらそう言った。
「濃尾は大きすぎる。しばらくは動けないと、見ればわかると思うが」
二つ合わせて百万石を超える。これを飲んで力にするには、国の仕組みごと変える必要がある。
「かと言って、御屋形様には隙を見せたくはない、信じられない、そう言う物では」
主君を信じられないと言ってのける。遠慮のない男である。
仕えるようになって一年近くになるが、息子の新九郎に劣らず毒が強い。
目下の者には穏当で頼りがいを見せるが、目上の者には厄介な話を前触れなく持ち出す。そして答える以上は、自分よりましな答えを返して当然。そのように思っている節があった。
美濃守殿とは合わなかったはずである。いや、新左衛門自体が、そもそも真っ当に部下としては扱えない男なのだろう。
五郎は喉の奥で笑った。
新左衛門は、見咎めるように怪訝な顔をした。
「如何いたしました」
「いや、それより朝倉殿だ。治部が美濃で安堵状をだし始めたあたりで、京から戻ってくると思ったが、まだ戦っているらしい」
朝倉が京へ出している兵は当初五千と聞いている。越前は豊かな国であるが、京から見るに遠方でもある。一万に満たないとはいえ、それだけの軍を置いておくことは、兵の士気や物資の補給などで難しいだろう。
相当な無理をしている。では何のためにそれをしているかと言えば、という話である。
新左衛門も薄々察したようで、眉を顰めた。
「御屋形様は、どう考えておられるので」
「そなたと同じく、今川を幕府の権限で退かす腹であろう」
「退かれるので」
「退かぬ。と、まずは言ってみようか」
新左衛門は袖の内で手を組んだ。
「そうなれば、まずは守護を解任する。そう申されましょうな」
「その時は七カ国分の官位でもいただこうか」
「出来そうな冗談にございます。御屋形様は新帝に貸しがございましょう。ただ公家らも今は、あまり前に出てこられぬゆえ、期待薄でございますな」
新左衛門がそう言って笑った。
歯を見せずに笑うところは、新九郎によく似ている。腹に一物を隠した笑い方である。
五郎はその笑いを一瞥してから口を開いた。
「では、冗談は抜きにして、守護を解任され、朝倉、六角から睨まれて問題があるか」
新左衛門は表情を変えなかった。
「ございませぬ。あと一年いただければ、凡そ美濃衆は頭を下げに参りましょう。今川と縁深き駿河、遠江は言うまでなく。三河、甲斐、信濃も問題はないかと。ただ」
そこで新左衛門は言葉を切った。ゆえに五郎が引き継いだ。
「尾張、織田弾正忠か」
困った人物である。
新左衛門が責めるようにこちらを見た。
「如何されるのですかな。那古野城の抑えで、大人しいものでございますが、あれがおる故、何度も那古野に戻らざるを得ませぬ」
「妻子の顔を見に行っている。弾正忠を気にしてではない」
龍王丸はもう首が据わっている。
この前戻ったときには、五郎の指をつかんで離さなかった。朝姫は那古野の館で二人目を身籠っている。北川殿などは二人目を見るまでは死ねぬとにわかに元気になった。
ちょっとした冗談であるが、新左衛門は気に入らなかったようで、語気を強くした。
「あまり良い言い訳には聞こえませぬ。津島に妾を置いているのではないかと、御台様が疑われたという話を聞くに、相手方にも気にしているのがばれておりましょう」
「嘘が下手と笑ってくれ」
「某は笑えましょうが、弾正忠は笑えませぬぞ」
弾正忠には、勝幡の周囲と津島の口が残っている。石高はそう大きくない。五郎が一声かければ、那古野城の留守兵だけでも圧倒できるだろう。
だが、津島は船の着く町で、納める銭を見るに弾正忠の経済力は一国人のそれを超えている。その経済力を背景に、守護代の清州織田家を脅かしていた家である。生半可にはいかないのだろう。
ただ、尾張のほかの家は、すでに出頭して誓紙を出している。他の国と同じように本領を安堵し、軍役も書面で定めてある。凡そ尾張は今川の色に染まりつつあると言っていいだろう。
五郎は喉を鳴らした。弾正忠のことを思うと、少し甘くなる。
「尾張守護を得れば、頭を下げに来るという話だが、内定した今もその気配はない。どう思う、新左衛門」
「息子の新九郎と似たものですな。ひっくり返せる目があるゆえ、掛け金を大きくしつつ耐える。それではございませぬか」
「あれは理の無いことはすまい。博奕も好む質ではなかろう」
「ですが、御屋形様の関心を買うため、捨て身で現れ、主君を売りました。このままでは後がない、そう思えば博奕もしましょう」
桶狭間。
ふと、その地名が頭に浮かんだ。
やったのは未だ生まれていない息子であるが、父親も必要に迫られればやるのだろう。
「なるほど。正しい」
新左衛門が膝を進めた。前へ出るとき、鼻から抜ける息がかすかに鳴った。
「いっそ、つぶしなさりまするか」
物騒なことを言う男である。元は坊主らしいが、まるでそうは思えない。
「承菊がな、弾正忠を嫌って色々とやっている。だが躱されているらしい」
津島の町衆へ人を入れ、勝幡の被官へも文を回している。その幾つかは、そのまま弾正忠の手へ渡ったらしい。
弾正忠から返事はなかった。どういうことかと、今川に対して詰問しない。大した胆力である。
「あの御坊ですか」
新左衛門は露骨に嫌そうな顔をして黙った。
承菊は知恵のまわる者には嫌われる傾向がある。あの男の歪んだ部分が目に付くのだろう。
「嫌うな、とは言わぬ。ただ味方には毒を回さぬように、気を付けるようにはなった。そのうちに顔はつないでおけ」
新左衛門は迷ったものの、軽く頭を下げた。
やがて廊下から、ごつごつと固い音が近づいて来た。
その音の持ち主には見当がついた。五郎は先に声をかけた。
「源助殿か、入られよ」
隻眼の大林源助が、のっそりと入って来た。
五郎は使っていた綿の厚い座布を滑らせてやった。板の上を半間ほど進んだ座布を、源助は迷惑そうに見たが、鼻を鳴らして座った。
五郎も腰を下ろした。新左衛門は少し後ろへ退き、自分の座布に腰を据えた。
「稲葉城はどうであった」
「どうやっても水の手が悪い」
のっそりと答えた。家臣というより雇いの技術者のようなものであるため、この口の利き方も許していた。
那古野城の大まかな指図を終えた源助は、今度は稲葉城を見ていた。まだ普請へは入っていないが、縄張りをどう改めるかを見るため、山の周囲を歩き回っていた。
井戸は麓に二つ、山上に一つしかない。城に籠るようなことになれば、直ぐに水の手を切られるというのが当初の予測である。城を時間をかけてみて回ってもその答えは変わらないようであった。
またそもそも現在でさえ、人を使って井戸から水を汲んで往復させているのだ。単純に大人数が暮らすのは難しい。
源助は義足の継ぎ目の土を弄った。こぼれた土が五郎愛用の座布に落ちた。
「固い城にはできる。だが、それだけにござろう」
「那古野の如き大がかりな城にする必要はない。最低限の政庁として置きたいのだが」
「平地でよいのでは。攻められるつもりがないのであれば、革手城をいじったほうが良い」
「それが一番であるが、どうにも攻められるやもしれぬ」
源助の眉が上がった。一つだけの目が輝いた。
「六角、朝倉か」
「わかるのか源助殿」
「城造りだけが能ではない。多少は軍略も齧っておる」
自信ありげな口調である。思い出せばこの男は牧野の当主にも進言していたと言っていた。むしろ本分はこちらなのかもしれない。
ならばと思い、五郎は源助に尋ねた。
「では、今の状況に対して、朝倉殿、六角殿はどう動く」
試されたと思ったらしく、源助は顔を顰めた。だが、それでもすぐに答えが返ってくる。
「今川の包囲網。これしかなかろう。御身は大きくなり過ぎた。七カ国、何万石だ」
「米だけで三百五十、いや四百。今年の分はまだだな。そこに銭が乗る」
銭は駿河、遠江の市から入る分一回り増えている。甲斐は絹が大きく伸び、米がとれぬ分を補っている。信濃からは馬、糸、麻が著しく。三河の木綿が、今や日本全土の港に出荷されている。
おおむね満足と言っていい伸びである。
那古野で予定していた銭蔵を追加で立てること、先の見えぬ京の戦への仕送り以外は、今川領内の経営は吉報だらけだった。
源助はその吉報こそが気に入らぬと、鼻を鳴らした。
「まさに怪物よ。殺さねば幕府の権威がなくなる」
「似たような大内殿もおられるが」
西の巨人、大内。明との貿易を牛耳り、莫大な利を得ている。
「御身は何年でここまで大きくした。そしてあと何年生きる。それが答えよ」
五郎は喉を鳴らした。ぐうの音も出ない話である。
「まあ、そう考えれば、今川包囲網は妥当であろうな。であるが、それは公方様が勝った場合であろう」
源助は座布の端をつかみ、尻の下へ押し込んだ。厚い綿が気に入らないらしい。
「負けるとお思いで。道永殿はこの形に成ると今まで勝ってきた。京から追い出され、朝倉、六角といった味方を得て勝つ。いつものことであろう」
「だが、要らぬ味方も増えている」
「御身などでしょうかな」
源助が口角を上げて、犬歯を見せた。
「源助殿」
さすがに新左衛門が口を挟んだ。
源助は、つまらぬと鼻を鳴らす。
五郎はそのやり取りを見ながらも、口を開いた。
「治部を味方と思うのは、公方方には誰もいまい。いまさら言うことでもあるまい。それ以外にもおられよう」
そう言うと、源助は少し考えながら、義足の継ぎ目を爪で弾いた。土の塊がまた座布に落ちた。
それからふと顔を上げた。
「浦上にござるか」
浦上は元々は名門赤松家の守護代であった。嘉吉の乱で没落した赤松を再興し、一時は名臣としてたたえられたこともある。だが、三十年ほど、浦上掃部助村宗の代になると、赤松当主の交代、殺害などをやってのけ、今や播磨、備前、美作の実権を握ろうとしている。
実力者には違いないが、どうにも食わせ者と言わざるを得ない。
その人物が、公方の陣に最近加わったのは有名な話である。
五郎は源助に頷いた。
「味方が増えるは良し。ただ、その後の動きがない。今までは、味方を得た後、大きな戦で一気に追いやっている。それがないため、どうにも働かぬ味方ばかりが増えている」
「勝ち馬に乗りたいものばかりでござろう。さて、どこまで膨らんだのやら」
「六角殿や道永殿より、追加の米や銭が欲しいと頻繁に話が来る。まず、向こう側も想定外に膨らんでいると見ても良いのだろう」
五郎は源助の隻眼を覗き込んだ。ここからが本題であった。
「源助殿が三好筑前守ならばこれをどうする」
あの知恵と胆力を備えた将ならばこれをどうするのだろうか。
源助は義足をまた弄り、その後に答えた。
「一旦和睦し、内々で争わせますな」
「それを細川六郎殿の周りが嫌がったとしたら」
源助は怒ったような顔で腕を組んだ。
実際に怒っているわけではない。考え込むと、もともと厳つい顔がいっそう険しくなる。
今度はすぐには答えが返ってこなかった。
答えを待っていると、城の外から歌が聞こえて来た。
豊作らしく、麓では稲刈りが始まっている。女の声が多く、ときどき子供の声が混じった。
五郎は甲斐の河内を焼いた年のことを思い出した。
あの年も田は実っていた。いや、実っていた気がするだけかもしれない。
ごとり、と大きな音がした。
見れば、源助が義足を床へ落としていた。源助は隻眼を輝かせながら言った。
「苦肉の策かと」
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源助の策を聞いてから、さらに一月ほど経過していた。
秋を過ぎ、冬も見え始めたころ、熱田社の法楽連歌に、五郎は招かれていた。本来ならばまだ稲葉城にいるころであったが、此度は尾張の治まり具合の確認や、内々のこともあり熱田まで訪れていた。
ただ法楽連歌に参加すると言っても、五郎が句を詠むわけではない。弟の芳菊丸をはじめ、今川家中から何人かが座へ出ているため、五郎は奉加をしている者、また尾張を領する者として顔を出しただけだった。
訪れた社は幾分立派なものへと変わっていた。
実際、今川家として社へは、この一年で三度奉加をしている。
屋根の葺き替えには材と人足、灯明には油、神事には米を出した。材も一等の物をえりすぐり、人足も手を抜かぬように十分に期間に余裕を見て出した。その甲斐もあり、商業都市の社としては何処に出しても不足はないものに変わっている。
ただ、そうはいっても社領には手を付けていない。祭礼も、神職の序列も以前のままである。兵を持つこと、勝手に罪人を匿わぬことなど法度に従った上での裁量は認めていた。
きつく締め付けたわけではないが、恨まれているかもしれない。五郎はそう思い、上着を羽織った。
実際、その日の座は社殿脇の一間で、障子を開け放しで、ひどく冷えた。
何もせずに堂々と座るだけであるが、やはり寒さもあり居心地が悪い。
少し指を懐で揉みながら、場を眺めるが、まだまだ終わりは遠い。
座に連なる者は二十人ほどである。神職、寺僧、町の年寄が幾人か、それに今川家中から五人が出ていた。芳菊丸は上座に近いところにいた。随分、火鉢に近く温かそうである。
句を出すたび、隣の神職が何か囁き、芳菊丸が頷いている。少し得意げな頷き方だった。
いっそ、五郎も詠んだ方が、火鉢に近く、体にも良かったかもしれない。
五郎は芳菊丸が読み終えたのを待ってから、座を立った。最初の挨拶が終われば、いつ帰っても良かったが、せめて芳菊丸ぐらいはと思っただけだった。
五郎は最後に、小さく目礼だけを神主に送るとそのまま、外に出た。そしてその足で熱田の街へ降りた。
熱田は船の着く町である。もともと尾張でも栄えた商業都市であるが、今川の巨大な領地と繋がることで一気にその繁栄を大きくした。今川の法度による締め付けはあるものの、それ以上に法度による守りの利を得ている。
事実、戦火は及ばず、もめた場合は沙汰を公平に預かる者がいる。そのことが商いを活発にしている一因でもあった。
その港には今川七カ国の産物が続々と集まり、年の瀬が近いこともあり商人らが威勢よく物の売り買いをしている。
実際、人の行き交いも活発であり、餅米を担いだ女、炭俵を積んだ荷車、気の早い正月飾りを売る者など見ていても飽きが来なかった。
それらを横目に、五郎は顔なじみの商家の別宅へ向かった。
今川家中が熱田で人目を避けて話をするとき、時折借りる家である。今日も念のため空けてもらっていた。
別宅は表から見ると小さいが、奥へ長い。蔵と庭があり、庭の木戸から裏の路地へ抜けられた。
今回の法楽連歌にあたって、五郎の周囲には常より多めの護衛を置いてあり、遠巻きであるが熱田を守る兵も置いている。
また、草の者もそこそこに置いているため、招いていない客がいることにも気づいていた。
社を出てから、少し離れて後をついて来ている。こちらを害しようというよりかは、只管に戸惑いながら追いかけてくるような足取りである。
別宅の前まで来たところで、五郎は足を止めた。振り返り、僅かに声を張った。
「伊予守殿。話そうか」
追いかけていた、大館伊予守が、わずかに息を呑んだ。
伊予守は幕府の正式な取次役である。奉公衆の家に生まれ、公方の側で文を扱い、諸国との遣り取りを預かって来た。京を取り戻すか、取り戻さないか、そのような戦の最中において軽々に公方の側を離れられる男ではない。
ましてや近々では公方は、決戦を前にその味方を膨らませている。伊予守の仕事は、佳境と言っていい。
だが、それでも来た。
つまり、よほどのことなのだろう。
伊予守は、声をかけられると、おずおずと歩み寄り、頭を下げた。旅装のままで、袴の裾には泥が跳ね、乾いて白くなっている。堺が使えぬ以上、馬を乗り継いできたのだろう。駿府よりも近いが、それでもいくつもの国を跨いだ遠出には違いない。
伊予守の側には若い男が一人いた。これも幕臣らしく、五郎を見ると頭を下げた。
二人は護衛へ刀を預け、五郎の後から別宅へ入った。若い男は一度手を止めたが、伊予守が先に鞘を渡すと、それにならった。
五郎は先に奥の一間へ入った。その一室は常であれば数人の男が談合しても十分な広さがある。だが、五郎と護衛、それに幕臣二人が座ると、普段は広く感じる部屋が狭くなった。
五郎は火鉢へ炭を入れた。箱に小さく割った炭が置かれている。三つほど入れ、火箸で寄せた。
ようやく指先に感覚が戻って来た。
伊予守と若い幕臣は、五郎が自分でそのようなことをするのを意外そうに見ていた。
「お忙しい中、何用か」
五郎は言いながら、火鉢を伊予守の方に少し押した。伊予守は、頭を下げてから火鉢へ手をかざした。
「美濃の件にございます。手放してはいけませぬか」
突然のことではない。
五郎は火箸で炭を穿った。
「土岐ではおさまらぬゆえ、今少し治部が見よう」
「いつまで」
手をかざしながら、伊予守が上目遣いで探った。
「広い国ゆえ、長い」
伊予守の顔が変わった。探る者から固く、何かを決心した顔になった。
火にかざしていた手が膝へ戻る。
五郎は火箸で灰を崩した。
「治部の聞くところによると、公方様が御所に戻られた暁には、美濃から手を引くように今川に申し付ける。そのように朝倉殿に申されていると。これは誠であろうか」
「噂にございましょう。噂に躍らされ、今川はここまで来て、幕府への奉公をおやめになられるか」
否定はしなかった。しなかったが、物を絶やさぬようにと願った。
厳しい言い訳である。伊予守は口を開くときは、一つ二つ切り札をもっておくが、今日はそうでないようだった。
意外である。
五郎は、ふぅん、と小さく唸った。
伊予守の顔が強張り、若い幕臣も身体をわずかに動かした。
五郎は火箸を操りながら、尚も問うた。
「伊予守殿が申したき儀はそれだけであろうか」
なにか出せる物はないのか。そう言った。
「いえ、尾張守護と引き換えでは如何であろうか」
若い幕臣が膝の上で手を握った。この場で初めて聞いたらしい。
五郎は目を伏せた。
「それは元よりいただけるもの、そう言う話であったかと」
「文では幕府への働き次第とございました。美濃を領しながら、決して前に出ぬ治部殿にとっては、決して少なくございますまい」
後詰をすると言っておきながら、前に出ないことを責めているらしい。
「六角殿が頷けば出る。そう言ったが」
「少数であれば六角殿も頷かれたかと。いっそ人質を預けるなど、」
ちきり、と刀の鍔が鳴った。護衛の誰かが刀に手をかけたのだろう。
若い幕臣が唾をのんだ。
五郎は護衛らを一瞥した。今日は駿河の者が多い、五郎の子や弟らの話は琴線に触れるらしい。
「聞かなかったことにしよう。できなんだ奉公ではなく、すでに行った奉公について話す方がよい。して、今川は想定以上に蔵を空けたが、足らぬと申されるか」
この半年で米は三度、銭は五度送った。荷駄も運び賃もこちらで持ちで、延べで言えば万石は軽く超えている。七カ国の領主と言えど、笑って済ませられる額ではない。
だというのに、尾張守護については、最初に匂わせた後、なんら音沙汰がなかった。
「足らぬとは申しませぬ。されど弓矢の功には勝るものでしょうか」
「そう申されれば、蔵を閉じ、あとは武辺の者だけで勝ちなされ、そう言うこともできましょう」
「それは、」
話は最初に戻る。
「堂々巡りにございますな」
五郎は火箸を火鉢の縁へ置いた。
「伊予守殿は公方様の正式な御使で来られた訳ではなかろう。結局何を申されたい」
伊予守が、喉を上下させた後、微かに膝を進めた。
「先の関東の一件を見るに、治部殿は誰の武威にも退かれぬ。おそらくでございましょうが、朝倉、六角殿が声を揃え、美濃を手放せと言っても、手放さぬ所存と見受けられる」
五郎はただ目を細めた。伊予守にはそれで十分だったらしい。
「愚見でございまするが、そうなれば幕府を支える三家の間で争いが起こりましょう。これは幕府にとり、何をもってしても防ぐべきことにございまする」
「ゆえに今川は退けと」
五郎が言うと、伊予守の目が見開かれた。
「あえて言葉にすれば、そうにござる。六カ国の正式な守護となられる、そのうちの尾張は大国でございまする。何の不足がございましょうか」
五郎が微動もしないとなると、伊予守はさらに声を大きくした。
「公方様が言葉にする前に美濃を返還すれば、公方様は治部殿を頼りにし、管領」
言い切る前に五郎は火箸を突きつけた。熱を持った鉄の棒きれが、にじり寄ってきた伊予守の喉元に置かれた。
五郎は火箸を戻しながら、そっと言った。
「その先は僭越ゆえ、おやめになられよ」
伊予守がはっとした顔で、口を閉じた。膝の脇に置いた手が、畳の縁をつかんでいる。
五郎はあらためて、伊予守の頭の先からつま先までじっと見た。
この男は幕府のために泥を被ることを厭わないのだろう。
そして、幕府が美濃を手放す様に今川に命を出すことも防げない、そう見ている。ゆえに、先に今川に内々で話を付けに来た。
先んじて嫌われにやってきたのだ。
「大したものだな」
伊予守は唇をかんだ。唇をかんだまま目を伏せた。
「先の関東の一件より、治部殿が伊予守に不快を覚えているのは承知にござる。されど、これは今川家の御本家、足利のために、」
「伊予守殿に不快を覚えたつもりはない」
伊予守が眼を上げた。若い幕臣も、じっと五郎を見た。
「今川の蔵で勝っていながら、領地を取り上げる話をする。度々難しい役どころを任されるものだと、感心していた」
いや、今のは少し嫌味に聞こえすぎるか。
五郎は、内心で苦笑しながら立ち上がった。護衛らも音もなく立った。
もう十分だった。
だが、伊予守は何時かと同じように言い縋った。
「お待ちください。治部殿。朝倉、六角の両家は幕府の御為に必要にございまする。これを砕くは足利のためになりませぬ」
五郎はわずかに眉を上げた。
「それは公方様らに言うべきことであろう」
伊予守も立ち上がった。
五郎より目線が低い。だが、そうは思えなかった。
「伊予守は主君に諫言すらできぬ男と見誤られるか」
痛みにあえぐようにして、伊予守は言った。
「いや、既に散々やっておられるのだろう。だが道永殿が、握りつぶす。そう言う方ゆえ、波多野兄弟が叛く」
伊予守は何も返さなかった。苦しむ顔のまま、再び腰を据えた。
そして、座したまま深く頭を下げた。
五郎は護衛が開けた襖から廊下へ出た。二歩ほど進んでから、足を止めた。
このまま去るには心残りがあった。
ゆえに顔だけを動かし、五郎は口を開いた。
「伊予守殿、まず勝てると思うておられるが、それは危うかろう。危うい戦の前に、諫言などはやめておかれよ」
伊予守は座ったままだった。
「そうは言えど勝ちましょう。浦上殿、赤松殿といった者らも続々と陣に加わり、阿波と大戦をしようとしております。この形に成れば、道永様は負けませぬ」
「道永殿の過去については知っている。ただ、今の陣容、その加わった浦上殿とやらは少々不味かろう」
伊予守は少し唸ったが、やはり納得いかぬようだった。
「赤松殿との関係を仰っておられるか。これは幕府の命で和睦をなさっておる。それに、浦上殿は兵を出し阿波方を押すなど、既に武功を上げておられる。これを疑うなど」
浦上掃部助は、赤松の現当主、次郎政村の父を謀殺している。
その遺恨が浅いはずはない。時をかければ、多少は和らぐかもしれないが、謀殺より十年もたっていない。
現に、二家は同じ陣に入っても、どちらが上座に就くかさえ定まっておらず、陣中では一切口も利かないらしい。
明らかに穴がある。その穴をあの三好筑前守が見逃すとも思えなかった。
五郎は前を向いた。一通り言うと、心残りはもうなかった。
「どちらにせよ、勝つと思われるのであれば、勝った後、機嫌のよい時に諫言されたほうが良い」
そう言って、別宅を出た。




