第99話 帰る背中
レンツは、三日いた。
検分書を破りはしなかった。取り下げもしなかった。ただ、七つの欄のうち、二つを空けたまま、書付を革の袋に収めた。
それを、止めなかった。
空欄のまま持ち帰る、というのが、この男の選んだ道だった。埋めれば嘘になる。破れば職を疑われる。空けて帰れば、判断は上に委ねられる。
――逃げではない。
これは、様式に忠実であろうとした男の、精一杯の誠実だ。
出立の朝、雪がまた少し降った。
馬の支度をする供の傍らで、レンツは外套の前を留めていた。三日前と同じ、泥ひとつない外套だった。
「視察官どの」
「はい」
「一つ、私事を申し上げてもよろしいか」
私は、黙って先を待った。
彼は、庫の扉のほうへ目をやった。
「私は、記録院に十二年おります。その前は、南の区で書役をしておりました。あの頃は、誰も私の綴りを読みませんでした」
声は、平らなままだった。
「毎日、埃を吸って、紐を締め直して、番号を振って。それだけをしておりました。褒められたことは、一度もありません」
黙っていた。
この話を、私はすでに一度、別の口から聞いている。ヨナが火のそばで語った、記録卿の噂として。
「ある日、記録院の使いが来まして」と、レンツは続けた。「私の綴りは、使えると言われました。十二年前のことです」
「嬉しかったですか」
「はい」
彼は、即答した。
「たいへん、嬉しゅうございました」
その正直さが、かえって重かった。
「それからは、迷ったことがありません。紙は、埋めれば埋まる。埋まれば、上が喜ぶ。喜ばれるということが、あんなに楽なものだとは、思いませんでした」
雪が、彼の外套の肩に落ちて、すぐに消えた。
「ですが」
レンツは、そこで言葉を切った。
「あなたのような手を、私は、あとお一人しか知りません」
「一人」
「はい。その方は、帝都におられる」
その名を、訊かなかった。
訊く必要が、なかった。
レンツは、馬に乗った。それから、鞍の上で一度だけ振り返った。
「あの棚には、触れぬほうがよろしい。これは、検分官としてではなく、書役として申し上げます」
馬が、雪を踏んだ。
二つの背中が、白い道の向こうへ小さくなっていった。
ヴォルクが、庫の戸口に立っていた。
いつからそこにいたのか、私は気づかなかった。老人の手が、戸の枠を強く握っている。指の節が、白い。
「……手ぶらで、帰った。ヴォルクどの」
「検分の者が、手ぶらで帰るのを、私は見たことがない」
声が、震えていた。
「二十年だ。年に幾度も来た。中を検め、封をして、必ず何かを持って帰った。誰かの名を。手ぶらで帰った者は、一人もいない」
老人は、私を見た。
その目に浮かんでいるものを、私は、うまく名づけられなかった。
恐れではない。感謝でもない。もっと、根の深いところが揺れている目だった。
――信じてきたものが、揺れている。
この二十年、彼は「触れれば必ず取られる」という一つの法則を頼りに生きてきた。だから触れなかった。だから守った。だから、生き延びた。
その法則が、いま、目の前で一度だけ破れた。
破れてしまうと、彼が守ってきた二十年が、何だったのかという話になる。
「……あんたは」
ヴォルクの声が、掠れた。
「あんたは、何をしたのだ」
「何も。彼の様式を、そのとおりに埋めただけです」
老人は、長いこと黙っていた。
それから、戸の枠から手を離した。
その日のうちに、噂は区じゅうに走った。
視察官が、検分を返した。
言葉は、そういう形をしていた。追い返したのでも、言い負かしたのでもない。返した、というのが、この土地の人の選んだ言い方だった。
夕方、配給所の年かさの書記が、庫に来た。
用は、何もなかった。ただ、私の机の前にしばらく立って、それから、こう言った。
「……うちの村の、税の控えを」
「はい」
「見せて、いただけますか。自分の家の分だけで、結構ですので」
私は、顔を上げた。
この二月、この庫に来る者は、ヨナとヴォルクだけだった。
その扉を、いま、三人目が叩いていた。
派手な勝利ではありません。書付は空欄のまま帝都へ行きました。
けれどこの土地では、「何も取られずに済んだ」ことのほうが、よほど大事件なのです。




