第100話 棚の前に列ができる
次の日、庫の前に、四人いた。
その次の日は、九人だった。
みな、同じことを言った。自分の家の分だけで結構です、と。
税の控え。配給の受け取り。人別の綴りに、自分の名がどう書かれているか。
――誰も、自分の記録を見たことがないのだ。
私は、そのことに、ようやく気づいた。
この国の記録は、上へ運ぶために書かれている。書かれた者が読むことは、想定されていない。だから村人は、自分が何人家族として数えられているかも、去年いくつ納めたことになっているかも知らない。
知らないまま、その数字で裁かれる。
「写しを作りましょう」
私が言うと、ヴォルクが目を剥いた。
「写し」
「原本は渡せません。ですが、写しなら渡せます。本人の分だけを、本人に」
「そんな例は、ない」
「禁じる例も、ありませんね」
老人は、口を開けて、閉じた。
ヨナが、横で小さく噴き出した。この青年が声を出して笑うのを、私は初めて聞いた。
写しの作業は、単純だった。
該当の頁を探し、必要な行だけを別紙に書き写し、日付を入れて、庫の印を捺す。それだけだ。手間はかかるが、難しくはない。
難しいのは、探すほうだった。
この庫の記録は、村ごとにも、名ごとにも並んでいない。だから私は、索引を作ることにした。
名と、村と、年を、三つの帳面に分けて引く。どこから来ても、その人の行にたどり着けるように。
三日で、粗い形ができた。
ヨナが、それを見て言った。
「……あんた、これ、いつ寝てるんだ」
「あなたも寝ていないでしょう」
「俺は若い」
「私も、そこまで年寄りではありません」
ヨナが、また小さく笑った。
笑うのだ、この青年も。二度目だった。私は、それも覚えておくことにした。
十日目には、列ができていた。
庫の戸口から、雪の残る道へ。
老人が、子どもが、荷車を引いてきた男が、順番に並んでいる。誰も大声を出さない。この土地の人は、人が集まる場所で声を出さない。声を出せば、聞いている誰かがいるからだ。
だから、列は、恐ろしく静かだった。
一人ひとりに、写しを渡した。
受け取った者の反応は、二つに割れた。
一つは、すぐに畳んで懐へ入れる者。もう一つは、その場で立ち止まって、いつまでも見ている者だった。
後者のほうが、多かった。
字が読めない者もいた。それでも、彼らは見ていた。自分の名が書かれた紙を。
昼過ぎ、一人の女が、写しを持ったまま動かなくなった。
五十くらいの、痩せた女だった。
「……これ」
声が、掠れている。
「これ、うちの人の名前が、まだ入ってる」
帳面を確かめた。
人別の綴りに、その家は四人と記されていた。だが、渡された写しの上で、女は指を三つしか折らなかった。
「三年前に、連れて行かれました」
女は、そう言った。
密告で。審査もなく。
「役場は、もういないものとして扱います。配給も、三人分しか来ません。でも、この紙には、まだいるんですね」
私は、答えを探した。
直すべきだろうか。人別を正して、四人を三人にすべきだろうか。それが、記録を整えるということだ。
――違う。
直せば、この人は、この国で完全に消える。
「消しません。配給の帳面は、三人で回します。ですが、人別の綴りは、四人のままにします。この方は、いなくなったのではありません。連れて行かれたのです。それは、別のことです」
女が、私を見た。
しばらく、何も言わなかった。
それから、写しを胸に押しつけて、深く頭を下げた。礼の言葉は、なかった。
この土地の人は、めったに礼を言わない。
私は、小さく頷いた。
その日の夕暮れ、列の最後尾に、一人残っていた。
ヴォルクだった。
二十年、この庫を守ってきた老人が、他の者と同じように、順番の最後に立っていた。
私は、驚かなかったふりをした。
「ヴォルクどの。ご用は」
老人は、しばらく口を開かなかった。
それから、庫の奥の、鍵のかかった棚のほうを、ちらりと見た。
そして、言った。
「……私の分も、あるだろうか」
第百話です。ここまで書き継がせてくださって、ありがとうございます。
派手な回にしませんでした。この作品の百話目は、列に並ぶ人たちの話がいい、と思ったからです。




