第101話 二十年、封をしてきた男
ヴォルクの名は、索引の三つ目の帳面にあった。
オルデン辺境区、庫付。管理役。二十年。
私は、彼の求めた写しを作った。難しい仕事ではなかった。この老人の記録は、恐ろしいほど整っていた。
整いすぎていた。
欠けが、ない。年も飛んでいない。訂正の跡は、一つも見つからなかった。二十年分が、まるで最初から一日で書かれたように、まっすぐ並んでいる。
――手入れがされている。
あの棚と、同じ手で。
その写しを渡さずに、机に置いた。
「ヴォルクどの」
老人は、庫の隅の椅子に腰かけていた。列が引けたあと、彼だけが残っていた。
「あなたの記録には、家族の欄があります」
「……ある」
「空白です」
「そうだ」
「あなたは、ずっと一人でしたか」
ヴォルクは、答えなかった。
答えないことが、答えだった。
私は、椅子を引いて、彼の向かいに座った。この庫で、私が誰かの向かいに座るのは、初めてだった。
「弟が、いた」
やがて、老人は言った。
「三十年前だ。……いや、三十一年になるか」
指が、膝の上で動いた。数えている手つきだった。
「よく喋る男でな。私と違って、人に好かれた。役場に出て、区の者の口利きなどをしておった」
「どうなりました」
「棚に入った」
ヴォルクは、庫の奥を見なかった。
見なくても、そこに何があるかを、この男は毎日知っている。
「密告だ。誰が告げたかは知らん。知ろうとも、しなかった」
「調べれば、分かったのでは」
「分かった」
老人の声が、低くなった。
「調べれば、分かる場所に、私はいた。庫の付きだからな。あの頃はまだ、封も緩かった。夜に一人で開けようと思えば、開けられた」
私は、黙っていた。
「開けなかった」
ヴォルクは、はっきりと言った。
「開けようとして、封の前に立って、それから、帰った。三晩、そうした。四晩目には、もう行かなかった」
庫の梁が、鳴った。
雪が屋根から滑り落ちる音が、遠くでした。
「その代わりに、私は、あの棚を守る役目を引き受けた」
「……守る」
「そう言われた。帝都から来た者に。おまえは真面目だから、任せると。……私は、頷いた」
老人は、自分の手のひらを見ていた。
二十年、封の紙を貼り替えてきた手だった。
「頷けば、私は生きられた。庫の付きは、家がなくても飯が食える。年をとっても、追い出されん。弟の名が入った棚を磨いて、私は、二十年、飯を食った」
彼は、そこで初めて、私を見た。
「あんたは、私を軽蔑するか」
首を振った。
振ったあとで、それが誠実な答えかどうかを、少し考えた。
「軽蔑はしません」
「なぜだ」
「あなたが守っていたのだと、私は思っていません」
ヴォルクの眉が、動いた。
「あなたは、見張られていたのだと思います」
老人は、口を開けた。
何か言いかけて、言わなかった。
「守る役目を引き受けた者は、その棚から離れられません。離れれば、次に開ける者が現れる。だから、彼らはあなたを置いた。役目は、鎖です。二十年、あなたは鎖の内側で、封の紙を貼り替えていた」
「そんなことは」
声が、途中で切れた。
ヴォルクの肩が、小さく落ちた。
この老人は、たぶん、とうに気づいていた。気づいていて、二十年、そう思わないようにしていただけだ。
人は、そういうことができる。
私も、できる。
梁が、また鳴った。
やがて、ヴォルクが、掠れた声で言った。
「……あんたは、あの棚を開けたいか」
「開けたいです」
私は、隠さなかった。
「ですが、開けません。私が開ければ、次に消えるのは、あなたとヨナです」
「そうだ」
「だから、開けません」
老人は、しばらく黙っていた。
それから、椅子から立ち上がった。膝が、鳴る。年寄りの、重い立ち方だった。
彼は、庫の奥へ歩いていった。鍵のかかった棚の前で、足を止める。
封の紙に、指を当てた。
剥がすためではない。二十年、そうしてきた手つきで、ただ、押さえた。
背を向けたまま、彼は言った。
「あの棚の鍵は、私が持っている」
私は、綴りに落とした目を、上げなかった。
「帝都は、そう思っていない」
老人の声が、低く落ちた。
「あれの鍵は、年に幾度か来る者が持ってくる。そう思われておる。だが、二十年のあいだに、一度だけ、置いていった者がおった」
彼は、こちらを振り返らなかった。
「拾った。返さなかった。なぜ拾ったのか、自分でも分からん」
ヴォルクの二十年を書きました。裏切り者にも、臆病者にもしたくありませんでした。
役目というのは、しばしば、いちばん丁寧な鎖の形をしています。




