第102話 鍵を置く音
私は、鍵をくれとは言わなかった。
言えば、それは請求になる。請求は、記録に残る形の行為だ。この老人が二十年かけて避けてきたのは、まさにそれだった。
だから、私は何も言わずに、いつもの仕事に戻った。
配給の突き合わせ。人別の写し。索引の三冊目。ヨナと二人で、村の名を一つずつ拾っていく。
ヴォルクは、その日、庫を早く出た。
次の日も、その次の日も、彼は口をきかなかった。挨拶に頷くだけの、以前の老人に戻っていた。
三日目の夜。
私は、庫に一人で残っていた。
索引の三冊目が、あと少しで形になる。灯を一つだけ点けて、名を拾い続けていた。手が冷え、指が思うように動かない。息が白い。
――もう少し。
村の名を書き終えたところで、私は顔を上げた。
戸のあたりに、人の気配があった。
振り返る前に、音がした。
机の端で、硬いものが木に触れる、小さな音。
振り返ったときには、もう誰もいなかった。
戸が半分開いて、雪の匂いだけが残っている。足音は、聞こえなかった。老人が、あれほど静かに歩けるとは思わなかった。
机の端に、鍵が一つ置かれていた。
黒い、古い鉄の鍵だった。
持ち手のところが、擦り減っている。二十年、誰かの指が触れ続けた形をしていた。
しばらく、それを見ていた。
手に取らずに。
――記録に、残っていない。
誰が置いたとも、いつ渡したとも、どこにも書かれていない。声にも出されなかった。頼まれてもいないし、渡されてもいない。ただ、そこにある。
これが、この国の作法だった。
書けば、密告帳へ行く。だから、この土地の人は、大事なことを書かずに渡す。名を出さずに助け、礼を言わずに受け取る。忘れたふりをして、覚えている。
二十年、ヴォルクはその作法を、封の紙を貼り替えながら、身につけてきた。
私は、そのことを、記録の人間として、正しく理解したいと思った。
――記録は、いつも正しいわけではない。
書けば守れるものがある。書けば殺されるものがある。
それを、この国に来るまで知らなかった。
鍵を手に取った。
冷たかった。思ったより、軽かった。
次の朝、ヨナが庫に来た。
私が机の上に置いた鍵を見て、彼は足を止めた。
顔から、色が引いた。
「……それ」
「ええ」
「どこで」
「置いてありました」
それ以上、言わなかった。
ヨナは、しばらく鍵を見ていた。それから、庫の奥の棚を見て、また鍵を見た。
彼の指が、無意識に、自分の袖口を握っている。
「あんた」
「はい」
「開けるのか」
「開けます。ただし、条件が三つあります」
ヨナが、顔を上げた。
「一つ。封は、あとで元に戻します。同じ紙、同じ糊。帝都の者が来ても、開けた痕が残らないように」
「……できるのか」
「封の紙は、この庫の紙です。糊も。私は、王国で公文書の封を扱っていました」
ヨナが、息を呑んだ。
「二つ。あなたは、手伝わなくて構いません」
「なんで」
「あなたの手が入れば、あなたが罪状になります」
私は、机の上の鍵に、指を置いた。
「三つ。私たちは、一枚も持ち出しません。写します。原本は、一枚残らず棚に戻す」
庫が、静かだった。
ヨナは、長いこと黙っていた。
それから、彼は、机の前に来た。
束を抱えるでも、帳面を開くでもなく、ただ、私の向かいに立った。
「一つ目と、三つ目は、飲む」
声は、低かった。
「二つ目は、断る」
「ヨナ」
「あんた一人で、三十年分を写せるのか」
できない。
三十年分だ。数万件ある。一人では、冬が終わっても終わらない。
「俺の家族が、あそこにいる」
ヨナは、まっすぐ私を見ていた。
初めて、この青年が、私から目を逸らさなかった。
「あんたが罪状を背負うのは、あんたの勝手だ。でも、俺の家族の名前を、俺以外の手で写されるのは、嫌だ」
私は、鍵から指を離した。
「分かりました」
その日の夜、私たちは灯を二つ点けた。
庫の奥へ歩いた。
鍵と、封と、新しい紙。三十年分。
私は、封の紙の縁に、湿らせた布を当てた。
書かずに渡す、という作法の話でした。
記録の人であるリリアーナが、「書けば殺されるものがある」を初めて正面から認めた回でもあります。




