第103話 三十年分
棚の中は、静かだった。
私は、なぜか、もっと禍々しいものを想像していた。腐臭とか、黒ずんだ紙とか、そういうものを。
だが、そこにあったのは、ただの綴りだった。
よく手入れされた、整った綴り。紐は締め直され、番号は連番で振られ、年ごとに揃えられている。埃さえ、ほとんどない。
美しい、とすら言えた。
――丁寧だ。
その丁寧さが、こわかった。
誰かがこれを、憎しみで扱っていたなら、まだ楽だった。憎しみは、乱れる。乱れは、痕を残す。
だが、この棚を扱ってきた手には、乱れが一つもない。
愛されている。
この記録は、確かに、誰かに愛されている。
「……綺麗だな」
ヨナが、掠れた声で言った。
彼も、同じことを思ったのだろう。
「三十年分あります」私は言った。「数えましょう」
「数える?」
「まず、量を知ります。量を知らずに始めれば、途中で心が折れます」
私たちは、綴りの束を数えた。
年ごとに、七つから十二の束。一束が、およそ二百件。三十年分。
数え終えて、ヨナが天井を仰いだ。
「……五万を、超える」
「ええ」
「五万人が、告げられたのか」
「いいえ」
綴りの一つを開いた。
「五万件、告げられたのです。同じ人が、何度も告げられている。そして、同じ人が、何度も告げています」
最初の一冊を、私は端から読んだ。
三十年前の秋。オルデンではない、南のどこかの区。罪状は、税の隠匿。証言者、匿名。断罪、即日。
次。禁じられた集まり。証言者、匿名。即日。
次。不敬。証言者、匿名。即日。
速い。
どれも、告発から断罪まで、一日か二日で終わっている。審査の欄はあるが、いつも「済」の一字だけだ。誰が済ませたのかは、書かれていない。
だが、読み進めるうちに、私は別のことに気づき始めた。
名前が、戻ってくる。
ある年に証言者として現れた名が、三年後には被告発者の欄にいる。その者を告げたのは、かつてその者が告げた家の、息子だった。
その息子も、五年後に告げられている。
告げた者が、告げられる。
告げられた者の残りが、また告げる。
私は、頁を繰る手が止まらなくなった。
「ヨナ」
「なんだ」
「この国の密告は、一方通行ではありません」
三冊の綴りを並べた。
「渦です」
ヨナが、覗き込んだ。
私は、名を指でたどって見せた。この名が、ここで告げ、ここで告げられ、その家の者がここで告げている。線を引けば、円になる。
いくつも、いくつも。
「……なんだ、これ」
ヨナの声が、震えていた。
「みんな、いずれ落ちるのか」
「順番が違うだけです」
私は、静かに言った。
「先に告げれば、その回は助かる。だから人は急ぐ。急げば、また誰かが急ぐ。この渦は、止まりません。止める仕組みが、どこにもないからです」
王国の断罪は、違った。
あれは、上から下への刃だった。強い者が、弱い者を落とした。だから、上を止めれば止まった。
この国は、そうではない。
隣人が隣人を落とす。落ちた者の子が、また隣人を落とす。頂にいる者は、刃を振るっていない。
――刃を、配っているだけだ。
その恐ろしさに、私はしばらく、動けなかった。
イリスの声が、耳の奥で鳴った。
この国の断罪は、あなたが思うより、ずっと深い。
――深い、というのは、こういうことか。
深いのは、根の話ではなかった。
広さの話でもなかった。
この国の断罪には、誰も責任者がいない。全員が、少しずつ加害者で、全員が、順番待ちの被害者だ。
誰を倒しても、終わらない。
夜が更けた。
灯の油が減っていく。ヨナは、疲れも見せずに写しを続けていた。彼の手は速く、字は角ばっていて、読みやすい。
私たちは、年の若いほうから遡っていた。三十年前から順に、ではない。ヨナの家族が消えた年へ、近づいていく向きに。
やがて、その年の束に、手が届いた。
一度、手を止めた。
「ヨナ」
「……ああ」
彼も、分かっていた。
束の紐をほどいた。
連番を追う。三十六、三十七、三十八、三十九。
四十。
――あった。
密告は一方通行ではなく、渦なのだ、という回でした。
倒すべき悪人が、どこにもいない。だから第二部の敵は「様式」なのだと思っています。




