第104話 四十番の名前
連番四十の頁は、破られていなかった。
庫の台帳から抜かれていた一枚。番号だけが残り、中身のなかった、あの空白。
その中身は、ここにあった。
抜き取られたのではない。移されたのだ。誰かが、庫の綴りから外して、この棚へ入れた。
――だから、痕が残っていた。
消したのではなく、しまっただけだから。
灯を近づけた。
ヨナが、隣で息を止めている。
罪状。禁じられた集まり。
被告発者。三名。
名前が、書かれていた。
庫の綴りでは墨で潰されていた、その三つが、ここでは潰されずに残っていた。当然だ。この棚は、上へ運ぶための記録ではない。誰が誰を告げたかを、握っておくための記録だ。
握るためには、名がいる。
ヨルグ。
マリカ。
ニナ。
それを、声に出さなかった。
隣で、ヨナの喉が動いた。
「……ヨルグ」
彼は、読んだ。
「マリカ。ニナ」
三つとも、丁寧に読んだ。
早口にも、掠れさせもしなかった。一つずつ、区切って。まるで、そう読まなければ届かない相手に呼びかけるように。
私は、頁を押さえたまま、動かなかった。
彼は、何も言わなかった。泣きもしなかった。
ただ、指で、その三行をなぞった。
何度も。
紙を傷めない手つき。書記の手だ。この庫で、家族の名が消されていく場所で、彼が身につけた手だった。
どれくらい、そうしていただろうか。
やがて、ヨナが言った。
「妹の名前、ニナっていうんだ」
「ええ」
「六つだった」
「……ええ」
「六つの子が、禁じられた集まりに出るかよ」
声は、掠れてさえいなかった。
怒鳴らなかった。彼は、この六年、一度も怒鳴らずに生きてきたのだろう。怒鳴れば、次に名を入れられる国で。
「出ません」
「ですが、この様式には、年齢の欄がありません」
ヨナが、私を見た。
「六つでも、六十でも、この紙の上では同じです。罪状、被告発者、証言者、日付。それだけしかない。だから、書けてしまう」
頁の右側を指した。
証言者の欄。
匿名、と書かれている。
だが、その下に、庫の綴りにはなかったものがあった。
小さな四角い印。掠れた朱。
「これは」
「受理者印です」私は言った。「告発を受け取った役人の印。この棚の記録にだけ、押されています」
「なんで」
「握るためです」
灯を寄せた。
「匿名の告発でも、誰が持ち込んだかは、受け取った者が知っています。それを残しておかなければ、後で使えない。この棚は、告げた者の名を、握っておくためのものです」
ヨナの指が、その朱の上で止まった。
「……じゃあ」
「ええ」
「誰が俺の家族を告げたか、分かるのか」
私は、頷いた。
頷いてから、少し、後悔した。
――言わないほうが、よかったかもしれない。
この青年は、六年、憎む相手を持たずに生きてきた。相手のない痛みは、重い。だが、相手のある痛みは、人を変えてしまう。
私は、それを王国で見た。
断罪された者が、断罪する側に回っていく速さを。
「ヨナ」
「言えよ」
「今日でなくても」
「言えよ」
彼の声が、初めて、少し尖った。
朱の印を見た。
受理者印は、区の役場のものだ。押した者は分かる。だが、印そのものは、告発者の名を示さない。
示すのは、その隣の、細い数字だった。
受理の順番。この年、この区で、何番目に持ち込まれた告発か。
その番号を、区の受付帳と突き合わせれば、持ち込んだ者が分かる。
受付帳は、庫にある。私は、それを整理した。二月前に。自分の手で、村ごとに畳み直した。
だから、どこにあるか知っている。
――皮肉なものだ。
私が整えなければ、この夜、彼はまだ知らずにいられた。
「……調べれば、分かります」
私は、正直に言った。
「明日でも、いいですか」
ヨナは、しばらく黙っていた。
それから、灯のほうを見た。
「――いや。今、いい」
名前が戻る回でした。ここだけは、静かに書きたくて、感情を足しませんでした。
ヨナは怒鳴りません。怒鳴らずに生きるしかなかった六年が、この一話の下にあります。




