第98話 埋まらない欄
私は、罪状の欄から埋めた。
彼の様式のとおりに。上から順に。
国家記録の窃取。被告発者、ヨナ。証言者、匿名。日付、本日。場所、オルデン辺境区記録庫。
ここまでは、何も詰まらなかった。
筆が、するすると進む。
――速い。
自分の手が速いことに、私は少しだけ吐き気がした。
六つ目の欄で、私は筆を止めた。
事実。
「レンツどの。ここには、何を書きますか」
「窃取の事実です。いつ、どの記録を、どこへ持ち出したか」
「持ち出していません」
「では、閲覧の事実で結構です。国家記録を、権限なく開いた日」
「開いた日」
「はい」
そのとおりに書いた。
庫の記録に、私が最初に手をつけた日。オルデンに着いた翌日。ヨナと初めて言葉を交わした日。私は、その日付を覚えている。記録を扱う者は、日付を忘れない。
書き終えて、私は顔を上げた。
「では、次に、あなたの検分書を拝見してもよろしいですか」
「――なぜです」
「照らし合わせるためです」
レンツは、しばらく私を見ていた。
それから、自分の書きかけの紙を、机の上で回して寄越した。
律儀な男だった。求められれば見せる。隠す理由がないと思っている。それが、この様式を信じているということだった。
二枚を並べた。
彼の紙と、私の紙を。
そして、日付の欄を、指で押さえた。
「レンツどの。あなたの検分書の日付は、本日ですね」
「はい」
「証言者は、匿名」
「はい」
「その匿名の証言者は、この庫で何が起きたかを、その目で見た者ですか」
レンツの筆が、止まった。
彼は、答えなかった。
答えられなかったのだと思う。
「様式の第二条」と、私は言った。「証言者は、その行為をその目で見た者に限る。この国の紙の、二枚目に書いてあります。私は昨日、庫の綴りで読みました」
「……読まれましたか」
「読みました。あなたの様式は、よくできています。だから、読みました」
私は、日付の欄から指を離さなかった。
「私が庫の記録を開いたのは、二月前です。事実の欄には、そう書きました。あなたの証言者は、本日、帝都から来たあなたに告げた。二月前のこの庫の中を、その者は、どこで見たのですか」
庫が、静かになった。
ヨナが、息を詰めている。
レンツは、自分の紙を見下ろしていた。平らな顔のまま、微動もしない。
やがて、彼は言った。
「……匿名の証言は、証言者の所在を問いません」
「では、その者が見ていなくてもよいと」
「様式には、そう書いてありません」
「ええ。書いてありません」
「書いていないから、あなたは書けない。書けないことを書けば、それは様式違反です。あなたは、私を書けないのと同じ理由で、ここも書けない」
レンツの指が、わずかに動いた。
筆を握り直したのではない。置こうとして、置けずにいる手だった。
――噛み合っていない。
私は、二枚の紙を見比べながら、胸の奥で確信していた。
この様式は、精巧だ。誰が書いても同じになるように、迷わないように、速く終わるように、隅々まで整えられている。
だが、精巧であるがゆえに、自分自身に厳密であることを、自分に強いている。
証言者は目撃者でなければならない。ならば、目撃していない証言は、この様式の上では存在してはならないことになる。
昨日、密告裁定の束を並べていたとき、指先に残った予感。
それが、いま、目の前で形を持った。
一件だ。
まだ、たった一件。
この検分書一枚が、たまたま噛み合わなかっただけかもしれない。
――だが。
三十年分の束が、庫の奥で、鍵をかけられて眠っている。
もし、この噛み違いが、あの束の中に散らばっているとしたら。
その先を、まだ考えないことにした。
考えれば、顔に出る。
「レンツどの」
二枚の紙を揃えて、彼のほうへ戻した。
「私の埋めた紙は、破って構いません。あなたの検分書も、たぶん、そのままでは出せない」
レンツは、紙を受け取らなかった。
しばらく机を見つめ、それから、初めて椅子の背に体を預けた。
疲れた男の座り方だった。
「……視察官どの」
「はい」
「あなたは、どこで、この紙の読み方を覚えられたのですか」
「作ったことがあるからです」
私は、正直に答えた。
「私の国で。誰が書いても同じになる紙を。迷わないように、速く終わるように」
レンツが、顔を上げた。
この日、この男が私を正面から見たのは、二度目だった。
一件だけです。まだ、たった一件。
けれど記録の仕事は、いつも一件から始まります。




