第96話 検分の者
その男は、雪の止んだ日に来た。
馬は二頭。供は一人。物々しさは、どこにもなかった。帝都から十日の道を来たとは思えないほど、外套に泥が残っていない。
記録庫の扉を、彼は叩かなかった。
開いて、入ってきた。
「オルデン辺境区、記録庫。視察官エルフェルト殿でいらっしゃいますか」
声は、穏やかだった。
「記録院より参りました。検分官のレンツと申します」
綴りを閉じて、立ち上がった。
三十半ばだろうか。役人らしい平らな顔をしている。目立つところが、何ひとつない男だった。町ですれ違っても、翌日には思い出せない類の。
――だからこそ、選ばれたのだろう。
「歓迎します」と私は言った。「椅子が、二つになりました」
「一つで結構です」
レンツは、腰を下ろさなかった。
外套も脱がず、彼はまっすぐ棚のほうへ歩いていった。まるで、この庫の見取り図を、すでに頭に入れているかのように。
ヨナが、束を抱えたまま固まっている。私は、目だけで下がるように示した。
レンツは、いちばん手前の棚から始めた。
背表紙を、指の腹で撫でていく。抜き出す。頁を三つほど繰る。戻す。次。その一連が、恐ろしく速く、恐ろしく静かだった。
紙を傷めない手つきだった。
――この人も、繰り慣れている。
「配給の控えは、村ごとに畳まれましたね」
棚に向かったまま、彼が言った。
「ええ」
「年で括るのが、この国の作法です」
「年で括ると、村の者が自分の分を探せません」
「探させる必要が、ありますか」
問いではなかった。確かめでもなかった。ただ、私の言葉を、欄の一つに書き取っているだけの声だった。
私は、口をつぐんだ。
答えるべき場面ではない、と分かったからだ。この男は議論をしに来たのではない。
検分に来たのだ。
昼を過ぎても、レンツは棚を離れなかった。
食事も断り、水だけを一杯飲んだ。指先が黒くなっても、拭かずに続けた。人別の綴り。税の控え。私が引き直した配給の道筋。ヨナと二人で一つに畳んだ、二重の帳簿。
そのすべてを、彼は見ていった。
途中、私は気づいた。
彼は、直された箇所だけを見ている。
荒れたままの束には、目もくれない。腐りかけた紐にも、野積みの山にも。彼が繰るのは、この二月ほどで私の手が入った綴りだけだった。
――手を、数えている。
私が何をしたかではなく、私が何をできるかを。
背筋の奥が、静かに冷えた。
夕暮れ近く、レンツは庫の奥へ進んだ。
私の心臓が、一度だけ強く打った。
その先には、あの棚がある。鍵と、封と、新しい紙。三十年分の密告帳。
レンツは、その前で足を止めた。
封の紙に、指を掛ける。
爪の先で、そっと縁をなぞった。剥がすためではない。剥がされていないことを、確かめるための触り方だった。
彼は、しばらくそうしていた。
それから、こちらを振り返った。
初めて、私の顔を正面から見た。
「触れておられませんね」
「ええ」
「なぜです」
埃の匂いの中で、静かに答えた。
「文句を言う者が、いますから」
レンツの表情が、わずかに動いた。
笑ったのではない。眉が動いたのでも、目が細まったのでもない。ただ、平らな顔の、どこか一箇所の張りが、ほんの少しだけ変わった。
「なるほど」
彼は、そう言った。
そして、封の紙から指を離した。
「明日、検分書を作ります。ご同席を願います」
「検分書」
「はい」
レンツは、外套の埃を初めて払った。
「あなたの手が、この国の法に照らしてどこに立つのか。それを、欄に埋めるだけの仕事です」
欄に、埋める。
その言い方に、私は聞き覚えがあった。
――様式だ。
この男は、私を裁きに来たのではない。
私を、書きに来た。
外へ出ていくレンツの背に、私は一つだけ問うた。
「一つ、伺っても」
「どうぞ」
「その検分書の欄は、いくつありますか」
彼は、扉のところで足を止めた。
振り返らずに、答えた。
「七つです。罪状の欄が、いちばん上にあります」
扉が閉まった。
いちばん上に、罪状。
事実を調べて、そこから罪を決めるのではない。罪の欄が先にあり、その下に、事実を埋めていく。
この国の紙は、そういう順番でできている。
私は、閉じた扉を、しばらく見ていた。
――明日、あの七つの欄に、誰の名が入るのだろう。
第2章が始まります。第一波は静かでしたが、ここからは正面から見られます。
検分官レンツは、憎めない実務家として置きました。恐ろしいのは、憎める人ではなく、仕事が丁寧な人だと思っています。




