第95話 小さな火、遠い王都
オルデン辺境区の朝は、少しだけ変わった。
記録庫の埃は、まだ残っている。腐りかけた紙束も、野積みのままの棚もある。けれど、床の一角には、私が整えた記録が背表紙をそろえて並び始めていた。
小さな一角だ。
それでも、そこだけは、光を返す。
「院長――いえ、視察官。今日の配給、揉めませんでした」
ヨナが、帳簿を抱えて入ってくる。
密告で家族を失った、あの青年書記だ。出会った頃は、私の手元をずっと警戒していた。今は、その手が私に帳簿を差し出している。
「数を直しただけだ」
「数を直すだけで、人が殴り合わなくなるとは思いませんでした」
ヨナは、少しだけ笑った。
――笑うのだ、この青年も。
私は、それを覚えておくことにした。
配給の列は、以前より短い。順番が記録され、明日も同じ数が来ると分かれば、人は奪い合わない。当たり前のことだ。けれど、この国では、その当たり前が長く失われていた。
記録庫の整理も、少しずつ進んでいる。歪んだ帳簿。空白の残る断罪記録。触れてはいけないと言われた棚。――まだ、その奥までは届いていない。
だが、火は灯った。
小さな、消えそうな火だ。手のひらで囲わなければ、すぐに吹き消える。
それでも、確かに、灯った。
「面白いものだな」
声に振り返ると、戸口に第二皇子アルミンが立っていた。宮廷で"無能"と評される、あの人だ。辺境に静養と称して置かれた皇子。
「記録が整うと、人の顔が変わる。俺は、宮廷で二十年、誰の顔も変えられなかったのに」
「変えられなかったのではありません。変えさせてもらえなかったのです」
アルミンは、少し目を見張り、それから静かに頷いた。
この人は、受け手になれる。
制度を手渡す、その先の。
――まだ、口には出さないが。
小さな火は、遠くからも見える。
それを、私は忘れていた。
その日、帝都から一頭の早馬が来た。使者は、辺境の記録庫には不釣り合いなほど上等な外套をまとっていた。
差し出されたのは、封蝋の押された一通の書状。
文面は、短い。丁重で、隙がなかった。
『オルデン辺境区における記録整理の"成果"、興味深く拝見している。近く、正式に検分の者を遣わす』
署名は、なかった。
だが、封蝋の紋を、私は覚えることにした。記録を司る者の紋。――記録卿ザカリアス。
直接は、まだ名乗らない。
名乗らずに、こちらを見ている。
私が誰であるかを、もう、彼は知っている。無視できる相手だとは、思っていない。
書状を置く手が、ほんの少し、冷たくなった。
――来る。
あの朝の、白い光をまとって。
その晩、もう一通、届いた手紙があった。
こちらは、封蝋も紋もない。ただ、宛名の字を見ただけで、誰の手か分かった。
不器用な、角ばった字。
マルクだ。
王国の、治安総監。国境の向こうに置いてきた、私の――。
便箋は一枚きり。用件も、飾りもない。
『変わりないか。飯は食っているか』
それだけで、半分が終わっていた。
私は、少し笑ってしまった。
残りには、こうあった。
『渡したものは、まだ持っているか。錆びていないか、たまに見てやってくれ。俺の代わりに、そこにある』
――出立の朝、彼が私の手に握らせた、あの小さな金具。
私は、それを胸元から取り出した。旅の埃で少し曇っている。けれど、錆びてはいない。
手のひらの上で、それは、ほのかに温かい気がした。
気のせいだ。金属が、温かいはずがない。
――それでも。
遠い王都の灯りが、この辺境の夜に、ひとつ届いた気がした。
私は、一人ではない。
国境を越えても、記録の海に沈んでも。
翌朝。
私は、記録庫に戻った。
帝都からの書状を、整理した棚の端に置く。マルクの金具を、胸元に戻す。
灯った小さな火と、遠い王都の温もり。
――どちらも、私の手のなかにある。
棚の奥には、まだ触れていない断罪記録が、暗く積まれている。ザカリアスが遣わすという"検分の者"は、じきに来るだろう。静かな第一波は、もう終わった。
次は、正面からだ。
私は、記録の海の中で、静かに顔を上げた。
埃の匂い。冷えた朝の光。積まれた、消されなかった声の束。
――ここからだ。
これで第二部の第1章「赴任と"追放"の再演」は終わりです。小さな火が、灯りました。
次の章では、いよいよ有能さが正面からバレ、記録卿ザカリアスの実権派と静かに衝突します。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。続きも、静かに書き継ぎます。




