第94話 無能と呼ばれる人
その噂を、私は記録庫の外で耳にした。
オルデンの外れ、古い離宮に、皇族が一人、滞在しているのだという。
「第二皇子、アルミンさまです」
ヨナが声をひそめて言った。まるで、口にすること自体が危ういとでもいうように。
「宮廷で……"無能"と、そう呼ばれている方です」
無能。
この土地で、その言葉がどれほど重いかを、私はもう知っていた。
派手な失点があったわけではない。ただ、立ち回りが下手で、上の覚えがめでたくなかった。それだけで、人は辺境へ流される。
――覚えのある話だ。
私は、少しだけ、その皇子に会ってみたくなった。
離宮は、離宮と呼ぶには質素すぎた。
庭の片隅に、一人の男がしゃがんでいた。上等でない外套。土に汚れた手。若い庭師か、下働きかと、一瞬そう思った。
彼は、倒れかけた若木に、添え木を当てていた。
ひどく丁寧な手つきだった。根を傷めないよう、幹を締めつけないよう。まるで、その一本の木の痛みが分かるかのように。
私が近づく気配に、彼は顔を上げた。
「……客人か」
驚くでもなく、取り繕うでもない。静かな目だった。
「王国から来た、視察官のエルフェルトと申します」
男は、少し目を見張った。それから、自分の汚れた手を見て、ばつが悪そうに立ち上がった。
「アルミンだ。……皇子、と名乗るには、少し情けない格好だが」
私たちは、庭の石に腰かけて話した。
茶の一杯も出ない。人払いもない。皇子というより、ただの物静かな青年と向き合っているようだった。
だが、話すほどに、私は気づいていった。
この人は、よく見ている。
オルデンの配給がどこで滞りやすいか。どの村が、この冬に痩せているか。密告で引かれた者の家族が、その後どう暮らしているか。――彼は、それらを一つひとつ、名前で覚えていた。
宮廷の誰も、気に留めないことを。
「なぜ、そのようなことまで」
私が問うと、彼は少し困ったように笑った。
「知っていても、私には何もできない。力がないからな」
自嘲ではなかった。ただ、事実を述べる声だった。
「上手く立ち回れば、少しは力を持てたのだろう。だが……どうしても、できなかった」
彼は、庭の若木に目をやった。
「密告で、人が引かれていく。弁明も聞かれずに。それを"正しい"と言える者が、この国では出世する。私は、それが正しいと、どうしても思えなかった」
声は、静かだった。怒りでも、嘆きでもない。
ただ――疑っている。この国の断罪のあり方を、根のところで。
私は、彼の横顔を見ていた。
力がない、と彼は言う。政治が下手だ、と。
けれど、私はかつて知っている。無能というレッテルの奥に、何が隠れているかを。
私自身が、そうだった。悪役令嬢と呼ばれ、一面だけで断罪された者。誰にも読まれない記録を、黙々と積み上げていた者。
――静かに、有能さがバレていった者。
目の前の皇子は、その逆の位置にいた。有能さを、誰にも見出されないまま、無能と呼ばれている。
人の痛みが分かる。物事をよく見ている。そして、間違ったものを間違っていると、静かに思える。
それは、この国で最も稀な資質だ。
立ち回りが下手なのではない。器用に嘘をつけないだけだ。
「アルミンさま」
私は、思わず名を呼んでいた。
「あなたは、無能ではありません」
彼は、驚いたように私を見た。そんな言葉を、久しく掛けられていない、という顔だった。
「……買いかぶりだ」
「いいえ」
私は、静かに首を振った。
「見る目のない者が、そう呼んでいるだけです」
帰り道、暮れかけた空の下を歩いた。
胸の奥に、小さな熱があった。
制度は、押しつけるものではない。私は、それを王国の日々で、痛いほど学んだ。断罪をやめさせるには、その国の誰かが、自らの意志でそれを選ばなければならない。
外から来た私には、種を蒔くことしかできない。
けれど。
あの皇子の中には、確かに土があった。人の痛みを覚え、断罪を疑い、それでも誠実であろうとする、柔らかく肥えた土が。
力はない。今は、まだ。
だが、いつか。
この国が、自らの意志で制度を選ぶとき――その手を、受け止める者が要る。
差し出された仕組みを、押しつけとしてではなく、自分たちのものとして受け取る、誠実な受け手が。
――この人かもしれない。
その予感が、私の中で、静かに灯った。
まだ、火と呼ぶには小さすぎる。誰にも見えない、私だけの熾火だ。
けれど確かに、それは灯っていた。
国境を越えて持ってきた制度が、初めて、根を張る先を見つけたように。
今度はリリアーナが、見出す側に回ります。
自分がかつて"バレて"いった構図を、他者の中に見つける。この静かな逆転が書きたくて第二部を始めました。




