第92話 イリスの事情
その日、記録庫に、場違いな靴音が響いた。
乾いた石を、迷いなく踏む音。ヨナが手を止め、身を固くする。この辺境に、そんな歩き方をする者はいない。
私は、埃の中で顔を上げた。
扉の光を背に、女が立っていた。
旅装ではあったが、仕立てが違う。オルデンの土には、あまりに似合わない。
「ずいぶんな場所に、追いやられましたね」
イリス・ヴァルデンだった。
帝都から、まっすぐここへ来たのだと、その表情が言っていた。値踏みでも、同情でもない。ただ、確かめに来た目だ。
「歓迎はできません」と私は言った。「椅子も、一つしかない」
「結構」
彼女は、崩れかけた記録の束に、ためらいなく腰を下ろした。
ヨナが、束を抱えたまま出ていく。気を利かせたのだろう。扉が閉まると、庫の中は、私たち二人だけになった。
「見せてもらいました」とイリスは言った。「あなたが直した配給の帳面。人別の綴り。……たったひと月あまりで、この区は、少しだけ息を吹き返している」
「地味な仕事です」
「地味な仕事ほど、数字は嘘をつかない。私は、それを買っています」
率直だった。世辞ではない。彼女は、成果を数えに来たのだ。
私は、机の上の帳面を、そっと閉じた。
「それで。宰相府の補佐官が、わざわざ辺境まで来る理由を、聞かせてもらえますか」
イリスは、少し笑った。冷たくはない、けれど、温かくもない笑みだった。
「あなたを、辺境から引き上げるためです。――ただし、まだではない」
「まだ?」
「今のあなたは、ちょうどいい。目立たず、しかし確かに、成果を積んでいる。宮廷から遠いこの場所で」
私は、彼女の言葉の下にあるものを、静かに読んだ。
「――駒として、都合がいい、と」
「ええ」
彼女は、否定しなかった。
それどころか、まっすぐ私の目を見た。
「私は、あなたを利用しています、リリアーナ殿。あなたの成果を、宮廷の均衡を動かすために使うつもりです。それは、隠しません」
埃の匂いの中で、私は、その言葉を受け止めた。
不快では、なかった。
むしろ――安堵に近かった。嘘をつかれるより、ずっといい。
「聞かせてください」と私は言った。「あなたの、均衡を」
イリスは、語った。
宰相府の改革派は、思うより脆い。断罪と密告で統治する伝統は、この帝国の背骨だ。それを緩めようとする者は、常に少数派だった。
「私たちが均衡を保っていられるのは、実権派が、まだ本気で潰しに来ていないからです。……潰す価値もない、と侮られているうちは、生きていられる」
「その実権派の、中枢が」
「記録卿ザカリアス」
彼女は、その名を、静かに置いた。
「記録を、支配の道具にした男です。この国のあらゆる密告が、最後はあの人の手の中に集まる。誰が、いつ、誰を告発したか。――それを握る者が、この国では、いちばん強い」
私は、無意識に、閉じた帳面に手を置いていた。
記録を、残すために使う私。記録を、支配のために使う男。
同じものを扱いながら、まるで裏返しだ。
「あなたが辺境の記録庫を掘り返していることは」とイリスは続けた。「たぶん、もうあの人の耳に入っています。だから、私は急いだ。――あなたが、思ったより早く、目立ってしまう前に」
「第二皇子は」
私は、宮廷で"無能"と噂される、あの皇子の名を出した。
「アルミン殿下。改革派の、数少ない後ろ盾候補、と聞きました」
イリスの表情が、わずかに動いた。そこには触れるな、という色ではない。まだ言えない、という慎重さだった。
「――その話は、いずれ」
彼女は、それだけ言った。
布石を、私は、静かに胸に畳んだ。
「一つ、確かめても」と私は言った。「あなたは、私が制度を根づかせることと、あなたの均衡が動くこと、どちらを望んでいるのですか」
いい質問だ、というように、イリスは目を細めた。
「両方です。順序が違うだけ。……あなたは、制度が根づけば、均衡は自ずと動くと思っている。私は、均衡が動けば、制度を根づかせる余地が生まれると思っている」
「手段と、目的が、逆」
「ええ。だから私たちは、似ている。合理で動く女は、この国では、そう多くない」
私は、笑いそうになった。
似た者同士。だからこそ、腹を割れる。友情ではない。信頼と呼ぶには、まだ早い。けれど――嘘をつかない相手というのは、それだけで、貴重だ。
「では、こうしましょう」と私は言った。「あなたは私を使う。私は、あなたを使う。互いに、嘘はつかない。それでいい」
イリスは、しばらく私を見て、それから、初めて、素の顔で笑った。
「――交渉が早い。やはり、あなたを選んで正解でした」
去り際、彼女は、扉の光の中で、ふと足を止めた。
背を向けたまま、少しだけ、声を落とす。
「一つ、忠告を。……成果を焦らないで」
「ええ」
「あなたは、王国で断罪を終わらせた。だから、ここでも同じことができると思っている。――でも」
彼女は、こちらを振り返らなかった。
「この国の断罪は、あなたが思うより、ずっと深い」
靴音が、遠ざかっていく。
乾いた石を、迷いなく踏んで。
私は、閉じた帳面の上に、手を置いたまま、しばらく動かなかった。
――深い、とは。
どこまでを、彼女は知っているのだろう。
似た者同士の、静かな腹の探り合いでした。
イリスは味方ですが、善人ではありません。そこがいい、と思って書いています。




