第91話 観察者
最初の使いが来たのは、雪の降る朝だった。
帝都の紋を帯びた外套の男が、記録庫の扉を叩いた。役人でも、兵でもない。ただの、使いだった。
一通の書状を置いて、名も告げずに去った。
封を切る前から、ヨナの顔が強張っていた。
「……その封蝋」
青年書記の声が、かすれた。
「記録卿の、印です」
私は、ヨナを見た。まだ若い彼の指先が、わずかに震えている。この土地で、その名がどう扱われているのか、それだけで分かった。
誰も、大きな声では口にしない名。
封を切る。
中の文字は、驚くほど、丁寧だった。
脅しは、一行もなかった。
辺境の記録庫を整えてくださっているそうで、感謝に堪えない。長らく手つかずであった棚を、貴女が一枚ずつ繰っておられると聞き及んでいる――そう、書いてあった。
うやうやしく。どこまでも、慇懃に。
だが、私は、ある一点で手を止めた。
書状は、私の仕事を、正確に把握していた。
どの棚から手をつけたか。どの綴りを、どの順で解いたか。配給の帳簿を直した日まで。まるで、隣で見ていたかのように。
――見られている。
背筋に、冷たいものが触れた。恐怖ではない。もっと、静かな何かだ。
この書状は、問い合わせの体裁を取っていた。けれど、問いたいことなど、本当は何もない。
ただ、こちらの手つきを、確かめている。
横から、息を呑む音がした。
「……なぜ、こんなことを」
ヨナが、書状を覗き込んで、青ざめた。
「辺境の、こんな小さな仕事に、記録卿がなぜ」
私は、答えなかった。
答えの見当が、ついてしまったからだ。
かつて、私にも敵がいた。宰相ローデリック。制度を、根こそぎ潰そうとした男。あれは、強かった。けれど――分かりやすい強さだった。
彼は、記録を憎んでいた。だから、記録を敵として扱った。憎しみは、読める。憎む者の動きは、いつか予測がつく。
だが、この書状は、違う。
ここには、憎しみがない。
あるのは、好奇だった。
この文字を書いた男は、私の仕事を、嫌ってなどいない。
むしろ――面白がっている。
珍しい標本を、明るい窓辺に置いて、ためつすがめつ眺めるように。羽の一枚、脚の一本を、飽きもせず数えるように。
敵意ではなく、興味。
私は、書状の一行を、指でなぞった。
棚の繰り方。綴りを解く順。紙の扱い。それを言い当てられるということは、この男もまた、同じことをしたことがある、ということだ。
埃の匂いを知っている。腐りかけた紐の、指に残る感触を知っている。誰にも読まれない一枚を、それでも繰り続けた夜を、知っている。
――この人は、記録の人間だ。
愛し、知り尽くした者だ。
私と、同じ場所から始めた者だ。
その夜、ヨナが、ぽつりと漏らした。
火のそばで、外套の裾を乾かしながら。まるで、火にだけ聞かせるような、低い声で。
「……昔、聞いたことがあります」
「何を」
「記録卿は、もとは、貴族ではなかった、と」
私は、綴りを繰る手を止めた。
「地方の、名もない書役だった。誰も見向きもしない、埃だらけの記録庫で、何年も、たった一人で紙を数えていた――そういう噂です」
ヨナが、火を見つめたまま続ける。
「本当かどうかは、分かりません。あの方の昔を、確かめた者はいない。ただ」
彼は、少し言い淀んだ。
「ただ、その人が、どうやって、今の場所まで上がったのか。……誰も、知らないんです」
返す言葉が、浮かばなかった。
埃だらけの記録庫で、たった一人。
――それは、私だ。
修道領の、あの荒れた棚の前に立っていた、名を奪われた頃の私だ。
同じ夜を過ごした人間が、この国の頂で、密告の記録を握っている。
その事実の重さを、私は、火の音の中で、静かに量った。
窓の外で、雪が音もなく積もっていく。
私は、その白さを、しばらく見ていた。
ローデリックは、私の外にいる敵だった。だから、恐ろしくても、遠かった。
けれど、この男は、違う。
この男は、私の内側に、住んでいる。
記録を道具にする、という一点で。私はそれで人を救い、この男はそれで人を縛った。同じ刃の、光と影。
思想として、危うい。
――たぶん、私は。
この男と、話が通じてしまう。
それが、いちばん、恐ろしかった。
私は、書状を、静かにたたんだ。
ヨナが、不安げにこちらを見ている。
「……返事は、なさいますか」
「いいえ」私は言った。「まだ」
この相手は、返事を待っていない。ただ、観ている。ならば、こちらも、観させておけばいい。
窓辺に、雪の光が薄く伸びる。かつて、白い光の下で断罪された、あの朝の光に、少しだけ似ていた。
私は、思った。
私と同じ場所から始めて、私と反対の場所へ行った男がいる。
まだ、顔も知らない。
――だが、その男は、もう、この記録庫の中に、立っている。
敵が「憎む」より「面白がる」ほうが、静かに怖い。今回はその手触りを書きました。
リリアーナにとっていちばん危ういのは、憎み合える相手ではなく、話が通じてしまう相手なのだと思います。




