第88話 消えた家族
その空白は、昨日の続きだった。
オルデン辺境区の記録庫。黴と埃の匂いに、私はもう慣れていた。昨日見つけた、一件の不自然な空白。抜き取られたような、白い余白。それが、どこへ繋がっているのか。
朝から、私はその糸をたどっていた。
密告の記録は、束で残っている。腐りかけ、束ねた紐が指に触れると崩れる。誰にも読まれることを、想定していない記録だ。
だからこそ、抜かれた一枚は、目立った。
台帳には、番号だけが残っていた。中身は、ない。
私は、その番号を追った。別の綴りへ。配給の控えへ。人別の帳面へ。断片は、細く散らばっている。抜いた者は、丁寧に消したつもりだったのだろう。
――だが、記録というのは、そういうものではない。
一つを消せば、消したという痕が、別のどこかに残る。
配給の帳面には、渡した数と、渡した先の名が並ぶ。人別の綴りには、この区に生きた者の名が連なる。税の控えには、納めた家の記録が残る。
どれか一つを丁寧に消しても、残りの三つが、静かに証言する。ここに、確かに人がいた、と。
半日をかけて、私は、その家族にたどり着いた。
一家。父と、母と、子ども。名前の一部が、墨で潰されている。証言者は、匿名。密告一件。審査の跡は、ない。
連れて行かれた日付だけが、妙に鮮明に残っていた。
それきり、どの帳面にも、彼らは出てこない。配給も、人別も、税も。ある日を境に、この一家は、この世界から抜き取られていた。
なかったこと、にされていた。
私は、その一枚を、机に置いた。
少し離れたところで、書記のヨナが、別の束を運んでいた。この数日、警戒しながらも手伝ってくれている青年だ。まだ、私を信じてはいない。当然だと思う。
「ヨナ」と私は呼んだ。「この一件、覚えている?」
顔を上げた彼に、私はその紙を差し出した。
潰された名前。匿名の証言。抜かれた記録。
――ただ、事実を確かめるつもりだった。
ヨナが、紙を受け取る。
そして。
凍りついた。
息が止まったのが、離れていても分かった。紙の端を持つ指が、白くなっている。目だけが、そこに書かれた文字を、何度も、何度もなぞっていた。
私は、悟った。
――ああ。
これは。
「……俺の、家族だ」
声は、掠れていた。
彼は、それ以上、言わなかった。言えなかったのだと思う。
父と、母と、幼い妹。隣人の密告一つで、ある朝、連れて行かれた。審査もなく。弁明も聞かれず。二度と、戻らなかった。残されたのは、まだ子どもだった彼一人。
そして彼は――この記録庫で、書記として働いてきた。
自分の家族の記録が、抜き取られ、潰され、なかったことにされていく、その同じ場所で。
毎朝、この扉を開け。埃の匂いを吸い。誰にも読まれない束を運び。そのどこかに、自分の家族が眠っていることを知りながら。
整えることも、できないまま。
抜かれた一枚を、元に戻すことも。潰された名前を、書き起こすことも。彼には、許されていなかった。ここでは、それをすれば、次に潰されるのは彼の名だ。
抜いたのが誰かも、たぶん、彼は知っている。知っていて、手を出せずにいる。ここでは、そういう相手にしか、こういうことはできない。
私は、その痛みの深さを、軽々しく分かるとは言えなかった。
言えば、嘘になる。
――かつて、私も断罪された。弁明が誰にも届かない、あの白い光の下で。だから、届かなさの手触りは、知っている。
だが、家族を丸ごと消された痛みは、私のそれとは、別のものだ。
似ている、と言ってはいけない。同じだ、などと、口にしてはならない。
ヨナは、紙を伏せた。潰された名前を、見ていられなかったのだろう。
沈黙が、埃の中に降りた。
私は、慰めの言葉を探して――やめた。
この青年に必要なのは、たぶん、それではない。
可哀想に、と言われたかった者を、私は知らない。かつての私も、そうだった。同情は、痛みを他人のものにする。私のものだったはずの痛みが、誰かの善意の中で、薄まっていく。
だから、言わない。
「ヨナ」
彼が、のろのろと顔を上げる。
「記録は、残す」
私は、それだけ言った。
「潰された名前も。抜かれた一枚も。ここに在ったという事実は、消えない。私は、それを残す」
約束でも、慰めでもなかった。ただ、私がここで何をするかという、一つの事実だった。
ヨナは、しばらく私を見ていた。
警戒と、痛みと。その奥から、初めて、別のものが覗いた気がした。
彼の唇が、動く。
「……あんた」
掠れた、しかし、これまでとは違う声だった。
「あんたは――何をしに、この国へ来たんだ」
それは、警戒ではなかった。
初めての、問いだった。
静かな回でした。ヨナの痛みを、爆発させずに置いています。




