第89話 触れてはいけない棚
記録庫の奥に、鍵のかかった棚が一列あった。
他の棚が野ざらしに近いのに、そこだけは違う。金具は磨かれ、封の紙は新しい。埃さえ、寄せつけていない。
誰かが、手をかけている。
――手をかけて、守っている。
私が近づくと、背後で足音が止まった。
「そこは」
管理役の老人だった。名を、ヴォルクといった。オルデンの記録庫を、二十年守ってきた男。
「そこは、開けてはなりません」
声が、低い。
これまで、この老人はほとんど口をきかなかった。私を、都から流れてきた物好きな女官としか見ていない。挨拶にも、頷くだけだった。
その男が、初めて私の目を見ていた。
「密告帳です」
ヴォルクが、棚を顎で示した。
「三十年分。誰が、誰を、どう告げたか。すべて、そこに」
私は、棚を見た。
鍵。封。新しい紙。
「よく、手入れがされていますね」
「されているのではない」
老人の声が、かすれた。
「されるのです。帝都から、人が来る。年に幾度か。中を検め、また封をして帰る。この庫で生きているのは、その棚だけだ」
――生きている。
言い得て、妙だった。
他の記録が腐り、忘れられていく中で、その棚だけが呼吸をしている。誰かが、生かしている。
「あなたは、賢い」
ヴォルクが、一歩近づいた。
「賢いから、言っておく。あの棚は、開けた者を憶えている」
私は、黙って続きを待った。
「開けようとした男が、かつて一人いた。巡察府の若い役人でな。歪みに気づき、正そうとした」
老人の目が、暗い棚に落ちる。
「三月後、その男の名が、棚の中に入った」
密告された、ということだ。
告げた側が、告げられる側になった。正そうとした手が、そのまま罪状になった。
「あの帳は、誰かの力を支えている」
ヴォルクの声は、脅しではなかった。むしろ、警告に近かった。
「帝都の、名も知らぬ誰かの。あれを握る者は、この国の誰でも裁ける。だから触れさせない。触れた者を、次に裁く」
彼は、言い切った。そして、少しだけ声を落とした。
「――だから、放っておきなさい。腐るまで、待つのが利口だ。あんたも、私も」
私は、棚を開けなかった。
鍵に手をかけることも、封を検めることもしなかった。ヴォルクの言うとおり、それは触れれば火傷する。今の私に、正面から暴く力はない。
だが。
手を、止めたわけではない。
私は、棚に背を向けた。そして、床に積まれたままの、誰も守っていない記録の山へ向かった。
「ヴォルクどの」
私は、埃をかぶった別の束を引き寄せた。
「この、配給の控えは。三年、綴じられていませんね」
老人が、怪訝な顔をした。
「配給――それが、何か」
「合いません」
私は、頁をめくった。
「昨年の冬、オルデンに送られた麦の数と、村々が受け取った数が、合っていない。途中で、二割が消えている。誰かが盗ったのではない。ただ――帳簿が二重に走って、突き合わせる者がいないだけです」
突き合わせれば、済む。
誰の罪でもない。誰も、告発しない。ただ、放っておかれただけの歪み。
文句を言う者の、いない場所。
「これは、開けても、誰も憶えていない」
私は、静かに言った。
ヴォルクが、私を見た。何を言っているのか、まだ分かっていない顔で。
だが、その隣で。
もう一人、私を見ている者がいた。
ヨナ。
庫に配された、若い書記だ。この地で家族を密告に奪われた男。私を、ずっと遠くから警戒していた。都から来た、記録をいじりまわす女。あの棚に近づけば、また誰かが消える――そう思っている目で、私を見張ってきた。
その目が、いま、少し違っていた。
棚ではなく、私の手元の配給控えを見ている。
「……その帳簿は」
ヨナが、初めて自分から口を開いた。
「触れても、いいのですか」
「文句を言う者が、いませんから」
私は、頁をめくる手を止めなかった。
「触れて憶えられるのは、あの棚だけ。こちらは、ただ放られているだけです。放られたものを直すのに、許しは要りません」
ヨナが、黙った。
何かを、考えている顔だった。
それから、私は帳簿を突き合わせ始めた。
密告帳には、触れない。代わりに、消えた麦を追った。滞った配給の道筋を、一本ずつ引き直した。二重に走った記録を、一つに畳んだ。
やがて、ヨナが、隣に座るようになった。
命じたわけではない。ただ、ある朝から、彼は黙って別の束を開き、数を照らし合わせ始めた。飲み込みは、速かった。この地の村の名も、道の遠近も、彼のほうがよほど知っている。
私たちは、ほとんど言葉を交わさなかった。
ただ、麦の数を、村の数を、一つずつ合わせていった。
地味な仕事だった。
褒める者もいない。誰も、見ていない。
だが、ひと月が過ぎた頃。
止まっていた麦が、村へ動いた。
照合で浮いた無駄が減り、庫の隅に埋もれていた分が、正しい村へ回った。誰かが飢えを、ひとつ免れた。断罪ではなく、帳簿の一行で。
小さな、あまりに小さな成果だった。
けれど。
配給を受け取りにきた村の老婆が、荷車の前で、ふと足を止めた。
そして、庫の中の私を――値踏みでも、蔑みでもない目で、しばらく見ていた。
これまで、誰も向けなかった目だった。
触れてはいけない棚には、触れません。
まだ。




