第87話 誰にも読まれない記録
紙の腐る匂いがした。
オルデン辺境区の記録庫は、扉を開けた瞬間から、そういう場所だった。
湿気を吸った紙が、時間をかけて崩れていく匂い。かび。埃。冷えた石の匂い。
窓は高い位置に一つきり。差し込む光の帯の中で、細かな塵が舞っている。
そして、紙の山。
棚に収まりきらず、床に積まれ、崩れ、また積まれた紙束。密告状。断罪記録。処分の控え。誰かの人生を終わらせた一枚一枚が、束ねられもせず、ただ野積みにされていた。
――誰も、読んでいない。
整理もされず、探せもしない。ここにあるのは記録ではなかった。記録の死骸だ。
私は荷を下ろした。
外套を脱ぎ、袖をまくる。
「仕事を、始めよう」
誰にともなく、そう呟いた。
背後で、床がきしんだ。
振り返ると、若い男が一人、戸口に立っていた。
まだ二十歳そこそこだろうか。痩せた頬。墨の染みた指。書記の膝当て。目だけが、妙に鋭い。
「……本気ですか」
それが、ヨナという青年書記との、最初の言葉だった。
「帝都から来た『視察官』様が、ここを、片付けると?」
視察官、のところに、薄い棘があった。
私は答えず、床の一束を持ち上げた。ぱらり、と一枚が落ちる。拾い、日付を確かめ、脇に置く。
「触らないほうがいい」
ヨナは動かなかった。
「どうせ誰も読まない。読ませないための山だ。あんたが並べ替えたって、明日には誰かがまた放り込む」
「それでも、始める」
私は次の一束に手を伸ばした。
「読まれない記録は、記録じゃない。ただの紙。――なら、読める形にするところから」
ヨナは、何か言いかけて、やめた。
舌打ちが聞こえた気がした。
それでも、彼はしばらくして、無言で棚の反対側に回った。渋々と、しかし手つきは慣れていた。ぶっきらぼうに、けれど正確に、束を年ごとに分けていく。
――手伝う気は、ないわけじゃないらしい。
私は、それには触れなかった。
黙々と、手を動かした。
誰にも褒められない仕事だ。それは、よく知っている。
かつて北方の修道領で、私はこれと同じことをした。埃をかぶった帳簿を、一冊ずつ。誰も見ない数字を、一列ずつ。あのとき、誰も私を褒めなかった。それでよかった。
仕事は、褒められるためにするものではない。
日付で分け、地区で分け、種別で分ける。密告状はこちら、断罪記録はそちら、処分控えはその隣。
紙の山が、少しずつ、意味を持ち始める。
――そして、意味を持ち始めた紙は、静かに語り出す。
私は、ふと手を止めた。
最初は、筆跡だった。
密告状の束を並べていて、気づいた。差出人の名は、どれも違う。だが、文字が同じなのだ。
撥ねの角度。「密」の字の潰れた点。線の勢い。――同じ手が、書いている。
名の違う三通の密告状を、私は光にかざした。
別の人間が、別々に告発したことになっている。「隣人三名の証言」。あの広場で聞いた言葉が、耳の奥で蘇った。
だが、この三名は、同じ一人の手で書かれていた。
「ヨナ」
私は静かに呼んだ。
「密告状は、告発者が自分で書くのか。それとも、書記が代筆するのか」
ヨナの手が止まった。
「……代筆も、ある。字の書けない者もいるから」
「一人の書記が、三人分を」
「……よく、ある」
声が、少し硬かった。
私は頷いた。それ以上は問わなかった。
――ここでは、それが「よくある」ことなのだ。
王国なら、こうはならない。
私たちの記録様式では、告発は必ず本人の署名を要る。書けぬ者には別の様式を用意する。誰が、いつ、何を、どう告げたか。証言は互いに独立していなければ意味がない。同じ手が三通を書けば、それは三つの証言ではなく、一つの意思だ。
透明で、改竄できず、後から必ず審査される。だから王国では、こんな不自然は起きない。起きたとしても、必ず目に留まる。
けれど、この国の記録は違った。
一方的で。検証されず。ただ積まれて、腐るだけ。
――誰にも、読まれないから。
誰にも読まれないと、人は、いくらでも歪められる。
歪みは、一つではなかった。
種別に分けた断罪記録を、今度は日付で並べ直したとき、私はまた手を止めた。
辻褄が、合わない。
ある男の断罪日が、密告状の日付より、前になっている。告発される前に、罰が下されている。
別の一件では、同じ告発者の名が、ひと月のあいだに十一度。まるで、それが仕事であるかのように。
私は指先で、紙の縁をなぞった。
偶然ではない。手違いでもない。
これは、意図だ。誰かが、意図して、この記録を歪めている。そして誰にも読まれないことに、甘えている。
――読まれなければ、ばれない。
だが、私は読む。
それが、私の仕事だ。
日が傾いていた。
高窓の光の帯が、床を這うように長く伸びている。ヨナは、いつのまにか黙って、私の隣で紙を繰っていた。警戒は消えていない。それでも、手は止めなかった。
私は、最後に残った一束を開いた。
オルデン辺境区、ある年の断罪記録。連番で綴じられている。三十七、三十八、三十九――
指が、止まった。
番号が、飛んでいた。
四十が、ない。
三十九の次が、四十一。
綴じ糸を確かめる。切られた跡はない。最初から、そこには何もなかったかのように、番号だけが飛んでいる。
――抜かれている。
誰かが、そこにあったはずの一件を、抜き取っている。歪めるのでも、書き換えるのでもなく。ただ、なかったことにするために。
空白は、何よりも雄弁だった。
私はその頁を、しばらく見つめた。
背後で、ヨナの手が、止まっていた。
記録は、書かれたものだけでなく、「書かれなかったもの」も語ります。
次話、その空白の正体に触れます。




