第86話 自分で選ぶ低い椅子
辞令は、丁重な言葉で書かれていた。
オルデン辺境区への視察を、貴女に一任する。宮廷の署名が、いくつも並んでいる。
――要するに、遠くへ行け、ということだ。
私は辞令をたたみ、袖に仕舞った。腹は、立たなかった。
むしろ、少しだけ、笑いそうになった。
その夜。
「本気で受けるのか」
宿の一室で、案内役の若い役人が声をひそめた。宰相府から付けられた、数少ない味方の一人だ。
「あそこは、飛ばされた者が行く場所だ。記録庫は何年も手つかずで、誰も戻ってきたがらない」
「知っているわ」
「なら――」
「だから、行くの」
役人は、言葉を失った。私の顔を、値踏みするように見た。皮肉でも、やせ我慢でもないと、たぶん分かったのだろう。
私は、窓の外の北を見た。
辺境。都から遠く、誰の目も届かない場所。
――かつて、私はそこへ追い出された。
白い光の下で断罪され、名を奪われ、荷馬車に乗せられて北の修道領へ運ばれた。あのときの私は、選ぶ側ではなかった。ただ、運ばれる荷だった。
だが。
今は違う。
追い出された者は、弱い。低い場所に置かれた理由を、自分で決められないから。
けれど、選んで座った者は、強い。
誰かに椅子を引かれても、私はもう倒れない。自分でそこに座ると、決めたのだから。
同じ辺境でも、意味がまるで違う。
「同行は、最小限でいい」と私は言った。「あなたも、都に残っていい」
「……しかし」
「目立たないほうがいいの。見張られている視察官より、忘れられた視察官のほうが、仕事がしやすい」
役人は、しばらく黙ってから、深く息を吐いた。
「あなたは、変わった人だ」
「よく言われるわ」
オルデン辺境区は、想像より、静かだった。
石造りの町は半ば眠っているようで、人の姿はまばらだった。密告に慣れた土地の、あの独特の静けさ。声をひそめ、目を伏せ、隣人を信じない静けさ。
道の脇で、女が一人、井戸の水を汲んでいた。
私が通りかかると、女は手を止め、素早く目を伏せた。会釈もしなければ、警戒もしない。ただ、関わらない。見なかったことにする――それが、この土地で身を守る作法なのだと、一目で分かった。
よそ者に話しかけられた。それだけで、明日、誰かに密告されるかもしれない。
そういう国だ。ここは。
記録庫は、町外れにあった。
扉を開けた瞬間、埃と黴の匂いが、どっと押し寄せた。
棚は傾き、床には帳簿が崩れ落ちている。紐の切れた綴りが、山になって腐りかけていた。断罪の記録。密告の控え。誰にも読まれず、ただ積まれ、忘れられたまま。
棚のひとつに、手を触れてみる。指先に、紙の湿りと、かすかな鉄の匂い。血ではない。古い封蝋の、匂いだ。
ここに積まれているのは、ただの紙ではない。誰かが誰かを指さした、その痕の束だ。
――ひどい。
ひどい、と思った。けれど、絶望はしなかった。
この光景を、私は知っている。
修道領の、あの荒れた帳簿棚。最初に任されたのも、こういう場所だった。誰もやりたがらず、誰も評価しない、地味な仕事。
私は、そこから始めた。そして、そこからしか、始まらないことも知っている。
外套を脱ぎ、壁の釘に掛ける。
視察官の肩書きも、王国裁定院長の名も、ここには置いていく。
ここでは、私は何者でもない。ただ、この崩れた棚の前に立つ、一人の人間だ。
誰にも見られない。誰にも褒められない。
――だからこそ、ここが、私の戦場だ。
目立つ場所で振るう権力より、暗い記録庫で一枚ずつ紙をめくる手のほうが、この国を変える。私は、それを知っている。何度も、それで立て直してきたから。
私は、袖をまくった。
片方ずつ、ゆっくりと。埃の匂いを、深く吸い込む。
傾いた棚に手を掛け、崩れた綴りの一つを拾い上げる。
紐を、そっと解いた。
誰にも褒められない仕事が、また始まる。
――今度は、私が選んで。
第一部では「追放された」リリアーナが、今回は「自ら低い場所を選ぶ」。同じ辺境でも、意味が違う――そこが第二部の背骨です。




