第85話 制度は要らないと言われて
その部屋は、よく磨かれていた。
帝都、宰相府の一室。窓は高く、床は冷たいほどに光を返す。座らされた椅子の背は、まっすぐで硬い。
もてなし、という形をしていた。
だが、もてなしではないと、私はもう知っていた。
卓の向こうに、三人の男が並んでいる。実権派の役人たち。誰も名乗らなかった。名乗る必要を、感じていないのだ。
「王国の話は、聞き及んでおります」
中央の男が、口を開いた。声はやわらかい。
「記録を残し、審査を開き、断罪をやめた――たいそうな仕組みだと」
褒めているように、聞こえた。
――聞こえるように、言っている。
「ですが」
男が、わずかに首を傾けた。
「王国のやり方は、この国には合いません」
合わない。
その一言を、私は静かに受け止めた。
部屋の隅で、イリス・ヴァルデンが身じろぎするのが分かった。
「補佐官どの」
男は、イリスを見もせずに続けた。
「ヴェルフェンには、ヴェルフェンの秩序があります。密告と裁定は、この国を千年支えてきた背骨だ。それを、他国の女官ひとりの流儀で組み替えようなど――」
「組み替えるとは、申しておりません」
イリスの声が、鋭く割って入った。
「エルフェルト院長は、視察のために招かれたのです。まず見て、知る。それだけのことに、なぜこれほど――」
「ですから」
男が、ようやく笑った。
「視察を、ご用意しました」
卓の上に、一枚の書付が滑らされた。
私は、それを手に取る。
地名が、記されていた。
オルデン辺境区。
「帝都から、馬車で十日ほどです」
男の声は、あくまで丁重だった。
「北の外れ。古い記録庫がございましてな。長らく、手のつかぬまま放られている。院長のような"記録の専門家"には、うってつけの地かと」
十日。
この国の中枢から、十日。
それが何を意味するか、この部屋の全員が知っていた。
「まずは、そちらを視察されては」
男は、言い終えて茶を含んだ。
それで、話は済んだという顔だった。
――ああ。
私は、書付の地名を、指の腹でなぞった。
これは、追放だ。
言葉を換え、礼を尽くし、丁重に包んではいる。だが中身は、あの日と同じものだ。
覚えている。
白い光の下で、私が公爵令嬢でなくなった、あの朝。断罪の声。そして――北方辺境修道領へ、という一言。
都から遠ざけること。目の届かぬ場所へ置き、腐って忘れられるのを待つこと。
構図は、変わらない。
国が違っても、言葉が違っても、人が人を追いやるやり方は、こうも似る。
「院長」
イリスが、卓を回って私のそばに来た。声を落としている。
「これは、受けてはなりません。オルデンなど――名ばかりの区です。人も金も引き上げられ、記録庫は野ざらしに近い。あそこへ行けば、あなたの名は帝都から消える。実権派は、それを狙っている」
私は、書付から目を上げなかった。
「腐って帰る、と」
「……ええ」
イリスが、悔しげに息を詰めた。
「彼らは、そう高をくくっています。都落ちした他国の女など、半年もすれば音を上げて国へ帰る。制度の話も、それで立ち消えになる、と」
卓の向こうの三人は、もう私たちを見ていない。世間話を始めている。用は済んだ、とばかりに。
その余裕が、すべてを語っていた。
彼らは、勝ったと思っている。
――さて。
私は、書付をもう一度、端から読み直した。
オルデン辺境区。古い記録庫。手のつかぬまま放られた――。
ふと、指が止まる。
書付の下段。付け足しのように、細い字で一行があった。
『旧・北方巡察府の記録一切を収める。密告帳、裁定控え、封印分を含む』
密告帳。
封印分。
私は、その一行を、二度読んだ。
彼らは、厄介払いのつもりでこれを渡した。誰も読まない場所へ、私を捨てるつもりで。
だが――捨てたその場所に、この国が人を裁いてきた記録が、まるごと積まれている。
密告が、断罪が、どういう言葉で書かれ、どういう抜け道で人を縛ってきたのか。
その、生の束が。
私は、書付を静かに畳んだ。
イリスが、私の横顔を見ている。何かを言いかけて、言えずにいる。
「補佐官」
私は、顔を上げた。
「ご心配、痛み入ります」
そして、卓の向こうの三人へ、向き直る。
私は、怒らなかった。
声を荒げも、抗議もしなかった。追放だと詰め寄ることも、しなかった。
ただ、静かに――
「オルデンの記録庫、拝見いたします」
三人の男が、こちらを見た。
拍子抜けした顔だった。抗うと思っていたのだろう。せめて、渋ると。
私は、書付を胸元に納めた。あの日、荷を背負い直したときのように。
「早いほうが、よろしいでしょう。手配を」
イリスが、息を呑む音がした。
――受けます。
あなたがたが、私を捨てるつもりで選んだその場所を。
喜んで。
二度目の「辺境送り」です。
でも、一度目とは、受け取り方が少し違う。




