第84話 歓迎と値踏み
帝都は、遠くから見ると美しかった。
城壁が朝の光を受け、白く輝いている。尖塔がいくつも空を刺し、その一つひとつに旗がはためいていた。豊かな国だ。誰の目にもそう映る。
馬車が門をくぐる。石畳の音が、急に硬くなった。
私は、あの広場の男を思い出した。縄で縛られ、うつむいていた、若い男。この美しい城壁の内側で、あれが日常として起きている。
――忘れないでおこう。
美しさに、目を慣らされないように。
その日のうちに、迎えの者が来た。
「よく来てくださいました」
宮廷の一室で、イリス・ヴァルデンは私を迎えた。
思っていたより、若い。書簡の文字から想像していた、鋭さそのままの顔立ち。だが、その鋭さの奥に、疲れの色が薄く沈んでいた。
「お久しぶり、と言うべきでしょうか」
彼女が、わずかに口の端を上げる。
「一度も会っていないのに」
「ええ」私は頷いた。「宙に浮いたままの約束の、相手同士ですね」
あの修道領の冬。返事を待たずに条件を差し出してきた、隣国の補佐官。私は王国を選び、彼女の申し出は流れた。
その糸が、いま結び直されている。
「あのときは、逃げられました」
イリスは、悪びれずに言った。
「今度は、逃がしません」
冗談めかした声。だが、目は笑っていなかった。
――この人は、私を必要としている。
それは、たしかだ。けれど、必要とすることと、大切にすることは、同じではない。
私は、それを知っている。
大広間へ通された。
歓迎の宴、という名目だった。宰相府が用意した、私という客人への。
だが、部屋に入った瞬間に分かった。
空気が、冷たい。
着飾った貴族たちが、杯を手にこちらを見る。表情は穏やかだ。誰も、無礼なことは言わない。
けれど、視線が違った。
それは、歓迎の視線ではなかった。
値踏みの視線だ。この女は何者か。どれほどの価値があるのか。あるいは――どれほどの、危険か。
値踏みされることには、慣れている。かつて、社交界の花だった頃から。
だが、あの頃の視線とは、質が違った。
あのときは、私を上に置くための値踏みだった。ここでは、私を下に置くための値踏みだ。
招かれた客ではなく、招かれざる客。
――なるほど。
イリスの立場も、透けて見えた。
彼女に近づく者は、少ない。挨拶に来るのは、ごく一部だけ。多くの貴族は、遠巻きにこちらを眺めている。まるで、触れれば火傷するとでも言うように。
改革派は、この宮廷で、多数派ではない。
イリス・ヴァルデンの椅子は、思ったより脆い。
彼女は私を招いた。だが、招いた彼女自身が、盤石ではないのだ。
「――どう思われます」
隣で、イリスが小さく囁いた。
私の観察を、彼女は正確に読んでいた。
「率直に言っても」
「ええ。率直な方が、時間の節約になる」
私は、杯に映る自分の顔を見た。
「あなたの足元は、私が思っていたより、揺れていますね」
イリスは、少しの間、黙った。
それから、静かに笑った。降参とも、覚悟とも取れる笑みだった。
「――お見通しですか」
「隠すのが、下手なわけではありません」私は言った。「私が、この手のものを見慣れているだけです」
揺れる足場。冷たい視線。招かれざる客。
すべて、覚えのある景色だった。
宴が終わりに近づいた頃。
一人の老貴族が、私の前を通り過ぎざまに、連れに何かを囁いた。
聞かせるつもりなど、なかったのだろう。だが、その一言は、私の耳にはっきりと届いた。
「――王国から、記録の女を呼んだそうだ」
連れの男が、声をひそめて応じる。
「無駄なことを。この国の記録は、とうに一人のものだ」
一人の。
私は、杯を持つ手を止めた。
「あの方が黙っていまい。……記録卿ザカリアスがな」
その名は、囁きだった。
けれど、部屋の空気が、その一瞬だけ、わずかに張り詰めたのを、私は感じた。
誰も、その名を大きな声では口にしない。
――記録卿。
この国の記録を、たった一人で握る者。
まだ、顔も知らない。声も知らない。
だが、名前だけが、先に、私の耳に触れた。
歓迎の宴は、いちばん静かな戦場でもあります。
「敵の名前」だけが先に届く感覚を書いてみました。




