第83話 送り出す手
出立の朝は、よく晴れていた。
旅立ちにふさわしい空だと、誰かが言った。私は曖昧に頷いた。
空の色で、行く先の重さは変わらない。
王国裁定院の門前に、馬車が一台。荷は少ない。持っていくのは、記録の様式と、私自身。それだけだ。
地位も、権威も、置いていく。
――また、そうするのか。
胸の内で、かつての自分が薄く笑った気がした。追放されたときも、私は同じように身軽だった。違うのは、今度は自分で選んだということ。
「院長」
ミレイアが、こわばった声で呼んだ。かつて名を呼ばれるだけで俯いた少女が、今は俯くまいと必死に顎を上げている。
「――行ってらっしゃいませ」
「留守を頼むわ」
「はい」
ルーカスが、その隣で一礼した。無表情のまま、けれど、いつもより深く。
「記録体制、問題なし。……お気をつけて」
彼が余分な一言を足すのは、珍しかった。
エリオナ・クラウスが進み出て、鍵の束を掲げてみせた。裁定院の、内側の鍵だ。
「留守は任せて。記録は、ここで守っておくわ」
窓際で「記録が残る世界」とつぶやいた人が、今、その世界の番人を引き受けている。
「あなたが向こうで何をしようと」と彼女は続けた。「王国のこれは、揺らがない。だから、後ろは振り返らなくていい」
私は、少しだけ喉が詰まった。
――ありがとう、とは言わなかった。言えば、崩れそうだった。
マルクは、門の外にいた。
治安総監の外套。王国を離れられない男。国境の内側でしか、私を守れない立場。
同行できないことを、彼は一度も口にしなかった。ただ、この数日、いつもより言葉が少ない。少ない言葉が、そのまま、彼の葛藤の量だった。
「マルク」
「……ああ」
それきり、二人とも黙った。
言うべきことは、たぶん、もう互いに分かっている。だから言わない。この人の愛し方は、いつもそうだ。
やがてマルクは、外套の内側から何かを取り出した。
手のひらに収まる、小さなもの。私の手に、そっと握らせる。冷たい金属の感触。それが何であるかを、彼は説明しなかった。
「困ったときに」
それだけ言った。
「――使い方は」
「そのとき、分かる」
私は問い返さなかった。握った指の上に、彼の大きな手が、一瞬だけ重ねられた。
言葉より、その重さのほうが、雄弁だった。
「必ず、帰ってきてください」
命令ではなかった。願いだった。
「ええ」と私は答えた。「帰る場所があるうちは」
馬車に乗り込む。扉が閉じる。
窓の外で、四人が並んで立っている。ミレイア、ルーカス、エリオナ。そして、動かないマルク。
馬車が動き出しても、彼だけは、姿が見えなくなるまで、そこにいた。
王都が遠ざかり、やがて景色から緑が減っていく。
北へ。制度の届いた国の、いちばん端へ。
馬車の揺れに身を委ねながら、私は、自分が何を持って行くのかを、もう一度数えてみた。
記録の様式。審査の手順。暫定裁定の考え方。――紙に書けるものは、鞄ひとつに収まってしまう。
だが、本当に運んでいくのは、それではない。
誰にも読まれない記録を、一枚ずつ整えた指の記憶。褒められなくても、必要だからやる、という背骨。あの修道領の冬に、私が拾い直したもの。
それは、鞄には入らない。私の中にしか、ない。
――だから、私が行くしかないのだ。
握らされた小さなものを、私は掌の中で確かめた。何であるかは、まだ分からない。分からないまま、旅の荷に仕舞う。
半日が過ぎ、日が傾いた頃、馬車が速度を落とした。
国境の検問。石造りの門。その向こうに、見覚えのある静けさが横たわっている。
あの朝の広場と、同じ静けさだ。
門番が、無表情に手を上げる。
ここから先は――味方のいない国。
恋愛回でした。多くを語らないマルクの「手渡し」を、静かに置いています。




