第81話 記録の終わらない国
その国の朝は、王国の朝によく似ていた。
白い石畳に、冬の光が薄く伸びている。パンを焼く匂い。井戸端の話し声。どこにでもある、平凡な暮らしの気配だ。
違っていたのは、広場の中央だけだった。
一人の男が、縄で縛られていた。
膝をつき、うつむいている。まだ若い。両脇を役人が固め、その前で、書記らしき男が一枚の紙を広げていた。
「密告により、確認された」
書記の声は、感情を含まなかった。
「隣人三名の証言。動かぬ証拠である」
男が、何か言おうとする。だが、声にならない。
私は、人垣の後ろでそれを見ていた。着いたばかりの、よそ者として。
人垣は、厚かった。
だが、誰も前に出ない。そして、誰も後ろへ下がらない。
――見ている。全員が、見ている。
それが、不思議だった。この手のものは、目を背けるのが人の常だ。だがこの広場では、誰もが正面から見ていた。まばたきの少ない目で。
まるで、見ていたという事実を、あとで誰かに問われるかのように。
私のすぐ前で、老婆が、孫らしき子どもの頭を、そっと押さえた。
「見ておきなさい」
声は、ひそやかだった。
「目を逸らすと、逸らしたことを、誰かが憶える」
子どもは、言われたとおりにした。まだ、十にもならないだろう。その目が、縛られた若者を、まっすぐに見ていた。
――見届けた、と言えるようにしている。
背筋の裏を、細い冷たさが這った。
人垣の前列に、中年の男が立っていた。両手を、前で組んでいる。顔が、青い。
その男だけが、縛られた若者を見ていなかった。
――告げたのは、あれか。
根拠はない。ただ、そういう顔だった。隣人を売った人間の顔を、私は知っている。かつて、たくさん見た。
「弁明は」
書記が問う。形式だけの問いだと、すぐに分かった。
男は、震える声で何かを言った。飢えた家族のこと。盗んではいないこと。証言が嘘であること。
誰も、聞いていない。
書記の筆は、動かなかった。
私は、そこに目を留めた。
弁明が始まっても、筆が動かない。書き取っていないのだ。聞いた、という形すら、残していない。
――記録されないなら。
それは、言わなかったのと、同じだ。
この若者の声は、今この瞬間、この広場の空気にしか存在していない。風が吹けば、消える。明日には、誰の記憶にも残らない。
残るのは、書記の手の中の、一枚だけ。
私の指が、無意識に動いていた。
紙を、探していた。書き取るために。
――やめなさい。
自分を、内側から押さえつける。ここでは、私はただの旅人だ。荷を背負って、着いたばかりの。手帳を開いて広場の断罪を書き取る女など、明日には自分が縄を打たれている。
指を、握り込んだ。
書記は紙をたたむ。それで終わりだった。
そして――綴じなかった。
束にも、帳面にも、加えなかった。ただ、懐へ入れた。
私は、その手つきを、じっと見ていた。
王国なら、あの紙は棚へ行く。番号が振られ、日付が入り、誰でも探せる場所に収まる。半年後でも、十年後でも、誰かが引き出して読める。
ここでは、懐に入る。
どこへ行くのかは、書記の腹ひとつだ。
記録が、残らない。
――いや。
残らないのではない。残さないのだ。誰かが、そう決めている。
「断罪」
その一言で、広場の空気が確定した。
役人が男を引き立てていく。人垣は、静かに道を開ける。慣れた動きだった。誰も驚かず、誰も止めない。明日は我が身だと知っているから、なお止めない。
私のすぐ前で、子どもが、小さく声を出した。
「……あの人、なにをしたの」
老婆は、答えなかった。
ただ、子どもの頭に置いた手に、少しだけ力がこもった。
――答えを、知らないのだ。
この広場の誰も、知らない。何をしたのかではなく、誰が告げたのかだけが、ここでは意味を持つ。だから、問うてはいけない。問えば、次に問われる。
告げた男は、まだ両手を組んでいた。
その手が、震えていた。
――ああ。
あれも、怖いのだ。
告げなければ、告げられる。だから、告げた。悪意ですらない。ただ、生き延びるための作法として。
私は動かなかった。
――動けなかった、と言うべきかもしれない。
ここでは、私はただの旅人だ。制度も、権威も、まだ何ひとつ持っていない。手を伸ばせば、次に縛られるのは私の番だ。
それでも。
喉の奥が、静かに痛んだ。
覚えのある痛みだった。かつて、白い光の下で断罪されたときの。弁明が、誰にも届かない世界の。あの手触り。
あのとき、私は公爵令嬢だった。名前があり、家があり、婚約者がいた。
それが、一つの朝で、全部なくなった。
誰かが言い、誰かが頷き、それで確定した。私の弁明は、どこにも書き取られなかった。
あの日の私の声も、この若者の声と、同じだ。広場の空気にしか、存在しなかった。
だから――知っている。
届かない、というのが、どういうことか。
この国では、まだ人が簡単に断罪される。
記録もなく。審査もなく。ただ、誰かの言葉ひとつで。
男の姿が、路地の向こうへ消えた。広場は、何事もなかったように動き出す。パンの湯気。井戸端の声。平凡な朝。
告げた男も、人垣に紛れて、見えなくなった。
私は、その平凡さのほうが、恐ろしいと思った。
一人が消えて、朝が続く。誰の暮らしにも、傷がつかない。
それが、この国が千年やってきたことなのだ。
――さて。
息を吐く。背負い直した荷が、肩に食い込む。
中身は、多くない。着替えと、路銀と、書きかけの様式がひと綴り。
それだけだ。
地位も、権威もない。王国裁定院長という肩書きは、ここでは一文の値打ちもない。
――上等だ。
私は、そこから始めたことが、ある。
仕事を、始めよう。
私がこの国に来た理由は、たった一つだ。
この光景を、終わらせるために。
ひと月前。王国、王都。
王国裁定院の朝は、いつも紙の匂いから始まる。
棚には、裁定の記録が並んでいる。誰かが罪に問われ、審査され、そして――消されずに残った、その一つひとつ。数年前には、この国に存在しなかったものだ。
「院長、朝の分です」
ミレイアが書類を運んでくる。かつて名前を呼ばれるだけで俯いていた少女は、もう立派な裁定官だ。
「記録体制、問題なし」
ルーカスが、相変わらずの無表情で付け加える。
静かで、整った朝。断罪は、この国では終わった。
私たちが、時間をかけて、終わらせた。
断罪された女が、断罪を終わらせる側に回るまでに、ずいぶんかかった。今では、誰も私を悪役令嬢とは呼ばない。呼ぶ必要が、なくなったからだ。
だからこそ、その一通は、いやに目立った。
私の机に置かれた、一通の書簡。差出人の名を見て、私は少し手を止めた。
イリス・ヴァルデン。
覚えている。まだ私が北方の修道領にいた頃、返事を待たずに条件を差し出してきた、隣国宰相府の補佐官。
あのとき、私は王国を選んだ。彼女の申し出は、宙に浮いたまま流れた。
あれきりになった話だと思っていた。
書簡は短かった。要点だけが、無駄なく並んでいる。
『貴女の"仕組み"を、我が国で必要としています』
北方侯グレイウッドが仲介の労を取った、という一文が添えられていた。北の国境を越えた先――断罪の文化が、まだ色濃く残る大国から。
そして最後に、一行だけ。
『――こちらの断罪は、王国の比ではありません』
私は、その一行を何度か読み返した。
窓の外では、王都が穏やかに動いている。もう、誰も簡単には断罪されない街。私たちが、時間をかけて作った街。
だが。
国境の外には、まだ、あの朝がある。
記録の残らない、白い光の断罪が。
私は書簡を置き、しばらく天井を見上げた。
制度は、王国で完成した。
――ならば、次は。
それを、持たない国へ。
第二部、はじまりました。
リリアーナは断罪を終わらせ、制度を持つ側になりました。
けれど、国境の外には、まだあの朝があります。
今度はそれを持たない国で、同じ「誰にも褒められない仕事」から始めます。
外伝までお付き合いくださって、ありがとうございます。
ここからまた、静かに書き継ぎます。
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