外伝③ 第80話 褒めないという流儀
本編の“隙間”を描いた外伝です。
視点は、リリアーナを迎えた修道院長エレナ。
彼女がまだ「罪人令嬢」として修道領に来て、間もない頃の話です。
派手な事件は起きません。ただ、褒めないと決めている女が、
褒めたくなるのを堪えていた、というだけの記録です。
私は、人を褒めない。
褒め言葉というのは、たいてい相手のためではなく、言う側の気を楽にするために使われる。よくやった、立派だ、感心した――そう言えば、言った方は満足する。だが言われた方は、次からその言葉を得るために働くようになる。褒めは、鎖だ。柔らかく、外れにくい鎖。
修道院長を三十年務めて、私が学んだのはそれだけだ。だから私は、誰も褒めない。働けるなら居場所を与え、働けないなら相応に扱う。それで十分に、人は生きていける。
その令嬢が来たのは、雪の落ち始めた頃だった。
王都から護送されてきた、断罪された公爵令嬢。リリアーナ・フォン・アルヴェイン。書面には「素行不良」「傲慢」とあった。護送の騎士は、そういう令嬢を何人も見てきたのだろう、事務的に引き渡して去っていった。私も、書面のとおりの娘が来るものと思っていた。
馬車から降りてきたのは、背筋の伸びた、静かな娘だった。
私は名乗り、事情は聞いている、罪人として、と告げた。値踏みするためではない。ここでどう振る舞うかは、過去ではなく本人が決めることだ。だから私は、いつもの言葉を置いた。働けるなら居場所はある。働けないなら、それなり。それだけ。
娘は、頷いた。
抗弁も、媚びも、涙もなかった。ただ「承知しました」と一礼した。その所作の静けさに、私は一瞬だけ、書面を疑った。
――傲慢な娘は、こんな頷き方をしない。
だが、それも決めつけだ。私は判断を保留し、彼女に雑務を割り振った。書類整理、配給の記録、修道士の補助。誰もやりたがらない、褒められもしない仕事ばかりだ。できないと言っていい、とも伝えた。ここでは、できないことをできないと言うのは、恥ではない。
彼女は、それにも小さく目を見開いただけで、何も言わなかった。
異変に気づいたのは、三日目だった。
配給の帳簿が、合っていた。
長年、この修道領の配給には、わずかな綻びがあった。数が合わない。日付が飛ぶ。前任の書記が高齢で、目も指も追いつかなくなっていた。私はそれを、修道領の“持病”のようなものだと思って諦めていた。餓える者が出ない程度に、私が勘で補っていた。
その帳簿の、数字が揃っていた。
しかも、ただ揃っているのではない。どの品がどこで目減りしているか、余りがどこに滞留しているか、細い字で欄外に控えが添えてある。誰かに見せるための字ではない。自分が忘れないための字だ。
私は、その筆跡の主を知っていた。
尋ねはしなかった。褒めもしなかった。ただ翌日、彼女に渡す仕事を一つ増やした。倉庫の在庫の突き合わせ。もう一段、面倒な仕事だ。
彼女は、黙って引き受けた。
それから、修道領は静かに変わっていった。
誰かが号令をかけたわけではない。式典があったわけでも、演説があったわけでもない。ただ、これまで詰まっていた小さな歯車が、一つずつ、音もなく回り始めた。配給が滞らなくなった。薪の割り当ての諍いが減った。修道士たちが、以前より少しだけ早く仕事を終えて、少しだけ穏やかな顔をするようになった。
その中心に、いつもあの娘がいた。
彼女は、前に出なかった。手柄を語らなかった。歪みを見つけては、誰にも気づかれない角度から、そっと直す。直したことすら、言わない。だから領民の多くは、暮らしが楽になったことに気づいても、その理由までは知らない。
――知られないように、直している。
それが、私には分かった。分かってしまった。
この娘は、褒められることを期待していない。いや、それどころか、褒められないように立ち回っている。手柄が自分に集まれば、また誰かに妬まれ、また断罪される。彼女はそれを、骨身で知っている。だから、有能さを隠しながら使う。そんな器用で、そんなに寂しいことを、この娘は当たり前のようにやっている。
私は、褒めない女だ。
だがその夜、私は初めて、褒めないでいることが、少しつらかった。
冬の半ば、老いた修道士の一人が寝込んだ。配給の記帳係だった男だ。手が空く、と誰かが漏らした。困った、と別の誰かが言った。私が代わりを探そうとしたとき、彼女は静かに言った。
「私が引き継ぎます。もう、ほとんど覚えていますので」
覚えている、と彼女は言った。三月足らずで、この修道領の血の巡りを、そらんじるほどに。
私は頷いた。それだけだ。ありがとう、とも、助かる、とも言わなかった。褒めない流儀は、崩さなかった。
だが、部屋に戻ってから、私は一人で息を吐いた。
あの令嬢は、たぶん、自分がここで何をしているのかを、正しく分かっていない。壊れないように働いているだけだ、と本人は思っている。誰に認められるためでもなく、ただここで生きるために、と。
けれど、私は見ていた。
彼女が来る前、この修道領には「回す人」がいなかった。皆が自分の持ち場だけを見て、その隙間に落ちるものは、落ちるに任せていた。彼女は、その隙間を見る。隙間だけを、黙って拾い続ける。誰も褒めない場所を、誰も褒めない手つきで。
それは、居場所の作り方だった。
与えられるのを待つのではなく、隙間を埋めることで、いつのまにか、そこに「その人がいないと困る形」を作ってしまう。本人が気づかないうちに。
春が近づいた頃、私は一度だけ、彼女に問うたことがある。
「ここは、退屈でしょう」
王都の令嬢に、辺境の修道領は退屈なはずだ。そういう意味で聞いた。
彼女は、少し考えてから答えた。
「いいえ。誰も、私に何かを期待しないので」
その声は、寂しさではなく、安堵の色をしていた。
私は、それ以上何も言わなかった。ただ、胸の奥で、静かに思った。
――この娘は、いずれここを出る。
こういう人間は、隙間を埋めているうちに、いつか領の外の、もっと大きな隙間に気づいてしまう。そして、放っておけなくなる。それが、この娘の悪い癖であり、たぶん、この娘の値打ちだ。
その日が来たら、私は引き留めない。褒めないのと同じ理由で、引き留めない。人を、こちらの都合で縛らない。それが、私の三十年だ。
だが、もし。
もしその日が来て、彼女が去り際に振り返ったら。
そのときは一度だけ、私の流儀を破ってもいい気がしている。
よくやった、と。
誰にも褒められない仕事を、よくぞ、あれだけ黙って続けた、と。
――まあ、まだ先の話だ。
今日も配給の帳簿は合っている。薪は足りている。修道士たちは穏やかだ。それで、十分だ。
私は窓を閉め、いつも通りの一日を終える。褒めないまま。
静かな辺境に、雪がまた降り始めていた。
本編には描かれなかった、修道領の“外からの視点”でした。
リリアーナ本人は「壊れないように働いていただけ」と思っています。
けれど、それを見ていた人は、ちゃんといました。
誰にも褒められない仕事は、本当は、
誰かにちゃんと見られているのかもしれません。
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本編・外伝ともども、どうぞよろしくお願いいたします。




