第35話 残るという決意
試験導入は、順調だった。
王国から届く報告書には、修正点が赤で書き込まれている。だが、その赤は以前よりも少ない。
――回り始めている。
私は、その事実に安堵していた。
その日の夕方、使者が到着した。
王国ではない。
隣国からだった。
「正式な打診です」
書簡は簡潔だった。
『長期的な制度設計顧問として迎えたい』
期間は無期限。
報酬は破格。
修道領ごと保護対象にする、とまで書かれている。
私は、しばらく言葉を失った。
これは、甘い誘いではない。
最大級の評価だ。
夜、エレナとマルクを交えた話し合いが行われた。
「断る理由はない」
エレナは冷静に言う。
「隣国は誠実です」
「だが」
マルクが低く言う。
「離れることになる」
視線が、私に向く。
私は、書簡を机に置いた。
「……正直に言います」
胸の奥が、わずかに揺れる。
「心が動きました」
それは、嘘ではない。
必要とされる場所。
最大限の評価。
制度を一から設計できる自由。
かつての私なら、迷わず飛びついた。
「でも」
私は、ゆっくりと言う。
「それは“逃げ”です」
部屋が静まる。
「王国との合意は、まだ始まったばかりです」
「修道領は、私が抜けても回ります」
「でも、今ここで離れるのは」
言葉を探す。
「責任を途中で投げることになります」
マルクが、わずかに目を細める。
「……逃げたいのか?」
問いは静かだ。
「少しだけ」
正直に答える。
「楽な方に行きたくなります」
その瞬間。
「行くな」
短く、低く、即答だった。
部屋の空気が止まる。
私は、顔を上げる。
「命令ですか」
「違う」
マルクは、真っ直ぐ私を見る。
「俺の本音だ」
それだけで、胸が強く鳴る。
「ここで逃げたら」
彼は続ける。
「お前は後悔する」
否定できなかった。
私は、目を閉じる。
隣国の未来。
王国との合意。
修道領の日常。
どれも、私が選べる。
――私は、何を守りたい?
目を開ける。
「断ります」
静かに言った。
「隣国には、顧問派遣の形で協力します」
「でも、移りません」
エレナが、穏やかに頷く。
「それが、あなたの選択ですね」
「はい」
私は、マルクを見る。
「逃げません」
彼は、ゆっくり息を吐いた。
「知ってる」
それだけで、十分だった。
会議が終わり、外に出る。
夜風が冷たい。
「……惜しくないのか」
隣に立つマルクが言う。
「惜しいです」
「なら、なぜ」
私は、少し笑う。
「残りたいからです」
彼が、こちらを見る。
「ここに?」
「はい」
「俺がいるからか」
不意打ちだった。
胸が、強く跳ねる。
「……それも、あります」
正直に言う。
沈黙。
やがて、マルクが低く笑った。
「そうか」
それ以上は言わない。
でも、その距離が、少しだけ縮まる。
残るという選択。
それは、守られるためではない。
自分で選んだ場所で、
誰と立つかを決めるためだ。
私は、空を見上げる。
逃げなかった。
そして、残った。
それが、初めての――
私自身の、恋の始まりだった。
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