第33話 不意の動揺
王太子が、私的に訪れたと聞いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
正式な使節ではない。
従者も最小限。
用件は「挨拶」とだけ。
私は、書類から顔を上げ、ゆっくりと息を吐いた。
公務ではない。
条件交渉でもない。
――個人として。
「お通ししますか」
修道士の問いに、私は頷く。
「応接室で」
逃げる理由はない。
だが、少しだけ、胸がざわつく。
扉を開けると、王太子は一人で立っていた。
以前よりも装飾は少なく、肩の力が抜けているように見える。
「急な訪問、失礼する」
「修道領としてお迎えします」
私は、形式通りに応じる。
数瞬の沈黙。
「今日は、条件の話ではない」
王太子が、先に言った。
「分かっています」
私は、椅子に腰を下ろす。
「では、何のために」
彼は、視線を落とし、それから上げた。
「確かめたかった」
「何を」
「君が、本当にここにいると決めたのか」
胸が、わずかに揺れる。
だが、言葉は迷わない。
「はい」
即答だった。
「王国に戻る意思はないのか」
「ありません」
王太子は、目を細める。
「……迷いは」
問いが、少しだけ柔らかくなる。
「あります」
私は、正直に答える。
「過去を全て切り離せたわけではありませんから」
彼は、苦く笑う。
「そうか」
窓の外に視線を向ける。
「ここは、静かだな」
「ええ」
「王都よりも、ずっと」
沈黙が、落ちる。
私は、彼を見つめる。
「殿下は、何を確かめに来たのですか」
遠回りは、しない。
王太子は、少し考え、言った。
「もし、まだ迷っているなら」
一瞬、言葉を選ぶ。
「連れ戻すつもりだった」
空気が、張る。
「……今は?」
「その必要はないと分かった」
それは、敗北宣言ではない。
受容だった。
「君は、ここにいる」
「はい」
「そして、俺はそこにいない」
淡々とした事実。
私は、息を吸う。
「殿下がいなければ、王国は回らないでしょう」
「回る」
即答だった。
「俺がいなくても、回る」
以前の彼なら、言わなかった言葉だ。
私は、少しだけ視線を落とす。
「では、なぜ」
「俺が回らない」
静かな告白。
胸の奥が、強く鳴る。
それは甘い言葉ではない。
けれど、重い。
「……それは、私の責任ではありません」
私は、はっきりと言う。
「分かっている」
王太子は、頷く。
「だから、責めに来たわけではない」
立ち上がり、扉へ向かう。
「ただ、確認したかっただけだ」
振り返らずに言う。
「君が選んだなら、それでいい」
扉が閉まる。
私は、しばらく動けなかった。
選んだ。
その言葉が、胸の奥に残る。
外に出ると、夕方の空気が冷たい。
「帰ったか」
低い声が、横からする。
マルクだ。
「はい」
「揺れたか」
短い問い。
私は、少しだけ笑う。
「……少し」
「そうか」
それ以上、聞かない。
私は、彼の隣に立つ。
王太子の言葉は、心に残る。
だが、足元は揺れていない。
選んだのは、私だ。
連れ戻される未来ではなく、
自分で立つ未来を。
夕陽が沈み、影が長く伸びる。
不意の動揺はあった。
けれど、それはもう、
戻る理由にはならなかった。
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