第32話 隣に立つ距離
夕暮れの修道領は、昼間よりも静かだ。
作業を終えた人々がそれぞれの持ち場へ戻り、倉庫の扉が閉じられる。空は淡く染まり、風がやわらぐ時間。
私は、裏手の井戸のそばで、手帳を閉じた。
「まだ仕事か」
背後から、低い声がする。
振り向かなくても分かる。
「終わりました」
私は、手帳を脇に抱えたまま答える。
マルクは、井戸の縁に腰を下ろし、水面を覗き込んだ。
「王国の報告は?」
「問題はあるけれど、致命的ではありません」
「助けに行かなくていいのか」
問いは、冗談ではない。
「行きません」
即答だった。
「行けと言われても?」
「条件外です」
マルクは、短く息を吐いた。
「徹底してるな」
「線を引いたので」
そう言うと、彼は横目でこちらを見る。
「揺れないのか」
少しだけ、言葉の色が変わった。
私は、ほんの一瞬だけ考える。
「……揺れます」
正直に言う。
「必要とされるのは、悪い気分ではありませんから」
王都にいた頃とは違う。
今は、選んだ上で求められている。
「でも」
私は、続ける。
「揺れたまま決めないようにしています」
マルクは、しばらく黙っていた。
「前は、違ったな」
「はい」
前は、揺れる余地もなかった。
決まった役割を、ただ演じていただけだ。
「……強くなったな」
その言葉は、評価というより事実確認だった。
「違います」
私は、首を振る。
「ようやく、怖がらなくなっただけです」
沈黙が落ちる。
風が、静かに草を揺らす。
「怖いのか」
「ええ」
「何が」
少しだけ、迷う。
「また、必要だからと利用されること」
声は、思ったよりも落ち着いていた。
「だから、線を引いた」
「はい」
マルクは、立ち上がる。
「なら、大丈夫だ」
簡単な結論だった。
「どうして、そう言えるんですか」
思わず、問い返す。
彼は、私の隣に立つ。
真正面ではなく、ほんの少し斜め。
「線を引いたのは、お前だ」
視線は、遠くを向いたまま。
「引いた線を越えさせるかどうかも、お前が決める」
それだけだ、と言うように肩をすくめる。
「……越えられたら?」
「俺が止める」
即答だった。
慰めではない。
誓いでもない。
ただの、事実のように。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
「守る、とは言わないんですね」
「守るのは、役割だ」
彼は、淡々と言う。
「俺は、隣にいるだけだ」
その距離が、ちょうどいい。
近すぎず、遠すぎない。
「……それで、十分です」
私は、そう答えた。
夕陽が沈み、空が深い色に変わる。
ここにいると決めた。
線を引いた。
条件を出した。
それでも、人は一人ではない。
隣に立つ距離。
それが、今の私には心地よかった。
マルクは、先に歩き出す。
「冷えるぞ」
「分かっています」
私は、彼の少し後ろを歩く。
追いつこうとはしない。
だが、離れもしない。
その距離が、
ようやく自然になってきていた。
本話もお読みいただき、ありがとうございました!
少しでも続きが気になる、と感じていただけましたら、
ブックマーク や 評価 をお願いします。
応援が励みになります!
これからもどうぞよろしくお願いします!




