第125話 谷
それから、七日、私は庫に出なかった。
病んだわけではない。
朝、起きる。顔を洗う。着替える。そこまでは、できる。
そのあと、扉の前で、動けなくなる。
庫に入れば、棚がある。棚を見れば、手が動く。手が動けば、私は、また何かを整えてしまう。
整えれば、速くなる。
だから、行かない。
そういう理屈を立てて、私は、宿の部屋にいた。
三日目に、自分でも、それが理屈ではないと気づいた。
怖いのだ。
自分の手が。
四日目、ヴォルクが来た。
扉を叩き、返事も待たずに入ってきて、私の顔を見た。
それから、何も言わずに、鉄の器を置いて出ていった。
白湯だった。
五日目も、来た。
同じように、置いて、出ていった。
六日目、彼は、少しだけ長くいた。
部屋の隅に立って、私を見ていた。
「ヴォルクどの」
「なんだ」
「私は、何をすべきでしょうか」
老人は、黙っていた。
しばらく、部屋の中を見回していた。散らかってはいない。紙が、机に二枚あるだけだ。
「あんた、書いておらんな」
「書けません」
「そうか」
彼は、それだけ言って、帰った。
七日目。
その日、ヴォルクは、白湯を置いてから、椅子に腰かけた。
膝が、鳴った。
「あんた、私に、二十年の話をさせたな」
「……はい」
「あのとき、あんたは言った。私は守っていたのではない、見張られていたのだと」
「はい」
「あれで、私は、七日ほど眠れんかった」
顔を、上げた。
「腹が立ったのではない。当たっておったからだ」
老人は、自分の手を見ていた。
「二十年、そう思わんようにしてきた。あんたが、一言でそれを剥がした。剥がされたら、あとは、寒いだけだった」
「申し訳ありません」
「詫びるな。詫びられると、こちらが困る」
彼は、器の湯気を見ていた。
「私が言いたいのは、そのあとの話だ」
「……はい」
「七日、私は、庫に行かなかった」
顔を上げた。
「行っても、封の紙を貼る意味が分からなくなっておった。二十年やってきたことが、鎖だったのなら、貼るのは馬鹿らしい。……だが、貼らねば、誰かが開ける。開ければ、誰かが消える」
老人は、そこで、少し黙った。
「動けなかった」
「――」
「八日目に、庫へ行った。理由はない。……いや、あるか。腹が減ったからだ」
彼は、鼻から息を吐いた。
「庫の付きは、庫へ行かねば飯が出ん」
私は、思わず、少し笑った。
七日ぶりだった。
「私は、それから、封を貼り続けた。鎖だと分かっていて、貼った。そのほうが、分からずに貼っていた頃より、ましだった」
「なぜです」
「分かっておれば、いつ止めるかを、自分で決められる」
老人は、こちらを見た。
「現に、私は、鍵を置いた」
私は、動かなかった。
「二十年、貼り続けた。だが、置く日を、自分で選んだ。分からずに貼っておったら、選べもせんかった」
彼は、椅子から立ち上がった。
膝が、また鳴った。
「あんたは、いま、自分の手が怖いのだろう」
「……はい」
「怖いままで、いい。怖くなくなったら、それこそ危ない。帝都の連中は、誰も自分の手を怖がっておらん」
湯の入った器を、両手で持った。
温かかった。
「止まったまま、腐るのを待つ者を、私は何人も見た」
老人は、扉の前で言った。
「あの若い巡察府の役人も、そうだった。棚を正そうとして、途中で止まった。止まったまま三月おって、それから、棚に入った」
「――」
「止まっておっても、誰も助けに来ん。それだけは、言っておく」
扉が、閉まった。
私は、器を持ったまま、しばらく座っていた。
湯が、冷めていくのが、手のひらで分かった。
冷めきる前に、私は、それを飲んだ。
ここはヴォルクに立たせてもらいました。この老人は、リリアーナと同じ谷を、二十年前に通っています。
「怖いままでいい」。この作品の励まし方は、いつもこの温度です。




