第122話 土地の忘れ方
マレンは、私を家に入れた。
土間と、板の間が一つきりの家だった。炉に火があり、鍋がかかっている。麦を煮る匂いがした。
彼女は、椀を二つ出した。
私に一つ、自分に一つ。
「食え」
「――いただきます」
薄い粥だった。塩の味しかしない。
温かかった。
「あんた、痩せたな」
「そう言われました。帝都でも」
「都の連中は、目が良い」
マレンは、そう言って、粥をすすった。
しばらく、二人とも黙って食べた。
「寄合のことを、教えてくださいますか」
椀を置いて、そう頼んだ。
彼女は、鼻から息を吐いた。
「教えるほどのものではない」
「私は、あれを、知りません」
「知らんだろうな」
マレンは、炉の火を見た。
「三人で、聞く。わしと、あと二人。年長の者から順に決まる。聞いたら、決める。それだけだ」
「決めたことは、どう守られますか」
「守られん」
彼女は、あっさりと言った。
「破る者は、いる。年に一度か二度は」
「そのときは」
「もう一度、寄合をする」
目だけを上げた。
「二度目は、厳しくなる。三度目は、村が食い物を回さん。そこまでだ。それ以上のことは、しない」
「追い出しは」
「せん」
マレンは、はっきりと言った。
「追い出せば、その者は役場へ行く。役場へ行けば、村の誰かを告げる。追い出した村が、いちばん早く潰れる」
私は、しばらく、その話の骨組みを考えていた。
罰の上限が、決められている。
誰が決めたのでもない。破ったらどうなるかを、三代かけて、村が学んだ。
――制度だ。
書かれていないだけで、これは、制度だ。
「それから。三年、経ったら、持ち出さん」
「三年」
「揉め事の話は、三年で終わりだ。それより古いことを持ち出す者がおったら、そいつのほうが叱られる」
彼女は、椀の底を舐めた。
「人は、忘れられんと、生きられん」
私は、椀を持ったまま、動かなかった。
時効だ。
王国にも、ある。だが、王国のそれは、法典の条文だ。何年で追及できなくなるかが、書いてある。
この村のは、書いていない。
書いていないから、破れない。
条文なら、変えられる。あの一行を消せ、と誰かが言えば、消える。
誰も書いていない決まりは、誰にも消せない。
「マレンどの」
「なんだ」
「三年で忘れる、というのは、赦すということですか」
老女は、初めて、少し笑った。
歯が、ほとんどなかった。
「赦さん。わしは、覚えておる。三十年前に誰が何をしたか、全部な。忘れとらん」
「では」
「持ち出さんだけだ」
マレンは、炉に薪を足した。
「覚えておって、持ち出さん。それが、忘れるということだ」
私は、そこで、初めて、この村の仕組みの芯に触れた気がした。
忘却ではない。
記憶したまま、使わない、という取り決めだ。
――記録の逆だ。
私のしてきたことは、逆だった。
残して、引けるようにする。いつでも取り出せるようにする。それが、公正だと思ってきた。
この村は、覚えていることを、あえて取り出さないことで、人が並んで暮らせるようにしてきた。
どちらも、忘れないための工夫だ。
向きが、違う。
私は、椀を置いた。
「マレンどの。先ほどのお尋ねに、答えます」
老女が、こちらを見た。
「私は、あなたがたの忘れ方を、壊しに来たのではありません」
「そうか」
「ですが、壊しました。知らずに。二月のあいだに」
マレンは、長く黙っていた。
「知らずに壊すのが、いちばん厄介だ」
「はい」
「悪気がないと、止めようがない」
「はい」
「……だが」
彼女は、炉の火を見ながら、続けた。
「あんたは、麦を届けた」
私は、目を上げた。
「この冬、うちの村で、飢えて死んだ者はおらん。去年は、三人死んだ。一昨年は、五人だ」
マレンの声は、平らだった。
「あんたが来てから、テオが行った。三年、帰ってこん。あれは、あんたのせいだ」
「はい」
「そして、三人、生きた」
彼女は、こちらを見た。
「わしは、両方を数える。あんたも、そうしろ」
二人目だった。
この土地の年寄りは、同じことを言う。
「覚えておって、持ち出さん」。この一行を書きたくて、この章を作りました。
記録と忘却は、どちらも人が並んで暮らすための工夫なのだと思います。




